53 水茎 紗菜 ②
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紗菜のこれまでの人生は全て水茎家か、もしくは蓮花寺家によって引かれたレールの上にあるものだった。その日常に選択という概念はなく、付き合う友人は固定され、学校も、部活動も、帰宅時間から就寝時間、起床時間までもが管理され、生きている実感を特に味わう事なく16年という歳月を過ごしてきた。
このような生活を紗菜は苦と思ったことはなかった。確かに何から何まで全てが管理され、指定される生活は息苦しさを感じる事がなかったとは言えないが、それでも日々の何かしらに思い悩む事なく暮らしていける快適さには勝っていた。
―――――たとえそれが家畜と何ら変わりのないモノであったとしても。
だが、そんな紗菜にも許容出来ない事はあった。
蓮花寺からは天理、篠枝からは真彩、そして今となっては不服だが葉桐から琉伊と、水茎から馴れ合う事を許された人たち。水茎のように特に何かに縛られていない彼らを見ているとたまに狂おしいほどの嫉妬に駆られる時もあったが、紗菜は誰かの指示などは関係なしに彼らの事を好ましく思っていた。
特に天理だ。紗菜は一人っ子だったためその姿に尊敬めいた憧れを抱き、よく後ろに付いていっていた事を紗菜は今でも覚えていた。
水茎も本家である蓮花寺の嫡男と親しく出来ている紗菜に特にこれといって何かを言う事はなく、むしろもっとやれとばかりにしきりに天理との関係や、今日は何があったかなどをを聞いてきたものだ。
丁度琉伊の姿をあまり見なくなった頃だった。
そうしたぬるま湯のような、居心地のいい日常に一つの波紋が生じた。
幼い頃から話には聞いていた。昔はこういう事もあったと自慢話なのか、後悔話なのかよく分からないものを気まぐれに聞かされ育ってきた紗菜にとってそれはおとぎ話と同類のものであり、現実には程遠い絵空事だった。
しかし、突然にその絵空事が唐突に紗菜を飲み込んだ。
許嫁の話が舞い込んだのは紗菜が10を迎えた時だった。当人の都合など全く考慮にいれず、どれだけ家が繁栄するか、どこそこに恩が売れるかだけを追求した身勝手な契約。
この時、紗菜は衝動的に人生で始めての選択をした。己に下された命令のような指示に対して反抗するという選択を。
それは幼いながらも確かな恋心を天理に抱いていたからかもしれない。いや、もしかしたら自分は意思のない、家のために子を産み育てる家畜ではないという事は示したかったからかもしれない。
そんな幼い紗菜の必至な自己アピールは、どうしようもないほど無慈悲に、無感情に、無造作に、切り捨てられた。
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孤児院は紗菜が過ごした数か月で十分に分かってしまうほど、財政が破綻していた。それこそ、もう数日すれば暮らす事が出来なくなってしまうのではないかという程に。
そんな状況に気が付かないはずもなく、院長はその身を粉にして様々な仕事に赴き、また孤児たちも日雇いのものや、魔物狩りギルドにて出されている雑務の依頼などをこなす事によってその賃金を日々の生活の足しにしていた。
だが、それにも限界は訪れる。そしてそれは形となって孤児院に襲い掛かった。
「―――――再三に渡る警告にも応じない。教会から持ってこいと言ったはずの額も用意出来ない。それで生きていけるほど世の中ってのは甘くないんですよ。院長先生なら分かってるでしょう?」
「もう少し、もう少し待っていただければ……!今ここが無くなったらここの子たちはこれからどうやって生きていけばいいんですか!?」
「それを考えるのはあたしたちの仕事じゃあないんでね。まあ、盗賊とかなんじゃないですかね?」
「そんな無責任なッ……!」
普段の温厚とした雰囲気から一変して張り詰めた顔で激昂する院長。その剣幕のほどは今にも目の前の男性三人組に掴みかかりそうなほどだ。
院長に後ろに引っ込んでいろと言われたが、さすがに見かねて紗菜が間に割り込み仲裁する。
「落ち着いてください、院長先生。事の正当性が向こうにあるのは院長先生だって分かってますよね?……たとえそれで子供たちが危ない目に合う事になったとしても」
「サナ……。貴女まで……」
「紗菜だって言いたくないですけど、それでもそれが分かっていて孤児たちを拾ってきたのは院長先生ですよ」
現実の見えていない院長を紗菜は言葉で詰っていく。
院長も流石に思うところがあったのか、バツの悪そうな顔をして言われるがままだ。
何も紗菜は院長の事が嫌いなわけではない。どちらかと言えば好ましく思っているくらいだ。
甘いと言われようが、無駄だと言われようが自分の心の中で叫ぶ信念に従い動くその姿は、紗菜とは対極に位置するものだ。そしてまた、紗菜がそうありたいと心の奥底で願う姿でもあった。
「院長先生、教会からの支援の見込みは?」
「……自己責任、と」
「ほんとにクソですね、教会も。孤児をもう少し資金を増やしてくれてもいいでしょうに」
そう口にして、直後に常識を地球のものに当てはめて考えてしまっている事を自覚する。この世界ではこの世界なりに他にもお金の使いどころがあるのかも知れない。
そこまで考えて、紗菜は自分が思いの外孤児院を気に入っていた事に気が付いた。どうすれば孤児院が今の状況から脱せられるのかを無意識のうちに考え始めていたのだ。
それに驚くと同時に納得する。数ヶ月共に過ごした事で孤児院の皆は既に紗菜にとっての家族に近い存在になっていたのだ。
日本にいた頃、紗菜にとっての家族というのはただ血の繋がった他人というだけの存在だった。道具として扱われていた紗菜は、異世界という場所に来てようやく人として家族と触れ合う事が出来たのだ。
いつのまにか孤児院は紗菜にとっての帰るべき場所となっていた。
別に日本に帰る事を諦めたわけではない。今でも帰りたいと思っているし、早く天理に会いたいとも思っている。だが、同時に心の奥であんな場所には帰りたくないという思いもまた存在するのだ。
それほどまでにこの孤児院というのは紗菜の中で大きな存在となっていた。
「そこの借金取りさん。どうにか方法はないんですか?紗菜が出来ることなら何でもしますから」
「ーーーー!?サナ、何言ってッーーーー!?」
「院長先生。紗菜は先生にすごく感謝してるんです。紗菜をちゃんと見つけてくれて、そして家族みたいに扱ってくれました。だから今度は紗菜が恩を返す番」
「ほぉう。なるほどねぇ」
男の値踏みするような視線が紗菜の全身を這っていく。このような視線は日本にいる時に幾度となく向けられたものだ。今更どうという事はない。
隣で言葉に詰まった院長が震えながら首をふるふると振っている。おおよその展開が予想できたのだろう。
だが、これが紗菜の選択なのだ。今までの人生で数えるほどあるかどうかというほどの、紗菜の決断。その瞳にどれだけの覚悟を見たのか、心なしか表情を引き締め男が言う。
「そうですねえ、あたしが運営している店があるんですがーーーーー」
言葉が紡がれていく。聞くまでもなく、その先が容易に理解できた。
紗菜の選択を受け入れようとしない院長が最後まで紗菜の説得を試みたが、結局紗菜はその日限りで孤児院を引き払った。
ーーーーー胸に儚い希望だけを抱きしめて。
そしてそれは数週間の後に漸く現実となったのだった。
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