09 黒く染まる殺意
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ぜひ楽しんでいってください。
目覚めは強烈な衝動と共に唐突に訪れた。
「ぅ……あっ……!」
内から湧き上がるものを堪え切れず、思わず呻き声が漏れる。
それはまるで自分の声とは思えないほど低く、嗄れきっていた。
上体よろよろと起こし、荒い呼吸を整えるべく深呼吸をしようとするも、そんな簡単な事すら満足に出来ずに思い切り咳き込む。
何があった。原因を探ろうとするその思考すら霞がかって制御出来ない。
昨夜……なのかは分からないが、眠る前には色々考え事をしていた。それは覚えている。そうしてとりあえずは休息を取ろうと手近な観客席に身を横たえ、固い地面に辟易としながらも意識の喪失を自覚しながら眠りについた。
それが気が付けばこの状態だった。
——意味が分からない。考えたくない。ただ、この衝動に身を任せてしまいたい。
身の内から沸き起こる甘美な誘惑が、身体を徐々に蝕んでいくのをはっきりと自覚出来た。
「行か……ないと」
既に自分が声を出しているのか、それとも単に呼吸のために口を開いているのか、そんな判別すら儘ならないままよろめく足にむち打ち、歩いていく。
目指す先は分かる。
目ではない。耳でもない。肌でも味でもない。ただその匂いが鮮烈なほどにこの身を誘引する。
匂いは二つだ。
どちらも極上の料理のように上品に、美麗に、そしてその内に言い知れない魅力を孕んでいる。
だが、だがその内の片方は——もう片方の比じゃない。
蜜のようなとろりとした甘さが擽るように本能を刺激する。
糖のようなふかみのある甘さが麻薬のように本能を焚き付ける。
その衝迫は抗え得るものでは到底ない。
理性の壁が本能によって着実に掘削されていくのがまざまざと感じられた。
「喉が……渇いて……」
片方の匂いに近づいて行っているのがはっきりとわかる。
もうすぐだ。もうすぐでこの渇きを抑える事が出来る。
辛い。とにかく辛くて気が狂いそうだ。
ここまで強く一つを求めた事があっただろうか。自分の中の狂気と向き合う事がこれほど辛いものだとは考えもしなかった。
足を引きずり、渇きを潤す事のない唾液を口の端から零しながら、俺は長い長い通路を歩いていく。
もうどれほど歩いたのか分からない。そろそろ限界だ。頭がおかしくなりそうだった。
やがて通路が終わる。
いつしか荘厳なものに変わっていた通路の装飾だったが、そんな中で突如として現れた見る者を圧倒させるまでの情緒に富んだこの一室は何だ。
煮えたぎるようだった本能の中に、小さく冷たい理性が根付いたのを自覚する。
——だが、それだけだ。
「——苦しいのね」
鈴の音のような声が、脳を穿つ。
しかしそれは水面に石を投げつけるが如く、俺の意識を揺さぶるだけだ。
彼女が匂いの元だった。彼女こそ俺が狂おしく求めていたものだった。
「渇いて乾いて涸いて——おかしくなりそうなんだ」
「知っているわ。とても辛いのよね」
「だから飲ませろ」
本能に従い、俺はその白い少女を赤く染めるべく跳びかかる。
数メートルを一瞬で無にする跳躍は容易く俺と少女を引き合わせた。
勢いそのままに少女の上に伸し掛かり、体重をかけてその華奢な肢体を拘束する。
「物欲しそうな顔。そんなに血が飲みたいの? もう限界で限界で限界で、たまらないって顔してる」
言葉はただの雑音として脳が処理をする。
吐く息がそのまま肌を撫でる距離で、俺は濁った欲望を満たせる瞬間を心待ちにしながらごくりと喉を鳴らす。
床に散らばる長い白髪、細い首筋、白く瑞々しい肌が赤く染まった視界を占めた。柔らかく、それでいて弾力も持つそれを愛おしむかのように撫でようとして——、
「——でもダメ。あたしはミノのモノだから」
いつの間にか拘束していたはずの腕が外され、逆に抑え込まれていた。
女の細腕だ。その力には限りがある。
こんなもの、すぐに解いて——。
「なん、で……」
「ダメよ。あたしなら怒らないから、早くここから逃げて。血なら魔物のを飲めばいいでしょう?」
「ふざけるなっ……! 飲ませろ、飲ませろォッ——!!」
「聞き分けない子ね。早く逃げなさいって——もう、遅いみたい」
「——ぇあ?」
気付けば、両腕が無くなっていた。
当たり前のようにあったものが、突如として無くなる多大な喪失感に思考が霞がかる。
遅れて、焼けるような激痛が体中を走り抜けた。
「が、あ、ああああああぁぁぁああぁあぁああッ!?」
白熱した視界の中で、微かに何かが動くのを感じ取って、俺は半ば反射的にその場から離れた。
皮膚一枚のところを荒々しい気配が通り過ぎていく事に恐怖と安堵を感じながら、数回後ろに跳躍する。
最後の跳躍で痛みから受け身も取れないまま、床に無様に転がった。
腕がないと、痛む箇所すら押さえられない。そんな当たり前のような事実に悶絶する。
こぽこぽと音を立てては零れていく命の欠片をなんとか押し留めようとするも、これではどうすることも出来ない。
出来る事と言えば、無様に、惨めに、汚らしく喘ぎ、悲鳴を上げる事だけだった。
「——お前、殺すのよ。よくもローズを」
「あたしは何もされてないけどねー」
痛みに呑まれ、のたうち回る俺の耳が怨嗟の声を捉えた。
重傷を負った事が混濁した意識を呼び覚ます事に一役買ったのか、魂を焦がすような強烈な衝動は未だ胸の内で燻り続けてはいるものの、その裏では嫌に冷静な思考が働いていた。
——ミノットだ、ミノットが来たのだ。
あれほど慎重に動こうと心に決めたにも関わらずこの体たらく。笑いたくなってくる。
これが、吸血衝動か。こんなにも、こんなにも狂わせるものなのか。
意識がなかったわけじゃない。ただ一つの強迫じみた感情によって支配されていただけだ。
その様はまるで餌をお預けにされた動物だ。
そんなの人間のやる事じゃない。
いや、今はそれよりも、この状況をどうすれば……。
明らかに俺はミノットに喧嘩を売った。腕の痛みなんか気にしている場合なんかじゃない。
そう、腕なんかもう痛く——。
「——な、い? 腕が……」
綺麗な断面を見せていたはずの両の腕がいつの間にか生えそろっていた。
その周りには泥が纏わりつくように、黒い霧がうごめいている。
「はは、夢でも見てんのかよ、俺は」
いや、あの激痛は、生身に焼きごてでも当てられたかのような神経を焼く痛みは本物だったはずだ。
「厄介な。これだから同族を相手にしたくないのよ。——でも」
——再生出来なくなるくらい粉々にしてやるのよ。
その呟きが耳に届くか届かないかの内に、俺は再び床を蹴った。
直後、俺がいた場所に深い爪痕が走る。
「相変わらず何をしてんのか分かんねぇッ……分かんねぇけど!」
右、左、水平と次々に飛んでくる不可視の死の刃を鋭く尖らせた感覚でもって回避していく。
身を捻り、無軌道に走り、時には多少の負傷を覚悟して動きを最小限に抑え、状況を打開しようと動く。
全て避け切った。
そう判断して、ミノットの方に視線を向けようとして、硬直した。
——ミノットが消えていた。
「どこにっ!?」
慌てて辺りを見渡すも、見つかるのは隅に一人座る白い少女だけ。
殺意の塊のような黒は欠片も見当たらない。
「死ね」
ぞくりと背筋が泡立ったその瞬間、背後——俺自身の影に潜むようにして、ミノットの無機質な声が響いた。
首筋に迫る殺意になんとか身を捻って対処する。
「——ぶねぇ!?」
完全な不意打ちを避けれるはずもなく、首元に浅からぬ傷を負った。
傷口が脈打ち、まるで全身が心臓になったかのように錯覚する。
ミノットに距離は関係ない。
魔法、そう影魔法と言ったか。ミノットは恐らく俺の背後に伸びる影から出てきた。字面からしてその魔法を使ったのだろう。
それが影を渡るものだとしたらどれだけ逃げようと関係ないということだ。
今この瞬間でさえも、ミノットは俺の背後を取り、この首を跳ねようとする事が出来る。
「おかしいのよ。どうして弱いはずのお前がこんなに逃げ切れるの」
死にたくないからに決まっている。
誰でも死に際に立つと意味のないあがきをしてみたくなるものだ。
会話に割く意識すら惜しんで、思考をフル回転させる。
自力じゃ一厘の可能性すらなく彼女には敵わない。
俺が生きているのはひとえにこの超人的な再生能力ゆえだ。先ほど負った傷ももう塞がりかけている。
だが、ミノットの言う通り、これに限界があるのは確かだ。
明らかに自分の身体の状態が普通じゃなくなっている。このままじゃなぶり殺しにされることは間違いない。
だが、どうする?
どうやってこの状況打破する?
終わりのない思考の迷路に、自らを投げ出し方法を考える。
——しかし、無情にも状況がそれを許さない。
「まあ、いいわ。どうせお前は死ぬのよ。無駄な足掻きはやめなさい」
そう言い、ミノットは右手を静かに前に翳した。
「——七天を繋ぐ黒の柱、我が意に従いここに顕現せよ。其は常世総てを覆う果て無き闇」
逃げないと。
本能がそう警鐘を鳴らしているにも関わらず、俺はその場を一歩も動く事は出来なかった。
詠唱する言葉一つ一つから、身を圧するようなとてつもないほどの力を感じた。
その口から紡がれる声が、音が、周囲に闇より暗い漆黒を作り出していく。
渦巻きながらミノットの手へと集まっていくそれはまさしく言葉通り、この世にある全ての闇を凝縮したかのように禍々しく、それでいて言いようもない美しさがあった。
「森羅覆滅す原初の枝。——走れ」
ミノットの手に現れたのはその柄も、鍔も、剣身も全てが純黒に覆われた一振りの剣だった。
それが言葉とともに一閃、横に切り払われた。
瞬間、闇が走った。
あらゆる光を飲み込む漆黒の奔流。
俺は避ける事も、腕を前に持ってくる事も出来ずに、ただ断罪を待つ罪人のように棒立ちのままその渦に飲み込まれた。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
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