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この声で満たされているのは、こんなにも心地がいいってのに

「ふぅ……。ようやく、堕ちてくれたみたいだね」


 そんなどこか疲れたような声が聞こえるのは耳元からだろうか?それとも遠い彼方からなのか。


 ……君は、何も考えられなくなっていく。……もう、何も考えたくない。


 けれどそんな――心の奥底にまで刻み込まれていた声が俺の中に響けば、


 まあ、どうでもいいか。


 思考そのものがほどけていく。


 ……お腹がいっぱいになって、ぽかぽかとした陽だまりの中でお昼寝をしている時みたい。……そんな心地よさに君は、いつまでも浸っていたい。


 ああ、そうだな。


 また、心の奥底から声が響く。


 なんで俺は、あそこまで抗おうとしていたのやら。この声で満たされているのは、こんなにも心地がいいってのに。


「ホントにアズ君ってば、粘りすぎだよ……」


 どこかからそんな声が聞こえる。俺の中から響く声とよく似ているような気がするんだが……


 誰、だったっけか……


 そして、その声の主のことが気にかかる。


 俺が……粘りすぎ?……なんで、俺はそんなことしてたんだっけ……?


 声の主に関わる大事な何かのために必死になっていたような気はするんだが……


 けれどぼんやりとした頭はその理由に思い至ることができなくて。


 ……もう君は、何も考えたくない。……私の言うがままになる。


 ああ、そうだな。


 思い至りたいという意思も、


 ……そう、それでいいんだよ。


 すぐに流されていく。


「どうしてそこまで必死だったの?もしかしたら君も私のことを……。なんてのは、都合が良すぎる考えだよね。やめやめ!そんなの、後が辛くなるだけなんだから」


 俺も……お前を?どういうことなんだ?


 不思議と気にかかったことも、


 ……何も疑問とは思わない。……ただ、穏やかな気持ちに満たされていて。


 刻み込まれた声がすぐに霧散させてしまう。


 けれど、


 痛てぇ……


 チクリと、何かが刺さったような気がした。


「……けど、これで終わりなんだね」


 しみじみと何かをかみしめるように。


 なんでだろう?理由はわからない。それでも聞いているだけで、無性に辛くなってくるのは。


 ……君はもう、何も考えなくていいの。


「この5か月。本当に楽しかったなぁ。パン屋の看板娘っていう、ちっちゃな頃の夢も叶えられたし。それに……」


 なんでだろう?理由はわからない。楽しかったと言っているのに、その声はどこか悲しそうで。


 ……ぼんやりと、私の声に浸っているのが幸せ。


「誰かを好きになって、たとえ友達としてであってもその人と仲良くなれて、ふたりでいろんなことをして。そのすべてが、私の宝物になってた。……話には聞いてたけど、恋をするっていうのはこんなにも素敵なことだったんだね。身をもって理解できたよ。……こんな日々がいつまでも続いたらいいのに、っていうのは未練か。君が君であり続けることを奪わせない。そのためには、こうするしかないんだから。……仕方ないの。……仕方ないんだよね」


 その言葉は、必死で自分に言い聞かせているようで。そして、どこか泣きそうにも思えて。


 俺が……俺であり続ける……?


 なんのことだったっけか?


 ……君は何も考えられなくなる。……私の言うがままになるのは、すごく心地がいい。


 浮かびかけた思考はすぐさまにささやくような声に溶け消えていく。


 たしかにそれにまつわる何かがあったはずなのに、ボヤケた頭はそれがなんだったのかを浮かび上がらせることはなくて――そのことが腹立たしい。


 なんで、腹立たしいなんて思うんだ?


 この声に従っているのは、こんなにも気分がいいってのに……


 突き刺さったままの痛みがじくじくと広がっていくようで。


 ……ほら、私の言うがままでいるのは心地がいいでしょ?


 ああ、そうだな。その通りではある……んだけど……


 広がる痛みが、霧散させられていく思考をつなぎ留める。


 ……君はもう、私に抗えない。……ううん、抗いたくない。……私に従いたくてたまらない。……いいんだよ、そのまま流されて。……だって、私の言うがままになるのはすごく心地がいいんだから。


 それはそうなんだが……。けど、本当にそれでいいのか?


 響く声は正しい。絶対に正しいはずだ。俺は従うべきなんだ。そう認識できているはずなのに、疑問が膨れ上がっていく。


「私は君の前からも君の中からも居なくなるけど……いや、居なくなるから、って言うべきなのかな?」


 お前が……居なくなる?


 それが誰なのかも思い描けない。それでも――


 そんなの……絶対に認めてたまるか!


 半ば反射的にそんな熱が吹き上げる。


 ……ほら、気持ちを落ち着かせて。


 お前は黙ってろ!


 響いてくる心地のいい声に対してそんな、明確な反発――怒りが湧き起こる。


 というかそもそもが……


 機嫌よく笑ってる方がお前には似合ってるんだよ!たまにへしょげるくらいは構わないさ。けど!ひとりで勝手にそこまで思い詰めるんじゃねぇよ!


 ……ああ、そうだった。俺は、機嫌よく笑ってるお前としょうもないことで盛り上がるのが……そんな日常がたまらなく好きだったんだよ!


 そう、再認識する。


 ……君は何も悩まなくていいの。……ほら、私の声で満たされて。……深く深く堕ちていこうね。


 うるせぇって言ってるだろうが!


 ああ、そうだともさ!たしかにこの声を聴いているのは心地がいい。従っているのはもっと心地がいいさ。それは認めてやるよ。けどな!


 そんなのは……クーラが居る日常と比べたら、()()()見劣りするんだよ!


 そこまでを心で叫んでようやく理解できた。


 やれやれ……俺はすっかりまんまとものの見事に、クーラの術中にはまっていたらしい。


 それなりに抵抗できていたつもりではいたんだが、いつの間にこうなったのやら。


 まあいいか。こうして正気付くことができたんだから。


「どうか君は、幸せな未来を迎えてね」


 なおも的外れかつ好き勝手なことを言ってくれやがるが、こうしている今だって、俺はクーラのことは忘れちゃいない。なら、まだ負けてないってことだ!


 ……さあ、私に堕ちてしま――だからうるせぇんだよ何度も言わせるな!


 そうなってしまえば、耳に心地よかったはずの『ささやき』が、ウザくすら思えてくる。


「ここ5か月のことを全部忘れちゃうわけだし、相当に苦労はするだろうけどさ。君の周りに居るのは優しい人たちばかりだし、もちろん私も陰ながら支えるから。だからきっと、そう遠くないうちに君は、君が大好きだった日常に戻れるよ。……叶うなら、私もそこに居たかったな」


 ったく……どこまでも好き勝手言いやがってからにコイツは……


 火に油というのはこういうことを指すんだろう。いい加減、堪忍袋の緒が切れそうになってくる。


 ……思考に靄がかかっていくみた――やかましいわ!


 本気でうぜぇなこの声は……


 まずは目を覚まさにゃならんか。


 目覚ましの定番は水をぶっかけることあたりなんだろうけど、あいにくと俺の心色では無理な話。


 だがまぁ……刺激でさえあれば、代用はできるだろう。


 ……もう、君の思考は――


 せっかくだ。この鬱陶しい『ささやき』を吹き飛ばすくらいの勢いでブチかましてやるか。

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