狩りの幕開け
ポースシェル・シティの東にある理髪店『ヴィオーラ』の地下に、小さなもぐり酒場がある。個人経営のため店内は決して広くはないものの、騒がしくない雰囲気は評判がよく、本来はそれなりに繁盛している店だった。つい数十分前まで人々が談笑を交わしていたその場所は、見るも無残な様相を見せていた。割れた食器やグラス、壊れた机の破片がそこらじゅうに散乱し、壁や床には飛び散った血痕が歪な斑模様を刻んでいた。
アルフォンソ・ビガットは極めて不機嫌だった。
溜息を吐き、ジャケットについた埃を払い、割れた酒瓶の散乱する床を見遣る。そこには鼻血を垂らしてだらしなく転がっている男の姿があった。アルフォンソはつかつかとそちらに近付くと、彼の脇腹を爪先で小突く。
「ニーノ、いい加減起きてください」
ニーノ・アメリアは仰向けになったまま、焦点の定まらない目で天井を眺めている。
「あー、今ちょっと無理。めっちゃ天井回ってる。おれの三半規管マジ回転木馬」
なに言ってんだこいつ。アルフォンソは生ゴミでも見るかのような目で相方を見下し、冷徹に告げる。
「じゃあそのまま朝まで転がっててください。そういえば、明日は燃えるゴミの日でしたね」
「冷たいこと言うなよー」
「アルフォンソさん」そう声を掛けてきたのは、酒場のバーテンダーを勤める銀髪の青年だ。「ニーノさんの介抱はおれがしますから、アルフォンソさんも少し休んでいてください」
「シルヴェリオ……おまえだけだよ、おれに優しくしてくれるのは……!」
アルフォンソは演技掛かった台詞を吐くニーノを冷ややかな目で一瞥し、シルヴェリオに言う。
「それじゃ、ニーノのことはよろしくお願いします。僕はこれから後始末をしなければいけないので、これで失礼します」
「そうですか……」
「今回は情報を提供していただきありがとうございます。後片付けは組織の者に任せてください。それと、報酬の支払いですが……」
「い、いえ! 報酬なんて!」アルフォンソが小切手を取り出すのを、シルヴェリオが慌てて止める。「【ビアンコステラ】の方々にはいつもお世話になってるし、それに、今回はこちらから頼んだことですし……」
「では、壊してしまった備品や商品の弁償代ということでお納めください」アルフォンソはシルヴェリオの返事は待たず、金額を記入した小切手を真っ二つになった卓上に置いた。「【ビアンコステラ】の名を汚す不届き者の排除にご協力いただき、ありがとうございます。シルヴェリオ・アニスシード君」
アルフォンソとニーノがここを訪れたのは、ニーノの友人であるシルヴェリオに『厄介な客への対処』を相談されたからだった。アルフォンソたちが所属するイタリアン・マフィア【ビアンコ・ステラ】は酒の密輸や密造酒の製造、販売を主な収入源としており、『ヴィオーラ』のもぐり酒場にも商品を卸している。取引相手が困っているとなれば、みかじめ料を納めてもらっている分の見返りは与えてやらねばならない。しかも、『厄介な客』というのが【ビアンコステラ】の名を騙った余所者だというのだから、なおさら放っておくわけにはいかなかった。気絶しているその不届き者の手足を拘束し、車のトランクに積み込んで、アルフォンソは店を後にした。
ポースシェルの北側にある喫茶店、『カスターノ』。市街地の入り組んだ路地の中にあり、昼夜を問わず客が少ないこの店が、何故十年近くも寂れずに保たれているのかを知る者は多くない。その店にアルフォンソが到着したのは、『ヴィオーラ』を後にして『後始末』を終えてから一時間後のことだった。店内に入ると、煮詰めた砂糖の匂いと淹れたてのコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。
「やあお帰りアルフォンソ。ちょっと遅い時間だけど、夕食は?」
カウンターで皿を拭いていた金髪の青年、ラウロ・ビアンコが顔を向ける。
「いえ、もう済ませてきたので結構です」
「そうかい? それなら、仕事は順調に進んだわけだ」
「大きいクソガキのお守りを除けば、ですけどね」
「ニーノのことかい?」
苦笑するラウロに肩をすくめる動作で答え、アルフォンソは自分の定位置である壁際の席に座る。
「それで、例の『野良犬』はどうした?」
カウンター席でコーヒーを飲みながらモンブランをつついていたハーバート・ルッツォリーニが、切れ長の目をアルフォンソに向けた。『野良犬』というのはこの辺りのスラングで、【ビアンコステラ】に敵対する犯罪組織や余所者を表す言葉である。
「聞きたいことは聞いたので、片付けました」
顔色一つ変えず、アルフォンソは今日食べた昼飯の話でもするかのように告げる。
「拷問したのか」
「いえ、その必要はありませんでした。自分から全部喋ってくれましたよ」
「マルクの言っていた『黒幕』については?」
余所者が【ビアンコステラ】の名を騙ったり、【ビアンコステラ】の管轄する店で騒ぎを起こしたりなどの問題は今回だけではない。ここ数日立て続けに起こっている騒ぎについて、アルフォンソの所属する班を率いるマルク・アメリアはこう言っていた。
流れ者の犯罪者やただのゴロツキであれば、わざわざマフィアの逆鱗に触れるようなことはしない。ひょっとしたら、何者かの意思によって利用されているのではないか、と。
アルフォンソは先ほど捕まえた『野良犬』に聞いた話を思い出しながら、頭の中の原稿を読み上げるようにして告げる。
「あの男が言うには、『ピエトロ・オーロという男に頼まれた』と」
その名前を聞いた瞬間、ハーバートだけでなくラウロまでもが表情を強張らせ、店内の空気が一層張り詰めたものへと変わった。
「ご存知なんですか?」
アルフォンソの問いにハーバートは答えない。変わりにラウロが、一瞬の逡巡の後に口を開く。
「アル、確かに相手はその……『ピエトロ・オーロ』と言ったのかい?」
「はい。残念ながら、その男の素性や経歴は聞き出せませんでしたが……その男が、なにか?」
「……アルフォンソ、今日のところは早めに休んでおけ。このことは明日、マルクに報告しておく」
「マルクさんに? しかし……」
言いかけて、アルフォンソは口を閉じた。ハーバートが冗談を言うような男ではないことを、アルフォンソは知っていた。二人の態度に疑問が無いわけではないが、焦らずとも明日には明らかになるだろう。
「では、僕はこれで失礼します。おやすみなさい」
アルフォンソは一礼し、店の奥にある階段へと向かった。『カスターノ』の二階は下宿部屋になっていて、寝泊りができるようになっている。活動の拠点としてこの喫茶店が使われることが多いので、空いた部屋を貸してもらっているのだ。
アルフォンソは部屋に入り、シャワーを浴びるためにシャツを脱ぐ。ふと顔を上げると、窓に映った自分の姿が目に止まった。薄い火傷の痕や細かい古傷の残る肌が目に入り、アルフォンソは眉をしかめ、カーテンを閉めた。