11 暗闇
更新しました。
でも結構短いです。
気付けば、果てなき闇の中にいた。
だが、そう認識出来ているのもかろうじての事だ。
身体どころか、周囲の空間をまるごと飲み込んでいる深い闇は一筋の光すら通す事なく泥のように俺にまとわりついていた。
無理解だ。ただただ無理解がそこにあった。
目に映る光景が暗い闇しかないという事実は、自分と空間の境界をひどくあいまいにする。今自分がどのような体勢で、どのような状況に置かれているのか。
生きているのか、それとももう既にミノットの手によって殺された後なのか。
本当の暗闇がこんなにも恐ろしいものだとは露ほども思っていなかった。
ただただ身の奥底から湧き上がる根源的な恐怖によって身体は縮み上がり、意志とは反して歯の根がかちかちと音を立てる。
——いつまでこれが続くんだ、これがずっと続くくらいならもういっそ。
そんな考えが表に出てきてしまうほど、精神が疲弊し、肉体が光を求めてあえぎ始めた頃、
「もう、だめだよミノ。そんな風にいじめちゃ」
突如闇を切り裂き、純然たる白が現れた。
「ぁ……あ?」
「ほら、大丈夫だよ、ルイ」
俺の前で振り返った白い少女、ローズはそう言ってほほ笑んだ。
そこでようやっと周囲が光を取り戻している事に気が付く。それと同時に、ローズの向こう側で不貞腐れたようにそっぽを向くミノットの姿もまた視界に入った。
最後に意識を向けた時、ローズは隅っこで座っていたはずだ。いつの間にこうして目の前に来たのだろうか。
その手には先ほどまでなかった身の丈ほどもある杖が握られていた。その杖頭には見事なまでに咲き誇った薔薇が、役目を終えたかのようにその花弁を閉じていっていた。
それを見届けたローズは手の中で小さくその杖を振る。すると空間に溶けていくかのようにその杖は掻き消えていった。
「……なんで止めたのよ、ローズ」
「だってミノ殺しちゃうでしょ」
「ソレなんて死んでもいいのよ。ローズにあんなことをしたのに」
「ダメよ。それにあたしは何もされてないってば」
目の前で口論し合う黒と白に、俺は緊張感を隠せないでいた。
意識のはっきりとした今ならば分かる。俺は確かにミノットの逆鱗を土足で踏みにじってしまった。
そんな事欠片もするつもりはなかった。だが、あの時の俺は後先なんてまるで考えていなかった。ただ血を飲み、身を焦がすような渇きを癒したかっただけ。
今は収まっているが、これから先どうなるかが全く分からない。
本当に唐突で、制御の効かないものだった。今この瞬間にでも再び暴走してしまったら。
そう考えると恐ろしくて、これ以上この二人のそばにいたくなんてなかった。
「ルイももう限界なの。ミノなら分かるでしょ、血の飢餓が限界までいた時の辛さを。だから、ルイに協力してあげて」
「妾はもうしてあげたの。なのにコレが」
「ちゃんと説明してあげなかったのはミノでしょ。影の国から出てきたなら飢餓なんて経験ないだろうし、こうなっちゃうのも仕方のないことよ」
「うぐぐ……それでも」
ミノットを見ていると、俺はどうしようもなく酷い事をしてしまったのだという実感が遅れて湧いてきた。
そうだ、俺はローズに襲い掛かってしまったのだ。そんな事許されるわけがない。日本じゃ犯罪者としてすぐ逮捕されるほどだ。
俺は意を決してローズとミノットに向き直った。
「あの……」
「——お前」
「もう、ミノット。どうしたの、ルイ」
ミノットの剣幕に圧され、つい視線を背けてしまうもローズがすぐさま抑え込み、やさしく促してくれたことで再び視線を戻す。
「ローズ、ごめん。俺なんか、もうわけわかんなくなっちゃって。ミノット、さんもごめんなさい。ローズにあんなことしてしまって」
「うんうん。ほらルイもこう言ってる事だし、あたしも全然気にしてないから、ね? ミノもルイの事を許してあげて?」
その言葉に僅かに逡巡するミノット。その視線が俺とローズ——まあ大半はローズにだが向けられ、最後には大きくため息を吐いた。
そうして軽快な音を立ててその指を鳴らす。
すると足元の影がミノットの手元まで伸び、そこから音もなく一つの小瓶が浮かび上がってきた。
透明なそれの中身を満たすのは、ゆらゆらと揺れ動く赤い液体だ。
「魔物の血よ。そもそもと言えば、お前がしっかり血を飲んでいないのが悪いのよ」
「血を、飲む……」
そう、ミノットの言う通りだ。今までなあなあで済ませていたが、あんなことが起こってしまった以上俺が、葉桐琉伊という人間が吸血鬼となってしまったというのは疑いようもない事実だ。
これでも俺は良識ある人間だと自覚している。だからこそあんなふうに見境なく人に襲い掛かるのも、その先で殺されかけるのももう二度とごめんだ。
だからこそ俺は、精神的にも吸血鬼になる必要があった。
「それを飲めば、もうあんな事にはならないんですよね?」
「あれは禁断症状みたいなものよ。血を定期的に吸っていればなる事はないのよ」
定期的に血を吸うと考えただけでめまいにも似た嫌悪感が湧き上がるが、これは仕方のないことだ。正直生死に直結すると言ってもいい。
ミノットの差し出す小瓶に今一度目を向ける。
これがどんな魔物の血なのか分からないが、前のような生物の形をした所から吸血するよりかは極端にマシだ。
促す様に突き出してくるそれを、恐る恐る受け取る。
魔物と言ってもその血液の色は赤で、蓋を開けてみるとそこから漂う匂いは人のそれと同じように思える。
血の匂いを嗅いだところでさっきまでのように我を失う事はなかった。
やはり嫌悪感はぬぐえないが、これを飲まなければ何も始まらないだろう。
意を決して俺は小瓶を傾け、中身を口へと注ぎ込んだ。
「——ぐッ、ぼ!?」
そしてそれとほぼ同時にたまらず嘔吐する。
なんだこれは。これを飲む?そんな事が出来るわけがない。
腐った牛乳でも舐めているかのような胃をかき乱す不快感。苦味とえぐみと他にも何種類かの風味を調和しないように混ぜ合わせ、その上から泥でもぶっかけたようなただただ吐き気を催すものだった。
「お、前もしかして——?」
「ちょっとミノ、何飲ませたの!? ルイ、大丈夫?」
「げぇッ……、ごはっ……。だい、じょうぶ」
嘔吐きながらもなんとかローズの心配げな声に答える。
だが、同時に疑問を感じていた。
ミノットはコレを飲めば大丈夫と言ったはずだ。その結果がこれじゃ笑い話にもならない。もしかして俺の精神上の問題かとも一瞬思ったが、そんな事はない。確かに血を飲むことは気が乗らないが吐くまで生理的な嫌悪感を抱いているわけでもない。
ローズが言うようにミノットに何か変なものでも飲まされたのか?
だが、わざわざそんな遠回りな事をするとも思えない。ミノットの事だし、ローズの目の前で彼女の意に背くような事も早々しでかすとも思えない。
「妾が何かしたわけじゃないのよ。お前、これまで一度でも血を飲んだことはあった?」
「……いや、ない、です」
少し迷ったが正直に答える。
一度ハサミで指を抉ったときには反射的にぱっくり咥えてかなりの量の血を飲んだことはあるが、それは日本にいた時の話だ。恐らくミノットが聞いているのは吸血鬼になった今の事だろうし、なり立てでの初めての血の摂取は馬鹿みたいにまずいあの魔物の血だ。
「そ。困ったことになっているかもしれないわね」
「困ったことって?ミノ、何か分かるの?」
「ローズには妾が貴女からしか血を飲まない理由を話した事があったかしら?」
「えっと、確かミノは体質的に女の子からしか吸血できないって……」
「そう、それが妾が吸血鬼として出来損ないである理由の一つ。普通、吸血鬼は自分以外の血なら魔物でも飲めるものよ。そこに性別の垣根なんてない。でも妾は違うのよ。女以外からは絶対に飲めない」
そこで話を区切り、ミノットは感情の籠ってない瞳を俺へと向ける。
「——お前、出来損ないなのよ」
そして告げる。
俺が何度も聞いたことのあるその悪魔の言葉を。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
体調が未だすぐれないため、次の更新は日曜となります。