107 揺れる世界 ⑥
さて恒例の遅刻です。頑張ったのでどうぞ楽しんで行ってください。
「――くそ、一体何が……っ、どうなって……?!」
そんな天理の疑問に答える声はない。皆が皆、今この瞬間一様に天空を、この国を覆う『影』の源を仰ぎ見ていた。
そうして『ソレ』の存在を知る彼らが胸に抱く思いは一つ。何故、あれがここにあるのか、と言うことだった。
何にせよ、もう既に式の様相は崩れ去っている。状況がこれよりも悪くなる前にこちら側も相応の準備をして――。
「……知りたい?」
「――!?」
天を見ながら頭の中で次の行動をシミュレートしていた中、突如として異物が差し込まれる。視線を上から下に持って来れば、氷の球体を右手に浮かべた少女が冷たさの浮かぶ瞳で天理を射抜いていた。
知りたいか、彼女はそう言った。それは、今の状況を鑑みれば甘い毒のような提案だ。
無知というのはそれだけで致命的な弱点に成り得る。今の天理にしてみればこれほど魅力的な事はない。
「知る権利はある。もしかしたら、義務も。……『彼』はそう望んでいないかもしれないけれど」
しかしいくら甘くても毒は毒。受け入れればその果てにどうなるか分かったものではない。それが目の前にいる彼女のような強大な存在であれば、なおさらだ。
「……君は、一体、何が目的なんだ。あれと――『影の国』と関係があるのか?」
迷った果てに、天理はそう問うた。このタイミングで現れたのだ、無関係でなんかあるはずがない。それでも、琉伊を追ってきただろうこの少女がどこに所属する誰なのか、それを明らかにしたかった。
同時に天理は呆けたままでいる紫葵へと意識を向ける。紫葵の想いは天理も知っていた。だからこそ、紫葵の今の状態は理解は出来る。今この場でさえなかったなら、紗菜と共に慰めたいところではあるが、状況がそれを許さない。
今の天理が出来る事、それは精々が会話をして紫葵が立ち直ってくれるだけの時間を稼ぐだけだ。
「知りたいのなら、止めはしない。ただ待てばいい」
「待てば……? それはどういう――」
再びの疑問を込めた言葉は最後まで紡がれる事はない。突然目の前の少女――未だ名前さえも知らない彼女が顔をはっきりと分かるほどに顰めた後、とんとヒールで地面を叩いた。するとそこから振動が伝っていくかのように影が波打ったかと思うとぷっくりと影の球体が浮き上がる。と同時に、渦巻く球体から闇色の深い影が周囲に撒き散らされ、天理たちの周囲のみを夜で覆い隠すかのように帳が下りる。
現れたそれはやがて影本体から切り離され、重力に逆らうかのように宙に浮いた。そのまま風船のように膨らみ、そして最後にくるりと回転して裏返ると、次の瞬間にはストールを纏った人型へと変貌していた。
「……座標代わりに使わないでって何度も言ってるのに」
「御母様を軸にしているのだから、仕方がないのよ。これは何回言った事だったかしら」
「ああ、ほら、もう……。二人ともいつもそうやって喧嘩して!」
現れたのはつんとそっぽを向くドレス姿の女性と、その豊かな胸元に抱きかかえられた、純白の貫頭衣のようなものに身を包んだ少女だ。
そのやり取りから、天理たちに襲い掛かった少女は今しがた現れた二人組とはそれなり以上の交流がある事が窺い知れた。
そして二人組――黒い女性と白い少女には天理もまた見覚えがあった。
「――君たちは、あの時の……」
ついぽつりと零れたその言葉を聞きとがめたかのように、黒い女性が天理へとついと視線を向ける。
あの時と同じだ。存在するだけで周囲の全てを圧殺するかのような、けた違いの存在感。それが濃密すぎる彼女の垂れ流された魔力によって引き起こされる現象だという事が分かるだけに、天理は額にかいた冷や汗を自覚した。
――呑まれては、いけない。
天理の脳裏に、前回の彼女たちとの邂逅が浮かび上がる。誠二との決戦の最中、突如として変貌した彼を易々と制圧して連れ去っていった彼女たちの姿を。
それは正しく『強者』の姿だった。捕食者と被捕食者、そんな構図が目に浮かんだほど。しかし今回ばかりはそうはいかない。ここには紫葵もいるし、紗菜もいる。ルーシカだって、あの時一緒に戦った人たちだっているのだ。
「ふん、気に入らん目ね。虚飾の匂いがするのよ」
「……ミノット」
「分かっているのよ。手なんて出したりはしないわ」
そんな天理を黒いドレス姿の女性――ミノットは虚飾、とそう称した。虚飾、確かにそうだ。いくら外面を取り繕ってはいても、天理の中身は正直だった。怯え、縮こまり、塞ぎ込む。『絶対に勝てない』、なんてステータスでも背負っているかのような相手だ、誰だってそうなる。
勝てないと分かっている相手に立ち向かうなんて、誰しもが出来るものではない。出来るとすれば、そうそれこそ『英雄』くらいだろう。
――そしてそれは、つい先ほどに天理が背負ったものだった。
「『アレ』を動かしていたのは、君たちなのか……?」
背中に紫葵を庇いながら、天理はそう問うた。『影の国』が自然に動くものならば、こうもピンポイントに姿を消したり、表したりすることなんて出来ないだろう。ならば、動かしている誰かがいるという事は確実だ。
そして今のところその有力候補は目の前の二人だ。彼女たちの出現と共に『影の国』もまた、その姿を現している。これで関係がないなんて言う方が無理のある話だった。
「そうだと言ったらお前はどうするの?」
「この国に害を為すなら、僕が止める」
元々『影の国』相手に攻め込もうと計画していたのだ、それが早まっただけ。実際の話、準備の九割方は完了していたとの話だ。各国からの兵力などの支援は約束されている。
そのために天理もアルマーニの下で力を付けるべく特訓していたのだ。天理一人では及ばずとも、こちらには枢機卿や粛清官の二人だっている。戦力に不安はない。
「覚悟ならある。僕が守るんだ、皆を」
「天理くん……」
そう、守る。今度こそだ。ここで救う事が出来なければ、何が英雄だ。何が、蓮花寺だ。
ふわり、と天理の前髪が揺らいだ。迸る気迫が波となって周囲に波紋していく。それを見て俄かにミノットは目を瞠った。
「――だ、そうだけど、どうするの?」
一瞬の静寂を破ったのは確かローズと呼ばれていた白い少女だ。その顔は向いている方向は天理ではなく、その小さな手に持つ石の塊のようなもの。
『とりあえず、連れてきてくれると助かるわ。何にせよ、話はそれからね』
すぐにここにはいない第三者の声がその石から響いてくる。魔力を介した通信道具のようなものだ。魔道具と呼ばれるそれから聞こえてくる声はどことなく聞き覚えのある声。ひどく身近にあったものだった。
「真彩、ちゃん……?」
天理と同じ結論に達した紫葵が彼女の名前を口にする。しかし、紫葵の声が届かなかったのか、それとも意図的に無視したのか、魔響石と呼ぶべきそれは、それきり反応を見せる事はなかった。
「むう、相変わらず一方的なんだから。まあ、いいか。今度また研究にでも手伝って貰お」
「待てっ――! 今の声、真彩がそこに……『影の国』にいるのか!?」
「気になるんなら、自分の目で確かめてきてね。あたしたちはまだちょっとやる事があるから、送るだけになるけど。帰りは『彼』にでもなんとかしてもらってね。……ミノ」
「あんなのに魔力を使うのなんか癪だけど、ローズが言うならそうするかしら」
心底嫌そうな表情を隠そうともせずに、ミノットは天理たちへと向けて手のひらを翳す。彼女たちが現れた方法を思えば、影を用いた移動魔法を使えるのだろう。そしてそれを使って天理たちを『影の国』へと送ろうと言うのだ。
「待てっ、一体これは、何がっ――!?」
「そのあたりの事もマアヤなら教えてくれるよ。じゃあね」
その声を最後に、天理の視界はすぐに黒に覆われていく。ミノットたちが現れた時を逆再生でもしたかのように周囲から伸びる影の帯が天理たちに巻き付いていく。
そんな中、しれっと銀髪の女性も巻き込まれるかのように影に絡めとられているのが見えた。ミノットの嫌がらせか何かだろうか。銀髪の女性の表情を見るに、巻き込まれた、というよりかは自分から入り込んだ、という方が正しいようにも思えるが。
天理の意識が追えたのはそこまでだった。街灯のない夜道に放り込まれたような言い知れない不安感が闇となって天理の身体を覆いつくす。
しかし、この先にいるのが本当に天理たちの知る人物、篠枝真彩だとするならば行かない訳にはいかなかった。
話したい事がある。聞きたい事もある。そして何より、無事をお互いに確かめ合いたいという思いがあった。
「……でも、なんで」
出てくるのはやはり何故、という思いだ。この世界に来てから、分からない事が多すぎる。天理にとって人の顔色を読む、その場の空気を読むというのは幼い事から蓮花寺家で過ごしてきて必須とも言える程の処世術だった。だからこそ日本では学校生活を送る上で、一度も不便だと思った事はなかった。
人の心の動きが分かる、とまでは言えないが、それでもどのような対応をすればどのように認識されるか、なんていうのはある程度分かっていたつもりだった。
いや、だからこそ、なのかもしれない。そうしてなあなあに過ごしてきたからこそ、こうして人の本質が浮き出るような場になってしまえば、天理には何も分からない。人と真に関わりたいなんて思ったのも、もういつの頃の事かすら思い出せない。
そんな風に自己分析をしてから、天理は暗闇の中頭を振って雑念を遠ざける。今ネガティブな考えをしても何も始まらない。
必要なのは、現状を正確に理解する事だ。それが分かっていないから、天理も紫葵もこうして場に翻弄されているのだ。今、天理たちの知らない何かが動いている。そんな予感を覚えてならないのだ。
そうしてどれくらいの時間が経ったのか分からないまま、天理の視界から唐突に闇が晴れる。
「——――っ」
真っ先に目に飛び込んできたのは、思わず息を呑んでしまう程の豪勢さを誇る巨大なシャンデリア。それこそ大国の王城を思わせるようなそれに照らされ、部屋の内装が細部まで浮かび上がっている。
これを中世の光景、と一括りにするには余りにも横暴だ。古めかしさを感じさせながらも確かな進歩と迎合を感じさせる、まさに生きた技術ともいうべきもの。
カーペットが覆う床を踏む感触は、まるで雲の上にでもいるかのよう。そうして足元の赤を辿った先には技術の粋をかき集めて拵えられただろう、一つの玉座。
総じてこの城の主の威容を示すだけの一種の『重み』があった。そして、そのけた違いの『重み』を背負う者の姿も、また。
「――久しぶりね、天理、紫葵も。元気そうで良かったわ」
「戸惑ってる戸惑ってる。さすがの天理くんさんも姫さんたちには翻弄されたと見える。そっからのこれだもんなぁ、分かる分かる」
この広間の一番高い場所に鎮座する玉座、その一段下に玉座を挟むようにして立つ二人が、未だ混乱の冷めやらない天理へと声を掛けた。
旧くからの付き合いがある篠枝 真彩と、そしてクラスメイトの一人――琉伊とよく共にいた在原 和也の姿がそこにはあった。