あらためて器の違いを思い知らされた気がした
「ふあぁぁぁぁぁ……」
人様が湧かしてくれた風呂で広い浴槽を独り占めにして、そんなだらけ切った声を垂れ流し、
「いい気分だぁ……」
真っ昼間からこの有様。我ながらアレだとは思わないでもないんだが、一応はこれには理由がある。
少し前のこと。
海呑み鯨から逃げ切れたはいいものの、その際に俺はずぶ濡れ。そこに吹いてくる風が容赦なく体温を奪っていって。しかも飛槌の高度を下げるわけには行かないという都合もあり、ゼルフィク島到着までにはかなりの時間を要していた。
そんな事情で俺の身体は見事に冷え切り、全身がガクガク。多分だが、顔は真っ青で唇は紫色になっていたことだろう。そんな俺を見てクーパーさんもパウスさんも血相を変え、大慌てで風呂の準備をしてくれたというわけだ。
ともあれ、全身にじんわりと温かさが染み渡っていく感覚は実に心地のいいものだった。ひょっとしたらクーラの『ささやき』にすら匹敵するんじゃなかろうか、なんて阿呆なことを考えてしまうくらいには。
まあ、身体の震えが収まってくれたのは結構なことではあるんだが。
「お加減はいかがですか?アズールさん」
そうしてようやく落ち着いた頃に響いて来たのは女性の声。
いやまあ、現時点でこの島に居る女性はひとりだけなんだけど。
「……トキアさんも風呂ですか?」
俺の現在位置は、ゼルフィク島支部の隣に建っている宿舎の大浴場。昨夜の俺なんかもそうだったんだが、『虹孵しの儀』の時期には多くの虹追い人が宿舎に泊まり、ここで汗を流すんだとか。
そしてたしか、聞いた話では壁一枚を隔てて男性用と女性用が隣り合っていたはず。大人数用の風呂としては割とよくある構造でもある。
「ええ。わたくしも少々身体が冷えていましたので」
「そういえば、結構冷たい風が吹いてまし……」
いや、それだけじゃないだろ俺。
呑気な相槌を打っている最中に気付いた。
風が冷たかったのは間違いないだろう。けれどそんな中で、ずぶ濡れになった俺はガタガタと震えながらで、必死にトキアさんにしがみ付いていた。いや、むしろ……少しでも身体を温めようと、トキアさんの体温に縋り付いていた。となれば、トキアさんだってそのせいで身体を冷やしていただろうに。
今の今まで考える余裕も無かったことだが、そんな中でもトキアさんは辛そうな素振りを見せることはなかった。むしろそれどころか、情けない泣き言を垂れ流す俺を気遣い、励まし続けてくれていた。
「どうかしましたか?」
黙りこくる俺への言葉もまた、俺を気遣うようなもので。
「あの……すいませ――」
「――ちなみにですけど、謝罪でしたら聞く耳は持ちませんので」
そして謝ろうとしたところを遮り、まるで見透かしたように言ってくる。
「けど……」
「出会ったのは昨日のことですけど、いろいろとありましたからね。アズールさんの人柄も少しは理解できたつもりです。だからアズールさんが考えていることも見当は付いているつもりですよ。……わたくしが身体を冷やしたのは自分のせい、とでも思っているんじゃありませんか?」
見事にお見通しだった。
「それは思い違いも甚だしいですよ?ですから、もしもそのように考えているのなら、すぐにあらためていただきたいですね。だってそれ以前の話として、アズールさんが海呑み鯨の口をこじ開けてくれなかったなら……わたくしは今頃、すでにこの世にはいなかった公算が高いんですから」
「それは……」
「そうなれば当然、ガドやセラとの再会も果たせなくなっていたでしょうね。ですが現実にはこうして生き延び、湯浴みを楽しむことができているんです。その代償だと思えば、風邪のひとつやふたつ引いたとしても格安、破格もいいところですよ。それに……」
言葉を切る。壁を隔てているので当然ながら顔は見えない。だけど、トキアさんがフッと笑ったような気がした。
「これでもわたくしは、そこまで狭量ではないつもりです。それともアズールさんには、そんなことで他者を責めるような浅ましい人間と見られていたんでしょうか?だとしたら悲しいですね」
「いや!そんなことは無いですから!」
尊敬できると思ったことは多々あれども、狭量だとか浅ましいだなんて思ったことは一瞬たりとも無い。ああ、それはもう断じてだ。
「そう言っていただけて安心しました。まあそんなわけですので、つまらない罪悪感なんて抱く必要はありません。……どうしてもわたくしを貶めたいのであれば、その限りではありませんが」
「……わかりました」
どうしようもないくらいの完敗だった。というか、むしろ俺の方がはるかに狭量で浅ましかったに違いない。
俺自身がガキだったっていうのもあるだろうけど……あらためて器の違いを思い知らされた気がした。
「それと……ありがとうございました」
それでもせめて礼くらいは言いたかった。
「ふふ、どういたしまして」
そうすればトキアさんはすんなりと受け入れてくれる。あるいは、このあたりまで想定済みだったのかもしれない。
「ところで話は変わりますけど……右肩の具合は良さそうですか?」
「ええ。まだ痛みは残ってますけど……」
右腕を上げ、手のひらを握っては開く。多少の違和感はあるような気がしないでもないが、おおむね問題無く動かすことができる。
「それはなによりです。わたくしも脱臼の処置は知識がありませんでしたから。本当にパウスさんが居てくれてよかったです」
「ええ。これは、足を向けて眠れませんわ」
海呑み鯨とあれこれあった際に俺の右肩は見事に外れていたわけだが、それを治して――というか、はめ直してくれたのがパウスさん。
その時に聞いた話なんだが、パウスさんは元々は医者の家系で生まれ育ち、自身も幼い頃からそういった知識、技術を学び続けてきたんだとか。
ところが両親に連れられて前回の『虹孵しの儀』を見学に来た際、『虹の卵』の謎に魅せられてしまい、最終的には身内を説き伏せ、押しかけ弟子としてこの島にやって来てしまったとのこと。
なんというか……クーパーさんとはまた別の方向性で、バイタリティに溢れた人だった。
「ところで、先ほどクーパーさんから聞いたんですけど、海呑み鯨を目にしていたのはわたくしたちだけではなかったとのことです」
「そうなんですか?」
それは意外だった。近くに船がいれば目立つような気がするんだが。
まあ、あの時の俺は周囲にまで気を配る余裕なんてなかったというのもあるのか。
「ええ。クゥリアーブからの船が出ていたそうでして」
「……そういえば、そんな話もありましたっけ」
『虹孵しの儀』に挑戦する虹追い人を乗せた船のことなんだろう。そしてトキアさんと出会うことが無かったなら、俺も乗っていた可能性が高い。
「その船は無事だったんですか?」
「ええ。海呑み鯨の巨体はかなり離れた場所からでも目視できたとのことで、慌てて引き返し、事無きを得たとのことです。その後、クゥリアーブの支部長が各支部に通達し、ここの支部にも伝わって来た、という話でした」
「なるほど。そういう経緯でしたか」
だから、他の目撃者がいるとクーパーさんは知っていたわけだ。
そうこうするうちに十分に身体も温まって来たので浴場を後に。
そこには、ずぶ濡れだった服の代わりと思しき素っ気ない軽装が。そしてその隣には、木箱と布袋もおかれていた。
いつまでも素っ裸では、それこそ風邪をひいてしまう。だからまずは服を着て、木箱の中に目を向ける。服を洗う際に分けておいてくれたんだろう。中にあったのは、鏡の魔具やら連盟員証やら財布やらといった俺の所持品。
ひとつひとつチェックをしてみたところ、海水により塩分過多になってしまった携帯食料以外はどれも無事で紛失したものも無かった様子。白リボンが見当たらないのは少し気になったが、多分服と一緒に洗濯中なんだろう。
それはそれと――
昨日露店で購入し、クーラのところに送った物の片割れを手に取る。お守り代わりにと思っていたが、俺がこうして生きのびることができたあたり、早速ご利益があったのかもしれなかった。