気分よく礼を言える相手が居るのは幸せ、だったか
ネメシアの目覚めに始まったあれやこれやの話がまとまった後、俺は大慌てでアパートへの帰路を駆けていた。
その理由となったのは、
「そういえばアズール君、出る時に鍵はかけていたっけ?」
「……あ」
と、こんな会話。
まあ、多分部屋にはクーラの奴が残っていることだろうけど。
そして、盗まれて困らない物は無いけれど、後ろに手が回るリスクを背負ってまで盗む価値があるような物だって無いとも思っている。
この状況で物が消えれば、自分が真っ先に疑われることのわからないクーラでもないだろう。だからその点では一切心配していない。
それでも、延々とクーラに留守番をさせ続けるのもどうだろうかと思うし、ネメシアが目を覚ましたことを一刻も早く伝えてやりたかったのも事実なわけで。
「お帰り、アズ君」
「ああ。ただいま」
戻って来てドアを開ければ、そこにはニコニコ笑顔のクーラの姿。
「うん」
俺の顔を覗き込み、満足げに頷いて。
「憑き物が取れたような顔してる」
そんなことを言ってくる。
まあ、今朝の時点で俺の不調に気付けるクーラなんだ。それくらいは当然のようにお見通しだったんだろう。
「そっか。よかったね」
備え付けの食器類の中にティーセットはあれど、買い置きの茶葉なんて気の利いたものは無いこの部屋。代わりというにはアレだけど、水を飲みつつでネメシアのことを伝えればクーラはそう頷いてくれる。
「まあ、なんで目を覚ましたのかは謎しかないんだけどな」
「謎の女性、だっけ?」
「ああ。何者なのか詮索しようとは思わないけど、せめて礼くらいは言いたかったよ」
そういえば……
ふと思い出すのは、いつかクーラが言っていたこと。
「気分よく礼を言える相手が居るのは幸せ、だったか。なるほど、こういうことか」
実際に体験するとよくわかるものだ。
「あはは、理解が得られて嬉しいよ。けどさ、きっと……ううん、間違いなくその人も今頃は笑ってるよ。君に……ネメシアちゃんのまわりの人たちに笑顔が戻って来たんだから」
ネメシアの友人であるクーラも、実際に機嫌よく笑っていて。
「……だといいんだがな」
俺もまた、クーラが言った通りであることを願わずにはいられなかった。
「んでさ、午後からは試合があるとして、それまではどうするの?」
次に話すのはこれからのこと。出かける前に昨夜のあれこれを話していたこともあり、新しい情報だけを伝えるのにはさほど時間はかからなかった。
「とりあえず、昼前までひと眠りしようと思ってる。今になって寝不足が響いてきた感じなんだわ」
ネメシアが目を覚まし、支部長による殴り込みも無事に阻止できた。多分だが、張り詰めていたものが緩んだ反動もあるんだろう。
あまり時間に余裕は無いわけだが、それでも少しは身体を――というか心身を休めておきたい。
ちなみにだが、その後にもひと仕事あるとはいえ、そっちはさほど心配していない。
「じゃあさ、その間にお昼の用意しておいてあげるよ」
「……頼めるか?」
ここで素直に受けたのは、こんな時のクーラは絶対に引かないとわかっていたから。
「お任せあれ」
「頼む。食材は好きに使っていいし、もちろんお前の分も込みで構わない。作るのもお前の好みで決めちまっていいからさ」
「うん。じゃあ、時間になったら起こすからさ。君はとっとと寝る」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
残りの水を飲み干してベッドに入る。
「……さあ、今は何もかも忘れてしまおうね。……君はこれから、深い深い眠りへと落ちていくの。……疲れ切った心と身体をゆっくりと休めて。……その先にはきっと、心地のいい目覚めが待っているから。……お休みなさい、いい夢を」
そんなささやくような声に流されたのかもしれない。眠りを欲していたであろう身体は、すぐに意識を霧散させていった。
しばらくして、クーラに起こされて起床し、昼飯。
よほどよく眠れていたんだろう。おかげで調子は万全。丸々1日くらいは寝ていたんじゃないかと思うほどに腹が減っていたということもあり、用意されていたカツサンド――クーラ曰く、今度こそ、カッタサンドじゃなくて正真正銘のカツサンドだからね。これ食べたら絶対勝てるから――をペロリと平らげてひと休みし、今度は忘れずに鍵をかけて、当然のように付いてきたクーラと共に支部へ。
「時間通りだね、アズール」
「待っていたわ」
受付で迎えてくれたのはシアンさんとセルフィナさん……ではなくて、ネメシアとアピス。
このふたりだけじゃなくて、ラッツにバートもなんだが、
『どうせ謹慎中で応援には行けないんだから、支部の留守番は俺たちで引き受けますよ。そうすればセルフィナさんとシアンさんも応援に行けますよね』
という流れでこうなった。
そもそもが謹慎処分は冤罪みたいなものなんだし。それに支部長が言うには、規則上も全く問題無いとのこと。
「よう、調子はどうだ?」
「いろいろと勉強になるわ。普段、シアンさんやセルフィナさんが私たちのためにどれだけ手間をかけてくれていたのか、あらためて思い知らされた気分よ」
「なるほど」
そのあたりは俺としても知っておきたいところ。機会があれば経験してみたいものだ。
「……ごめん、クーラにも心配かけちゃったね」
「いいってことよ。むしろネメシアちゃんが元気そうで安心したよ。今朝のアズ君なんてさ、今にも死にそうな顔してたんだから」
クーラとしては、落ち込み気味のネメシアを励ますつもりだったんだろう。だから俺をダシにしたことには、黙っておくことにする。
「待ってたぜ、アズ」
「よう、クーラも来てたのか」
そして腐れ縁共もやってきて。
「他の皆さんはもう行ったのか?」
「ああ。早めに場所取りして最前列で応援するって言ってたからな。これで、ますます無様な試合はできなくなったぜ?」
「違いない。ま、その方が張り合いも出るってものだ。ってわけで……処刑完了の報せを楽しみにしていろよ」
ビッと親指を立てて見せてやれば、
「「信じてるぞ!」」「「信じてるから!」」
4人も同じ仕草を返してくれた。
そして処刑場……もとい、試合の舞台であるコロシアムへ。
「待ってたよ、アズール」
受付の前で待っていたのは支部長で、
「おや?その子はたしかエルナさんとこの……」
隣に居たクーラに気付く。
「はい。見習い看板娘のクーラです。第七の支部長さんですよね?いつもアズ君がお世話になっています」
「……おい」
俺がいつも支部長の世話になってるのは事実だろうけど、なんでお前がソレを言うのか?というか支部長にもその自己紹介するのかよお前は……
「いや、こちらこそ。ところで……」
そんな内心を余所に、支部長はクーラをじっと見る。
「アズールの付き添いにはあたしが行こうと思ってたんだけど……。もしよければ、代わりに頼めないかい?」
「私がですか?」
「ああ、そうさ」
「あの、それって大丈夫なんです?クーラは第七支部の所属じゃないですけど」
「何も問題は無いよ。付き添いが同じ支部の者じゃなければならない、なんて規則はどこにもないからね」
「……言われてみれば」
ひと月ほど前に見た大会の規則あれこれ。たしかに、そこにはそんな記述は無かった……と思う。うろ覚えだけど。
まあ、支部長が言い切るなら、その通りなんだろう。
「けど、何でクーラを?」
とはいえ、そんな疑問も出てくるわけで。
「自覚無いのかい?その子と居る時のあんた、すごく落ち着いた顔をしてたんだよ。だからあたしが付くよりもいいかと思ってね」
「それはまあ……」
俺にとっては、腐れ縁共に並ぶほどに気兼ねなく居られる相手ではあることは事実なわけで。それに――申し訳ないとは思うけど――支部長に付き添われるとか、間違いなく緊張する自信がある。
「私でアズ君の役に立てるなら」
だからクーラがOKを出してしまえば、
「じゃあ、お願いするよ」
すんなりと話は決まってしまっていた。




