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王妃

「危険だから、先に帰りなさい」

 陛下は隣にいたジュリエッタ様にそう言うと、僕の隣にも目をやった。「お前もだ」

「えー」

 クリスティアナ様が不満そうに声を上げた。そして僕の左腕に自分の腕を絡ませた。

「顔色が悪い。今回のことで、かなり疲れたろう。父親が心配しているのだから、たまには大人しく従ってくれないか」

「うー」

 クリスティアナ様はそれを聞いてしばらく困ったように眉を顰めてから、ため息をつきながら頷いた。

 確かに彼女の顔色は優れない。疲れが色濃く出た横顔は、眠そうにも見える。

「ジーン、先に送り届けてもらえるか」

 陛下はクリスティアナ様たちを馬の背中に乗せながら、近くにいたジーンに声をかける。彼は驚いたように陛下を見て、少しだけ残念そうに頷いた。

「解りました。先にいかせていただきます」

 ジーンは門と門番に視線を走らせた後、自分も馬に乗ってクリスティアナ様たちを急かした。

「一日でも早く帰って休みましょ。きっとキャロライン様が不安なまま待ってるはずよ」

「そうね」

 ジュリエッタ様が心ここにあらずといった様子で相槌を打つ。そんな彼女を目を細めて見つめ、ジーンは何やら意味深な笑みを浮かべた。しかし何も言わず、そのまま彼女たちを連れてこの場から離れた。


「さて」

 陛下は辺りに僕ら以外の人間がいなくなると、小さく笑った。「まさか、こんなことになるとはな」

 父が神妙な顔つきで陛下を見つめ、何か言葉を探している。

 門番は相変わらずの無表情。

 僕はただ、門を見上げた。

 空が夕方に近くなり、うっすらと赤く染まってきている。

 氷の壁のような門。陽炎のように揺らめく壁の向こう側は、最初何も見えなかった。赤い空を透かして見ているかのようで、ただ綺麗だった。

 陛下がゆっくりと門のほうに近寄っていったので、僕も慌ててその後に続いた。そして、父と門番も僕の後ろを歩いてついてきた。

「我が妻は……」

 陛下が門のすぐ前で足をとめる。その右手で門に触れようとすると、門はまるで生きているかのように表面を波打たせた。

「シルウィアは向こうにいる」

 シルウィア。それは王妃様の名前。

 陛下は門のほうに顔を向けていたので、どんな表情をしているのかは見えない。

「自分の姿を見られたくないから、死んだということにして欲しいと言われた。私は妻の言う通りにした」

 その時、門の壁の向こう側で、何かが動いたように見えた。

 影。

 黒くて巨大な何か。


『――始祖の子供か』

 ふと、頭の中にぼんやりとした声が響いた。

 男性とも女性とも判断できない、曖昧な響き。

 そして、門の向こう側に凄まじく巨大な生き物が姿を現した。

 父が息を呑むのが背後から聞こえる。

 ――これが、ガラム?

 僕はただ無言でそれを見つめた。

 今まで見たことのない生き物だ。黒い鱗に覆われた魔物。赤く輝く双眸、大きく裂けた口から覗く牙、背中に生えた二枚の黒い翼。

 頭には二本の角が歪みながら生えていて、首の後ろにも角なのか骨なのかよく解らないものがゴツゴツと小さく生えている。

 とにかく巨大だった。まるで城を見上げているかのようだ。

 とてもこれと戦ったら勝てる気がしない。

『そうだ、始祖の血を引く者よ』

 それは僕の頭の中が読み取れるらしい。

 でも、何となく声に出して訊いてみた。

「始祖とは何ですか?」

『ガラムの最初の血筋の者。我々の中でも一番強い血を持った者だ』

「それが……僕の祖先だと?」

『そうだ』

 ガラムは鼻を鳴らした。『でなければ、こんなことにはならなかった。彼を失ったのは、我々にとって大きな損失である。その代わり、そちら側では大きな収益になったか?』

「解りません。ただ、争いは起きました」

『それはどの世界でも変わらない。我々の世界でも内乱が起きる』

 それは意外……と思った直後、いや、そうでもないのかと考え直す。

 ガラムは神ではないと陛下が言った。清廉潔白な精神を持つというわけではないのだろう。

 僕が沈黙すると、ガラムがふと顔を横に向けた。

 そして、いつの間にかそこには一人の女性が立っていた。

 まるで魔術師のような黒いフードをかぶり、その小さな身体をマントで覆っていた。

 ただ、それだけを見れば人間に見えた。

「シルウィア……」

 陛下が小さく囁き、門に近寄る。巨大なガラムの姿が後ずさるかのように遠ざかり、小柄なその女性が向こう側に立ち止まる。

「お久しぶりです、陛下」

 その声は、先ほどのガラムとは違って、とても優しげな響きを持っている。

 彼女はフードに手をかけ、静かに後ろへ払う。長く美しい銀髪が背中へと流れ落ちた。

 その顔はクリスティアナ様たちに似ていた。まだ二十代くらいに見える風貌。長い睫毛。

 しかし、フードを払いのけた両手は黒い鱗に覆われ、その爪は長く鋭い。それは人間の手の形ではなかった。

 そしてよくよく見てみれば、彼女の瞳は猫の目のように瞳孔が縦に細長いのだった。

「門を壊すのは正しい選択です」

 王妃様は言った。とても冷静で、笑顔すら浮かべている。

「こちらの世界も、随分落ち着きました。最近は戦いもなく、平和なのです。門のことも忘れてしまいそうなほど」

「しかし」

 陛下は苦しげに胸を押さえた。「お前がこちらに戻ってこられなくなる」

「陛下」

 彼女は困り切った様子で苦笑して、ゆっくりとマントの胸元を開いた。「わたしはもう、こんな姿ですから」

 彼女の喉元から胸の辺りまでが露わになった。人間らしい形なのはその顔だけだった。喉から下の皮膚は、全て堅い鱗に覆われている。

 陛下はそれから目を逸らした。

「こちらの世界に適した肉体にするために、ガラムの命をいくつか使いました。それだけ、わたしの力が欲しかったからでしょう」

 彼女はマントの胸元を掻きあわせ、うっすらと微笑む。「それを手放すためにガラムの命を使ってくれると思われますか?」

「しかし」

 陛下は首を横に振った。そして、何も言えないようでただ俯いた。

「陛下には感謝しています。あの子たち、立派に育ててくれましたもの」

 王妃様は酷く明るく笑った。それが心からの笑みなのか、よく解らない。

「壊す、べきなのだな」

 まるで再確認するかのように、陛下は呟く。

「そうですよ」

 王妃様も囁く。

 すると、陛下は黙って身を翻した。そのまま門から遠ざかる。こちらを振り返りもせず、歩いていく。

「相変わらず強情なかた」

 ふ、と王妃様が息を漏らす。呆れたように、しかし優しく。

 それから、僕と門番に視線を移し、ゆっくりと父へ向き直る。

 父はずっと黙って彼女を見つめていた。王妃様はその手を伸ばし、門に触れる。

 壁。

 手は門の壁に当たり、父には届かない。

「怒ってる?」

 やがて、彼女は小さく言った。

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