95 死闘 ②
例のごとく遅くなりました。申し訳ありません。
今回の話で琉伊視点は終わりとなると思います。次回からは天理くん視点となる予定です。
「言っただろう? ワタシの『執り行うもの』は歪みを消し去る、と」
言葉を理解することを脳が拒む。現実を直視することを精神が忌避する。
だけど右腕から全身へと広がっていく確かな痛みが現実を突きつける。
「それはお前も例外ではないぞ」
『執行者』は言う。お前は死ぬべき存在だと。ワタシはお前を殺す存在だと。
恐怖が押し寄せる。先ほどから止むことなく警鐘を鳴らす勘だったが、それは正しかった。
高をくくっていた。どうせ死ぬことはないと。この身体は不死の身体、化け物である事を受け入れさえすれば力を得る事が出来る。友達を探し出す事が出来るだけの力が。この死が隣り合わせの世界でも生き抜けるだけの力が。
だけどそれすらも無駄だった。人間だったはずの心を奥底にしまい込み、痛みを身体に慣らさせた。先ほどの一撃を回避した時もそうだ。身体への損傷を度外視した戦術とも言えない稚拙な力技。だけどそれで助かってきた部分もある事は確かだ。
――――でも、それはこの相手には通用しない。
「……今更臆したか。最初からそうしていればよかったものを」
言われて気付く。身体が震えていた。唐突な死の自覚に本能が怯えているのを感じる。
さぞや酷い顔をしているだろう。もしかしたら涙でも流しているかもしれない。鼻水さえ垂らしているかもしれない。ただ恐怖がそこにあった。人が、いや生きているものならば誰でもが持ち得る死への恐怖。なまじ今まで忘れていただけにその分揺り返しとなって襲い掛かる。
もがけどももがけども巌のように頑としていて拘束からは抜け出せない。そして首元には吸血鬼の不死性を存在ごと消し去る権能。『彼女』の技量があれば瞬きの間にこの命を散らす事が出来るだろう。
俺を見下ろす『執行者』の眉がぴくりと上がる。俺の抵抗の力が弱くなったのを感じ取ったのだろう。ぐっと手元に力が入るのを肌で感じる。皮膚へとその長大な刃が食い込むのがわかった。
「――――ごめんな、ルネ。ごめんな、イレイヤ」
死を目前にして、出てきたのはそんな後悔にも似た念。守れなかった、助ける事が出来なかった。
何でも出来る気になっていた。日本に居た頃とは違う。今は魔力、魔法だなんてものがある。それがあれば、目の前の一人の女の子を救う事くらい訳ない事だと勘違いしていた。
ヒーローになりたかったわけじゃない。正義の味方を気取りたかったわけじゃない。ただ目の前の女の子を助ける。そんな男としての当然のことを、でも俺は成し遂げることが出来なかった。
そんな自分が涙が出そうなくらい情けなくて。何も出来ない自分が不甲斐なさ過ぎて。
「……済まないな。『観測者』が行方を眩ませている現状、ワタシには『歪み』を選別する力も余裕もない。だからワタシはお前を殺す」
その時ばかりは『執行者』も顔に憂いを浮かべた。一瞬ではあったけれど、それでも『彼女』にもそうした感情があったことを安心とともに受け入れる。無感動に殺されるわけではない。それならば、それでいい。
『彼女』の言の通りだとすれば、正しいのは『彼女』で、あってはならない存在なのが俺だ。この世界の異物。異世界の住人。『彼女』はこの世界の秩序か何かを守るためにその役割を全うしているに過ぎないのかもしれない。
「……殺せ」
「せめて安らかに」
短い問答。それが両者で交わされる。
せめて、目は瞑るまい。身体だけとは言え、ルネに命を奪わせるのだ。彼女の意識が今どうなっているかは分からないが、それでもいい気持ちはしないだろう。
最後まで分からなかった。ルネはイレイヤには懐いていたが、俺のことをどう思っていたのか。ただ、どうせなら――――。
「……これ、は」
「――――?」
待てども待てども、刃が振るわれる気配はなく。訝しみながら視線を動かす。
目の前には焦った表情の『執行者』。何か心変わりがあったのかと問おうとして、気付く。
『彼女』は終始鎌を振るうつもりだった。柄を持つ手が、力が入りすぎて白くなっていることからそれが分かる。直前までの言動からもそうだ。
――――だけど、その意思に反して身体はその先へと進もうとするのを拒んでいる。まるで、『執行者』とは別の意思が抗っているかのように。
「バカな……っ! 現界した後に制御権をひっくり返すだと?! そんなことできるはずが?!」
どれほどの衝撃だったのか、『執行者』の体勢が僅かに揺らぐ。
俺の意識の深層はその隙を見逃さない。どれだけ死を受け入れようと、それを許さない本能がいる。
「――――『闇のゆりかご』!」
「……何っ?!」
向けられた手に気付き抵抗しようとした『執行者』より半瞬速く俺の魔法が発動する。ミノットの『絶海』をベースに俺が使えるようにアレンジしたオリジナル魔法だ。
原型の『絶海』は広がる無理解の闇の中、自らの身が端から朽ちていく幻覚を延々と見せられるという精神的にキツすぎる魔法だったが、それを使うには技量的にも俺自身の精神的にも難しかったちめ、無理解の闇に閉じ込めるという部分だけを抜き出して作り出した魔法だ。
作り出したと言っても『大地の洞』から出た後だからミノットに確かめることが出来なかっただけで、もしかしたらそれに相当する魔法がちゃんと存在しているのかもしれないが。
煌々と揺らめく光を灯していた『執行者』の瞳が黒く塗り潰される。無理解が『執行者』を包み込む。
――――これで俺を見失う。こここそが勝機。ルネの身に起こった状況は未だに把握出来ていない。どうすれば元に戻るのか。そもそも元に戻るのか。それを考えている余裕はない。今はただ、『執行者』を制圧する。
ルネには悪いが動きを封じてしまえばめったな事は出来まい。影魔法には魔法封じの魔法もある。それが『この人』に通じるかは別として――――。
「……構成も、放出の速度も見事。だが影魔法である内はワタシには勝てんぞ」
「んなっ――――!? あの一瞬で抵抗したってのか!? んな無茶苦茶な!!」
無理解からの脱出、言葉に出来るほど簡単な事ではないのは俺自身が良く知っている。だからこそ、五感全てを封じられた状態から、俺の魔法へと抵抗してきたという事実が俄かには信じられない。
あらかじめ来るのが分かってさえいれば、それは俺でさえ幾分か抵抗出来るだろう。もちろんここでいう抵抗というのは物理的に身体を動かした上での抵抗ではなく、魔法での抵抗、すなわち発現した魔法を逆に――――放出、構成、固定の順にさかのぼっていく事だ。
ミノットに影魔法を教えただけあって、ある程度の強さの魔法までは僅かな時間で対策が取れるとでも言うのかもしれない。
そうだとすればとんだ化け物だ。なんとか『執行者』の拘束からは抜け出る事は出来たものの、状況は変わらないどころか、それが事実ならより悪くなったとも言える。
「――――?」
だが、直前の言葉とは裏腹に、後退を繰り返す俺を『執行者』が追ってくる事はなかった。
何かに抗うように、全身を力ませ、その場から動かない。
「ここで奴を逃がす事がどれだけ負担になるか何故分からん! どうせいつかは淘汰される。それが早いか遅いか、それだけだろう!?」
「何を……?」
様子がおかしい。先ほどからの行動といい、言動といい、まるで自分自身と対話しているような、そんな感覚。
「――――まさかっ!?」
そんな風に俺がある事に思い至った瞬間、『執行者』もまた同時に動き出す。再び特徴的な、魔力を用いた歩法。瞬間的な移動を可能にするそれが、しかし今は先ほどまでのようなキレはない。
その速度は今の俺でもなんとか目で見切れる程。真正面まで移動してきて、そのまま『彼女』は愚直なまでに一直線に鎌を横薙ぐ。
それを俺は黒剣で受け止めた。
予想的中。やはりあの権能は歪みとやらにしか反応しない!
一か八かの賭けだった。『執行者』の言葉を思い返してみて、閃いたのがそれだった。『歪み』を消し去る能力がある。ならば、その対象が『歪み』ではないのならば?
リスクを背負わなければどうしようもない相手。その相手が、何らかの理由で動きが鈍っていた。だが、そうだとしてももし賭けに敗れていれば浅くない傷を負っていただろう。だが勝てた。天運というものがあるのならば、それが俺に味方をした。
しかし俺程度の技量によって生成された魔法の剣は、格として劣るのか、鍔迫り合いのような形になったものの、そう持ちそうはない。
向かい合い、力を拮抗させる。本来ならば正面からのぶつかり合いでは、何もない場合ならばそのまま当人の筋力が物を言うが、俺たちはお互いに魔法使いタイプ。その場合両者ではどちらかがより魔法使いとして優れているか、ほとんどの場合そこが分け目となる。だが、均衡を保っている。それはおかしい。おかしいからこそ――――。
「――――ルネ……、なのか……?」
根拠のない確信のようなものを抱きながら問う。
ふっと大鎌を持つ手の力が抜けた。慌てて俺も力を抜く。ほとんど触れあっているだけの状態だ。
「……逃げて、ルイ」
「……ッ!? ルネか!? そうなんだな!? 待ってろ、俺が、なんとかして……ッ!!」
「――――ダメっ!!」
――――なんとかして、助ける。
お互いが、お互いを見つめ合う。鍔迫り合いの形を保ったまま、俺は自分の想いの丈を吐き出した。いや吐き出そうとして、言葉を飲み込む。飲み込まされる。
――――どうして。代わりに浮かんできたのはそんな単純な疑問。どうしてそんな事を言うのか。ルネだって苦しいはずだ。自分の身体を他の誰かに操られるなんて。
ルネの表情を見れば分かる。こうして向かい合っている内でも、苦し気に顔を歪めている。中にいる『執行者』に抗っているのだ。完全に『彼女』から解放されているというわけではない。
ただ一時、『執行者』でも予測のしていなかった事態が起きただけ。だけどこうしてルネが出て来れた以上『執行者』の憑依は完全じゃない。どうにかしてルネと『執行者』を切り離す事も出来るはず。
俺に無理なら他を頼ればいい。そう、例えばミノットやローズ。彼女たちならばなんらかの知恵を貸してくれるはずだ。彼女たちに会いたいならばもう一度『大地の洞』に行けばいい。また何かぐちぐちと言われるかもしれないが、あれで良心的な人たちだ。力になってくれるはず。だから、ルネはこう言うだけでいい。一言ただ、『助けて』と言うだけで――――。
「逃げて、ルイ」
「――――――――」
再び、ルネは言葉を繰り返した。無理をするように表情を歪ませながら、触れ合うだけとなっていた大鎌をゆっくりと下ろして、これが自分の意思だと表明するかのように。『助けて』ではなく、『逃げて』と。それは俺が頼りないから、片腕も失い、今だってこうしてルネに助けられている。だから、そんな奴には何も頼れないから。
そうじゃない。ルネは、そういう人ではない。ただ心から俺の心配をしているのだ。自分の事は考えなくてもいい。だから俺は助かってくれ、とそう言っているのだ。
「ルネはもう『執行者』の役目からは逃げられない。これは運命。覆す事が出来ない宿命」
「だから……! だから見捨てろって言うのか!? そんな事ッ……!?」
「――――ルイ」
だめだ。そんな俺だけ逃げるなんて。俺は助けるって決めたんだ。転移の時、俺は何も出来なかった。何かを感じ取れていたのに、それは俺だけにしか出来ない事だったのに、だけど止める事が出来なかった。
だからこそ、こうしてこの世界に来て、天理くんを紫葵ちゃんを、真彩を紗菜を助けるためにミノットに教えを乞うた。その全ては自分のためじゃない。誰かのためだった。こういう時に誰かを助けるために俺は力を付けたのに。
――――やはり、俺は誰も救えない。
「ルイ、分かって?」
「でも、俺は、君を……! 君に、何も……っ!」
「大丈夫。本当はあそこで死ぬはずだったルネを助けてくれたのはイレイヤとルイ。それで十分。十分なの」
そう言ってルネは小さく微笑んだ。今にも消えてしまいそうなくらい、儚い笑顔。それがルネの行く末を表しているようで、俺の胸がきりきりと悲鳴を上げる。
「イレイヤなら大丈夫。もう魔眼の効力は消えているはず。あの人を探してあげて。ルネが言うのもなんだけど、あの人は今も泣いているはずだから……ぅあッ!?」
「ルネっ……!?」
「……もう、お別れみたい。中で『執行者』が暴れてる。『あの人』が出てきたらもうルネは何も出来なくなる。こうして邪魔出来るのもこれが最後。だから、ね。逃げてルイ。人のいる街までいけば『あの人』も手は出せないから。この世界の命に、『執行者』は危害を加える事は出来ないから。だから」
――――さよなら。
ルネはそう言って再び微笑んだ。それを見て、俺はぐっと歯を食いしばる。そして目をぎゅっと瞑った。
覚悟だ。ルネは既に自分の運命とやらを覚悟して、受け入れている。そこに俺が口を挟む事は出来ない。
これ以上は俺のわがままになる。折角のルネの覚悟を台無しにしてしまうかもしれない。何よりそれが……怖かった。
時間にして十秒にも満たないだろう。そうして目を開き、俺はルネに背を向ける。街まで行けと、彼女はそう言った。ここから近いのは聖ルプストリコだ。そこへの地図は頭に入っている。その前に村に寄る必要があるだろう。ルネに言われたのだ、イレイヤをなんとかして探し出さなければならない。
「……ありがとう、ルイ」
「――――――――」
何も言う事が出来なかった。何かを言う資格を俺は持っていない。助けるつもりでいたのに、結局のところ助けられている。馬鹿みたいだ。
いつの間にか、視界は滲んでいた。自分への無力さか、それともルネとの別れがどうしようもないものであるからか。いずれにせよ、人間の心が残っていた事に場違いながら安堵の気持ちが生まれる。そんな自分にもまた嫌気が差した。
そのまま俺は振り返る事なくその場を後にする。
最後、風に乗って再びさよなら、とルネの声が聞こえたような、そんな気がした。
最後まで読んでくださりありがとうございます。