頭や心ではなく耳に聞こえる声
「アズールさん、クーラさん。おはようございます」
トキアさんが向けて来たのはそんな朝の挨拶。それ自体は極めて自然なこと。
けれど、トキアさんにはクーラを認識することはできないはず。
なにせ、今のクーラは俺の心の中に居るわけだから姿は見えない。それに、声だって耳ではなく頭だか心だかに直接響いている感じである以上、トキアさんに届いているとは思えないわけで。
『……ひょっとして、気付かれちゃってる?』
俺もそれには同意見。
「えーと……どこにクーラが居るんです?」
それでもとぼけてみるも、
「今ここには間違いなく」
きっぱりの断言。
「もっとも、わたくしにはその姿は見えませんし声も聞こえません。それにアズールさんの目線からして……アズールさんにも姿が見えているわけではなさそうですが」
そして、クーラの現状をかなり正確に把握しているらしかった。
考えてみれば、俺が知る限りでは誰よりも油断ならないのがトキアさんだったか。
「ふふ、そう身構えなくてもいいですよ。おふたりに害をなすつもりはありませんから」
そんな内心までも見透かされていたらしく、穏やかな笑みでたしなめるように言われてしまう。
「とりあえず、昨夜のことから話しましょうか。グラバスク島に向かおうとしたアズールさんが急にひとりで喋り出した時には、クーラさんを失ったことで心が壊れてしまったのかと思い、わたくしも泣きそうになったんですけど……」
「えぇ……」『えぇ……』
随分な言われようだった。
だが、冷静に考えてみればそれも道理なんだろうか?
目の前には誰も居ないはずなのに、そこに居る誰かと会話するように喋り出す。仮にだが、腐れ縁共がそんなことをやっている場面を見かけたなら「どうした?ついに狂ったのか?殴ればその頭は治りそうか?」なんて言葉を投げ付けそうなところだ。
「ですが、そうでないということはすぐにわかりました。過去には実際に心を壊してしまった方と接する機会があったんですけど、その方とは明らかに違っていましたから」
「と、言いますと?」
さすがは各地を旅して来たトキアさんと言うべきなのか。そんなことまでご存じだったらしい。
「その方は目が焦点を結んでおらず、どこを見ているのかもわからない風でした。それに口調もどことなくぼやけた虚ろな感じで。けれど、昨夜のアズールさんはどちらでもなかった」
「それはまあ……」
焦点がどうだったかまでは、自分では鏡でも見なければわからない。だが、普通に喋れていたとは思っている。
「あとは間の取り方もありましたね。実際に誰かと話していると捉えた方が違和感は無かったです」
「そんなことまでわかるものなんですか?」
「はい」
すげぇなトキアさん。
「そして何よりも決定的だったのは、その表情。少し前までは死にかけた魚のような目をしていましたが……」
そういえば、そんな風にも言われたんだったか。
「話し始めてからのアズールさんは、わたくしが良く知るそれ――クーラさんと楽しそうに過ごしている時と同じ、素敵な表情をしていましたから」
「……なるほど」
俺が鏡を見るのは、顔を洗う時と髭を剃る時と髪を切る時くらい。だから、自分の表情なんてのはよくわからない。
だがそれでも、「ああ、そういうこともあるのか」と、素直に思えるような話でもあった。
少なくとも、クーラと話せて気分が高揚していたのは間違いないんだから。
「ちなみにですけど、昨夜頼まれたこと。魔具職人を集める件に関しては、まだ一切の通達はしていませんので。聞いていた限りでは、必要無くなったようですし」
「……ありがとうございます」
そこは本当に助かるところだった。わざわざ集めておいて、やっぱり不要になりましたなんてのはさすがに気が引ける。
「それと、昨夜のこともすべて伏せてあります。一度は目を覚ましたアズールさんは、すぐに眠ってしまったとだけ報告しておきましたので。おふたりには込み入った事情があるようですし」
「……本当にありがとうございます」
それも助かるところ。これからのことに関しては、まだ何も考えていなかったんだから。その時間を確保できたのはありがたい。
「ですから後は……」
そうトキアさんが手を伸ばすのは、傍らに置いてあった小さめの酒瓶。
ポン!と小気味のいい音を立てて栓を抜き、
「トキアさん!?」『トキアさん!?』
そのまま直接に口をつけて、喉を鳴らしてひと息に飲み干してしまう。
「ふぅ」
「急にどうしたんです?」
朝っぱらからの酒飲みはどうなんだとか、一気飲みは身体に良くないだとか、味わって飲まないともったいないだとか、思うところはいろいろある。だがそれ以上に、流れに脈絡が見当たらない行為でもあったわけで。
「こうしておく必要があったんですよ」
「だからどういうことなんです?」
そう言われても、こっちは何が何やらだ。
「これで、わたくしは酔っ払いになりましたよね?」
そう自称をするトキアさんだが、決して酒に弱い人ではなかったはず。実際、顔にも言動にも酔いの色が現れた風には見えない。
「酔っ払いというのは、見たものも聞いたことも簡単に忘れてしまうんですよ」
「……そういうことですか」
「ええ。そういうことです」
もちろんのこと、そう都合よく忘れられるはずはない。つまりは、俺やクーラが口外を望まないすべてについて口を閉ざすということなんだろう。
たしかに、表沙汰にしたくない事情を多数抱える俺らとしてはありがたい申し出。そして、トキアさんであればその言葉も信用できる。けれど……
「……トキアさんは大丈夫なんですか?」
例えば、俺が8日前にやった大規模治癒。あれは、どうあっても誤魔化しが利くとは思えない。そして、治癒の心色持ちではないはずの俺にあんなことができたということの意味は大きい。
クーラに言わせれば異世界技術の大半は、適性の差こそあれ、基本的には誰でも使えるようになれるようなシロモノとのことだった。
ならば、拡散した場合の影響は極めて大きいだろう。
それこそ――場合によっては、エルリーゼの在り方そのものを変えてしまいかねないくらいには。
だからこそ、俺もクーラも――アピス、ネメシアといった一部の例外を除いてはひた隠しにしていたわけで。
だがそれも、今となっては隠蔽は不可能だろう。となれば、俺と親しかったトキアさんから話を聞き出そうとする人が現れるというのは容易に予想できてしまう。
下手をすれば、力尽くでなんてことを考える阿呆が現れないとも言い切れない。
「ええ」
けれどトキアさんはことも無さげにうなずく。
「そもそもがアズールさんの付き添いだって、場合によっては隠匿に加担するために無理矢理引き受けたんですから」
「なんで俺らのためにそこまで……」
「ふふ、それは愚問と言うものですよ」
「……ガドさんとの件ですか」
そのことでトキアさんが俺らに恩を感じているというのも理解はしているつもりではあるんだが……
「……以前でしたらそれだけだったわけですが、さらに借りが増えてしまいましたから」
「……8日前のことです?」
「ええ。死に対していくらかの達観をできていたのは事実ですけど、どうしても叶えたい夢がありましたから。おかげで諦めずに済みましたよ。クーラさんには話したことがありましたよね?」
叶えたい夢とやらに関しては初耳。
「そうなのか?」
『うん。まあ、いくら君でもこればっかりはトキアさんの許可無しでは話せないけどね』
「それくらいはわきまえてるさ」
クーラは何やら知っていたようだが、だからと言って俺が根掘りするのは無粋かつ非礼というやつだろう。
「そんなわけですからね。借りを作りっぱなしというのも気持ちが悪いですし、わたくしの精神衛生的な意味でも、少しは返させていただけませんか?」
本当に敵わないよなぁ……
狡い言い方だと思う。そんな風に言われたら断り辛い。
『というか、そこまでわかってて言ってるんだろうね』
「だろうな」
『……ねえ、アズ君。相談したいことがあるんだけど、いいかな?』
「それは構わないけど……」
この状況で言ってくるあたり、間違いなく今の件に関することなんだろう。
『とりあえずさ、私に言いたいことがあるなら、声に出さずに思うだけでいいはず』
『……こんな感じか?』
『そうそう。ちょっと内緒話がしたくてね』
言われた通りにしてみれば、それでもクーラには伝わっていたらしい。
『それで、内緒話の内容は?』
『私たちのこれからについて。私なりに考えてはみたんだけどさ、前の生活に戻るのって、もう無理だよね。……『時剝がし』の影響もあるんだから』
『……だろうな』
誰にも姿の見えないクーラはともかくとしても、俺は『時剝がし』を受けたことで不老となった。この歳で見た目が変わらないというのは明らかに不自然なことである以上、ひとつところへ長くは留まれない。
まあそれ以前に、例の大規模治癒というやらかしが問題なわけだが。
『だからさ、行方をくらますしかないと思うの。適当に名前を変えてあちこちの街を転々とするのか、いっそ山奥とか無人島みたいな場所で暮らすのか、そのどっちかが無難だと思う。……過去の私がしてきたみたいに』
『……だろうな』
王都を離れたくないのは俺もクーラも同じだろう。だがそれでも、留まることが連れて来る厄介ごとの方が大きく勝りそうなところ。
早い話、その方が多少はマシというやつだ。
『それとさ……私の声が君にしか聞こえないのって意外と不便だし、そのせいで君が可哀そうな人みたいに思われるのもいい気分はしないんだよね。それに私もトキアさんと話したいから、私の身体を用意してもいいかな?』
『……相変わらずサラリと言ってくれるな。けど、そんな芸当ができるのか?』
『できるよ。というか、さっき言わなかったっけ?君と触れ合える方法に心当たりがあるって』
『……そうだったな』
そんな折に、トキアさんが寝たふりをしていると気付いたんだったか。
『それで、具体的には?』
『『分け身』を作るの。昨日も言ったけどさ、色源さえ使わせてもらえるなら、クラウリアにできることのほとんどは私にもできるから。それこそ、やろうと思えば木端微塵斬りでもね』
『そういうものか』
まあ、クーラがそう言うのであれば可能なんだろう。
『そういうものだよ。まあ、こうして君と文字通りの意味で身も心もひとつになれてる状態も捨てがたくはあるんだけど』
『アホなこと言ってないでさっさとやってくれ』
『はいはい。それじゃああらためて、ベッドに横になってもらえるかな?』
『あいよ』
っと、その前に……
「あの、トキアさん」
「内緒話は終わりましたか?」
「……はい」
トキアさんに声をかけてみれば、そんなところまで見抜かれていたらしい。
「それでですね、今からクーラが姿を現しますんで」
「……可能なんですか?」
「クーラはそう言ってます」
「……でしたら、とりあえずはそういうものだと割り切ることにします」
一応は納得(?)してもらえたところでベッドに横になり、深呼吸をひとつ。
『それじゃあ始めるね。結構キツいと思うけど……』
『……そこは我慢する』
やって来るものに備え、気を引き締めて、
「ぐ、うぁ……」
目を閉じ、歯をくいしばって耐える。
これは……わかっていてもしんどいものがあるな。
先日の大規模治癒の時にも感じたものだが、急激に色源が搾り取られていく感覚は、簡単には慣れてくれそうもない。
『またね』
そんな中でクーラの声が心に響き、それを最後にクーラを感じ取れなくなる。多分だが、精神を『分け身』の中へと移したんだろう。
「これはまた……随分と可愛らしい姿になりましたね」
感嘆したような声はトキアさんのもの。
奇麗と可愛い。このふたつで女性を区分した場合、トキアさんは間違いなく前者。クーラはどちらかと言えば後者寄りだろう。
だから、クーラが可愛らしいと言われるのはごく自然なことなんだが……
それでも、トキアさんの感想には何やら違和感を覚える。
まあ、実際に見た方が早いか。
「やっほうアズ君」
頭や心ではなく耳に聞こえる声。それは雪解け水のように透き通った涼やかな、それでいて能天気な声。
それだけで目頭が熱くなる。
そして目を開けた先にあったのは、長く艶やかな黒髪であり、人懐っこそうな光を宿した翡翠色の瞳。
それ以外の仕草やら表情やらも、俺の魂にまで刻み込まれているであろうクーラのものだ。
「……なんで?」
けれど、俺の口から出て来るのはそんな困惑声。
身体を構成する要素のひとつひとつは間違いなくクーラなのに、その姿は俺が良く知るクーラとは決定的に異なっていた。




