……最後のひと踏ん張り、始めるとしますか
「やった……んでしょうか?」
動きを止め、プカプカと海面に浮かぶクソ鯨。
「……らしいですね」
その巨体はゆっくりと、空気に溶けるように消えつつあった。魔獣に特徴的な最後は、あの化け物も同じだったらしい。
クソ鯨が消えてゆくことで、その腹を満たしていたであろう大量の泥が海に流れ出す。この海域で漁を行う人たちがいるのかまでは知らないが、このままでいいはずもない。だから俺の心色であるこの泥は消すつもりでいる。
けど、その前に……見つけた!
泥の中にある異物。
それこそが、今回の準最優先目標。
「よっ!」
そこに心色を食わせたリボンを伸ばし、
「よし!捕まえた」
沈みゆく途中だった残渣をぐるぐる巻きにする。かなりの大きさ――重さがあるらしく、引き上げるのは無理そうだ。だが、このまま引いていくことはできるだろう。
そして、広がる虹色の泥を消してやれば、海は静けさと奇麗な青色を取り戻していた。
あとはこのままクゥリアーブに戻り、クソ鯨……もとい、海呑み鯨の討伐完了を報告すればいい。言葉だけでは説得力に乏しいだろうが、そこは上手いこと確保できた残渣が補強してくれるはず。
「これにて一件落着、と」
昨日今日でいろいろとあったわけだが、無事に問題は解決というわけだ。
「ええ。お疲れ様でした。そして、お見事でした」
「ありがとうございます。けど、トキアさんがいたからこそなわけですし……。交戦の許可をくれたこと、あらためてありがとうございました」
安全圏から一方的に仕掛けられるという状況。これが無かったなら、勝負にすらなっていなかったはず。
「ふふ、真っ先にそれを言うあたりがアズールさんらしいとわたくしは思うわけですが。そのあたり、クーラさんはどう思われますか?」
『同感ですねぇ。……まあ、アズ君ですから』
決着がついたからなんだろう。トキアさんに問いかけられたクーラはお気楽に即答を返してくる。
『ともあれ、お疲れ様。アズ君』
「ああ」
『私としては、間近で君の雄姿を見たかったんだけどねぇ。……その意味ではトキアさんが羨ましくもあるんだけど』
「ふふ、たしかにそうですね。『虹孵しの儀』に続いて、またしてもアズールさんの偉業を目にすることができたわけですし。これは生涯誇れそうです」
「……勘弁してください」
クーラと機嫌よく笑って生きていくためであれば、英雄になってしまうことも諦めた……つもりではいたんだが。
それでも、尊敬する人にそんな風に言われるのは複雑な気分だ。
『まあアズ君はこういう人なんで、あまりいじめないでいただけたらな、と』
「わかりました。そういうことでしたら、この話題はお終いにしましょう」
「……助かります」
『それでさ、口ぶりからして、残渣も確保できたって認識でいいのかな?』
「ああ」
恐らくは、連盟に引き取ってもらい、どんな魔具になるのかを調べるという流れになることだろう。そうなれば、数年後の俺が海呑み鯨を乱獲した際に魔具(若返りの秘薬)を作ってもらう際にも、話は早く済むはずだ。
「あの、アズールさん。もう敵意は感じませんし、高度を落としますね。それで……海呑み鯨の残渣を近くで見せていただいてもよろしいですか?」
そんなところでトキアさんが向けてくるのは、その残渣に関する話で。
「ええ。俺もこの目で見てみたかったですし」
「はい。それでは」
そうしてゆっくりと海面へと近づき、
「ここまで大きいなんて……」
トキアさんが発するのはそんな、呆気に取られた声。
「……わたくしが目にしてきた中では群を抜いて間違いなく最大ですよ、これ」
「……トキアさんでもそうなんですか?」
そこまでとは思わなかった。
目算ではおよそ1メートルといったところ。双頭恐鬼や粘性体原初、寄生体の残渣はどれも俺の頭と大差無い大きさだったわけで。それらよりもはるかに大きいとは思っていたが。
「……むしろ、これを見て平然としていられるアズールさんが不思議なくらいだとわたくしは思いますが」
普通に考えたらそうなるのか……
まあ、理由は明白なんだが。
クソ鯨とは比較にならないくらいに巨大な残渣――星界の邪竜の残渣を見たことがあったせいだろう。さらに付け加えるなら、それを容易く撃破した張本人――クーラのせいでいろいろと麻痺している部分もあったのかもしれない。
「その、リボンで掴んだ時の感覚で大まかにはわかってたんで……」
当然ながら正直に言えることでもない。だからとっさに言い訳をしたものの、それは我ながら苦しいよなぁと思えるようなもので、
「ですが、その時にも驚いた様子は無かったのでは?」
「それは……」
やはりというべきか、トキアさんを誤魔化すことはできなかったらしい。
『ほら、アズ君も疲れてるみたいですし……』
クーラもフォローを入れてくれるものの、それも理由としては弱いだろう。
「……そうですね」
「……はい?」『……はい?』
さて、これはどうしたものかと頭を悩ませていると、唐突に納得してくれた……んだよな?
むしろ俺やクーラの方が困惑させられてしまうくらいなんだが。
「考えてみれば、アズールさんもクーラさんもロクに眠れてはいないんでしょう?」
「それはまあ」
昨夜の睡眠時間。正確なところは知らないが、長く見ても3時間といったところ。
「それに……」
クスリと笑うその様はどこか悪戯っぽい風で、
「おふたりにとっては隠しておきたい事情がおありのようでしたから。なので追及は止めておこうかと」
鋭すぎるだろこの人。
俺が迂闊だったのは認める。だがそれにしたって、なんであれだけの手がかりからそこまでたどり着けるんだよホントに!?
「まあそんなわけですので、この話は切り上げにしましょう。おふたりの人となりからしても、後ろ暗い話だということは、万にひとつ、億にひとつもあり得ないでしょうし」
そして俺らへの信頼も想像以上に深かった。
「それに何よりも、大恩あるおふたりに対して、無粋な真似はしたくありませんから」
「……ありがとうございます」
「ふふ。この場合、どういたしましてと答えるのは適切なんで――」
『ふああぁぁぁぁぁぁ……』
唐突に聞こえてきたのは、実に見事な大あくび。
『ゴメン。気が抜けたら急に眠くなってきちゃった』
「まあ、寝不足なのは間違いないからな。さっさと寝ちまえよ」
『……そうするよ。おやすみなさい、アズ君、トキアさん』
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
ほどなくして鏡の向こうからは、穏やかな寝息が。
「ふぁ……」
そうなれば、同じく寝不足な俺が釣られてしまうのも当然のことなのか。
「アズールさんも眠そうですね?」
「そうですね。俺も気が抜けたっぽいですわ」
「では、クゥリアーブへ急ぐとしましょう。高度を下げることができましたから、日暮れ前には到着できるでしょう。それまでは耐えてくださいとしか言えませんが」
「耐えてみせますよ。……これで居眠りして海に落ちて溺死とか、笑い話にもなりませんからね」
「頼みますよ?もしもそんなことになったなら、クーラさんには顔向けできなくなってしまいます」
「ごもっともで。なら、そんな事態は未然に防がなきゃならないですね。……最後のひと踏ん張り、始めるとしますか」
そうして飛槌はクゥリアーブへと動き出す。
時折吹き抜ける潮風。
本来であれば心地がいいであろうそれは、睡魔相手に苦戦中の俺には強烈な向かい風でもあった。
これにて5章完結です。ここまでのお付き合いに心からの感謝を。
この後は短めの間章を挟みます。




