不甲斐ない俺を助けてほしい
最初に感じたのは、まぶたを貫く勢いの眩しさ。
「……朝、なのか」
目を開けて見れば、その出所はカーテンの隙間から差し込む日差し。
ベッドの上で身体を起こすも、全身が気怠い。変なタイミングで目が覚めた時にはよくあることなんだが、だからといって気分がいいわけもなく。
コンコン!コンコン!
ドアを叩く音が聞こえたのはそんな時。
まだ重い身体を引きずってドアに向かい、
「……どちらさまでひょうか?」
口にした定型句にはあくびが混じる。
「私、クーラだけど」
その透き通った声は聞き慣れた見習い看板娘のもの。だからドアを開けてやれば、
「おはよ。アズ君のお馬鹿さんでお寝坊さん」
大きめの籠を手にしていたクーラは、時たま向けてくるセリフに何やらを上乗せしてきやがる。
「……寝坊しちまったのは事実だし反論はできないが」
目元を直撃する角度で差し込んできた日差しと言い、部屋の外に見える影と言い、いつもの起床時間をとっくに過ぎていることは俺でも理解できた。
現在の時刻は9時を少し回ったあたりか。アルバイトが休みの日にクーラが迎えに来るのも、だいたいそんな時間だった。
ちなみにだが、茶葉と焼き菓子を持参したクーラがこの時間にやって来て、荷物を置いたままで出かけ、帰って来てから茶と菓子でひと息入れて、最後はクーラを送り届ける。というのが定番のひとつ。
「それだけでもなさそうだけど……。とりあえずさ、上がらせてもらってもいいかな?」
「ああ」
今日はクーラと出かける予定だったとはいえ、準備というものもあるわけで。今すぐにとも行かないわけだ。
「アズ君はそこに座ってて」
「お、おい……」
だからまずは身支度を。そんな風に考えていたんだけど――まだ気怠さが消えていないこともあってか――クーラに引きずられるままに椅子に座らせられてしまう。
「その様子だと朝ごはんもまだだよね?」
流しから持ってきた皿に並べるのは、クーラ手製の焼き菓子で、
「お茶淹れるからさ、それ食べて待ってて」
そのまま返事も待たずに、勝手知ったるなんとやらで湯を沸かし始める。
「悪いな」
「いいってことよ。私と君の仲じゃないの。それより、お腹空いてるでしょ?」
「ああ。せっかくだ。ありがたくいただくよ」
焼き菓子のいい匂いを嗅いだせいでなおさらなのか、腹の虫がやかましい。
いつもは冷めきった頃に口にするそれが、今はほんのりと温かい。味がいいことはすでに何度も思い知らされている焼き菓子にかじり付いて、
んん?
ふんわりとした食感と共に伝わってくるのは優しい甘さ。そして、いつも食べているそれと比べても強烈な、強すぎると思えるような香り。なにかしらの分量を間違えでもしたんだろうか?
そんな疑問はあっても美味いことは美味い。腹の虫にせっつかれる様にして、気が付けばそこにあった焼き菓子のほとんどが腹の中へと消えていた。
「はい。お待たせ」
そうするうちに、ふたつのカップを盆に乗せてクーラがやってくる。
「ありがとうな」
いつものように淹れてくれる茶は、相変わらずにいい香りで美味い。
「うん。我ながら見事な淹れっぷり」
だから、そんな自画自賛も事実だと俺は思う。
「今日は、リラックス効果のあるお茶にしてみたんだけど、君の口には合ったかな?」
「ああ。といっても、いつものように美味いとしか言えないんだが……」
茶葉による違い、というのはいまだによくわからない。言われてみれば、気分が落ち着いたような気はするんだが。
「美味しいって思ってもらえたら、それで十分だよ」
「そういえば、少し気になったんだが……」
「どしたの?」
「さっき食わせてもらった焼き菓子、少し香りが強すぎたような気がしたんだ」
「そうなの?」
そうして最後のひとつに手を伸ばし、
「しまったなぁ……」
額を抑える。
「今日もいつもみたいに夕方に食べるのを想定してたからさ、冷めた時に一番美味しくなるように調整してたの。そういう時は味を濃くするってのが定番なんだけど、糖分の取り過ぎもどうかなってことでさ。私はどっちかっていうと、香りの強さで調整する派なんだよね」
「……つまり、まだ温かいうちに食べたから香りが強すぎた、と?」
「そういうこと」
菓子作りには疎い俺だが、ある程度の自炊くらいはできる。そんな俺の基準で言えば、何気に高度と思える技を、ことも無さげに言ってのける。
昨日もチラッと思いはしたけど、こいつの焼き菓子って、本気で金を取れるレベルなんじゃないのか?
「けどさ、君もよく気付いたね」
「お前の菓子は食い慣れてるからな。茶の違いはわからなくても、香りの強い弱いであればどうにかは判別できるってことだろう」
「なるほどねぇ……。ところでさ――」
機嫌よく笑っていたクーラ。その表情が真剣さを帯びる。
「何があったの?」
「急にそれだけ言われてもな……」
せめて主語くらいは欲しいところなんだが。
「いつもならこの時間はすぐに出られる状態で待ってるのに、今日に限ってはついさっきまで寝てたでしょ?それにさ、ロクに眠れてませんって、顔に書いてあるよ」
「顔にまで出てたか……」
そう聞かされても驚きはしなかった。
「うん。それで、何を悩んでるの?」
「まあ、大したことじゃないんふぁが……」
そうは言いつつも、あくびが混ざってしまったのは、実際に寝不足だったからか。
昨夜は延々とシアンさんキオスさんの件を考えていて――途中からは思考が変な方向に流れたりもしたんだが――まったく寝付けなかった。クーラがやってくる直前まで寝ていたってことは、どこかしらで寝落ちできたんだろうけど。考え事をしている中で、空が白み始めてきたな、なんてことを思った記憶は残っていた。
「大した悩みの無い人がそんな風になったりするものかな?」
「……それを言われると弱いんだが」
「私でよければ相談に乗るけど?」
「いや、それには及ばないさ」
クーラにしてみたら、俺以上に他人事。まして、ただでさえクソ重い問題だ。巻き込むわけにはいかないだろう。
「……つまり、私には言えないことって認識でOK?」
じっと俺の顔を見つめてくるクーラは、そう察してくれた。本当に、話の速い奴で助かる。
「そうなるな」
「わかったよ。だったら無理には聞かない」
「済まない」
「それは言わない約束でしょ?」
「……そんな約束したことあったか?」
記憶を辿っても見当たらないんだが。
「約束というかお約束というか……。まあいいや。それで、この後の予定なんだけど」
「今日は歌姫のステージを見に行くんだったな。少し出るのが遅くなっちまったけど、間に合いそうなのか?」
「さあ?私も正確な時間は聞いてなかったから。……それよりさ、予定変えない?」
「ああ。お前に希望があるならそれでも構わんぞ」
どうせ目的は王都の散策。行き先は、どこだって問題はあるまい。
「じゃあ、君の行き先はあそこで」
そう指差しするのは、同じ部屋にあるベッド。
「どういう意味だ?」
「そのまんまの意味。大人しく寝てろってこと。目は覚めてるみたいだけどさ、実はまだ眠いでしょ?」
「それはそうだが……」
「だからさっさと寝る。出かけるのはさ、午後になって君の体調が戻ってからでもいいよ」
「けどな……」
なんだかんだで俺は、クーラと出かけることを楽しみにしていて、クーラも同じなんだと認識している。それを思うと同意するのはいささかの抵抗があるんだが。
「だいたいがさ、そんな有様で無理に出かけて、すっ転んで打ちどころが悪くてポックリ逝っちゃったらどうするつもり?そしたらさ、私は1500年先まで悔やみ続ける自信があるよ?」
「……100%あり得ないと断言はできないことだろうが、1500年はオーバーだろ?」
クーラが生きることができる時間なんてのは、限界まで多く見積もったとしても、あと100年がいいところだろう。
「じゃあ一生でも未来永劫でもいいけど。アズ君は私にそんな思いをさせたいわけ?」
「いや、そうじゃないけど……」
「そんなわけだから。異論は認めない。断じて認めない」
「……わかったよ」
この件に限ってはやけにクーラの押しが強い。多分これは、無理に出ようとすれば実力行使も辞さない雰囲気だ。
「うん。素直で結構」
そうして認めたが最後。腕を掴まれ、引きずられてベッドに押し込まれてしまう。
「お前は昼過ぎまで適当に時間を潰しててくれるか?」
諦めて寝ることにしたはいいが、それにクーラが付き合う義理があるわけもなし。
「じゃあ、君のそばに付いててあげるね。暇潰しとして」
なんだけど、クーラは付き合うつもりらしい。
「……物好きめ。好きにしたらいいさ」
こうなったコイツは、何を言っても聞かないだろう。このひと月でそれくらいには理解できているつもり。
「うん、好きにさせてもらうよ。……さあ、目を閉じて」
不意に、声のトーンが下がる。耳から入って頭をくすぐるようなその声色はやけに心地が良くて、
「……ああ」
自分の意志でなのか、ささやきに流されたのか、よくわからないままにまぶたが落ちる。
「……そのまま呼吸を落ち着かせて。……今度は全身の力を抜いていこうね。……全身の力が抜けたら、心の力も抜いてしまうよ?……そう、それでいいの。……身も心ももうぐったり。……そうして私の声に包まれていると、すごく心地がいい。……だから君は、私の言葉に抗えなくなる。……抗おうという意思が溶けていく。……私の声に流されてしまう。……君は、私に従いたい。……私に従いたくてたまらない。……ほら、これで君はもう私の言うがまま。……私の思うがままになった。さて、それじゃあ――」
「……なんかいい匂いがする」
再びの目覚めを誘ったのは嗅覚で、
「おはよ、アズ君」
「ああ。おはようさん」
気付いたクーラが台所の方から声をかけてくる。応えて起こす身体は、すっかり軽くなっていた。それなりにはよく眠れたらしく、気分もすっきりとしていた。
「起こす手間が省けてよかったよ。その分だと、体調も戻ったみたいだね?」
「ああ。おかげさまでな」
クーラに押し切られるようにしての二度寝ではあったが、結果的にはよかったんだろう。
「それは結構。今お昼の用意してるから。材料は適当に使わせてもらったよ」
朝飯が妙なことになっていたせいで腹時計は今ひとつアテにならないが、日差しの具合からしたら、間もなく昼飯時という状況。
「……何から何まで済まんな」
「お気になさらずってね。私の分も作ってるからさ、それでチャラってことで」
「あいよ」
当然ながら、この状況で文句を言えるような厚顔さは、俺の持ち合わせには無かった。
「お待たせ」
せめて手伝いだけでも、そんな風に思いはしたものの、時すでに遅し。すでに昼飯は出来上がっていた。そしてクーラが運んでくるのは、空きっ腹に刺さる匂いを湯気と共に立ち昇らせる大ぶりの椀がふたつ。テーブルに置かれたそれは――
「何だこれ?」
「名付けて、パン粥っぽい野菜スープ」
「なるほど……」
たしかに、名は体を現している。ニンジンタマネギキャベツにジャガイモが浮かぶスープはドロリとしていて、パンの切れ端らしきものも見え隠れしていた。
「汁物は熱いうちが華らしいからな。さっそくいただいてもいいか?」
「もちろん。ただ、食感目当てに形を残してるパンはさ、あまり勢いよく噛まない方がいいかも。染み込んだスープが噴き出してきて悲惨なことになりかねないからね」
「違いない」
俺自身は猫舌な方ではないとはいえ、口の中を火傷してしまっては、確実に食い物の味は落ちてしまうというものだ。
「「いただきます」」
「それにしてもさ、君もややこしい話に関わっちゃったよね……」
そうして手製のスープ――当然のようにこれも美味かった――が空になった頃に、クーラがそんなことを言ってくる。
「何のことだ?」
急にそれだけ言われても返答に困るんだが。
「何って、キオスさんとシアンさんのことだけど」
「……はい?」
なんでクーラがそれを知ってるんだ?
そんな疑問符が頭をよぎる。
いや、昨日の件とも限らないな。キオスさんはクーラの雇い主と親しいんだろうし、シアンさんだってあの店の常連なんだから、接点自体は――
「だからさ、キオスさんとシアンさんが実質的には相思相愛なのに、上手く行ってないってこと」
ここまでピンポイントで言い当てられては、クーラもその件を知っていると確信するしかないわけだが……
「なんでお前がそれを知っている?」
「聞いたから」
「誰に?」
「君に」
「いつ?」
「ついさっき」
「何で?」
「聞きたかったから」
「……だからどういうことなんだよ?」
問答を繰り返すも、わけがわからない。そもそもコイツに話した覚えは……んん?
そこまで考えて、脳裏をよぎるものがあった。
言われてみれば……眠りに落ちる直前はやけに気分がよかった気がする。そしてそんな中で、クーラに言われるままに話していた……ような気がしないでもないんだが……
「……まさかとは思うがお前」
思い至るのは、その少し前に飲んだもの。
「茶に何か入れてたんじゃないだろうな?」
口を軽くする薬。存在だけなら、小耳に挟んだことはあったんだけど……
「失礼な。そんなお茶への冒涜なんてやらないよ」
「そうか……」
たしかに、クーラは茶に対して並々ならぬこだわりを持っていた。それを思えば妙なものを入れたりはしないのか。
「まあ、お茶のせいってのも無いわけじゃないよ。リラックス効果があったのは本当だから。気を張ってる時とリラックスしてる時、どっちが口は軽くなるかってことなら、ね?」
「それはそうだろうけどさ……」
その理屈なら、理解はできる。だがそれにしたって、俺はそこまで口が軽い方だとも思っていなかったんだがなぁ。
「あとは、寝不足だったからでしょ?ほら、機密を吐かせるための拷問で、眠らせないってのもあるみたいだし」
「……そういうものか」
「そういうものだよ。それでもさ、君の意に反して聞き出しちゃったのは事実だからね。お詫びってわけじゃないけどさ、片棒担がせてよ」
「いや、そこまでしなくてもいいさ」
何にせよ、俺がやらかしちまったのは事実なんだから。
「黙っててくれればそれでいい」
それに付き合わせるのもどうだろうかという話。俺はそんな風に思うんだけど。
「私じゃ役に立てないかな?」
「いや、そういうわけじゃないんだが……」
こと色恋に関しては、俺ほど頼りにならない奴なんて滅多にいないだろう。であれば、クーラが役に立たないなんてことは絶対にないはずだ。
「君が困っているなら、私は君の力になりたいの」
そして当のクーラは正面から、俺の目を見据えてくる。
ここまでまっすぐに言われると、逆に断ることに罪悪感を感じてしまう。
「……意外としぶといね。じゃあ、攻め口を変えよっか。キオスさんもシアンさんも、ウチの常連さんなわけよ」
急にそんな話をし始める。ウチ、というのはアルバイト先のパン屋のことだろう。
「んで、キオスさんに至っては協力者でもあるでしょ。そんなふたりが上手く行くってことはさ、売り上げアップにもつながりそうだし、そうなれば私の給料も上がるって寸法。だからさ、協力させて?」
「……はぁ」
ため息をひとつ。周到に逃げ道を潰されたような気分だった。
というかそもそも、暴露させられた時点で詰んでいたのか。
「そういうことなら……。不甲斐ない俺を助けてほしい」
だから素直に負けを認めれば、
「うん!任せてよ!」
この酔狂な見習い看板娘はそんな風に、満面の笑顔で頷いてくれた。




