第1章 Part.1
「戦争が起きても悲観してはいけないし阻止するべきでもない。なぜならこの世の中において新たな時代への転換期の際には毎度のように世界規模の戦争が起きているからである。」
少年は物心ついた時には既にとある研究所にいた。
自分の誕生日も両親も分からず、一般の中学に入学するまではその研究所でいろいろ学んでいた。
その時1人の科学者に「戦争とはなんだ」と尋ねた時の回答がこれだった。
研究所で学び始めて10年ほど経ったある日。
少年は初めて自分の名前と生年月日を教えてもらい、一般の中学への入学を告げられたのだった。
普通の中学生になってから自分の今までの境遇が異常だったのだと初めて感じるようになった。
今までは「戦争が起きても悲観するな 」と教えられていたのに対し、
一般の学校では「戦争は忌むべきものだ」と教えていた。
研究員を見ていて何となく気が付いていたが、周りの生徒も至って普通の人間で少年の様な力が無かったのだ。
初めの数ヶ月は一般世間についていくのに必死だったが、次第に慣れていき中学生活はそれなりに充実した3年間だった。
そして、少年の生活に変化が起きたのは高校に入った頃だった。
**********
「あぢ~・・・」
アスファルトから照り返す日差しに耐えながら、自動車が通らないのにやけに待ち時間が長い十字路の信号を待つ。
まだ7月に入って間もないというのに異常なくらいな暑さである。
これも地球温暖化の影響だろうか・・・、年間最高の平均気温は既にこの3年近くで5.4℃も上昇している。
「やれ戦争だの・・・。他にも対処しなきゃいけない国際問題が今ここにあるだろうに・・・。」
少年はあまりの暑さにグッタリしている。
そして、やっと信号が青に変わり止まっていた時間が動き始める。
横断歩道の中央あたりで1人の白いワンピースを着た少女とすれ違う。
何の曇りのない透き通るような白い肌…。
真っ白なつば広の帽子をのせた艶やかな長い黒髪に真っ直ぐ前を見据えた涼やかな黒い瞳…。
すれ違いざまに柑橘系の香りが鼻を擽る。
横断歩道を渡り終わった後に少年は道路の反対側を振り返ったがそこにはもう誰もいなかった。
**********
「GG-01-か・・・。久方ぶりだな」
「・・・今は森本翡翠だ」
少年は1ヶ月に1回は必ず研究所に訪れて身体検査を受ける事を義務付けられている為に、今日は研究所を訪れている。
GG-01-とは少年が名前を受け取る前まで呼ばれていたコードネームである。
そして今の少年の名前は森本翡翠。
「そういえば・・・爺」
身体検査が終わり、学校の制服に着替えながら、座り心地の良さそうな椅子で何かの書類を読んでいた白衣を着た初老の男に声を掛ける。
「・・・なんだ?」
「俺の名前の事なんだけど」
初老の男は一瞬だけ翡翠を見るとすぐに書類に目を戻す。
「俺の名前。森本は一般的で分かるけど翡翠って何なんだ?」
翡翠は自分の名前に不満があるらしく、口を尖らせている。
「・・・何を今更」
白衣の初老は今も尚、書類から目を離さずに相槌程度の返事しかしない。
実際、「翡翠」なんて名前は何処を捜してもいなく、周りよりも浮いてた感じがしたのだ。
「森本ってのはお前の本当の苗字だぞ」
「・・・は?」
白衣の初老の発言に翡翠は呆然としている。
「・・・俺って肉親がいたのか?」
「当たり前だろ?コウノトリが運んできたとでも思ってたのか?」
翡翠は未だにショックを隠せないでいる。
当たり前だ。
今まで知らされていなかった肉親が出てきたのだから…。
だが彼はそれ以上その事に関しては追求しなかった。
「って事は翡翠ってのも???」
「それは私がつけた」
「・・・おい」
翡翠は期待外れの答えに落胆した。
できれば名前も自分の肉親に付けて欲しかった。
「・・・しょうがないだろ。お前が生まれてきた時に右手に握っていたんだから」
白衣の初老はコーヒーを一口啜ると書類を机に置き、翡翠を真剣な目で見据える。
「・・・それより、ついにアメリカと中国が動くぞ」
その一言に翡翠の表情も一気に硬くなる。
今の日本は完全に平和ボケ状態で国自体が弛んでしまっている為このような情報も一般市民にはほとんど公開されておらず、隣国でいつ戦争が始まったとしても可笑しくない状況なのに危機意識が全く無いのだ。
「今のところは介入の意向はないが、万が一の為に召集が掛かるかもしれん」
その言葉に翡翠はため息混じりに呟く。
「戦争が起きても悲観してはいけないし阻止するべきでもないって教えたのはアンタだろ?」
「阻止はしない。万が一日本に危害が加わった場合だ…。転換期の前に死んでしまっては堪んないからな」
白衣の初老はニヤリと笑う。
翡翠はやはりこの爺が心から好きにはなれない。
**********
翡翠が研究所の敷地を出ると外はもう夕方近くになっていた。
今日は自分で夕食を作る気分でもなかった為に、弁当を買いにコンビニに寄る。
買い物を終え、コンビニから出ようとしたところで翡翠は外で不審な人物がこちらの様子を窺っているのを見つけた。
暫く様子を見ようと、雑誌置き場に行き雑誌を開いた。
明らかに季節外れで姿を隠していますと言わんばかりのフード付きの黒のコートにサングラスを掛けている。
見た感じ銃器類は所持していないだろう。
翡翠は軽くため息を付くと、コンビニを出て近くの公園のジョギングコースへと歩いていく。
やはりあの不審者の狙いは翡翠のようで、数十メートル後ろを付いて来ていた。
翡翠はたまに後ろを振り向き不審者を窺う。
不審者は翡翠が振り向く度に巧みに気配を消し隠れている。
「そろそろ・・・」
翡翠は周りを見回し自分と不審者しかいない事を確かめる。
そして地面に屈み込み、地面を歩いていた蟻を捕まえ右手に乗せる。
翡翠は右手の上でウロウロしている蟻に向かって神経を集中させる。
すると蟻が蒼白く輝き始める。
その輝きはオーロラのようにうねりながら右手人差し指に集まっていき、指先にゴルフボール位の大きさの蒼い球体を作り出した。
翡翠は蟻を地面に放した。
そして、振り向き様に右手人差し指を不審者が隠れているだろう茂みに突き向ける。
すると、指先の蒼い球体が弾丸のような速さで茂みへと飛んでいく。
そして茂みの辺りで小規模の爆発が起き、茂みがあった場所には直径1メートル程のクレーターができたのだった。
「・・・逃げられたか」
翡翠はため息を付くと自分の住んでいるアパートへと帰っていく。
「・・・あの爺には報告しといた方がいいかな?」
翡翠はポツリと疑問を口にすると、その場を去っていった。
*********
「お~い、翡翠~」
学校の方の補習授業も終わり、クラスを出ようとしたところを中学時代からよく絡んできた2人の友人に呼び止められる。
「これから数人集めてカラオケに行くんだけど、お前も来るか?」
安部晋と彼の幼馴染の船岡里穂。
翡翠が中学時代を無事に乗り切れたのは何と言ってもこの2人のおかげでもあるのだ。
里穂に関しては、特にまだ世間慣れしていない頃の翡翠を何も聞かずに黙って何かと助けてくれていた。
「カラオケか・・・」
ふと晋の後ろに隠れるように立っていた里穂と目が合うが彼女は赤くなり直ぐに目線を落とす。
「・・・病院に顔出そうと思ってたけど、いっか・・・」
「お、おい。無理しなくてもいいんだぞ?」
「別に急用じゃないし」
昨晩の事もあるが今のところ、あれから尾行はされていないので問題はないだろうと結論付ける。
それに翡翠自身、白衣の爺には極力会いたくなかった。
「そ、そうか・・・。なら行こうぜ」
晋がすぐ後ろに立っていた里穂に何か耳打ちする。
すると里穂の顔がみるみる赤くなっていく。
「・・・どうした?」
翡翠が何か心配になり里穂の顔を覗き込むと彼女の体が一瞬だけ硬直する。
「な・・・なんでもないよ」
里穂は思いっきりブンブンと顔を横に振ると顔を赤らめながら上目遣いで微笑んでくる。
その小柄な姿はとても愛らしく翡翠から見てもとても魅力的であった。
どれ程の数の男がこの少女にやられ撃沈していったのだろうか?
と翡翠は考えてしまう。
彼が知っている3年の間だけでもおそらく6,7人位はいたが誰一人攻略はできなかったはずだ。
そして何故か、いつも怒りの矛先は翡翠に向かって来るのだった。
研究所育ちで一般世間に出たばかりの翡翠にはまだ恋愛というのは未知の領域だったのだ。
*********
「そういえば・・・、翡翠ってよくあの病院に通ってるけど何処か体悪いの?」
カラオケへ向かうまでの道のりで、翡翠の横に寄り添うように歩く里穂が翡翠に訪ねる。
晋達の集団は数メートル2人から距離を開けて歩いていて、たまに2人の様子を窺っている。
「まぁ・・・、ちょっとな」
翡翠は苦笑いをしながら彼女の質問の答えを濁す。
いくら友人でも自分の体質の事や一般的に病院として認知されているあの研究所の事などは話す事はできない。
それが翡翠が一般社会の中にいられる為の条件でもある。
彼女は他にも色々と翡翠に質問して来ていて何だかいつもより積極的である。
翡翠が困惑していると道の脇で話し込んでいる40代近くのおばさん集団の声が聞こえてきた。
「何だか中国とアメリカが冷戦状態になりそうなんですって?」
「「「まぁ・・・!!!」」」
「…でもその情報も何だか怪しいわよ。もうどの情報を信じればいいのだか…」
翡翠と里穂はその集団の横を素通りしていく。
彼女達の言うとおり、今の日本政府は政府が不利になる数々の類の情報を隠蔽しているとの噂が発っているのだ。
そして、それが事実だという事を翡翠は知っている。
そのおかげでインターネットや新聞、雑誌を含む、国民の情報源では数々のデマゴギーが回っている為にどの情報を信じればいいのかが分からない状態なのだ。
『・・・中国とアメリカが冷戦状態だなんて何年前の話だよ』
翡翠は心の中で呟く。
翡翠の知っているような正確な情報も話す事は研究所から禁じられている。
実際に今は平和だと信じ込んでいる彼女らに『冷戦状態なんて3年近く前の話で今まさに核戦争が起きそうな状態です』なんて話しても先ず信じて貰えないだろうし、余計に混乱を生むだけであろう。
「・・・本当に冷戦なんかが起きちゃうのかな?」
暫くの沈黙の後、里穂が徐に呟いた。
「・・・さぁな」
翡翠は一言素っ気無く答える。
「・・・翡翠は怖くないの?」
「…冷戦…、ましてや戦争が起きたって船岡達に直接関係する事じゃないだろ?」
翡翠の場合は分からないが、先ず彼女達には今のところは直接の危害は及ばないだろう。
彼にとっては世界が戦争を始めようがどうしようがあまり関心が無かった。
彼にとってはただ自分の周りの平和さえ守られればそれだけで良い。
それが彼が研究所で教わった事と一般世間で学んだ事の両方を検討した上で出した答えだった。
ふと空から違和感を感じる音が響いて来る。
翡翠は本能的に耳を澄ませる。
旅客機とは違う航空音である。
彼はこれでも研究所で色々な実技も習っている。
そして目を細め、空の一点を見つめる。
「あれは・・・・・・C-5M Galaxy!?」
翡翠は息を呑んだ。
『何故アメリカ空軍の軍用超大型長距離輸送機が日本上空を飛んでいる?』
先日まで日本はこの米中間の対立に不干渉だと言っていた筈である。
咄嗟に某電器屋の大型テレビに映し出されているニュースに目を向けたが、やはりいつも通りのニュースが流れているだけである。
「・・・ゴメン、ちょっと急用ができた」
「え・・・あっ・・・」
里穂は何かを言いかけたがこの際彼にはどうでもよかった。
彼は一直線に研究所の方角へ走って行った。
**********
表面上だけの病院の受付で白衣の爺にアポを取る。
病院も特に変わった様子もなくいつも通りであり、まるでこの世で翡翠1人が危機感を抱いているようだ。
『全てがおかしい・・・』
待合室で10分ほど待った後、目当ての爺は顔を見せた。
彼に食って掛かろうと近づいて行くが直前で止まる。
白衣の爺の直ぐ横には前に見かけた黒の長髪の少女が付き添っていたからだ。
彼女は爺に軽く会釈をすると出入り口の方へ歩いていく。
一瞬だけ黒の長髪の少女と目が合ったが彼女は何も気に留めずに通り過ぎていく。
「・・・彼女は?」
翡翠は近づいてくる爺に聞いてみる。
「特定疾患の患者だ。来年には特定疾患リストに載るぞ。」
白衣の爺は哀れみの眼差しで少女の後姿を見つめていたが、翡翠はその前の一瞬の出来事を見逃さなかった。
彼の表情は、自分の玩具に飽きた子供が新しい玩具を貰った時の含み笑いをしている様だった。
「それより、どうした?今日は何の予定も無い筈だが??」
「・・・惚けるな。どうせそっちでも情報を掴んでるんだろ?」
白衣の爺の顔がみるみる歪み、声を出して笑い出す。
「・・・場所を変えよう。ここじゃ人が多い」
白衣の爺は近くの会議室の鍵を開けると入るように促す。
翡翠もそれに応じるように会議室へと入っていく。
「・・・学校帰りにC-5Mが領空内を飛んでるのを見た」
「ほほう・・・さすがは我々の教育の賜物だな」
「関心してる場合じゃない。日本は今回の件に関しては干渉しない筈だろ?変に中国に刺激を与えるような事をすると日本に核が落ちるぞ」
翡翠は冗談じゃないと思った。
他国のとばっちりに巻き込まれるのだけは避けたい。
「案ずるな。今回の件については中国にも気付かれてはいない筈だ」
白衣の爺は懐から一枚の資料を取り出す。
翡翠はその資料に目を落とす。
「…C-5Mにステルス機能…?」
C-5Mにステルス機能なんて聞いた事がない。
しかも、このステルスは今までのような普通のものではない。
『レーダーに映らないだけじゃない…、相手の五感にも干渉し阻害するのか…』
唯でさえRCSや電波使用制限、搭載量などの問題で今までは超大型長距離輸送機へのステルス機能の搭載は無かったはずだ。
「技術の進歩というのは目まぐるしいな・・・」
「・・・でも何で日本の領空を?」
近代のアジア近辺のアメリカ軍基地は東南アジアに集中していて、日本にある米軍基地も過去に比べて数が少なく、戦力的価値もほとんどない。
「・・・さぁな。今回も日本政府はアメリカに対し黙認状態。何を企んでいるかはアメリカのみぞ知るってところだ」
「・・・厄介だな」
今の日本がアメリカに対し「No」と言える訳ない事は分かっているが、最低でも何をしようとしているか位は知っておきたかった。
「あぁ、後これをお前に・・・。前に来た時に渡すのを忘れていた」
白衣の爺はポケットから紐のついた緑色の石を取り出し翡翠に手渡す。
「・・・これは?」
「前にも言っただろ。お前の名前の由来だ」
形は歪だが丁寧に研磨されたのだろう。その石は日に当てると透き通るような緑色の光を放った。
「翡翠の石?」
この“翡翠の石”を見た瞬間、翡翠は妙な胸騒ぎを感じた。
『・・・さっきのは?』
「・・・親の形見だと思って大事に持っておけ」
白衣の爺は翡翠に背を向け窓の外を見ていた。
「・・・分かった」
翡翠は会議室から出ようとドアに手を掛ける。
すると後ろから白衣の爺の声がする。
「・・・気をつけろよ、翡翠・・・」
*********
あれから数日が経過したが翡翠の周りでは何事もなく平凡な時間が淡々と過ぎていく。
大きな話題があったと言えばアメリカ国務長官の来日程度である。
日米安保条約第5条の『米国の対日防衛義務について』の議題が世間で話題になったが、翡翠にとっては何故この時期なのかという疑問があった。
しかし、それも余計な心配事だと言わんばかりに何事も無く、そして更に1ヶ月ほど経った。
今日はやけに道路が騒がしく、何度も大型のトレーラーが学校の前を通り過ぎていく。
「・・・・・・あの・・・」
翡翠と晋の補習と里穂の部活動が終わった後3人で合流し、何処に寄ろうかと相談していた時に、校門前で翡翠は声を掛けられる。
「あんたは・・・」
翡翠は呆気に取られる。
そこには何度か目にした例の黒の長髪の少女が立っていたのだ。
晋は「ほう・・・」と呟きながら少女に見惚れていた。
里穂に関しては翡翠と少女を交互に見ながら怪訝そうな目をしている。
少女は2人に向き合うと丁寧にお辞儀をする。
「はじめまして、森本君の友人の綾瀬那美です」
「綾瀬さんは何故ここに・・・」
「那美でいいよ」
状況を把握していない様でドギマギしている翡翠に那美は微笑みかける。
晋の後ろに立っている里穂は那美の発言にムッとしている。
「じゃぁ・・・那美は何故ここに?」
女子の下の名前を呼んだのは初めてなのだろう。
翡翠は那美を直視できず目線を少しずらしている。
「先生の紹介で。ここに立ってれば会えるだろうって言われたから」
『…あの爺か』
翡翠は心の中で呟いた。
しかし今回はあの爺を恨む気持ちはなかった。
むしろ感謝なのかも知れない。
翡翠も彼女に聞きたい事があったのだ。
「こっこれから3人で食いに行くんだけど一緒にどう?」
晋が突然那美の手を取った。
彼女は突然の晋の行動に驚いているようだ。
彼を見ると顔が赤くなっている。
『こ…これが』
これが一目惚れというものなんだと翡翠は初めて思い知った。
**********
「・・・特定疾患?」
「だからさっきみたいに驚かせたりすんなよ」
「す・・・すまん」
行きつけの喫茶店へ向かう道中、翡翠は晋に彼女の境遇を話していた。
那美と里穂は会話をしながら少し前を歩いている。
「・・・治らないのか?」
「分からん、俺に聞くな」
まだリストにも載っていない病気なのだ。
翡翠なんかに分かる訳がない。
あの爺に許可をとったのなら大丈夫なのかも知れないが現にこのように外出をしていて良いのか自体怪しい。
「・・・んにしても翡翠の知り合いにあんな可愛い人がいるとは・・・、里穂も災難だな」
「何で里穂がそこで出てくるんだ?」
翡翠には本当に何も分からないのだろう。
彼は目を丸くしている。
「お前・・・、ワザとじゃないよな?」
「・・・?」
こめかみを押さえながら溜め息をつく晋を翡翠は不思議そうな目で見つめている。
「・・・毎回思うけどよ。お前ってどんな幼少時代を過ごしたんだよ?」
里穂のアプローチに何も気が付いていない翡翠に痺れを切らしたのだろう晋は呆れ顔で尋ねる。
「どんなって・・・、普通?」
「普通・・・ねぇ」
咄嗟に「普通」と答えたが彼にとっての普通と晋にとっての普通には大きな誤差があるだろう。
「・・・なんだよ」
「いや、初めて会った時は色々ヌケてたもんな」
『当たり前だ。あれは研究所から出て間も無く右往左往していた頃なんだから』
「中学時代以前の話もしたがらないし」
『そんな事お前らに話す訳にいくか…』
翡翠は晋の言葉に心の中で答えながら、表向きでは晋に苦笑いを返している。
そして翡翠はつい黙り考え込んでしまう。
『中学以前の自分は一体何だったのか?』
『そして今の自分は本当に人間なのだろうか?』
『そして自分の本当の事を知った時、その友人達は自分を受け入れてくれるのだろうか?』
黙り込んでしまった翡翠に何かを察したのか晋は笑顔で思いっきり翡翠の背中を叩いてくる。
「お前の過去の事とか追及しないけどよ・・・何かあったら遠慮なく言えよ」
『言える訳ないだろ・・・』
「なんたって俺達・・・」
翡翠はこの言葉の先を聞いていいのかどうか迷ってしまう。
「なんたって俺達は親友だろ?」
**********
喫茶店で寛いだ後、4人は二手に分かれた。
翡翠は那美を病院まで送る事になったのだ。
晋と里穂は何かと病院まで付き添うと言い出したが、彼らの家は病院と正反対の方角であった為に妥協したのだ。
それに翡翠は那美にどうしても1つだけ聞いておきたい事があったのだ。
『那美は本当は何者なのか?』
それだけが翡翠にとって引っ掛かる点であった。
あの爺が人助けの為だけで1人の主治医になる事など翡翠にとっては考えられない事であった。
「・・・静かね」
人通りのない道を2つの影が病院の方向へ向かって歩いていく。
「そうだな・・・」
翡翠はこの2人きりの状況でどう話を切り出せばいいのか悩んでいた。
突然「お前は何者だ」なんていきなり言ってしまったら思い違いの場合、病院に着くまで気まずい状況に陥る可能性もある。
翡翠が1人で思い悩んでいる内にこの前の公園近くまで辿り着いてしまう。
斜め前のコンビニには客は1人もいない。
「あ・・・」
公園前を通り過ぎようとしたところで那美は声を上げ公園内へと走り出していく。
「お、おい・・・」
翡翠も彼女の後に続いた。
翡翠が彼女に追い着き、彼女に目を向けると彼女は何かを抱えながら微笑んでいた。
「・・・子猫?」
「可愛い・・・」
那美の足元には毛布が敷き詰められた箱が置いてあった。
無責任な飼い主が放置した捨て猫だろう。
那美は子猫の顎下を人差し指で撫でる。
すると子猫は気持ち良さそうに目を細め必死に彼女にじゃれついている。
「・・・あなたの名前は琥珀よ」
那美は子猫を撫でながら子猫に話し掛ける。
「琥珀・・・」
翡翠は呟き子猫を見る。
子猫の目は那美のつけた名前の通り綺麗な琥珀色をしていた。
「いい名前でしょ?」
那美は翡翠に向き直ると今日見せた一番の微笑みを向ける。
この時、翡翠は生まれて初めて心の底から何かを綺麗だと感じた。
彼の今まで見てきたものの中でこれほど胸を揺さぶられた瞬間は無いだろう。
翡翠は何も言えずただ彼女の笑顔に見惚れていた。
**********
「晋君と里穂さん・・・だっけ?とても良い人達だったね」
地面にコハクを下ろし、近くに落ちていた木の枝で一緒に遊んでいる那美が突然会話を切り出す。
「あぁ・・・中学時代からの友人だ」
翡翠は近くのベンチでコハクとじゃれている那美を見つめている。
「・・・でも晋君は親友だって言ってたし、里穂さんだってただの友人って訳でもなさそうだったけど?」
「正直、親友かどうか俺には分からない・・・」
「何故?」
那美は立ち上がり翡翠の目を真っ直ぐと見据えている。
一瞬目が合うが翡翠は目を背ける。
気が付くといつの間にかコハクが翡翠の靴を引っ掻き回していた。
「・・・色々と思うところは有るけど、一番の理由は自分自身が何者なのかが分からないから・・・かな?」
実際のところこれは翡翠がまだ研究所で暮らしていた頃から疑問に思っていた事だ。
自分の周りは大人ばかりで同い年の友達はいなかったし、教わる事と言えば当時の翡翠にはまだ早いだろう知識ばかりだった。
そんな研究所で暮らしていた時、敷地内のフェンスから敷地外を除いた事がある。
敷地外では自分と同い年くらいの子供達が数人で遊んでいたり、母親らしき大人と手を繋いで歩いているのも見かけた事もあった。
年が経つに連れて考えても仕方がないと思い込むようにして忘れ掛けていたが、一般の中学への入学が決まり一般世間で暮らすようになり、また一層自分の存在に疑問を抱くようになっていた。
『中学入学以前の自分は一体何者だったのか?』
『そして今の自分は本当に人間なのだろうか?』
『そして自分の本当の事を知った時、その友人達は自分を受け入れてくれるのだろうか?』
那美は黙り込んだ翡翠をただ何も言わずに見つめている。
「まぁ・・・那美にこんな事を話してもな・・・」
翡翠はベンチから立ち上がるとワザとらしく背伸びをする。
「・・・そろそろ戻ろう」
翡翠が公園を後にしようと歩き出した瞬間、彼の背筋に悪寒が走った。
「・・・どうしたの?」
コハクを抱えた那美は翡翠の不穏な反応に首を傾げる。
翡翠はふと辺りを見回す。
そういえばさっきから町中がやけに静かである。
コンビニにも客はおろか店員もいる気配が無かったし、今まで自動車も1台も走っているところを見ていない。
まるでこの町に2人と1匹しかいないようだ。
急いでスマホを開くが圏外になっていて既に使い物にならなくなっていた。
そして今になって思い出す。
何故C-5Mがこの町の上空を飛んでいたか・・・。
爺の別れ際の「気をつけろ」の一言・・・。
そしてやけに騒がしく、学校の近くを何度も通過した数台の怪しいトレーラー・・・。
『嫌な予感しかしない・・・』
すると遠くの方で公園を囲むように5台ほどのトレーラーが止まった。
「那美、隠れるぞ」
翡翠は那美の手を引き、近くの茂みの中に隠れると遠くのトレーラーを注視する。
エンジンが止まると中から運転手が出てきて外で何かの作業を始める。
するとトレーラーが引っ張っていたコンテナが展開していく。
「あれは・・・二足歩行機動兵器!?!?」
今は両立て膝をしている状態だが直立すれば9メートル前後はあるだろう巨体。
武器も3メートル程の巨大な刀剣と90ミリ口径のマシンガンを装備している。
まだ試作段階なのだろう、ボディはまだ着色されていなかった。
しかしこんな町を1つ破壊するには5機もあれば充分過ぎる。
アメリカで開発が進んでいるとは噂で聞いていたが・・・。
『まさかもう実戦投入できる段階なのか?』
そしてこんな町に5機も投入してくる理由はもはや1つしか考えられなかった。
「・・・逃げるぞ」
那美の手を引きその場から離れていく。
都合よく5機ともまだ起動には時間が掛かるようである。
**********
「狙いは森本君だって?」
「・・・あぁ」
公園内を早足で元出てきた出口と反対の方へ向かっていく。
「でも・・・なんで?」
「・・・説明は後にしてくれるか?」
翡翠は彼女に本当の自分の姿をあまり見せたくなかったし知られたくなかった。
そして何より那美を巻き込みたくない。
『とにかく今はここから出る事だけを考えろ・・・』
しかし彼等も思っていた程には甘く無く、完全に公園は封鎖されていた。
「・・・本気か」
翡翠は考えを巡らせる。
こうなったら自分があの兵器の破壊と脱出経路の確保をするしかない。
『しかしどうやって?』
対人や自分の知識の範囲内の兵器なら何とかなるだろうが、今回の相手は軍の最新兵器で火力や耐久力、稼働時間なども分からない。
それを5機も相手をするなら自分の力を極力最大限まで引き出さなければ10秒も持たないだろう。
翡翠はふと心配そうに彼を見つめていた那美と状況を掴めていないだろうコハクを見る。
『・・・何を考えてるんだ俺は・・・』
翡翠は頭を押さえる。
そう、あの兵器と互角に戦える力が今ここにあるのだ。
**********
彼の力は、動植物から生命エネルギーを吸出し、その生命エネルギーを運動量・熱量・光・電気量などのあらゆるエネルギーへと変換する事だった。
日本は核兵器を持つ事を国民との公約で禁じている。
だからといって他国と同じく普通の兵器の開発も世論上では不都合だ。
そして更に日本の国力だけでの開発では他国との差が出てしまうという問題もある。
日本は軍事関係で他国からの援助は極力避けたかったのだ。
そこで日本は秘密裏に他国では全く注目されていない『生命エネルギー』の兵器化の研究を世論上『医療技術の浮上』という名目で研究を進めていたのだ。
生命エネルギー論の観点では生物は宇宙と一体である。
生物は宇宙から送られるエネルギーを受け続けそのエネルギーを体内で生命エネルギーへと変換して生きている。
そしてその生命エネルギーが体外で発現すると超能力や神通力などといった力が発生するとも言われている。
そこに目を付けた日本の科学者は研究を続け、出来上がった成功体の1人が翡翠だったのだ。
前の不審者に向けて放ったのも蟻の中の生命エネルギーを生活に異常が全く出ない微量程度受け取り運動エネルギーと熱エネルギーへと変換、熱エネルギーを球状に圧縮し、運動エネルギーを使って放ったのだった。
しかし今回は前の時とは訳が違う。
あの5機の兵器と対峙するためには熱量、運動量など大量の生命エネルギーが必要だ。
虫や植物などとは違うもっと大きな動物…。
『そんな事考えるな・・・。』
いくら人間の生命エネルギーの純度、また量もあるからといってあの相手に対し全てを使ってしまわないという保障はない。
動植物にとって体内の生命エネルギーが少なくなる事は活動が弱々しくなるという事であり、体内から完全に無くなると生命を維持できなくなる。
即ち、死んでしまうのだ。
ましてや、どんな病気を患っているか分からない那美の体が耐えられるかも不明である。
「森本君・・・」
いきなり那美が翡翠の名前を呼ぶ。
翡翠が振り向くと彼の顔にコハクが覆い被さり思いっきり引っ掻いてきた。
「痛っ!!!」
一歩後退り、那美を見ると彼女は手に持っているコハクをさっきまで翡翠の顔があった所まで持ち上げていた。
一方コハクは引っ掻いた爪を丁寧に舐めている。
「急に何すんだよ…」
「森本君が怖い顔してたから」
那美は心配そうな目で翡翠を見つめている。
「・・・お前は今自分が置かれている状況とか分かってんのか?」
「翡翠を狙ってるロボットがこの公園を包囲していて一緒にいる私も絶体絶命・・・でしょ?」
那美は胸の辺りでコハクを抱いたまま平然と答える。
「・・・よくこんな状況で平然としていられるな・・・」
「昔からこんな体だから・・・。いつでも死ぬ覚悟はできてるの」
微笑みながら答える那美に翡翠は驚いた様に目を見開く。
彼女からは死に対しての恐怖や後悔の念などは全く感じられなかった。
『・・・何やってんだ・・・俺は・・・』
翡翠は大きく深呼吸をすると那美に微笑みかける。
「・・・お前はここで待ってろ」
翡翠は那美が抱えているコハクを人差し指で撫でると那美を茂みの奥の方へと押し込む。
「また・・・行っちゃうの?」
那美が何かを呟いたのが聞こえたが、翡翠は気に留めず茂みから出て行った。