こんな生活、もう嫌だ……
「はぁ……」
今日は天気も良く、窓から見える街並みは行き交う人で大いににぎわい、活気に溢れていて。窓越しでもその喧騒が聞こえてくるようですらある。
「はぁ……」
それとは裏腹で、俺の口から垂れ流されるのは、憂鬱で陰鬱で辛気臭いため息。
「あの、アズールさん。大丈夫ですか?」
気遣ってくれるのは、ここしばらくはずっと行動を共にしてくれている女性、トキアさん。
「全然大丈夫じゃないです……」
けれど今の俺に上っ面を取り繕う余裕は無く、
「こんな生活、もう嫌だ……」
そんな泣き言を情けないと感じる余裕すらも無かった。
クソ鯨を始末したあの日。クゥリアーブに到着した俺は残渣を引き上げたところで限界を迎え、意識を失っていた。その理由は、過度の夜更かしをした挙句に睡魔に殴り倒されたからというなんとも残念なものだったわけだが、真実を知るのはクーラとトキアさんのふたりだけ。
そして困ったことに、俺がクソ鯨とやり合うところを目撃していた人は他にも多数いたとのことで。
話を聞けば「ああ、なるほど」と思えることではあったんだが、クソ鯨が現れて以降、結構な人数で双眼鏡やら望遠鏡やらを使い、常に奴が居座る海域を監視していたんだとか。
そんなわけで、海呑み鯨と交戦しているところなんかもほぼリアルタイムでクゥリアーブの人たちに知られていたわけで。
そんなところへ当事者である俺とトキアさんが帰還し、俺は早々にぶっ倒れた。
トキアさんは俺を休ませることを優先し、その場はやり過ごしてくれたとのことなんだが……
そこからわずかひと晩のうちに――
新人戦の決勝で俺のことを知っていた人がいて、
容姿的にも心色的にも、海呑み鯨を撃破したのは俺なんじゃないかという話になり、
そんな俺が帰還するなり力尽きるように倒れてしまい、
俺が『虹孵しの儀』で出してしまった記録までもがどこからともなく流れ出してしまい、
多くの人にとっての悩みのタネが解決したことによる反動もあったんだろう。
それらが妙な形で結実を起こした結果として、
『クラウリアの再来』が命懸けで世界の危機を救ってくれた、などというヨタ話が街中に拡散していたとのことで。
翌朝になって、「ああよく寝た」と呑気に目を覚まし、「これ美味いな。今度クーラにも作ってもらおうか」なんてことを思いながら宿の朝飯をいただき、報告のために支部へと足を運ぶと、そんな『英雄』をひと目見ようと詰め掛けた人たちで大騒ぎになってしまったというわけだ。
ちなみにだが、トキアさんの方は――羨ましいことに――上手く難を逃れていたらしい。なんでも、『誰かさんの再来』というふたつ名と『虹孵しの儀』の記録のせいで俺に注目が集まりすぎていたからなんだとか。
ともあれ、クゥリアーブの支部長に報告を済ませ、海呑み鯨の件は解決したわけなんだが……
その時に同席していた町長曰く。世界各地の有力者から、俺に会いたいなどと言う奇妙極まりない話が殺到していたとのことで。
その中には、この街にとって重要な取引相手が少なくないなんて事情もあり、どうしてもと頭を下げてくる支部長と町長の頼みを断り切れず、『虹孵しの儀』が終わるまでの間だけ、クゥリアーブに滞在することになって――
……むしろそこからが、俺にとっては災難の始まりでもあった。
街を歩けば子供たちや新人虹追い人からは憧れの目を向けられるとか、露店に立ち寄れば惜しみない感謝の言葉を向けられ、あれこれサービスしてくれるなんてこともあったんだが、そのあたりは(多少気は引けたが)まだいい。
『虹孵しの儀』に訪れた先達の皆様から賞賛されるのはこそばゆかったが、豊富な経験に基づいた話を聞かせてもらえたり、手合わせの機会を得られたのはありがたかったとも思う。一部には「お前みたいなガキが海呑み鯨を討伐できるわけないだろうが!」的なことを言う人もいたわけだが、むしろそれは癒しですらあったと思っている。
キツかったのは、各地からやって来たという有力者と会うこと。下手な対応をすればこの街に損害を与えることになりかねないし、俺も第七支部の所属である以上は支部長や先輩方の顔に泥を塗ることにもなりかねなかったんだから。
これまでですでにそれが8回。その中には、ガキだからと俺を見下すような相手はひとりも居なくて。それどころか逆に、誠意と敬意を持って接してくれていた。
しかも、自分の娘を結婚相手になんてことを勧めてくる人までいる有様で。クーラひと筋の俺としては本気で勘弁願いたい話であり、返事はノー以外にあり得ない。それなのに、お断りするのも気を使う必要があるという話でもあった。
トキアさんが言うには「世間的には、史上二度目の海呑み鯨討伐を成し遂げた若き英雄ですからね。少しでもつながりを作っておきたいんだと思いますよ」とのことだったが、かつてはどうしようもないロクデナシだった身としては、どうにも居たたまれなくなってしまうわけで。
ちなみにだが、トキアさんはそんな俺にずっと付き合い、あれこれとサポートをしてくれていた。なにせ俺は辺鄙な農村育ちであり、人として最低限くらいにしか礼儀なんてのは知らなかったんだから。おかげで相当助かっていた。
トキアさん曰く「あのいけ好かないズビーロに取り入るために覚えさせられたことが、そのズビーロ没落を決定づけたアズールさんの役に立つ。なんとも痛快な話ですよね」とのことだが、それでも心から感謝しているところだ。
もっとも、そのせいで俺とトキアさんが恋仲なんじゃないかとかいう、言っている連中すべてを殴り倒したくなるような噂が広がっていることも、俺の精神にぶっ刺さっていたりするんだが。
これは余談だが、毒キノコ――ファルファロ茸に当たって寝込んでいた腐れ縁共は体調が戻るなり、『虹孵しの儀』に挑戦し、さっさと王都に戻っていった。
まあ、ネメシアやアピスに早く会いたいだろうからということで背中を蹴飛ばしたのは俺なんだが。俺の境遇に対して、長い付き合いの中でも見たことが無いくらいに優しい目を向けられたのは、妙に腹の立つ話でもあったけれど。
ある程度の覚悟……というか諦めはしていたつもりだったが、どうせ新人戦の直後みたいなものだろう。なら、2度目は1度目よりも楽に耐えられるはず。なんて風にタカをくくっていた部分もあった俺は情けなくも、そんな予想と現実の差に打ちのめされていたというわけだ。
特にここ数日は酷いもので、ことあるごとにクーラやトキアさんに泣き言を漏らしていたくらい。
「はぁ……」
さらにため息。ため息の数だけ幸せが逃げていくなんて話もあるらしいが、それでも止まってくれないんだから困る。
「……本当に重症ですね。ですけど、あと少しの辛抱ですから」
トキアさんはそう励ましてくれるんだけど、
「……2か月ってのは、随分と長い『少し』ですよね。それとも、3日後に控えているあれのことでしょうかね?たしかに、あれに比べたらマシでしょうよ。けど生憎と、一度で慣れるほど俺は豪胆じゃないんですよ。なにせ俺はトキアさんと違って辺鄙な農村育ち……って、すいません」
参っているのは事実だが、だからってトキアさんに八つ当たりするんじゃねぇよ俺。トキアさんが付き合ってくれてるおかげでどれだけ助かってると思ってるんだよお前は。
「ふふ。あの家にいた頃に言われてきたことと比べたなら、これくらいはそよ風のようなものです。気にすることはありませんよ」
けれど穏やかに微笑むトキアさんが返すのは、そんな落ち着いた対応で。
「はぁ……」
ますます引き立ってしまう自分自身の見苦しさに。そして自分の口で『3日後』と言ってしまったせいでその日に待ち受けていることを思い出し、ますます気分が重くなる。
俺に会うために世界中から有力者がやって来ている最中というのが現状なんだが、3日後に会うことになっているのは、その中でもトップクラスの大物たち。
ひとりはこのエデルト大陸を統べるルクード陛下で、もうひとりは隣のテミトス大陸を統べる国の王太子(つまりは次期国王)という顔ぶれで。
今回の一件についてこの街で会談を行うということで話が進んでいて、歓迎の舞踏会が開かれるんだとか。
当然のように俺も招かれていたんだが、これまた当然ながら、俺にそんな経験があるはずがなければ、相応しい衣装だって持っているわけがない。
そして恐れ多いことにルクード陛下とは面識があったりもするんだが、お忍びだったあの時と違って今回は国王としての正式な訪問。
どれだけ俺の胃にダメージが入るのやら。
目の前にファルファロ茸があったら迷わず食ってやるのになぁ……。食あたりでダウンしたなら、堂々と胸を張って逃げられるのに……
コンコン!
そんなアホな現実逃避をしていると、部屋のドアをノックする音が。
現在位置はクゥリアーブの一画にある迎賓館で、これから舞踏会用の衣装を合わせる予定になっていた。なお、その費用は全額が王宮持ちなんだとか。……税金の無駄遣いなんじゃないかとも思えてしまうんだが。
そしてそのあとには、ダンスとかいうものを覚えなければならないというのも気が重い。唯一幸いと言えるのは、師匠役をトキアさんが務めてくれるということか。
「どうぞ」
気力の底が見えている俺の代わりにトキアさんが返事をしてくれて、
「邪魔するぞ」
なんで!?
開いたドアの向こうに立っていたのは予想外の人物。
「……不思議なもんだな。あれから8年。随分と様変わりしたってのに、ひと目でお前だってわかったぞ」
「……それはお互い様でしょう。お元気そうでなによりです」
「そう言うお前もな」
「ええ、おかげさまで。お久しぶりですね、ガド」
「ああ。久しぶりだな、トキア」
そう。そこに立っていたのは先輩のひとり、ガドさんだったわけで。
「よう。アズールも元気……いや、お前はあまり元気そうじゃないな。……むしろそこまでしんどそうな姿は始めて見たぞ?」
「……みっともないところをお見せして申し訳ないです」
自覚はあったが、やはり傍目にもそんな有様だったらしい。
「けど、なんでガドさんがここに?」
「俺も『虹孵しの儀』に挑戦しようと思ってたんだよ。それと、そこにいるトキアからウチの支部への依頼もあってな」
「トキアさんが?」
そのあたりは初耳だった。
「ええ。正直、ガドが来るというのは少し意外でしたが。今の第七支部のメンバーはアズールさんから聞きましたが、アピスさん、ネメシアさんという新人か、ソアムさんという方が来ると予想していましたから」
「ああ。ウチの方でもその方がいいだろうって話になってたんだが、当人が俺をご指名でな」
「……なるほど。わたくしたちの事情を知るから、ですか。ちなみにですけど……。道中で手出しはしていませんよね?もしも少しでも妙な事をしていたなら……その時は股間を潰しますよ?」
どうにもよくわからない話をしていたおふたりだが、急にトキアさんが物騒なことを言い出す。
「やるわけないだろ。セラにだって顔向けできなくなっちまうし、お前の前に支部長に殺されるわ!」
「ふふ、それもそうですね。まあ、無事に依頼は果たせたということで?」
「ああ」
「それは何より。さて、『虹孵しの儀』に挑戦するとのことでしたが、あなたさえよければ今から行きませんか?わたくしの飛槌でしたら、今日中には戻って来れますよ」
「そうだな。なら、頼めるか?」
「ええ。お任せあれ」
「って、待ってくださいよ!?」
ガドさんと再会できて嬉しいのはわかる。だが、それはさすがに困るんだが。
「どうしました?」
それなのに、トキアさんは不思議そうに問いかけてくる。
「いや、俺はどうすりゃいいんですか?」
情けないことは承知しているが、トキアさんに見捨てられたら、3日後には確実に醜態を晒してしまう自信がある。
「そこは問題無いでしょう。ですので、わたくしはこれで失礼しますね」
「いやいやいやいや!?」
けれど、俺の狼狽にはお構いなしで、トキアさんがガドさんを引きずるようにして出て行ってしまえば、
……なんでこうなった。
俺は途方に暮れるしかなくなってしまう。
ここ最近、どれだけトキアさんに頼りきりだったのかを思い知らされる。そしてそんなトキアさんに八つ当たりをしてしまうような恩知らずにはお似合いなのかもしれないけれど……
「はぁ……」
今日だけで何度目になるかもわからない辛気臭いため息。けれど――
「ため息の数だけ、幸せは逃げていくらしいよ?」
開かれたままのドアの向こうから聞こえてきたのは、雪解け水のように涼やかに透き通った、耳に心地のいい声。
「君には可能な限り幸せでいてほしい私としてはさ、それは困るんだよね」
それは少し前までは、1日だって欠くことなく直接に聞いていた声。
「やっほうアズ君」
そんなお気楽な声と共に姿を見せたのは、今も王都にいるはずのクーラだった。




