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異界にて揺蕩え、デア ヴァンピール  作者: 葦原 聖
第三章 揺れる世界
105/120

105 揺れる世界 裏

今回は途中で姿を消したマルウェロ側の話です。本当はもっと短くて、後半に同じく姿のないアルマーニのものもいれようとしたんですが、気が付いたらこうなっていました。

という事で次回はアルマーニ側です。

 天理が白い少女と相対していたちょうどその頃、今この国に身を置いている粛清官の一人マルウェロ・デキストハートは凱旋式が行われている中央広場から少し離れた街の一角にいた。


「――よぉ」


 いっそ友人に対するもののような気軽さでマルウェロは声を上げた。その先にいるのは二人組の男女だ。


 一人は眼鏡をかけた中肉中背。年頃は天理とそう変わらない――つまりマルウェロとも十も離れていないほどだろうが、その顔に刻まれる余裕のなさを感じさせる皺が彼を実年齢よりも老けさせているように思える。


 もう一人はそんな垢抜けない青年とは対称的に洗練さが滲み出る所作で青年に付き添っている女性。女性の年齢など見た目から正確に判断できるものでもないが、青年よりかは上、マルウェロとどっこいというところだろう。


 驚くのはその女性が身を包む衣服がメイド服ということだ。清楚さを感じさせる女性自身の雰囲気とは異なり、改造されているのかところどころ露出が見えるそれだが、その造りといい、女性の明らかに磨き上げられた所々のふるまいと、青年を立てるような動きから、女性の立場とそして目の前の青年が主であるということが認められた。


 そんなアンバランスな二人は、ぞんざいに投げ掛けられた声に特段気を悪くした風でもなく、むしろその誰何を予想していたかのように、唇をゆがめた。


「なんだ、あんまりにも遅いから、この国も落としていいのかと思ったよ」


 傲岸不遜、大胆不敵。息をするように悪意を振るまいていくその姿はまさしく魔王。


 両手を広げ、高尚な演説でもするかのようにその男は言ったかと思うと、次の瞬間、側に控えていたはずのメイド姿の女性によって頭を思いっきりはたかれる。


「何を言っているんですか、このひょろりんは……。そんな事をしてしまえばマアヤ様たちやミノット様にまたしてもひどい目に遭わされてしまいますよ」


(いった)いなぁ、何するんだよお前は! 勝手についてきたくせにいちいち僕に口答えしやがって――!」


「あたしがいないととっくの昔に野垂れ死んでいたと思いますけどね。それにセイジ様の要望通り、こうしてメイド服を着て慣れないメイド業もしているじゃないですか。一体あたしのどこに不満があると言うんですか」


「そういう一言多い所だよっ! 分かってやっているんじゃないのか!?」


 ぎゃいぎゃいと仲のいいような、そうでもないようなやり取りを始めた二人に毒気を抜かれかけるが、そんな印象を上回るほどの嫌な雰囲気というものを二人は放っていた。


 眼鏡をかけた危ない発言の彼もそうだが、それと比較してもなお、もう片方のメイド服に身を包んだ女性持つそれは禍々しい。

 しかもそれはつい先ほど凱旋式に乱入してきた男と実に似たものを感じさせた。


「仲が良い事は結構だけどよぉ、あんたら、魔族だろ?」


 歯に衣を着せる事なくマルウェロはそう言った。聖ルプストリコはその国柄、全国民に魔族と相対してしまった時の対処方法を周知している。


 最も望ましいのは、何らかの方法により最寄りの教会に駆け込む事。聖ルプストリコにはその本部があるが、もしこの国から離れていた時にその状況に陥ってしまった時は支部でもいい。


 とにかく教会に身を寄せれば、そこには見習いの修道士や、最低でも位持ちである助祭が詰めている。助祭一人では戦闘力が心もとない事もあるが、支部の総員が力を合わせればよほどの事がない限り魔族を撃退する事が可能だ。


 しかし、マルウェロはその限りではない。それは偏にマルウェロが『粛清官』であるからに他ならない。


 基本的に粛清官というのは教会の構成員――広義での修道士とはまったくの別物の存在だ。修道士になる者の多くは、回復魔法を使える。それは教会がかつ神々と人とを繫ぐ役割をしていた巫女が同じように回復魔法を使っていたからだ。


 しかし、『粛清官』の中に回復魔法を使えるものは一人もいない。その時点でこの組織が特異であることは分かる。だが、『粛清官』を教会の中でも特別な存在に押し上げているのは何もその理由ばかりではない。


 ――『祝福(ギフト)』というものがある。それは神々からの加護と同一視されるものであり、この世界においては神々の神威の体現者に等しい。

 祝福を授けられるのは、教会の権力者であったり、現代魔法の権威であったりするという事はない。しゅ祝福というのは、その信仰度の如何に関わらず、『どこかしらの誰か』が授けられるものなのだ。


 だからこそ、『粛清官』には他者とは格別した権力と、そして力が与えられる。


「何しに来た、だとか、見逃してやるからさっさと帰れ、だなんて言わねえぜ。見つけた魔族はどんな(なり)してたって殺す。死にたくないなら、精々抵抗でもするんだな」


 その『どこかしらの誰か』には一つだけ共通する事柄がある。それは総じて魔族を心の底から憎んでいるという事だ。


 そんな彼らに与えられた力、『祝福』。それは魔族に対する絶対優位権だ。個々人によってその能力に大きな差はあるものの、どの『祝福』であれ、魔族を殺し切るという事を最大の特徴としている。


 それを知ってか知らずか、眼鏡の男――誠二はにいっと唇をゆがめる。それを見て隣に立つメイドは嫌そうに顔を歪めた。


「ふん、精々粋がるんだね。僕からは仕掛けないけど、やられたらやり返すのは当たり前だよね、ネフェリア?」


「……底意地の悪いセイジ様の事ですから、そんな事だろうと思いましたけどね。言っておきますけど、あたくしは止めましたからね」


「あいつらが来る前ならバレないだろうさ。――おい、何後ろに下がってるんだよ、お前が前に決まってるだろ」


「はいはい、分かっておりますよ、まったく……」


 嫌そうな顔を隠そうともせずに主という事になっている誠二と言葉を交換するメイド――ネフェリア。どこかこの状況を楽しんでいる節のある誠二とは違って、どうにでもなれという雰囲気を身体全体から滲ませている彼女はマルウェロから視線を完全に外してさえいる。


 それは強者ゆえの余裕なのか、それとも単なる愚者の油断なのか。


 だが、どちらでもいい。マルウェロにとって重要なのは、目の前に立つ二人が魔族であるという事だけ。


「――祝福(ギフト・リリース)神威兵装(モード)騎士神候(カルフェリオン)


 自らの身体の内、そこから呼び出すは祝福の根源。それを宿した粛清官はまさしく神の威の体現者。


 魔力とも気力とも異なる光が、マルウェロからマルウェロの普段着――草臥れた着流しを覆い隠していく。高密度の魔力、気力といったものは現実さえ浸食し、己が望む形を成す。


 身体のあちこちを包んだ光が晴れる頃、それまではだらしのなさが先に立っていたマルウェロの印象は正反対なものへと変貌していた。


 一言で言い表すのなら、騎士だ。それも華美な装飾と実用性が同居した一級品だ。しかし、その色だけは誰もが思い浮かべる騎士とは異なり、黒の一色に染め上げられている。

 魔族に対する憎悪がその鎧を闇色に堕としているのだろうか。


「ふーん。で?」


「もう少し関心を持ってあげてもいいのではないですか……」


 思わず、と言った体でネフェリアが苦言を零す。しかし、彼女自身も特に脅威とすら思っていない様子だ。


「言ってろ。……すぐに後悔させてやるよ」


 ヘルムの開いた部分から鋭い眼光を放つマルウェロ。気負いなく、しかし殺意と害意だけは最大限に。


 腰に帯びた武骨な直剣を抜けば、それはまるでマルウェロの殺意ででも磨き抜かれたかのようにぬらぬらと陽の光を反射させている。

 そのまま抜いたそれを正眼に構え、そこでぴたりと姿勢を留める。


 やや地に向けられた細身の直剣はその半分以上は刃がついておらず、先端がいやに鋭いものだ。それを見れば、突きを主体とする剣術を用いるという事が分かる。


 ぴりりとした緊張感があたりに、マルウェロを中心として撒き散らされた。それはまさしく剣気と呼べる類のもので、並みの者がそれに触れれば、その圧だけで自ずから切られたと錯覚するほどのもの。


 しかし、今この場にいるマルウェロ以外の二人はどちらも並みの者、正常の者とは言い難い所があった。


 片や、濃密な魔の気配と、底知れなさを感じさせるメイド。そして片や、先ほどからぶっ飛んだ発言を繰り返し、どこか箍の外れたような雰囲気を滲ませる眼鏡。

 やはりどこまでも自然体を崩そうとしない二人だった。


「……ほら、何見合ってんだよ。さっさと行けよ」


 両の手をエプロンドレスの前で重ね、そのまま彫刻か何かにでもなったかのように姿勢を崩そうとしない自身のメイド――ネフェリアと、そしてそんな彼女を前に騎士剣をゆらりと構えたまま動こうとしないマルウェロ。

 そんな二人の様子に見かねた――というよりも飽きた誠二は徐にネフェリアの下へと歩み寄ったかと思うと、言葉と、そしてその脚でもってネフェリアを蹴り出した。


 あっ、と驚きの吐息が零れる。と同時に、張り詰めていた剣気が突如として爆発した。


「――――あっ」


 再びの驚愕。それは一体誰から発せられたものだったのか。


 気が付けば、腕が落ちていた。それもまるで刃で切断でもされたかのような、綺麗な断面を見せて、だ。

 

「あ、ぎゃああぁああぁぁあああ!!!?」


 唐突に身の内に現れた熱さに戸惑い、どさり、とそれなりの密度を持った物体が落ちる音に鼓膜を震わせ、いつの間にか生じていた衝撃によって揺らいだ左半身に目を向け、そこでようやく落ちているそれが自分のものだという事に気付く。


 そこまでいってようやく、自分の脳が生まれた熱を痛みだと処理をし始めた。なまじ目に入れてしまったからこその、神経に鋳溶かした鉛でも流し込まれているかのような耐える事など出来ようもない激痛。


 噴水のように赤黒い血液を撒き散らす己が左腕を、慰め程度に押さえつけながら腕の持ち主――誠二はありったけの声を上げた。


「あぁっ――!!? あぁああぁあああぁぁああっ!?」


 遂には倒れこみ、地べたを転げまわる。そうまでしても、治まる事はなく、全身を焼くような痛みは、より一層激しさを脳へと伝えるのみ。


 痛い。痛い痛い。痛い痛い痛い。痛い痛い痛い痛い――――。


 思考を痛みと、痛いという言葉とに埋め尽くされた誠二の取った行動は、倒れこんだその場で蹲るというもの。それは戦闘の途中である事を鑑みれば悪手としか言いようのないものであり、事実、その姿はどの角度から見ても隙しか見つけられない。


 しかし、誠二をそんな状態へと追いやったマルウェロはと言えば、誠二への追撃を行おうとはしていなかった。否、出来なかった、という方が正しい。


「……あれでも一応、あたくしの何百年か振りの興味対象ですので、これ以上はさせません」


 そう言ってマルウェロを威圧するのは、澄ました表情を崩す事なく、楚々とした仕草を振りまいていたメイドだ。

 だが、それも今は見る影もなく、表情は張り詰めたものとなっていた。誠二が痛みに呻いているのと同様に、ネフェリアもまた、思考に大量の疑問符を散りばめていた。


 誠二に追いやられたネフェリアの立ち位置は、丁度誠二とマルウェロを結ぶ直線の中点だ。それはすなわち、いかなる攻撃もネフェリアを通した後に誠二の下へと届くという事だ。


 そんな当たり前とも言える状況を、目の前の男は何がしかの力を持って覆した。そしてそれは、それが――。


「――『祝福』、というやつでございますか」


 その名前についてはネフェリアも聞き及んでいるもの。分け合ってここ最近の色々な事に疎いものの、それでもここ数か月の間で嫌というほどに耳にした言葉だった。


 ようやくこの時をもって、ネフェリアは目の前の男の脅威度を改めたようだった。どこにでもいる青年から、自身を、そして誠二をも脅かす可能性を持つ者へと。


 誠二の醜い絶叫を環境音に、二人は視線を交わし合う。マルウェロはどうすれば効率よく魔族を討伐出来るかを考え、ネフェリアは目の前の相手が持つ『祝福』がどのような力を持っているのかを推測する。

 しかしそれも数瞬の事。埒が明かないとばかりに最初に動きを見せたのはネフェリアの方だった。


「あまり使いたくありませんが、仕方ありませんわね」


 そう一言置いて、彼女は自らの指をへし折った。

 いや、それだけに留まらず、まるでそこらにある街路樹の枝を折るかのように、折った数本を纏めて引き抜いた。


 何を、と思うよりも先にマルウェロも動く。何をするのかは分からないが、彼女のものであろう魔力の高まりを見て取ったのだ。何かをされようが、それが効果を及ぼすよりも早くに断つ。そんな裂帛の気合を感じられるような踏み込みと共にマルウェロがネフェリアへと肉薄する。


 その身に帯びているのはいかにも頑強な金属によって織りなされる金属鎧だ。その見た目通りの重量を誇っているのだとすればあり得ないほどの速力。弾丸のような飛び出しはそのままネフェリアの前での急制動へとつながる。


 そのまま左手を前に、そして弓を引くように右手は限界まで振り絞る。狙いをすませるかのように一瞬の停滞の後、大弩の矢のような速度で突き出された。


 まさに神速。人が持ち得る最大限の反応をもってしても気付く事なくその命を失うだろうほどのもの。それは果たして、ネフェリアのその細い胴を一直線に貫いた――などという事もなく。


「――何っ!?」


 確かにマルウェロの放った渾身の突きは魔族であったとしても、いや魔族だからこそ殺し切るだけの力があったかもしれない。しかしそれは当たればの話だ。


 勿論、魔族の先天的な身体能力の高さがあったとしても、あの場面から完全に避け切る事など出来ようもない。現にネフェリアはその場から一歩も動いていなかった。


 ならば、何がネフェリアの死をなかったことにしたのか。


「これは……血を、操ってんのか」


 突き出した騎士剣。魔を払うはずの一穿は、しかしその刀身に絡みつく無数の赤い帯のようなものによって僅かに軌道をずらされていた。

 一つ一つに限って言えばそれほど影響力はなかっただろう。だが、それが何十、何百にも上ればどうか。その答えが目の前にあった。


「吸血鬼……、本当にまだ生き残っていやがったなんてな」


「生き残ってるもなにも、脅かされたことすらありませんけどね。……今も、昔も」


「――言ってろ!!」


 言いながら、手首を捻るようにして無理やり絡みつく帯を引きちぎっていくマルウェロ。


 吸血鬼。古来より人を脅かす魔の頂点。何故こんなところに。調停機関から、吸血鬼の住処である『影の国』が姿を現したという事は聞いていた。近いうちにそこへと総攻撃を仕掛けるべく画策している事も知っている。何しろマルウェロもまた、その時に派遣される一人なのだから。


 そんな空の彼方を漂っているはずの内の一体が、今この場にいる。それをどう解釈すればいいのかが分からない。


 思考だけは熱暴走でも起こしそうな程に回転させながら、マルウェロは再びネフェリアへと接近を試みる。それを見て取ってネフェリアもまた赤を操作する。


 右へ、左へとまるで指揮棒でも動かすかのように振るう彼女。傍から見れば簡単なようでも、受けているマルウェロからしてみればたまったものではない。

 人の手足ででもあるかのように――いや、その柔軟性から言えばそれ以上の可動域を持つ触手が縦横無尽に宙を蠢き、マルウェロの身体を絡み取らんとばかりに襲い掛かる。


「ちぃっ! こんなものっ――!!」


 今度は突きを主体としたものではなく、刃を使った切り払いだ。鋭いその剣閃は正確に迫る帯を斬断していく。それでいてネフェリアの下へと進む足はその場にとどまる事はなく、確実にその距離を詰めていく。


「おらぁ――!!」


「おっと……。荒っぽい人ですね」


 触手をかいくぐったその先で、マルウェロは神速の突きを繰り返す。その一つ一つがネフェリアの命を刈り取らんとばかりにうなりを上げて彼女の四肢、正中、考え得る限りの全ての弱点を穿っていく。


 それは常人ならば身じろぐ事すら出来ずに地に臥せってしまうもの。武を極めようとするものですら、一つ一つに対応しようとして追い切れずに散ってしまうほど。すなわち、回避も、迎撃すらも出来ない代物だ。


 マルウェロ独自の武術の一つ『穿ち』。始まりにして一種の終わりであるその一突きを、何重にも重ね合わせたそれは、例え魔族と言えど受け切れるものではない。


「……くそがっ」


 果たして、その刃は惜しみなくその威力を揮った。しかも、全ての剣閃が、だ。


 今、ネフェリアの身体にはいくつもの風穴が空いている。四肢は千切れ掛け、向こう側さえ見通せるほどの空洞を胴に空けていてなお、彼女は笑う。凄惨に、そしてどこか艶然と。


「これが吸血鬼ってやつかよ。いい身体してんじゃねえか」


「閨のお誘いなら、残念ながら間に合っておりまして」


「はんっ、お前らと寝るくらいなら魔物に食われた方がましだろうよ!」


 言い合いをしながらマルウェロは再び距離を取った。そうするうちに風穴の空いていたネフェリアの身体の修復はすさまじい速さで行われていく。

 肉が蠢き、神経が張り巡らされ、そして繊維が結合していく。みるみるうちに、ネフェリアの身体は元のものへと戻っていく。どういう原理なのか、穴の空いた衣服もまた、同様に時間を巻き戻したかの如く、新品同然のものへと。


 ちっ、と一つ舌打ちをしてから、マルウェロは内心愚痴でも吐き捨てたい気持ちを押し殺す。書物の情報として、吸血鬼の性質は知っていた。曰く、不死の怪物。どれだけの傷を負おうと、次の瞬間には何事もなかったかのように襲い掛かる。


 なるほど、やはり知識というものは経験が伴ってこそだ。それを改めて思い知った。だけど、それだけだ。


「やりようはいくらでも——」


 柄を握り直し、今しがた経験した不死であるという性質があってなお、マルウェロは負ける道理などないとばかりに口角を吊り上げる。


 そうして再び戦闘態勢を取ろうとしたマルウェロの耳が、奇妙な音を捉えた。


「――――」


 それは、まるで煮詰めた肉塊をヘラで塗りたくっているかのような、そんな音だ。精神を鑢掛けするようなそんな音に弾かれたように視線を向ける、と同時に、眼前を黒が覆った。反射的に大きく後退り、それでもなお追いすがるそれに向かい、十字に切り払う。


 紙でも切ったかのような軽さで迫りくる濁流は十字に分かたれたが、そうして分かれた部分がネフェリアの触手と同じように——いやそれよりももっと生物的に蠢く。


 流動体から固形物へ。物塊から生命へ。一種の進化の行程でも眺めているかのようなその光景を作り出しているのは誰か。


 魔力と、そして濃密なまでに感じられる負の情念を辿っていく。


「――お前ごときが、僕を舐めるなぁあぁあああ!!!」


 咆哮とそれに呼応するようにして断たれた左腕から赤の奔流が走る。それは出て来た側から異形へ――魔物へと変貌していく。


「こいつ……っ!? まさか、話にあった『操魔王』か!?」


 大きく距離を取るように後退りながら、死など知らないかのように怒涛のように押し寄せる魔物たちを撫で切りにしていく。が、切り捨てても切り捨ててもその先から穴の空いたバケツのように零れだす魔物たち。


 物量とは斯くも厄介なものか、そんな風な考えが背筋を這い寄る。大量に生まれる魔物たちがマルウェロの下へと枚挙し、マルウェロはそれを神業でもって殲滅する。そんな膠着状態がいつまでも続くかに思われたその時、血の噴出する左腕を振り回していた誠二がその怒りを表すように強く地面を踏みつけた。


「どいつもこいつも、いい加減に――!?」


「――これは、時間切れのようでございますね」


 激昂と共に魔物たちの内の一体が身体を膨らませる。明らかな破裂の前兆を目にし、マルウェロはそれに対処するべく身体に力を込めようとしたところで、誠二がぴくりと身体を震わせた。

 同時にいつの間にか巻き込まれまいと遠目で見守るのみとなっていたネフェリアもまた何がしかと言葉を零す。


 魔物が再びしぼんでいくのを見て、少なくない安堵を覚えたのと同時に、影が辺りを覆ったのを感じた。


 今日は一日を通して快晴なはずだ。式という事でそうなる日を選んだのだ、天気は読めないものとは言え、それでもこうも激変する事などめったにない。


 だからこそ、それは例外だった。


 天を覆い、聖ルプストリコに影を落とすのは決して雲ではない。


「この、タイミングでこいつが来やがるのかっ……!」


 空を覆う岩塊、それは教会にとっての最終敵であると言っても過言ではない。それが、今この時に現れる。準備をしていなかったわけではない。しかし、攻め込もうと画策していたのはもう何か月も先の事だった。


 今この瞬間、端的に言えば兵力がまったく足りていない。かつて生きていたと思われる吸血鬼全員があの国の中にいるのなら、その数は千近くいてもおかしくはない。そして、それだけの吸血鬼を押さえられるだけの人員はこの場にはいなかった。


「ほら、押さえてください、セイジ様。今度は腕だけでは済まないかもしれませんよ」


「――――っ! あぁ!? なんだよ、お前! 僕に口答えするっていうのか!?」


「あたくしはセイジ様のためを思って言っているつもりですが? それにこの方も面倒な事にそれなりの腕をお持ちのようですし」


「僕に逃げろって言うのか!?」


「逃げるのではありませんよ。そうですね、ちょっと旅行にでも行くのはどうですか。セイジ様、言ってたじゃないですか、南国にでも行きたいもんだなって」


「旅行――? そんなのいつでも――」


「――ああもう面倒臭い」


「――――いっ!?」


 マルウェロが上空に意識を取られた間に突如始まったその茶番は、マルウェロが関与する間もなく終わりを告げていた。それもメイドであるはずのネフェリアが一方的に終わらせる事によって。


 具体的には思い切り誠二を殴り倒した。その威力は吹き飛んだ先の家屋の壁を頭がぶち抜くほど。そのまま壁から身体を生やした誠二を回収し、気絶しているのをしっかりと確認してからネフェリアは警戒の姿勢を保ったまま一部始終を目にしていたマルウェロへと向き直った。


「見苦しい所を見せてしまい、申し訳ありませんでした。我々はこの場を去るので、追ってくるなり、ご自身の居場所に戻るなりとご自由にお願いします。まあ、追ってきた場合には全力で排除させていただきますが」


「……お前ら、何を知ってやがる」


「さあ。何かを知っているかもしれませんし、何も知らないかもしれませんね。知っていたとしても教えるわけもないですし、聞き出せるわけでもないのですから、無為なのではありませんか」


 誠二をしっかりと背中に担ぎ、ネフェリアはやはり楚々とした姿勢のまま、マルウェロへと頭を下げた。


「では、我々はこれで」


 その背中は確かに無防備極まりない。しかし、気が付けば溶けるように消えていた魔物たちが、再び液状に戻ったまま、意思があるかのようにネフェリアの下へと集まっていくが見えた。


 そのまま赤黒いそれはネフェリアの周りを滞空し、吸血鬼である彼女ならばマルウェロがどんな行動をしたところでそれよりも早くに反撃を繰り出す事が出来るという事が否でも思い知らされる。


「何が、一体どうなってんだ……」


 去っていく背中を見て、マルウェロはぽつりと呟いた。今この場所だけの話ではない、『影の国』が出現した事もそうだが、こことは別に妙な気配が感じ取られた場所がある。恐らくそこにはアルマーニが向かったのだろうが、このような事が立て続けに起こるわけがない。


「今考えてもしゃあないか」


 泥沼に入りそうになった思考を、頭を振る事によって切り替える。どう判断を下すにも、まずは何等かの情報を得る必要がある。そう結論付けたマルウェロは、とにかく天理たちがいる式場へ戻るべく足を向けたのだった。

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