もう一人の門番
「あの、イリアス様」
先に立って歩くイリアスの背中に向かって、ラースが声をかけている。
しかし、イリアスは振り向きもせず、返事をすることもしない。ただ足早に地下へと続く階段を降りていく。
何とも微妙な雰囲気である。
僕はずっと黙っている門番が気になって振り返り、彼女の眉間に皺が寄っていることに気がつく。
「どうしたの?」
僕が訊くと、門番は首を傾げる。
「あんなこと、できるんだ」
それは、驚いている響きがあった。
「何が?」
と僕がさらに訊いたけれど、門番もどう説明したらいいか困っているみたいだった。
彼女はやがて小さくため息をついた。
「遅い」
地下に降りるとすぐ、アイザックが滅茶苦茶不機嫌な表情で呟いた。
どうやらラースが鍵をかけていなかったらしく、廊下にはクリスティアナ様とジュリエッタ様の姿もある。
コンラッドは僅かに疲れたような視線をアイザックに向けていて、ため息をついていた。
「すみません、色々あって」
僕がそう言ってアイザックの前に立った時、どこからか低い唸り声が響いた。
それは、地を這うような、不気味な声。
「さっきから聞こえるんです」
コンラッドが眉を顰め、居心地悪そうに辺りを見回す。
その時、階段から気配がした。アイザックたちが慌てたように僕たちを庇って立つと、階段から降りてきた人たちの姿が見えた。
父とジーン、他の騎士たちだ。
「全く、エグい薬を作るもんだよ」
「私だって意外だったけど……あれは酷いわねえ」
父の呆れた声と、他人事みたいに応えるジーン。
「逃げるぞ」
父は僕たちの姿を見るなり、小声で言ったが、クリスティアナ様たちの姿に気づいて足をとめた。どうやら、この場に響く唸り声も聞こえたらしく、眉を顰めた。
「さて、何から説明してもらおうか」
父が目を細めてイリアスを見やる。イリアスは肩をすくめた。
「こんな声は初めて聞く」
イリアスの表情は僅かに緊張しつつ、さらに地下へと続くらしい階段へと向けられていた。「いつも静かなんだが」
「喜んでる」
門番が茫然としたように言った。
「喜んでる?」
その場にいた全員の視線が門番に向けられた。彼女は静かに頷いた後、イリアスを見つめた。
「もう一人の門番だ」
イリアスがそう言うと、それを聞いた門番がどこか感心したように頷き、こう続ける。
「凄い力を持ってる。本当に凄い。でも、弱まってる」
「弱まって?」
そう言った父が一瞬考え込んだ後、皆の顔を見回した。「とにかく、逃げられる者は逃げろ。厩舎はあんな状態だし、いくら深夜とはいえ誰かに気づかれる」
どんな状態なんだろう、と僕は思ったけど、そんなことを訊く余裕はない。
父に促されるまま、アイザック含む騎士たちが隠し通路へと進む。
「お前も先にいけ。あいつらだけじゃ危険だろう」
父はジーンに言ったが、彼は不満そうに鼻を鳴らした。
「まさか、見にいかないわよね?」
ジーンの視線は唸り声の聞こえてくる方向へ向かっている。
父は無言でイリアスを見る。すると、イリアスは真剣な表情で言う。
「近寄らないほうがいい。特に魔術師なら危険だ」
「魔術師なら?」
ジーンがそう言うのを無視して、イリアスはラースのほうを振り向いた。
「お前も先にいけ。魔術師がいると面倒なことになる」
「……はい」
不承不承、といった様子でラースは頷き、騎士たちの後を追って隠し通路へと向かう。
「会いたい」
門番が小さく言う。イリアスが苦々しく応えた。
「あれはただの化け物だよ。門番などと呼べるモノではない」
「何故、裏切ったのか知りたい。門番、門のそばを離れては生きていけない」
「それは」
イリアスが言うより早く、門番は歩き出した。薄暗い階段を降りて、彼女の姿が闇に消える。
「えっと、門番!」
僕はそう呼びながら、やっぱり名前は必要だと思った。今のままじゃ呼びにくい。
僕も後を追って階段へ向かうと、背後にも僕を追う足音が聞こえた。
階段の下に着くと、門番が大きな扉の前にいた。クリスティアナ様たちがいた場所より広い空間。天井が高い。
扉は金属製で、門番がそれに触れると鍵の開く音がした。
扉が開く。
そして、『それ』がいた。
鱗に覆われた魔物。
僕が見た門番――彼女よりも大きく、『醜悪』に見えた。
門番の咆哮。
彼女よりも低く、僅かに弱い。
『それ』が彼女と僕を見る。そして、笑ったように見えた。
「あなたは」
彼女がそう言った時、目の前にいた『それ』の鱗が剥がれ落ちた。
ボロボロと落ちる鱗と、みるみる小さくなる躰。彼女が人間体となるときと同じ。
「……ぐ、く、く」
『それ』が体を揺らした。床に届く伸び放題の髪の毛は、バサバサとしていて、その目は髪の毛に覆われていて見えない。
しかし、その唇は見えた。嬉しそうに三日月の形を作っている。汚れた歯が覗いていた。
「ガラムの子供か」
嗄れた声が漏れた。
年配の男性の声。
「まさか、そちらからきてくれるとは思わなかった。感謝しよう」
「あなたは誰ですか?」
僕は少しだけ後ずさる。何だか嫌な感じがする。
「昔は門番と呼ばれた。名前もあった。今はただの化け物だ」
まるで、イリアスの言葉が聞こえていたかのようだ。
くくく、と彼は笑う。皮肉げな笑い声が広い部屋に響く。
「何故、皆を裏切って?」
門番――彼女が言う。
「何故?」
『それ』は馬鹿にしたような口調で吐き出した。「お前は愚かだから解るまい。家畜の地位に甘んじる自分が誇らしいか?」
「家畜?」
「頭の中に響くだろう? 『ガラムの子供を守れ、門を守れ、ガラムの子供を守るために子孫を増やせ』とな。何の疑問も抱かず、我々は家畜として生きていく。そうだろう」
「それが生まれた意味、だ」
「ほら、な。何の疑いもなく受け入れる! 愚かだからだ!」
『それ』が躰を激しく揺らして嘲笑う。その拍子に、長い髪の毛に隠れた肉体が覗いた。
躰自体は、よく鍛えられた肉体だと言えただろう。しかし、その両腕は肩の下辺りから切断されたようになかった。
「門番は豚や牛と変わらん。人間以下の存在だ。そんな種族は生きていても何の価値もない。そう思う私は異端だろう」
彼はただ楽しげに笑い続ける。「私は、この種族は死ぬべきだと考えた。しかし、私はガラムの子供を殺すことはできない。そういうように『作られて』いるからだ。だから、殺させた。簡単だったぞ、人間も愚かだからな!」
「愚かなのはお前」
彼女は初めて、嫌悪という感情を露わにした。「お前が仲間を殺させた? 仲間殺しは最低の行為」
「最低か? しかし、この世界に平和が戻るぞ? 元々、我々門番はこの世界には存在しなかった。存在すべきではないのだ」
「しかし、今のお前はこの国の家畜だ」
彼女は静かに言う。「そんな凄い力を持っているのに」
「凄い、か」
『それ』は鼻で笑う。それから、ふと僕のほうへ顔を向ける。
「凄いな。久しぶりにガラムの子供と会った。力が戻るのを感じるよ。許されるなら、今すぐ殺したいものだ」
「出ましょう」
気づけば、ジーンが僕を庇うように前に立っていた。それに、父も。
「魔術師か。かなり力があるだろう」
『それ』はふと、声を低くさせた。「ガラムの子供がここにいなかったら、『餌』にするところだが」
「餌?」
ジーンが顔をしかめた時、イリアスが小さく舌打ちする。イリアスは緊張したように辺りを見回して、僕らに身振りで静かにするように促した。
僕らが耳を澄ませた時、階段のほうから足音が響くのが聞こえる。
――誰かきた。




