柴田梨沙は微笑む1
一番廊下側の先頭、教室の入り口から最も近い位置にある、ここが俺の座席だ。
先頭は黒板の文字が見え易くて良い、なんていう意識高すぎな意見もあるが、俺にとってはそんなの何のメリットでもない。黒板の文字などに興味は無いからだ。今日も今日とて、教師の情熱的で、感動的な講義を、鼻くそをほじりながら適当に聞き流す。
そんな授業態度をとる俺には、先頭の座席はデメリットしかない。退屈のあまり寝ようものなら叩き起こされるし、机の下でこっそりスマホをいじろうとしても教師からは丸見えだ。
そして、何より、この席が最悪な外れ席たらしめる最大の理由は。
「…………。」
一番窓側の一番後ろ、すなわち、俺が座っている位置から最も離れた席に座る彼女。
我らが樺山学園のアイドル、柴田梨沙さんから一番離れた席で学園生活を送らねばならぬということだ。なんという屈辱。
俺は顔を黒板に向けたまま黒目を極限まで動かし、全神経を視覚に集中させ柴田さんを視界に入れる。
つやつやと煌めく長い黒髪に、透明感のある美肌。彼女の前では、モデルすらも霞んでしまうであろうほど抜群なスタイル。
水晶のように澄んだ瞳から、真剣に授業に取り組んでいる姿勢がうかがえる。
授業を受ける時なんて、どいつもこいつも可愛げのない仏頂面なのが世の常であるはずなのに、彼女にそんなセオリーは通用しない。
黒板を見つめ、あごに手を当てて考える仕草を見せると、今度はノートにペンを走らせる。そんな彼女の一挙手一投足がまるで一つのアートであるかのように、俺の眼には映った。
美しい。その美しさは、かの絶世の美女、クレオパトラにも引けを取らないだろう。クレオパトラの顔知らんけど。
そんなこんなで、今の俺には、黒板に汚い字で書かれた方程式よりも、柴田さんの気を引く勝利の恋愛方程式を解く方が重要なのだ。そのために俺の高校生活はあるのだと言ったら過言かもしれないが、そのくらい凄いことなのだ。
それにしても、本当に柴田さんは美しい。
樺山学園に入学して一年が経ったが、去年の入学式で心を奪われて以来、俺は彼女に釘付けだ。俺の心のアイドル的存在だ。ちょっと今の表現は気持ち悪いな。
ああ、柴田さん、どうして君は柴田さんなんだ……。
そんな俺の妄想を中断させたのは、脳天を直撃する、数学教師の畑中による一撃だ。
畑中は教科書を丸め、上の空となっていた俺の頭をペチンと叩く。
「課題も提出しない、授業もろくに聞かない。須坂、君は何をしに学校へ来ているのかな?」
何のために来ているのかだって? 愚問だな。そんなの、柴田さんを拝むために決まっているだろ!
険しい顔つきで眉を顰めながら、畑中は俺を咎める。クラスからはクスクスと小さな笑い声が漏れる。
年のころは五十を超えているであろうベテラン教師の畑中からは、優しい口調にもたしかな怒気を孕んでおり、その威厳から、彼を恐れる生徒も少なくない。
畑中が俺を責めたい気持ちは十二分に理解できる。
そう。俺は授業中によそ見を働いたばかりでなく、今日限りの課題を提出していなかった。
一時限目の数学の授業が始まった直後、俺は、何故今日一時間ほど早く起きたのかを思い出した。アラームの時間設定は間違いではなかったのだ。
昨日の夜、課題をやる気が全く起こらなかったため、俺は明日の俺に期待し、目覚ましを普段より一時間早くセットして寝たのだ。そして今日、俺はその期待を見事に裏切って見せた。
やはり明日の俺は期待できない。信じられるのは今日の俺だけだ。反省しよう。
しかし、授業態度が悪かったとは言え、俺を小馬鹿にし、クラスの笑い者に仕立てあげようとするのは腹立たしい。もちろん元凶は俺なのだが、黙って引き下がるほど素直じゃない。
一つ咳払いを入れ、畑中が授業を再開する。
「えー、それで、この数式を展開してあげると、次のようになるわけです。」
若干早口で説明しながら畑中はチョークを走らせる。俺は黒板の数式を必死に追う。
「あっ」
微かに声が漏れる。
羅列された数式の一つに、計算の誤りがあるのを発見した。
教える立場とは言え、教師だって人間だ。当然、ミスはする。ただ、授業中のミスなど些細なことであり、わざわざ指摘するのは面倒なので、生徒は黙認して先生が自ら気付くのを待つのが定石だ。
だが、俺は先ほど叱責された恨みを、ここで晴らしてやろうと思った。
恥をかかしてやろう。
己の器の小ささに悲しくなりながらも、俺は、彼に一泡吹かせてやりたい衝動を抑えることが出来なかった。
そして。
「母さん!」
俺の全身全霊を込めた魂の叫びが教室に響き、木霊する。
クラスに一瞬の静寂が訪れた。
……間違えた。
一泡吹かせてやろうという思いが先走り、先生を呼ぶつもりが間違えて「母さん」と声を上げる、ママが恋しい小学生のような失敗をしてしまった。俺はマザコンではない!
静寂の後、クラス中からドッと笑いが沸き起こる。
「須坂ぁ。私は君のお母さんじゃないぞ」
「……そうでございます」
畑中が憐憫の情を込めて優しく俺を諭した。その一言でクラスはさらに爆笑。やったー! 満点大笑いだ! はい、違いますね。これは満点大笑われですね
考えうる中で最も屈辱的な結果となってしまった。
己の間抜けさに絶望し、俺はしゅんと席に着き俯く。
周囲の笑い声に耐え切れず、俺は穴があったら入りたい、否。穴がなくても掘って、そこにダイビングで飛び込み冬眠したい衝動に駆られた。季節は春を迎えたというのに、俺の心は晩秋を感じさせる虚しさと悲しさで満たされる。
残りの授業時間、俺はずっと机に突っ伏し、寝たふりをして、耳を塞ぎ、羞恥の海に溺れた。