放たれた矢
ギーゼラ・ハインが【ビアンコステラ】を仕留めようとしている。僕はそれを止めに行く。そう言って、アルフォンソはニーノたちの前から立ち去った。見張りの男の死体だけ残して。
開け放たれた扉から、湿気を帯びた風が吹き込む。
呆然と立ち尽くしていたニーノの手を引いたのはシルヴェリオだった。
「行きましょう、ニーノさん」
「行くってどこにだよ」
「アルフォンソさんを助けに行くに決まってるでしょう」
「なに言ってんだよ」ニーノは投げ遣りに言う。「おれが居たって足手まといになるだけだろ」
「……でも、あなたがここに来たのは」
「違う。おれはただ親父に当て付けたかっただけだ。現におれが助けに行かなくたって、あいつは自力で逃げて行った。おまけにこっちが助けられる始末だ。あいつには、おれは必要無いんだよ」
「そんなこと……」
「いいんだ。付き合せて悪かったな。もう用は済んだ。帰ろう」
転がっている死体を跨いで、ニーノはその場を去ろうとする。その肩を、駆け寄って来たシルヴェリオが掴んだ。急な動きだったので、ニーノは驚いて振り返る。
「なに勝手なこと言ってるんですか!」
「シルヴェリオ……?」
「怪我をおして、おれまで巻き込んで! なんだって? 『親父に当て付けたかっただけ』? ふざけないでくださいよ。そんな身勝手な理由で、おれの貴重な休日を台無しにしやがって!」
「なんだよ、予定あったんなら無理に付き合わなくても……」
「そういうことを言ってるんじゃないッ!」
そう言って、シルヴェリオはニーノの手を強引に引いて歩き始めた。
「いだだだだだだ! ちょ、シルヴェリオさん!? 痛い痛い! 引っ張るなってば!」
ニーノの抗議に耳も貸さず、シルヴェリオはどんどん歩いて行く。
「痛いってば! 傷が開く! あーもげるもげる!」
ようやく解放された場所は公衆電話の前だった。いつもおとなしいシルヴェリオが強引な手段に出るとは珍しい。アルフォンソに悪い影響でも受けたのだろうか。そう思っているニーノをよそに、シルヴェリオはどこかに電話をかけはじめる。電話が繋がると、シルヴェリオは大袈裟に慌てた口ぶりで捲くし立てた。
「カスターノですか!? 大変なんです、ニーノさんが……! えっと、西地区の……うわあーっ!」
ガチャン。
なかなか真に迫った演技である。電話を切ると、シルヴェリオはこちらを向いてにやりと笑った。してやったりというふうだ。
「……なんだ今の」
「その足じゃ、歩いて帰るのは無理でしょう?」
「普通に呼べばいいじゃねえか……」
数分後、慌ててやって来た一台の車が目の前に停まる。運転席からハーバート、助手席からはラウロが血相を変えて飛び出して来るが、やはりマルクの姿は見えない。……と思ったのも束の間。
「ニーノ!」
後部座席のドアが開き、マルク・アメリアがのっそりと姿を現した。髪は跳ねているし、額にはうっすらと汗が浮いている。驚くニーノと目が合うと、マルクはこほんと咳払いした。
「無事か、ニーノ」
周りを警戒しながら、厳しい口調でハーバートが言う。
「ああ……まあ、このとおり?」
「うちの構成員を助けてくれたようだな。礼を言おう、シルヴェリオ君。さあ、車に乗って」
「その車四人乗りですよね。おれは自分で歩けますから、ニーノさんの手当てをお願いします」
「む……わかった。だがここは一人では危険だ。すぐに戻るから、近くに隠れているんだ。いいね」
「わかりました」
シルヴェリオは去り際、ニーノに向かって目配せをした。どういう意味なんだ……?
「なんでアンタまでついて来てんだよ。厄介事は部下に任せて、幹部サマは安楽椅子でくつろいでいればいいものを」
むすっとした調子で問えば、マルクはいつも通りに答える。
「港で爆発事故がありましてね。その件でボスに呼び出されたところだったんですよ。入れ違いで君の友人から電話が入ったので少し予定が狂いましたが」
「つまりついでかよ……その割にはずいぶん慌ててたみたいだが?」
「急な召集だったのでね」マルクはなんでもないふうに答える。「ところで、アルフォンソには会いましたか?」
ニーノは口を噤む。
「君はマフィアの誓いを覚えていますか?」
「なんだよ突然。あたりまえだろ」
「アルフォンソがレオンツィオの部下を殺害した疑いを掛けられたとき、君は彼を信じると言ったそうですね」
「……」
「今も同じことが言えますか?」
すぐには答えられなかった。アルフォンソの口から聞かされた「アンタの母親を殺した」という事実。それがずっと脳裏に引っ掛かっているのだ。アルフォンソが目の前から立ち去ろうとしたとき、それを引き止めることもできたはずだった。いつもだったらそうしていただろう。しかしニーノは見てしまったのだ。見張りの男を殺したときのアルフォンソの獰猛な目を。それはコジモを撃ったときや、殺人の疑いをかけられて追い詰められたときの怯えた双眸とは明らかに異質なものだった。あの目の輝きは、『歓喜』だった。血生臭い勝利に陶酔する、喜びの感情を表していた。
その目を見たとき、ニーノは理解してしまった。アルフォンソは飼い慣らされた犬なんかじゃない。狼だ。血に飢えた野生の狼だ。
「……わからない」それがニーノの答えだった。「わからない。わからなくなっちまった。……なあ親父、教えてくれよ。おれはどうすればよかったんだ……?」
「おや、いつになく自信なさそうですね。私に黙って敵陣に飛び込んでいった威勢はどこへやら」
「最初は、あんたに当て付けたかっただけだった。アルを囮に使うやり方が気に入らなかったんだ。だからあいつを助けて、敵の親玉もぶっ潰して、見返してやりたかったんだよ。でも、あいつはそんなこと望んじゃいなかった。おれなんか必要なかったんだ。あいつは、あんたのために犠牲になることを望んでる。あいつにとってはあんたが全てなんだ。あいつには、おれの声なんて聞こえちゃいない」
「君はそう思うんですね、ニーノ」
「だってそうだろ。他にどう解釈するんだよ」
「まったく、若さというのは時に厄介なものですねえ」
なにを突然年寄り臭いことを言い出すんだ、こいつは。
「私に言えるのは、『起こってしまったことはもう取り返しがつかない』ということだけです」マルクは軽い口調で答える。「失ったものを悔いて戻るなら悔いていればいい。恨んで幸せになれるなら恨み続けるのもいいでしょう。私達は所詮人間です。全知全能の神とは違う。過去をやり直すことなどできないんだから」
「堅苦しい説教なら後にしてくれないか」ニーノは盛大に溜息を吐く。「おれは今気が滅入ってんだぜ」
「でもね、失ってしまったものを悔いても、起こってしまったことを恨んでも、幸せになんてなれないんですよ。後悔や憎しみで幸福になった人間は居ない。何故ならそれらは、人を過去に縛り付けるだけでなく、未来をも奪ってしまうものだからです」
半ば聞き流していたニーノだが、マルクがこの話を始めた真意に気が付いた瞬間、彼は父親の顔を凝視していた。
「過去に縛られてしまったばかりに、失わなくてもいいものを失ってしまうこともあるんですよ」
妻を殺害したアルフォンソをマルクが裁かなかったのは、生かして苦しめるためなんかじゃない。ましてや、聖人のように慈悲の心で許したのでもない。
彼は未来へ進むために憎しみを捨てたのだ。
「もう一度訊きますよ、ニーノ。君は、アルフォンソを信じてやれますか?」
ニーノは答えられずに顔を背ける。アルフォンソは友人だ。しかし母親の仇でもある。父親のように、憎しみを捨てて先へ進むことができれば楽なのだろう。でもそれじゃあ、殺された母親の痛みは? 父親を恨み続けたニーノの心は? 誰が救ってくれるのだろう。誰が癒してくれるのだろう。
母を食い殺した狼に手を差し伸べる勇気は、ニーノには無かった。
進み続ける車の前方に、塔のようなものが見え始めた。距離が縮むにつれ、それが屋敷の一部だったことがわかる。人里離れた崖の上に立つその建物は、周囲の景観も相まって異世界染みた雰囲気を醸し出していた。
「あれは……?」
「ビアンキーニ邸だ。先にマルクを送り届けてから病院へ向かう。それで構わないな、ニーノ」
ビアンキーニ——ディーノ・ビアンキーニの屋敷か。そう言われてみると、この城塞のような石造りの城は少し地味な気もする。もっと黄金やら宝石やらを散りばめた、成金趣味の金ぴか御殿を想像していたのだが。
「いえ、見たところ意識もはっきりしているようですし、ニーノにはこのまま同行して貰います」ハーバートに答えたのはマルクだった。「君たち二人はシルヴェリオ君の迎えをお願いします」
「了解しました」
「えっ、えっ?」
ハーバートはわかっていた様子であっさりと返事をした。ラウロは心配そうにこちらを見て、静かにガッツポーズをした。頑張れ、ってことっすかラウロさん。
「いやいやなに言ってんだ親父。見て。これ見て。足血が滲んじゃってんの。痛いんだけど。ねえ」
「ん、大丈夫大丈夫。唾つけとけば治りますよ」
「おれもシルヴェリオのこと心配なんだけど。あー心配だなー! 助けて貰った借りもあるしなー! マフィアの男として借りは返さないとなー!」
「大丈夫ですよ、ハーバートたちが助けに行きますから。後でおいしいものでも驕ってあげなさい」
ニーノは思いつく限りの言い訳を並べて逃れようとするが、ことごとくマルクに一蹴されてしまった。
レオンツィオみたいなめんどくさい信者がついてるんだから、ディーノ本人もめんどくさい奴に決まってる。よしんばまともだったとしても、相手は裏社会の首領である。うっかり粗相を働いたらどんな仕打ちを受けるかわかったものではない。車を飛び出して逃げようとも思ったがそんな度胸は無く、ニーノは売られて行く子牛のような気持ちで門を潜る羽目になった。




