……安心していいぞ。無茶言わんでくれとは、一応思ってるから
海呑み鯨。
そいつは、エルリーゼに生きるほぼすべての人にとっては一生無縁の存在だろう。
なにせ生息域はグラバスク島の近海のみ。そしてそのグラバスク島というのは絶海の孤島である上に、周辺の海流が複雑なことになっており、大陸間の航路からも大きく外れているんだから。そんな辺鄙な海域にわざわざ出向かない限りは、まずお目にはかかれないというわけだ。
その一方で――鯨の体色を鮮血のように赤くし、表皮を鋼鉄さながらに硬くして、気性を凶暴にしたらあんな感じになるんじゃなかろうか?なんて風に言われているこの魔獣。知名度だけはかなり高い部類に入るという側面もある。
恐ろしく討伐が困難だから、というのがその理由。
仮にやり合うのであれば、必然的に船での海上戦という形になってしまうわけだが、なにせ場所が悪い。海中に潜られるだけで攻め手のほとんどは無効化されてしまうんだから。
逆に奴の方は、そんな安全圏からの奇襲をかけ放題。しかも、障壁の使い手に守られた船の大部分をひと噛みでえぐり取ったなんて話もある。そんなことをされたなら、乗っていた人は良くて海に放り出され、悪ければ奴の腹の中だ。
そんなわけなので、討伐の成功例は過去にひとつきり。
そのひとつにしても、討伐のために編成された1000人規模の船団が壊滅。奴に呑み込まれた虹追い人たちが腹の中からの攻撃で仕留めたらしいというもの。
なぜ断言できないのかと言えば、その場に居合わせた中で生き残ったのは、情報の持ち帰りが最優先と厳命され、上空からの偵察に専念していた飛翼使いひとりだけだったから。
しかもそれだけの犠牲を払った上での成果というのが、残渣になるところを視認できた――つまりは、魔獣の一種ということが確定したという情報だけ。その残渣は、回収する間もなく海の底に沈んでいったらしい。
そんなわけでそれ以降、討伐を試みようとする者が現れることは無かった。
と、俺が本で読んだことがあるのはこんなところ。
まあ、討伐の難度がすさまじく高いということは間違いないだろう。
だからそんな魔獣の残渣を200も用意しろなんていうのは、馬鹿も休み休みに言えという話になるのが普通なんだが……
「海呑み鯨の残渣からは延命に効果のある魔具が作れるって認識でいいのか?」
なんだかんだでクーラに感化されていたということなんだろうか?驚くよりも先に俺が発していたのは、そんな問いかけ。
「……もっと驚かれると思ってた」
そして、そんな反応はクーラ的には予想外だったらしい。
「……安心していいぞ。無茶言わんでくれとは、一応思ってるから」
「……一応、なんだ」
「一応だな。どちらかといえばお前、俺に対しては過保護気味なところがあるだろ?」
「過保護、かぁ……。否定はできそうもないや……」
「だろう?そしてそんなお前が頼んでくるくらいだ。無茶ではあっても、無謀の押し付けになるとは思えない」
「……理解が深くて嬉しいよ」
推測だが、海呑み鯨には致命的な弱点があるとか、そんなところなんだろう。
「それで、海呑み鯨の残渣からは何が作れるんだ?」
「若返りの秘薬」
再度問いかけてみれば、やってきたのは予想から遠くない答え。
「なるほどな。たしかにそれならば、100年先まで生き延びることもできそうな話か」
現時点では実在しないと言われているようなシロモノだが、それは材料になる残渣を手に入れることができなかったからというわけだ。
「……参考までに聞きたいんだが、なんでお前がそのことを知ってるんだ?」
「月の裏側に造ったあれを動かすのに使えないかと思ってさ、前にグラバスク島の魔獣をひと通り狩ったことがあったの。その時近くに居たからついでに」
ついでで仕留めるような魔獣ではないはずなんだが……。まあ、そこはいつものあれでいいか。
「それで、あれこれ調べてみたらわかったの。多少の個体差はあるみたいだけど、海呑み鯨の残渣から作れる薬は、ひとつでおよそ半年分、人を若返らせる効果があるって」
「……200って数の根拠はそこか」
仮に100年分の寿命を延ばそうとするなら、200体分の残渣が必要になるという計算。
「うん」
「……ずいぶんと難儀な話だな。それでも、引き受けた以上は力を尽くすけど。それで海呑み鯨にはどんなひゃふへんふぁ……」
続けようとした言葉にあくびが混じる。
「……悪い」
「……もう夜も遅いからね」
クーラ……もとい、クラウリアが姿を消したのは晩飯を食った後のこと。いつもであれば、今はとっくにベッドに入っているような時間帯だ。
「だから、今日はこれくらいにしよう?」
「……いいのか?」
「うん。急を要する話は全部終わってるから。実際に君としても、もう焦ってはいないでしょ?」
「……たしかにな」
「それにさ、明日は早いんだし」
「明日……?ああ、そういえばそうだったか」
いろいろと衝撃的なことが多くてすっかり忘れていたが、明日からは隊商の護衛で王都を離れるんだった。予定では、片道3日に向こうでの滞在が5日間の、合計11日。
「……私が原因なのは認めるけどさ、それを忘れてちゃダメでしょ」
「ごもっともで」
それに関しては反論のしようもないんだが……
「間が悪いな……」
「そうなんだよねぇ……」
揃ってため息。
クーラの身に起きたのは、結構な大事。
俺はもちろんだが、クーラだって完全に呑み込み切れたわけではないだろう。であれば、いろいろと整理をつける意味でも、数日程度は傍に居てやりたかったところなんだが……
「さすがに今から依頼をキャンセルするわけにもいかないよなぁ」
「だよねぇ……」
明日からの依頼は3人で引き受けたもの。俺が大怪我を負ったとかならまだしも、こんな理由で先輩たちに俺の穴埋めを頼むなんてのは、さすがに厚かましすぎるだろうという話。まして、事情を正直に話すこともできないんだから。
「まあ、これがあってよかったのかもしれないけどね」
そう言って取り出すのは、手のひらサイズをした鏡。
「クラウリアが持っていったとばかり思ってたが……」
「私をここに『転移』させるのと同時にやったんだと思う」
寄生体の残渣から作られた魔具。どれだけの距離を隔てても――といっても、さすがに月までは無理らしいが――会話ができるというシロモノだ。
「マトモに使ったことはほとんど無かったが……」
「今までは使う必要すら無かったからねぇ……」
本来であれば恐ろしく有用であるにもかかわらず、カムフラージュ用に持ち歩くなどという、かなり不憫な扱いをしてしまっていた魔具。だが、
「明日からしばらくは、毎日のように使うことになりそうだな」
「だろうね。あ、けど……」
「どうした?」
「あのさ、明日からのことなんだけど……私の方から連絡するのは極力避けることにするね」
「……なんでだ?」
「だってさ、君が魔獣とやり合ってる最中に連絡しちゃって、そのせいで君が怪我するのは嫌だから」
「……そういう問題もあったか」
たしかにこの魔具、相手から連絡が来た時には特有の音が鳴るようにできている。切羽詰まったところでそんなことになれば、隙を晒すことにもなりかねないわけだが……
「だからさ、連絡は君の方からお願いできるかな?」
「そうだな。そういうことなら、俺の方も昼間はあまり連絡しない方がよさそうか?」
基本的には、日中のクーラはエルナさんの店で働いているわけで。そこへ私的な連絡を入れるのもマナー的にどうかという話。
「だね。けど、朝と夜はほぼ部屋に居るから。……だからさ、君の都合次第で構わないからさ、余裕がある時は――」
「それくらいの時間は、どうにかして確保してみせるさ。絶対に、とは言えないけど……なるべく毎日、朝晩連絡を入れるようにする」
「うん。お願いだからね?あ、それとさ……ヤバい事態になった時には、いつでもためらわずに連絡してよ?すぐに支部長さんのところに走るから」
「ああ。その時は遠慮なく頼りにさせてもらう。もちろん、そんな事態は起きない方がいいんだが」
「そりゃふぉうら」
「お前も眠そうだな?」
「あはは……。そうみたいだね」
「なら、話もまとまったところで。そろそろ寝るか?」
「……うん」
明日にも備える必要がある。だからいつものように口づけを交わし、ベッドに入って目を閉じたはいいんだが……
なんだかんだで今日はいろいろとありすぎたからなんだろう。
すぐに眠れる気は、まったくしなかった。