スターチスには救えない
最近、暗闇を暗いと感じなくなった。どんなに暗いところにいても、どんなに寒くても、何を思うこともなかった。なんなら、いつも暗かったし、寒かった。
前よりコンビニ弁当の日が増えて、自分でコーヒーをいれるのが嫌いになった。午前中やることがない日が続いて、定期を更新するのはやめた。何故か前よりオシャレになって、笑みを浮かべることが増えた。
彼がいなくなって変わったことなど、そんな程度のものだった。
墓前に花を供えてないと気がついたのは、遺品整理を終えて2、3日たった頃だった。慌てていつも買いに行っている花屋に足を運んだ。
チリンチリン、と鈴の音を響かせて店内に入り、菊のコーナーを探した。しゃがんみこんでバケツから白い菊を選び取った。突然、聞き覚えのある声が聞こえた。
「お久しぶりです。」
声の主は、何度か前にこの店に来たとき、言葉を交わした人だった。
「お久しぶりです。」
以前の記憶を手繰り寄せていると、いつもの様に周りの色がモノクロからセピアになる。
「それ、白菊、えっと。」
しどろもどろの内心が手に取るように分かった。大方言いたいことは想像がつく。面倒臭いな、と思いながら返答した。
「いいんです。白菊で。死んじゃいました。なので今日は墓前に飾る花を。」
何も考えずに言葉を重ねた。相手の口がはっと開かれた。言い方失敗したかな、とうっすら思ったころ、男の人が目を見開いた。
「そ、それはご愁――」
その人は言いかけながら目を泳がし、言うのをやめた。何故だろう、と考えていたら、はっと前のことを思い出した。以前、私が「嫌いなので」と言ったことを覚えていてくれたのか。目の端が、ぴくっと震えた。
「ありがとうございます。この間とは立場が逆ですね。今日はどんな花を?」
話を繋げると、男の人はほっとしたように何かを言おうとした。その時、奥からいつもの人が出てきた。
「クズハラさんー。お花できましたよ。」
手にはスターチスのブーケを持っていた。紫が目に痛かった。花言葉は確か、と思った時、男の人が微かに身動ぎした。ああ、この人の花なのか、と思い、何か言った方がいいな、と、当たり障りのないことを言った。その人は会釈をしてレジに向かったので、私も会計を済まそうと歩き出したが、途中で気が変わり、さらに店の奥へと入った。
よさげな花を探していると、すみません、と声をかけられた。
振り返ると、見知らぬ男性が佇んでいた。
「ずっと前から見てました。好きです。」
暫く、間があって。くつくつと笑いが込み上げてきた。抑えられなくて、少し声に出た。青年が怪訝そうな顔をしている。いえ、ごめんなさい、と言って首を振る。どう勘違いしたのか、男性はやけに落胆した表情を浮かべた。そうだこれだ、と思いながら、私は微笑んだ。
「よろしくお願いします。」
事の発端は、後輩編集員の頼み事だった。
普段はめったに上司を頼ることがないから、珍しくて興味があった。
「編集長……、本当に申し訳ないのですが。」
「なんだ桜庭。締切に間に合わないとかの泣き言なら聞く気は無いぞ。」
手元の資料に目を落としながら答えると、怯んだのか、少し躊躇う素振りをみせた。
「実は、昨今ツイッターで話題になっている詩人がいるんです。なんでも心を抉る深い表現を多用するようでして、ファンが急増中なんだとか。」
「心を抉る深い表現ねえ……。そういう輩はたいてい自分に酔ってんだよ。」
「いやでもそれが、どこか淡々とした暗さを感じさせる文体で、嫌味が全くないんです。どこか吸い込まれてしまうようで……」
淡々とした暗さ、か。脳裏をよぎったものを頭を振って追い払い、目の前を見据えた。
「結局のところだ。本当に実力があるのか?その詩人は。」
「自分は、大学の同期から実際に作品を紹介してもらって、いくつか読んでみましたが、確実に才能はあります。昨今の若者の本離れにも効果的かと思います。」
まあ、桜庭がいうなら間違いはないだろう。すると、近くのデスクに座っている酒井が身を乗り出してきた。
「自分も見ました、それ。すごい才能ですよ。いままで出版歴もないであそこまでなんて。」
「へえ、じゃあ声をかければいいじゃないか。そこまで言うなら間違いないんだろう。」
それを聞くなり酒井はこちらまで歩いてくると、悔しそうに言った。
「それが、声はかけたんですけど、もう他のひとと話がついているから、って断られたんですよ。」
まあそうだよな、本当にそこまですごい人ならそりゃあ、と思った時、桜庭が手を挙げた。
「いやだからそれ、俺なんです。」
「いやお前かよ。」
酒井のツッコミに思わず鼻を鳴らすと、桜庭が消え入りそうな声で言った。
「実は……その詩人と打ち合わせの予定を組んだんです。でも、その予定日に大美浪先生の接待ゴルフが入ってしまって。」
「大美浪先生かぁ……」
大美浪先生は言わずと知れた大物だった。我社の担当は桜庭だし、担当がいかないというわけには絶対にいかなかった。
「じゃあ、俺が代わりに打ち合わせ行ってやるよ。お前はゴルフに行け。」
すると後輩は首を掻きながらバツが悪そうに言った。
「いや実はそれ、2ヶ月くらい前の話なんです。」
「はあ!?[#「!?」は縦中横]じゃあ何が言いたいんだよ。」
「それで、どこかで埋め合わせをすることになって、今後の予定の見通しがついたので、再び連絡をしたんです。日程を提示したら、ちょうど都合がいいと言われたので、そこで決定になったんですが……」
「まだ何かあるのか?」
「お恥ずかしい話なんですが、また都合が悪くなってしまったんです。立花先生の授賞式が入ってしまったので。」
「ああー…立花先生の授賞式なー……。」
おっと、どうやらこれは深く首を突っ込まない方が良さそうだぞと思った矢先に、今度は桜庭がずいっと身を乗り出して言った。
「編集長、もし宜しければ、代わりに行っていただけますか、授賞式。」
しまった、と思った。それだけは避けたい。
「分かった。俺が代わりに行こう。打ち合わせ[#「打ち合わせ」に傍点]にな。」
桜庭は固まったが、酒井は笑いだした。
「絶対そう言うと思ってましたよ。まあ、編集長に任せれば悪い方にはいかないと思うし、そうさせてもらえよ、桜庭。」
酒井が賛成派ならこっちのもんだとさらにたたみかける。
「そうだぞ桜庭。なに、軽い好奇心だ。編集長自らスカウトに行くんだ、その詩人にとってはラッキーなことだろう。俺が行ってやるから、安心しろ。」
にっこり笑ってみせると、桜庭はやれやれ、といった感じで肩をすくめ、礼を言った。
では、担当者が変わることはお伝えしましたので、予定通り明日吉祥寺に、という桜庭からのメールを確認し、ため息とともに椅子にもたれた。
最近、少しでも余裕があると、否応なしにあの人のことを思い出す。
どうしてあんなに変わってしまったのだろうか。もともと不思議な静けさをもっていた人だったが、あれはそういうのを超越している感じがした。なにが彼女をそうさせたのかを、何故か、無性に、知りたかった。
テーブルに目を移すと、そこにはスターチスが飾ってあった。妹にと思って買っていったのに、「こんなにあってもしょうがないよ。」と呆れ顔で言われ、渡された数本を持って帰ってくる羽目になったのだ。まあ部屋に花があるのは、全体の雰囲気が明るくなるので良いのだが、いかんせん水換えを忘れがちだった。それに、花を見る度やはりあの日のことを思い出してしまって、落ち着かない。とりあえず、明日は久しぶりにいつもとは違うことができるな、とむりやり気分を上げ、寝床についた。
そういえば、明日会う人はどんな人なのか。見た目はおろか性別すら知らないな、と思ったのを最後に、眠りへと入っていった。
カランコロン、という音とともに店内に入った。約束のカフェは、吉祥寺南口の駅を降りてすぐのところにあった。さすが桜庭、と言うべきか、ネット回線も使えるし立地もよかった。約束の時刻の三十分まえについてしまったので、先に店の中に入った。のちに連れが来店することを店員に告げ、通されたのは日当たりの良いソファー席だった。
ソファー席だなんて珍しいな、と思いながら、手元の資料に目を落とした。今度俺が関わる選考会の資料と、これから会う人に渡すつもりの会社の紹介資料だ。一通り目を通して、背もたれにもたれた。目を揉みながら窓ガラスの外を見る。ぼんやりと、優しい青空に聳え立つビルを眺めていた。
「お待たせしてすみません。」
聞き覚えのある涼しげな声に驚き、振り返った。そこには、かつての彼女が立っていた。
「あ………。いや、こちらが早く着きすぎただけですので。」
慌てて立ち上がり、頭を下げた。顔を上げると、彼女と目が合った。口元に微笑をたたえ、静かな目でこっちを見つめていた。
「…本日はよろしくお願いします。それと、先日は急な予定変更、申し訳ありませんでした。」
「………。いいえ、大丈夫です。」
手で座るように促し、自分も腰をかけた。さっきも座ったはずなのに、ソファーの柔らかさがやけによそよそしかった。無意識にちらちらと視線を送ってしまうのが、自分でも分かった。それに気づいたのだろう、彼女はふっと笑った。
「……お久しぶり、ですね。」
その笑顔にどこか安心して、饒舌になった。
「本当に。もう会えないだろうと思ってました。それにしても、ツイッターで噂になっている詩人が貴女だったとは。」
彼女はふふっと笑って言った。
「噂だなんて、そんな。私はただ、自分のやりたいことをしているだけですので。それで評価が得られるのはありがたいですけれど。」
それから真っ直ぐに目を見つめ、今日はよろしくお願いします、と言われた。それだけなのに何故か目を逸らしたくなって、取り繕うように資料を持ち上げた。
「ええ、では早速まずはそちらのご希望をお聞きしつつ、我社の簡単なご説明、そして今後の具体的な案を――」
打ち合わせは滞ることなく進んだ。時折彼女が見せる意外な仕草にドキッとしている自分が居て、それに気付く度にため息をつきたくなった。まるで思春期の中学生のようだと自分を自分で卑下して自己嫌悪に浸っていると、それに目ざとく気づいた彼女がどうかされましたか、と目をぱちくりさせて尋ねた。いや、最近少し根を詰めすぎていたのか疲れが滲むようになりまして、と誤魔化すと、彼女ははっとするほど翳りのある表情をした。思わずどうしたのですかと聞くと、いえ、なんでも、と顔を伏せた。その様子が以前の花屋での様子と重なり、何も言えなくなった。そこからはなんとなくぎこちなくなり、壁を作られたのだと思った。どこに反応したのか分からなかったが、何かをすれば全てより壁を厚くさせるだけだと思ってしまい、何をすることもできなかった。
そんな自分が、腹立たしかった。
俺はどうも彼女に特別な感情を抱いているらしい。
いい大人が、と思われるかもしれない。俺だって思った。それほどまでにあっという間だったし、なにもなかった[#「なにもなかった」に傍点]。いつから、という問いにどうやったって答えられっこないくらい何も無かったし、理由も見当たらない。それでも頑なにこの感情を認知しないような青臭い真似はしたくなかった。仕方ない、と割り切るべきだろう。彼女は魅力的だし、俺が男だったと言うだけのことなのかもしれない。
ただ、きっと彼女は俺のことをなんとも思ってない。あれ[#「あれ」に傍点]は自分に影響を及ぼすかもしれない人や物を全て深く拒絶するときのものだ。今日再び会って話したが、どうやら自分は拒絶の対象ではないらしい。仕事の付き合いもあるので拒絶されるよりは断然よい、と思おうとしたが、痛みとはとれぬ感覚が常に鎖骨の中心にあって、どうにも煩わしかった。