巣立ち
「さて、王よ」
ひとしきり母と子たちが泣き止むのを見届けてから、アッシュは王に言いました。
「これであなたの娘の呪いは解けましたが、まさか、彼女をこのまま巣穴に閉じ込めようなどとは思わないですよね?」
「……致し方あるまい」
王はとても長い溜息をつきました。そして、抱き合う親子を見下ろします。
「娘よ。お前は本当に人になった。もはや、竜と共に暮らすことはできん。そうそうに、ここを去るがよい」
「お父様……」
「お母さんは、もう王様に会えなくなってしまうの?」
別れを惜しむような二人の様子に、イブがたずねました。お母さんはさびしげに微笑み、イブの頭をなでて頷きます。
王は厳しい口調で言いました。
「よいのだ。子は、いずれ親の元を離れる」
「なら、俺が送り届けましょう。お姫様、よろしいですか?」
おどけた調子で言うアッシュに、お母さんは少し驚いた顔をした後、深く頭を下げました。
「ありがとうございました。私がこうしていられるのも、あなたのおかげです」
「いえいえ。俺の力なんて大したことはありません。本当に勇敢だったのは、あなたの子供たちの方ですよ」
竜となって長くなった首を振りながら、アッシュは言います。
「アッシュ、本当によかったの?」
雰囲気こそ残っていましたが、変わり果てたアッシュを見上げながらクリスが言いました。
まるで悪いことをしてしまったという顔をしているクリスに、アッシュは変わらぬやさしげな笑みを浮かべます。
「気にしないでくれ。まぁ……人として生き続けることが、不幸だと思っていたわけじゃないけれど、これはこれで良いことなのさ」
「良いこと?」
「君たちを助けることで、恩を返せて幸せだってことさ。これからは気ままに生きていくことにするよ」
「……アッシュとやら、そうはいかないぞ」
気楽そうに言うアッシュに対し、王がにらみながら言いました。
「お前は人としての生に慣れ過ぎている。これからは、竜の社会で生きることを学んでもらう。お前の力は、王の力……気ままに過ごせるとは思わぬことだ」
「え……じゃあ、もしかして次の王は俺とか、言わないですよね?」
「うぬぼれるな、バカ者め」
叱られたアッシュはおおげさに頭を下げると、こっそりとクリスとイブに向けて片目をつむってみせます。
「わかった。アッシュ、ありがとう」
「うん。それでいい、こちらこそ、ありがとう」
顔を伏せたアッシュの鼻先にふれて、クリスの顔にも笑顔が戻りました。そうして、アッシュは振り返り、王を見ます。
「では、王よ。行って参ります」
「うむ……きちんと戻ってくるのだぞ」
「わかっていますって。じゃあ……俺は先に外に出ているよ。きちんと、あいさつをしておいで」
そう言うと、アッシュは先に神殿の外へと出て行きました。お母さんは両隣にクリスとイブの肩を抱きながら立ち上がり、父親である王に改めて頭を下げました。
「お父様、本当にお世話になりました。これより私は、人として生きます」
「ああ……、許そう。お前は子を作り、親となったのだ。幸せになりなさい」
穏やかな王の声に、さんざん涙を流したはずなのお母さんの瞳には、また雫が込み上げそうになりました。
すると、そんなお母さんの手を、イブが強く握りました。
「イブ、どうしたの?」
たずねられ、イブは少し言いにくそうに、もじもじとお母さんの顔を自分の手もとに視線をさまよわせていました。
イブの手には、ペンダントが握られています。そして、やがて許しをこうように言いました。
「お母さん、このペンダントを、王様にあげちゃダメかな?」
「……どうしてだか、言える?」
そのペンダントの正体を知った今、クリスとイブにとって、それはよりいっそう大切にするべきもののはずでした。ですが、だからこそイブは、渡すべきだと思ったのです。
「だって、王様は、お母さんのお父さんなんでしょう? なのに、お別れしなくちゃいけないなんて……クリス、あなたもそう思わない?」
「うん……、そう思うよ。僕のも、王様にあげたい」
イブの言いたいことは、クリスにはよくわかりました。
森を離れなさいとお父さんに言われたときも、お父さんが氷漬けになっているのを見てしまったときも、二人はとても辛い気持ちになりました。
もう二度と、お父さんは頭をなでてくれず、声も聞くことができない。そんなことは嫌でした。
そして、お母さんと出会ことができた今、そのときと同じような気持ちが二人の胸にはあったのです。
お母さんと離れたくない。ずっと一緒にいたい。
けれど、二人と一緒にいると、お母さんは王様と離れ離れにならなくてはいけなくなる。
それはとても悲しいことで、とてもわがままなことなのではないのかと思ってしまったのです。
「あなたたちは、やさしい子ね」
お母さんはクリスとイブの頬をそっとなでると、胸に引き寄せました。
「お父様、よろしいですか?」
「……その気持ち、ありがたく受け取ろう」
お母さんは微笑むと、子どもたちの肩をそっと押しました。二人は少しだけ緊張した顔で、王の前まで歩きます。王はゆっくりと顔を伏せ、静かに二人を迎えました。
「王様……僕たちのお母さんを守ってくれてありがとう」
「それから、お母さんをとってしまって、ごめんなさい」
「気にする必要はない。さっきも言ったが、親から子が離れるのは、必要なことなのだから」
王は穏やかではありましたが、言葉を挟むすきのない雰囲気で言いました。
そして、その王の言葉に、ふとイブの胸に不安がよぎります。
「……それは、わたしたちも、いつかお父さんとお母さんから離れなくちゃいけないってこと?」
「その『いつか』を決めるのは、お前たち自身だ。そのときに、もう一度考えてみるといい。今のわしと、お前たちの母の気持ちをな」
真剣な王のまなざしに、二人は頷きました。王の言いたいことは、まだ二人にはわかりませんでしたが、決して忘れないようにしようと胸に誓いました。
「それじゃあ、王様。もう少しだけ頭をこっちに向けて」
イブは二つある三つ編みの片方のリボンをほどくと、クリスと自分のペンダントの紐に結んでつなげました。
「ふむ……なら、二人とも乗りなさい」
王は何か考えがあるのか、二人に向けて前足を出しました。二人は王の顔を見返して、おっかなびっくりながらも差し出された前足に乗ります。
すると、王はひょいと前足を持ち上げて、自分の耳元に二人を降ろしました。王の銀色のたてがみの中は、二人が今までで寝たどの布団よりもふわふわとしており、おぼれそうになってしまいました。
「適当なたてがみに結んでおくれ」
二人はたてがみを引っ張って痛くならないように、そっとリボンを結びました。
「よし、できたわ」
「ばっちりだね」
たてがみの中に、きらりと光るペンダントを見て二人は笑い合いました。
二人を頭から降ろした王は少しだけ首を揺らし、耳元で鳴り合うペンダントの音をきいて、心地よさそうに唸りました。
「ありがとう、二人とも」
そして、二人はお母さんと手を繋ぎ、いよいよ神殿を立ち去ろうとします。
そのとき、お母さんは何事かを二人に耳打ちしました。王が首をかしげていると、三人は旅立ちの笑顔を王に向けました。
「お父様、どうかお元気で」
王は無言で頷きます。次に、クリスとイブが顔を見合わせ、せーので口を開きました。
「ありがとうございました。さようなら、おじいちゃん!」
笑顔で言われ、思いがけずに王は目を丸くしました。
「ああ……さようなら。クリス、イブ」
かみしめるように二人の名を口にし、王は別れの言葉を告げました。
手を振る子どもたちの姿が見えなくなるまで見送ると、王は疲れ切った息を吐いて床に伏せます。とても大きな荷物を降ろせて、安心できたような気分でした。
「おじいちゃんか……。こりゃあ、いいわい」
目に焼き付けた去りゆく三人の家族の笑顔を思い浮かべ、一人残った王の小気味よい笑い声が、ひっそりと神殿に響きました。