結果良ければなんとやらとでも言えばいいのか
「朝、か……」
窓を見れば、カーテンの隙間に光がにじむ。
昨日、この上なく腹立たしい一件を聞かされて支部から戻ってきた俺は、結局一睡もせずにいた。
何か俺にできることはと必死で思考を巡らせるうち、わずかばかりの慰めになりそうなことは見つかって。それをいかに効率的にやるかって方向に逸れたままに延々悩み続けて、結局は妥協するしかないって結論になって。
けど……
結局は気休めにしかならないと思う。復讐は何も生まない、なんて綺麗ごとを言うつもりもない。それでも、そんな気休めが連れてくるのは虚しさだけなんだとも思えてしまう。
悪い夢だったらどんなによかったか……
そんなことを思い、そんな可能性を否定する根拠が目に留まる。
テーブルの上に放り投げられた一枚の紙きれ。帰って来た時にドアに挟まれていたそれには、
『緊急事態が起きた。すぐに支部に来てほしい。キオス』
そんな内容が書かれていて。
俺の行き先がわからなかったであろう、キオスさんが書き置いたものだった。
「もうこんな時間か……」
不意に鳴り響いた鐘の音は朝の9時を告げるもの。
なんだか変な感じだな。
この鐘を聞く時は、いつだってクーラの奴が隣に居た。ひとりきりで聞くのはいつ以来になるんだか……って、クーラ!?
衝撃的なことが多すぎてすっかり忘れていたことを思い出す。
あいつとは9時少し前に待ち合わせていたはずだ。
「行かないと……」
楽しく散策をするような気分にはなれるはずもない。クーラには申し訳ないが、約束は反故にするしかないだろう。
それでも、直接に会って謝るのが筋。すでに10分以上待ちぼうけをさせているのも事実なんだから。
ネメシアとも仲が良かったし、クーラも悲しむだろうな……
そんなことを思い、ますます気分が沈んでいく。
立ち上がるも、徹夜明けの身体は酷く重かった。多分それは、抜けきらない疲れのせいだけではなかったんだろうけど。
「……何やってるんだろうな、俺」
部屋を出て、足を向けてしまった先は205号――ネメシアの部屋で。『どうしたの?もしかして腰が痛いとか?』なんて言いながら顔を出すんじゃないか。そんなことを思いつつ、何度もノックしてしまう自分に呆れる。
「現実は現実としていい加減に受け入れろよ……」
ため息をひとつ。
そうして階段を下りて――
最初に感じたのは足元の違和感。
次にやって来たのは唐突な浮遊感で、
視界の大半を占める青空がやけにくすんで見えて、
マズいっ!?
足を滑らせるか踏み外すかしたと気付いたのはこの時にようやく。
受け身を取ろうと身体を反転させて――
「アズ君っ!?」
慌てた声。
やって来たのは階段の角にぶつかる痛みではなくて、
「大丈夫?」
心配そうな声。そして柔らかなものに抱き止められる感覚で。
「クー……ラ?」
「うん」
いつの間にどうやって下に回り込んだのか。目の前――触れ合うほどの至近距離に、クーラの顔があった。
「とりあえず、部屋に戻ろうね」
そうして有無を言わさずに部屋に連れ込まれて、
「……遅刻はまだいいとしてもさ、鍵は開けたまま出ちゃうし、今にも死にそうなくらい酷い顔してるし、挙句の果てにはかなり危ない転び方するし、何があったの?」
クーラが聡い奴だとは知っていた。だから、今の俺が普通じゃないってことは即座に見抜かれてしまって。
「私はさ、君の力になりたいの。だから……」
まっすぐに見つめてくる目も、その口調も穏やかで優しくて。
それに俺自身、自分で思う以上に追い詰められていたのかもしれない。だからなんだろうか。
「……さあ、辛いことも苦しいことも全部吐き出してしまおう?……大丈夫、何も心配しなくていい。……私が受け止めてあげるから」
そんなささやきが心地よくて――
「蛇毛縛眼の吹き矢を人に使うとか、アホでしょ……。なんでそういうふざけたことするド外道共はいつの時代も消えないかなぁ……」
気が付けば俺は、洗いざらいを吐き出していた。
「君も辛かったね」
「……ああ」
俺の辛さなんてラッツやアピスに比べたらまだマシな方であるはずなのに。弱音にも歯止めがかからない。抱きすくめられて慰められる。そんな幼子のような扱いをされても、振り払うことができなかった。
「予定変更だね。今日はずっと君のそばに居るよ」
「けど……」
「……こういう時ってさ、ひとりで居ると際限なく沈んで行っちゃうものだよ」
「すまん……」
どこまでも自分が情けない。クーラだって、友人があんなことになって辛いはずなのに。
「いいってことよ。ひとりよりもふたりがいい、ってね。あ、けど……」
そう言って立ち上がる。
「その前にトイレ借りるね。さすがにトイレに行く時まではそばに居られないけど、そこは平気?」
「……そこまで子ども扱いするな」
毎朝を思わせるやり取り。ほんの少しだけ、気持ちが上を向いたような気がする。
「ふぅ……。スッキリしたぁ」
程なくして出てきたクーラは妙に晴れ晴れとした顔をしていて、
まあ、落ち込んでても出るものは出るんだよな。
俺も、少しもよおしていたことに気付く。
だから入れ替わりで便所に入って――
んん?
違和感。クーラはこれまでにも何度も俺の部屋に来ているし、当然便所を使ったことだって何度もある。
男女では身体の構造に違いがあり、便所を使う時にはそのあたりの差が出るわけで。
いつもであれば俺が使った後とクーラが使った後とでは、便座の状態も違うはずなのに、今日に限ってはそんな違いが無かったような……
んん?
そしてさらに違和感。ついさっき。俺の直前にクーラは便所を使っていたわけだが、用を終えた後で水を流す音は聞こえなかった。いつもであれば、外に居る俺にだって聞こえるはずなのに。
当然ながらクーラが流し忘れたような痕跡はなく、出そうと思ったけど出なかったにしては、クーラの表情はすっきりしたものだった。
そんなことに首をひねりつつも便所から出て、
ドンドン!ドンドンドンドン!
不意に、ドアを叩く音が聞こえた。
ノックというにはあまりに乱暴。
奥に下がっているようにクーラに合図をして、懐の短鉄棒を意識しつつドアに向かい、
「アズール君!居るなら開けてくれ!僕だ、キオスだよ!」
キオスさん?
かなり慌てた風ではあるが、その声はたしかに知っているものだった。
「どうしたんです?」
「すぐに支部に来てくれ!ネメシアちゃんが――」
ドアを開けるなりその名が出てきて、背筋が冷える。
これ以上ロクでもないことなんてあるはずがないってのに……
そうしてキオスさんが続けたのは――
「目を覚ましたんだ!」
別の方向に予想外の言葉だった。
部屋を飛び出して支部に向かい、途中ぶつかりそうになってしまった人たちには申し訳ないと思いつつも到着。
無人のロビーを抜けて医務室に向かって、
「ネメシア……ネメシアぁ……」
真っ先に目に止まったのはネメシアにすがりついて泣きじゃくるアピス。
けれど昨夜と似通った光景には、決定的な差もあった。
「もう。アピスはしょうがないんだから……」
それは困ったような顔で自身も目元に涙を浮かべながらで、そんなアピスの頭を優しく撫でるネメシアの存在。
この場には第七支部のメンバー全員が揃っていて、その全員がそんな姿に安堵をしていたことだろう。周りを見れば、目元を拭うセルフィナさんの肩をガドさんが抱いて、ごしごしと袖で顔をこするソアムさんの頭をタスクさんがポンポンと撫で、ラッツはラッツで昨夜とは真逆であろう意味の涙を隠そうともしていなかった。
「その……。恥ずかしいところを見せてしまいました……」
程なくして、落ち着きを取り戻したアピスが深く頭を下げる。頬が赤いのは羞恥からなのか泣きはらしたせいなのか。まあ、そこをつつくのも無粋だろう。
「ごめんなさい。私のせいで皆さんに心配かけてしまって」
ネメシアもそう頭を下げる。
「なぁに、気に病むことはないさ。あんたが目を覚ましてくれて、本当に良かったよ」
支部長が目を細めて口にしたことは、きっとこの場に居る全員の気持ちでもあったことだろう。
「……けど、何でネメシアが目を覚ましたんです?ひょっとして、思ってたのと別の魔具だったとかですか?」
望ましいことだったのは間違いないとしても、そこは当然気にかかるところ。まず思い付くのは、そんな間抜けな話なんだが……
「いや、それはないね」
けれど支部長はバッサリと否定。
「そもそもが、あの魔具は滅多に出回るようなものじゃない。あたしの知る限り、この大陸には有事に備えて王城で保管されているひとつきり。確認したところ、王城にあるはずの魔具は偽物とすり替えられていたんだよ」
「あの……その犯人ってひょっとして宰相なんじゃ……」
つなぐ線が見えてしまった気がする。
そんなシロモノを持ち出すことのできる人間なんてのは、かなり限られてくるということ。そして、今回ソレを使った阿呆と宰相のクソ次男の間にも線が見え隠れしているわけで。
「現時点では確証は無いけど、多分そんな話になるだろうね」
本当にどこまでもロクでもねぇ……
「まあそんなわけさ。だからどんな経緯でネメシアが目を覚ましたのか、あたしにもさっぱりでね。それで……ラッツ、アピス、バート。ついさっきのことなんだろうけど、その時あんたたちはネメシアと一緒だったんだろう?何があったのか、聞かせてもらえるかい?」
「それがその……」
最初に口を開いたのはラッツ。けれどその歯切れは悪いもので。
「俺たち3人、ここで話し合いをしてたんです。これから、ネメシアのために何ができるのかって」
……ぐあ。
ちょうどその頃の俺は、クーラの奴に泣きつき、情けない有様を晒していたわけで……。それを思うと少しばかり耳の痛くなる。
「それで……いつの間にかウトウトしてて……気が付いたらネメシアが目を覚ましてたんです」
「妙な話だね」
俺もそう思う。ロクに眠れていなかったというのはありそうなところ。それでも、話し合いの最中に寝落ちしそうになれば残るふたりが起こしそうなものだけど。
「じゃあバート。あんたは?」
「……俺もラッツと同じなんです」
「ますます妙だね……」
そこも同意見。ふたり同時になんてのは、さすがに考えにくいんだけど。
「ならアピスは?」
「私も同じようなものです。あ……でも……」
「でも?」
「もしかしたら気のせいかもしれないんですけど、その時に声が聞こえた気がするんです」
「どんな声なんだい?」
「そこまでは……。ただ、ささやくような女性の声だった……と、思います。本当にうろ覚えなんですけど」
「……アピスちゃん。その声は、シアンでもセルフィナちゃんでもソアムちゃんでも支部長でもなかったのかな?その時ロビーにはこの4人が居たんだけど。あるいは、ネメシアちゃんだったとかは?」
「……ごめんなさい。誰の声だったのかも」
状況を考えたら、その時に声が届きそうな位置に居た女性はこの5人。仮にそれ以外の誰かがやって来たとしても、正面からだったらその時にロビーにいた面々が確実に気付く。かといって、裏口から誰かが忍び込んだというのも考えにくい。支部長やキオスさんに気取られずに、なんてのは極めて難しいだろうし。
「あの……私からもいいですか?」
おずおずと手を上げるのはネメシア。
「ああ。何か気になることでもあるのかい?」
「はい。もしかしたら夢だったのかもしれないですけど、私も女性の声を聞いた気がしたんです」
「……詳しく頼むよ」
「わかりました。……まず、キセナ平原で襲われた時のことは覚えているんです。そこで何かを撃たれたことも。そして、暗くて冷たいところに閉じ込められたみたいな感じになって……」
「……あの魔具で撃たれるとそんなことになるのかい。まあ、それで目覚めたのは記録上でもあんたでふたり目なんだし、知られていないのも当然なのかね。それで、そこからどうなったんだい?」
「不思議と何も考えられなくて、その時は苦しいとかは感じなかったんです。でも、そんな中に暖かい光が差し込んできて……誰かに抱きしめられて浮き上がるような感覚があって、その時に女性の声で言われた気がしたんです。『よかった。今度は助けられて』って」
「……つまり、その女性がネメシアを助けたってことかい?」
「多分そうなんじゃないかと……」
「なあ、アズール。なんか似たような話を聞いたことあったよな?」
「……ええ」
俺にそう言ってくるのはガドさんで、
「双頭恐鬼の一件だね?」
支部長もすぐに気付く。
謎の女性の人知を超えた力で助けられる。それは、以前の俺やガドさんにもあったこと。
「とんでもないことを成し遂げた女性が居たって部分は共通してるからねぇ……。ちなみにアズール。あれ以来、その女性のことは思い出せたのかい?」
「さっぱりですね。記憶の中に泥をぶちまけたようにされてる場所はあるんですけど、そこに何があるのかは……」
「つまり変化なし、と」
「そうなりますね」
「そしてネメシアが助かったのは、同一人物なのか別人なのかはともかく、謎の女性の力によるものらしいってことくらいか」
結局は『よくわからん』というのが結論。
「まあ、今はネメシアが無事に目を覚ましたことを素直に喜ぼうか」
確かにその通りか。結果良ければなんとやらとでも言えばいいのか。ともあれ、望ましいということだけはこの場に居る全員の共通認識なんだから。
俺としても、日常が失われずに済んだことには心から安堵しているところ。これで、支部長や先輩たちが王都を離れる理由も無くなったという話。
「これで心置きなく、ズビーロに殴り込みをかけることができる」
けれどそんな安堵は一瞬で吹き飛ばされる。それは地の底――地獄の底から響くような声。支部長が発したのは、そんな底冷えのするような言葉だった。




