命乞い
イリアスが鋭い悲鳴を上げた。立っていられずに膝から崩れ落ち、両手を床に着いて身体を支えようとした。
しかし、凄まじい激痛をこらえているようで、その腕も痙攣したように震えている。
あっと言う間にその額から流れ落ちる脂汗、色を失った頬。
「命乞いしてみろ」
アストールはそんな彼を見下ろして歪んだ笑みを見せる。「お前は魔術師じゃない。だからすぐに死ぬぞ」
「あ、アストー……ル様」
かろうじてイリアスは口を開いたが、それ以上言葉は続かなかった。
「最低ね」
ジーンが歯軋りと共に吐き出した。一歩前に出ようとして、アストールの後ろに控えていた魔術師に阻まれる。
ジーンは冷ややかに魔術師を見つめた。
「あなたの寿命はどのくらい? この国から出たいと思わないの?」
魔術師は無表情のままで応えない。僅かに険悪になった雰囲気に気づいて、アストールが笑った。
「私に逆らえば身体に入ったモノが内臓を食い荒らすからな。実際に見せてみようか?」
アストールの視線がイリアスに向いた。
試すとは、イリアスの身体で?
そう気づいて、僕らの間に緊張が走る。ジーンと父が一瞬だけ視線を交わす。
僕はどうしたらいいのか必死に考えながら、門番やクリスティアナ様たちを見た。
その時。
「助けて、下さい」
イリアスが掠れた声を上げた。
今にも床に倒れ込みそうな彼。
「……お願いです」
アストールがそれを聞いて、嫌に優しげに微笑む。
「死にたくないか?」
「……は、い」
イリアスの唇が苦痛に歪む。
「私はいつでもお前を殺せる。父とは違う」
「はい……」
「じゃあ、働いてもらおうか、妾腹」
そう言いながら、アストールは顔を上げて門番――『それ』を見た。
すると、イリアスの首の後ろから先ほどの蛇が抜け出てくる。それは血に濡れていて、床を這って『それ』に近づくとき、赤い線を引いた。
多分、アストールは見ていなかっただろう。
蛇が身体から出ていき、それでも苦痛に震えるイリアスの口が、奇妙に歪んで笑っていたこと。
それは寒気を感じるくらいに、狂ったような笑みだったこと。
多分、父もそれに気づいただろう。表情は動かなかったけれど、父の身体が強ばったからだ。
アストールは急にイリアスに興味を失ったようで、僕らの顔を見回して目を細めていた。
「見た顔ばかりだな」
そう言いながらも、門番を見て首を傾げる。「騎士には見えんが、魔術師か?」
門番は沈黙したままだ。
アストールはやがて肩をすくめた。そして、何か言おうと口を開きかける。
「この女は必要でしょう」
突然、そう言ったのはイリアスだった。
まだ顔色は酷いもので、立ち上がってはいたけれども動きは鈍かった。
しかし、僕らは油断していたのだ。イリアスは壁際にいたジュリエッタ様の背後に立ち、彼女の細い喉に短剣を突きつけていた。
「お姉さま!」
クリスティアナ様が慌てたように駆け寄ろうとするのを、僕は腕を掴んで引き止めた。
ジュリエッタ様はいきなりのことで、目を見開いたまま身体を硬直させている。
「あなたは、死んだ王妃の力を引き継いでいる。そうですね?」
イリアスはジュリエッタ様の耳元で囁くように言った。
――おかしい。
僕はそう思う。
「だから、生け贄として相応しいはずでしょう」
ジュリエッタ様に『そんな力』はない。
僕はあの時、イリアスに向かってクリスティアナ様の名前を出した。
殺させないで。
そう言ったのは――。
「動かないで下さい」
イリアスの手が震えて、手にした短剣も小刻みに揺れる。「今の私は加減がきかない。あなたは、首の赤い輪が治ったばかりでしょう?」
その様子を見て、ジーンが眉を顰めて見せる。
「意外な展開だわ」
「意外ですか? 元々、私は国を裏切るつもりはありませんでした」
イリアスは力無く笑う。「あなたには解らないでしょう」
「私は、この国を捨てることはできない」
イリアスは続ける。
穏やかな笑顔すら見せて。
「私には、父とのつながりしかない。たとえ忌み嫌われていようとも、彼が父親なのには変わりない」
「私は、血のつながりが大切なのです」
イリアスの笑顔を見て、僕は悟った。
彼が嘘をついている理由。
それは。
僕は左手を伸ばして父の服を掴んだ。
そして、すぐに門番に目をやって小さく囁いた。
――逃げよう。
途端、門番の腕から全身にかけて、鱗が生えた。
巨大化する肉体、身に纏っていた服が裂かれる音。
アストールと白髪の魔術師が小さく声を上げたのが聞こえる。
女性である門番は躰が小さい。しかし、我々と比べれば遥かに巨大で、凄まじい力を持っていた。
彼女は床を蹴り、天井へと体当たりをする。
凄まじい破壊音。飛び散る石の破片。巻き起こる土煙。
男性体も彼女を追って床を蹴り、階上に上がった門番に体当たりしたようだった。
目の前に、彼女の躰が石の破片と共に叩きつけられた。砕け散る床石。
「門番!」
僕が土煙を吸い込まないように手で口を覆いながら叫ぶと、彼女は素早く躰を起こして僕の前で屈み込んだ。まるで、背中に乗れと言っているかのように。
「父さん! ジーン!」
僕はクリスティアナ様の腕を掴み、門番の背中によじ登りながら叫んだ。
「シリウス!」
父はすぐに僕らに気づき、ジーンを引きずるかのように引っ張ってきた。
そして混乱の中、門番は凄まじい勢いでもう一度床を蹴った。
階上は酷い有り様だった。どんな暴れかたをしたのか、壁も天井も崩れかけている。
階上には男性体の門番がいたが、何故か僕らを襲ってはこなかった。
その横を通り抜け、僕らはクランツ城から逃げ出した。
ジュリエッタ様とイリアスは残されたままで。




