102 揺れる世界 ③
――――光だ。七本の剣から立ち上った光の奔流が、そのままひと塊となって琉伊の身体を包み込む。
ボルダン枢機卿と、その手下によって描かれた八角形の円陣が外縁となり、それはそのまま琉伊を閉じ込める光の檻へと変貌した。かと思うと、檻の天井を成す光が変形し、幾本もの光の剣を形作る。
「ひれ伏し、許しを乞え。これこそが光輝神の慈悲と知れ」
厳かに、自らを神の代弁者とでも言うかのように、ボルダンはそう告げる。そこには妄信があった。狂信があった。ゆるぎない信仰があった。だからこそ、止まらない。止められない。
琉伊もようやく話の通じる相手ではないと悟ったのだろう。表情を引き締め、ひとまずは自分へと襲い掛かる事態への収束へと注力するようだった。
まず試そうとしたのは自身を閉じ込める光の結界の破壊を試みる事だった。琉伊がボルダンに放たれた先の拘束魔法を易々と破り去った事は記憶に新しい。その気負いのない表情を見たところ、特に何かをしたというわけでもなさそうだ。傍から見ていた天理からしても魔法を行使しようとしていた形跡は感じられなかった。つまり、素の能力だけであれだけの結界を破ったという事に他ならない。
だからこそ、琉伊が同じように特に何をするでもなくボルダンが放った結界魔法に手を添えたのも理解できるようなもの。両手を光の壁に付き、そのまま体重を乗せて両開きの扉を開けるようにゆっくりと押し開ける。再び光が硝子の破片となって舞い散っていく。そんな姿を幻視して。
――――しかし現実はそんな予測を、いとも容易く裏切る。
「無駄だ」
短く一言。そこには絶対の自信があった。だがその顔に浮かぶのは決して自信ばかりではない。本人もいっぱいいっぱいなのだろう、額には冷や汗が滲み、釣り上げた頬も傍から見てもすぐに分かる程に引きつっている。
それは普段の彼を思えば想像も出来ないほどであり、言葉を濁さずに評すれば醜態とも言えるもの。それはそのまま彼が琉伊の事を――――ひいては魔族の事を徹底的に屠りたいという意思表示の表れだ。
言葉通り、琉伊がいくら力を込めようとなんら意味を成していない。次第に琉伊の表情もまた乱れ始める。余裕が見えたのは最初だけだ。どれだけ力を入れたとしてもびくともしない目の前の障壁に、一転して焦りを見せ始めるのはそう遅くはなかった。
閉じ込めるだけの魔法だったとしたならば、まだいい。今この場で沙汰を下さないという事は、それだけ途中で干渉するだけの機会があるという事だ。
だけど、ボルダンの言葉を鑑みるとそんな生温い手段を取るとは到底思えなかった。現に、琉伊を囲った光の壁、その天辺には眩いばかりに輝く光の宝剣が、今か今かと標的を刺し貫く時を待っていた。
「――――死ね」
ゆっくりと手を正面へと翳し、そして振り下ろす。それは断罪をする処刑人のようであり、事実、ボルダンは己をそうした役割に置いているように思える。
ボルダンの魔族に対する態度と、そしてマルウェロの同じそれを見たことで、天理は自分の価値観がぐらぐらと揺らぎ始めた事を自覚した。今まで、天理にとって魔物、ひいては魔族というのはこの世界の人族に対して仇を成す存在だ。魔物狩りに身を置いていた天理にとって魔法という超常の手段を用いるこの世界の住人をして脅威に思う存在。それはすなわち、不慮の事故によってこの世界に放り込まれたと言える天理を始めとしたクラスメイトたちにとっては天災のようにどうしようもないものに他ならない。
天理は幸運だった。戦う力を徐々に蓄えていけるだけの環境の下に転移したからだ。だけど、それが全員に適応されるわけではない事をもう知っている。紗菜がその例だ。
だからこそ、天理にとっても魔物やそれを生み出し、操っているという魔族の存在は潜在的な敵だった。
だけど、だけどだ。琉伊はどうだ。見た目は人族と何ら変わらない。ボルダンが糾弾し、琉伊がそれに反論する事がなかった事から、琉伊は自身が魔族であるという自覚があり、なおかつこの世界における人族の魔族に対する感情もまた理解しているという事だ。
それでもなお、琉伊はこの国へと来た。そこまで分かっていて、教会の総本山があるこの国では、魔族であるという事が公になってしまえどんな扱いを受けるか、それが理解出来ていないはずがない。
――――そうまでして、琉伊は天理たちに、何を。
「待っ――――!!」
見据えた先で、ボルダンの手の動きに従うかのように、天上の光剣が一つ、また一つと降りそそぐ。伸ばした手、前のめりになった身体を、マルウェロは止める事はなかった。間に合う事はないと判断したからだろう。天理もまた、それ以上歩を進める事は無かった。
息を呑む。知らず握っていた拳から、温かいものが伝うのを感じた。
琉伊がいたその場所は、つい一瞬前とは何もかもが異なっていた。流星群のように降り注いだ幾本もの光の剣が琉伊とその周囲を余すところなく塗りつぶしていた。
一寸の隙間もなく、琉伊の輪郭をなぞるようにして突き立つ光の数々。逃げる場所も、タイミングも一切なかった。なればこそ、光に覆われたその塊が、琉伊だったものである事は確かだ。
白一色に染まった思考の中、隣をふらふらと紫葵が歩き出したのが見えた。その顔に張り付いているのは、ただただ目の前の現実を信じる事が出来ないという呆然とした感情だ。天理もまた、そんな表情をしているのだろう。
天理と琉伊の関係は決していいとは言えるものではなかった。それでも、知己の人間が目の前で息絶えるのに心が動かないはずがない。
「琉、伊くん……?」
紫葵の声が響く。取り繕う事を忘れた、『聖女』ではないありのままの紫葵の姿だ。おぼつかない足取りで琉伊の下へと近付いていく。その目には光の結界も、ボルダンの姿も映っていない。
だが、紫葵の回復魔法の練度はボルダンも知っている。だからこそ、背後から近付く紫葵の気配に気が付いたのか手を横に翳し、静止の意を示す。
ぐっと一度息を呑んだ後、紫葵は意を決したように再び一歩踏み出した。
「――――退いてください」
「それは出来ない相談です。貴女の慈悲は深く、そして広い。それは称えられるべきものだ。しかし、それでも零れるものがある。零すべきものがある。それがこれだった、それだけです」
あくまで諭すようにそう言うボルダンの声音には、一切の悪意はない。あるのはただ紫葵に対する配慮の念だ。
それが分かるからこそ、天理は絶句した。そこまで思いやる事の出来る心を持ちながら、何故目の前の命をそう簡単に踏みつぶす事が出来るのだろう、と。
「――――い、っ」
「なに……っ!?」
ボルダンが手を抜いたわけではない。それは傍から見ていても分かったし、彼が驚きの声を上げている事からも明らかだ。
この場にいる全員の視線が、光の塊へと向けられる。あり得るはずがない、それがこの場の総意だった。
ぴくり、と塊が動きを見せる。そうした事で、端から砕けるように光の欠片が零れていく。
顔の半分が現れ、そして右腕が姿を見せた。
だが、それだけだ。それだけ、だった。
「く、そ……、なん、で……」
振り絞るように放たれた声は疑問に塗れていた。何が琉伊にとって予想外だったのかは分からない。動く事も出来ずにいる天理に分かるのは、かろうじて琉伊がその命を繫ぎとめていられているという事だけだ。
顕わになった顔の半分と右腕は真っ赤に染まり、ほぼほぼ使い物にならないのだろう。むしろあれだけの魔法を受けて原型を留めている事の方が不思議だった。
一度は狼狽した様子を見せたボルダンだったが、改めて見た琉伊の姿に持ち直したのか、結界へとゆっくりと近付いていった。
「ふん、どんなに待てども、身体が再生する事はないぞ」
「な、に……?」
「人が吸血鬼を畏れていたのがどれだけ古の事だと思っている。これまでの歴史の中で、人族は貴様らへの対策を手に入れているのだ」
その言葉に、琉伊が愕然とした表情を浮かべた。それを見て、ボルダンがまた一歩琉伊へと近付いていく。気が付けばボルダンは自身とその手駒が作り出した結界の中へと足を踏み入れていた。彼にはその効果を発揮しないのだろう、何ら構う事なく琉伊の前へと進み出る。
ゆるゆると琉伊が顔を上げた。絶望に染まった目。いつかに見たものと、同じ目だ。
だけど、やっぱり天理は、動かない。動けない。あの日と同じように、堕ちていく琉伊を見ているだけだ。
ボルダンが琉伊の身体に突き立つ光の剣を引き抜いた。くぐもった声が琉伊から上がり、そこから鮮血が噴き出した。
そのまま順手で剣を握り、ぴたりと首元へと添える。琉伊はもう、身じろぎすらしない。絶望という名の重しが身体に纏わりついているようだった。
そのまま大きく剣を振り上げる。ボルダンは何も言わない。琉伊もまた何かを言う事はなかった。
天理は次の瞬間に起こる事を悟り、行動に移した。それは琉伊を助けようとするものではなく、目の前の光景から紫葵を守るためのものだった。
紫葵を抱え込み、視線を腕で遮った。そうしながら、視界の隅で光剣が振り下ろされたのを、確かにとらえていた。
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