紳士の猟犬
「ニーノさん、起きてます? ニーノさん?」
『ヴィオーラ』でのひと騒動から一夜明け、ニーノは誰かに呼ばれる声で目を覚ました。
あの声は……シルヴェリオだ。なんであいつがおれのアパートにいるんだ?
くらくらする頭をなんとか持ち上げて、ニーノはのったりと身体を起こす。
あー、思い出した。昨日は確か——【ビアンコステラ】の構成員のふりしてた馬鹿野郎をとっちめるはずが、返り討ちを喰らってしまったのだ。相方のアルフォンソが始末をしてくれたようだが、事が済むなりさっさとどこかに行っちまった。シルヴェリオが介抱してくれなきゃ今頃冷たいコンクリートとおはようのキスをする羽目になっていたところだ。
「ニーノさん?」
「起きてるよ。頼むから大声出さないでくれ、頭に響く……」
「ほお、いいご身分ですねぇ」
シルヴェリオのものではない声に、ニーノは一瞬頭痛も忘れて飛び起きた。
「よ、よおアル……元気そうだな?」
「寝坊しておいて第一声がそれですか。ほお」
目の前に居たアルフォンソは決して声を荒げているわけではなかったが、その右手は固く拳を握っている。これ以上弁明したところで状況が好転することもなさそうなので、ニーノは早々に話題を切り替えることにした。
「そういえば、昨日あれからどうなったんだ? あの『野良犬』君は?」
「そのことで、マルクさんから話があるそうです。今朝伝えたはずですが?」
聞いてないぞそんなこと、と言いかけて、ニーノは言葉を飲み込んだ。そういえば、早朝変な時間に起きてしまってぼーっとしていた時に、シルヴェリオから言伝されたような気がしないでもない。
「あー……そうだったな。で、何時からだっけ?」
「あなたが寝坊しなければ、三十分前には始められたんですけどね」
ぐうの音も出ない。
「まったく、実の息子だからってあの人は甘すぎるんだ。本来だったら今頃指の一本や二本はなくなってますよ」
「いくらなんでもそこまで厳しくはないだろ……あーわかったわかった! すぐ仕度するからそのナイフは仕舞え! 仕舞ってください!」
アルフォンソはマルクのことを『甘すぎる』と言ったが、ニーノに言わせればとんでもない話だ。もし本当にあの狸親父が息子を甘やかしているのなら、迎えにアルフォンソ・ビガットを寄越してくるはずはない。
『猟犬』と揶揄されるこの赤毛の青年は目上の者には忠実だが、ニーノに対してだけはなぜかあからさまに牙ををむいて来るのだった。ちょうど、飼い犬が家庭の中で自分の順位を決める習性があるように。ニーノは一応アルフォンソの先輩なので敬意を払われてしかるべきなのだが、いまいち存在感を示せていないようなのだった。
『カスターノ』で待っていたニーノ達の前に、杖をついた壮年の男が現れた。右足を引き摺りながら歩くのは、昔の抗争で受けた傷の後遺症のためだ。
「昼食の時間も近いので手短に話しましょう」壮年の紳士はそのように話を切り出した。子どもを慈しむ母親のように優しく、敵を威圧する獅子のように重々しい声だった。「どうぞかけて。二人とも」
言われた通り、アルフォンソはその紳士——マルク・アメリアが示した正面の椅子に腰掛ける。一方ニーノは、なにも聞こえていないフリをして入り口の扉の近くに立ったまま動かない。
「昨晩はご苦労さまでした。ニーノ、アルフォンソ。一仕事終えた直後で恐縮ですが、君たちにもうひとつ頼みたいことがあります」
ふん、『恐縮』だなんてこれっぽっちも思っていないくせに。ニーノは心の中で毒づいた。
「『ピエトロ・オーロ』のことですね? 何者なんです?」
アルフォンソが身を乗り出して問いかける。
一瞬、マルクの表情に暗い影が差したように見えた。
「……彼は私の『前任者』です」平淡な声でマルクはアルフォンソの質問に答えた。「彼はかつて、この組織の幹部でした。十年前のことです。現在のボス、ディーノ・ビアンキーニが行った『建て直し』の際、ピエトロは組織を追われることになりました……。まさか今になってその名前を聞くことになるとは」
組織の『建て直し』のことなら、ニーノも少しばかり聞きかじっていた。とはいえ関係者の一人である父親は詳しく話してはくれなかったし、周囲の人間もその話については触れたくない様子だったので、詳細についてはわからない。
「追放された元・幹部が【ビアンコステラ】に攻撃をしてきた。これは由々しき問題です。被った損害がたとえ一匹の蚊に刺された程度だとしても、その蚊が病原菌を持っていた場合、組織そのものが死んでしまう可能性もある。そして」
一端言葉を切り、マルクは空いたカップを下げに来たラウロに手で合図を送った。ラウロがラジオのつまみを操作して音量を上げる。
臨時ニュースを告げる男の上ずった声が大きくなる。その内容にニーノの心は動揺した。
ポースシェルの密造酒市場の元締め、ベッペ・パローラが逮捕されたと、そのニュースは伝えていた。メキシコから密輸された商品を港で受け取るところを押さえられたらしい。ベッペは【ビアンコステラ】の幹部の一人でもある。マルクはすでにそのニュースを知っていたらしく、動じることなく冷静に言葉を続けた。
「すでに症状は現れはじめている」
「パローラさんが? なんで?」
ベッペのことは、ニーノもよく知っている。彼は豪胆な性格ではあるが、幹部という役職ゆえに用心深さも持ち合わせていた。取引に同じ港を使うことは当然避けていただろうし、仕事のときはいつも信頼できる部下とだけ連絡を取って計画を進めていたはずだ。
ニーノはラジオに駆け寄ったが、ラジオは同じような内容を繰り返すだけだった。
「理由なんてわかりきっているでしょう、ニーノ」アルフォンソの口調は至って冷静だ。「密告……されたんですね。組織の誰かに」
マルクは静かに頷いた。
「最初は余所者を利用して、【ビアンコステラ】の評判を落とそうと目論んでいたようですがね。未だにピエトロを慕う者たちが、とうとう動き出したようです。彼らが紛れ込んでいるのはベッペのところだけではないでしょう……。そこで、です」
マルクはぱっと顔を上げ、ニーノのほうを見た。ニーノは反射的に目を逸らしたが、今度はじとりとこちらを睨むアルフォンソと目が合った。囚人の脱走を阻む番犬のような双眸だった。渋々視線を戻した息子に対し、マルクは穏やかに微笑みかける。
「なに、そんなに難しいことじゃありませんよ。ちょっとしたおつかいを頼みたいだけです」
父親の軽い口調に、ニーノは不安を禁じえずに聞き返す。
「なんだよ、まさか組織に紛れ込んでるピエトロの支持者を全員捕まえろって言うんじゃないだろうな」
「そんな無茶は言いませんよ。『コジモ』という男に会って、話を聞いてきて欲しいのです」
「『コジモ』? 誰だそいつ」
聞き覚えの無い名である。
「ピエトロが幹部だった頃、その下についていたコバンザメですよ。今は組織を抜けてヒースターという町に隠れ住んでいます。監視付きでね」
「じゃあその監視してる奴に頼めばいいじゃねえか」
「そうしたいところなんですが、数日前から連絡が取れないのですよ。だからついでに様子を見てきて貰いたいと思いましてね」
「……嫌な予感しかしねえんだけど」
「では、頼みましたよ」
問答無用で話を打ち切り、マルクは紅茶を啜りながらラウロと世間話を始めた。ぶりかえしてきた頭痛に頭を抱えているニーノの肩を、アルフォンソが叩く。
「ぼけっとしてないで、とっとと行きますよ。時間が無いんだから」
「わかったわかった! 行けばいいんだろ……」
心なしかアルフォンソの目が輝いて見える。ご主人マルクの頼みとあって、随分と張り切っているようだ。ニーノはアルフォンソにがっちりと手を掴まれ、引き摺られて行った。