息子
「……私は母の顔も知らない」
やがて、イリアスは小さく言った。何だか、僕たちに話しかけるというよりは、独白に近い。
「私が生まれた時、母は死んだ。父は母を愛していたようだが、私のことは母を殺した存在としか見てくれなかったようだ。だから、兄だけを大切に育てた」
この場にいる皆が、言葉もなく彼の後ろ姿を見つめている。
椅子に座ったまま、俯いている彼は、いつもより小さく見えた。
「母……義理の母は弱いかただった。兄を生んですぐ、父に兄を取り上げられて孤独に負けた。やがて、精神を病んで暴食を始めた。父はそれを放置した。私が物心ついた時には、もう彼女は体調をおかしくしていた。失明し、歩くこともままならない状況だった。
そんな時、我々は接触する機会があった。私もこの城に住むことを許されてはいたが、父にも兄にも捨てられているようなもので、お互い、孤独だったのだと思う。私は彼女に話しかけ……アストールか、と呼ばれて、はい、と応えた」
イリアスの肩が僅かに震えた。その声も苦しげに歪む。
「私は彼女にたくさんの嘘をついた。父に隠れて母親に会いに来る、優しい息子を演じながら、それでも幸せだったと思う。義母はとても優しかったからだ」
そこで、少しだけ言葉が途切れた。彼はその手で額に手を置きながら、指先に力を込める。
「ある時、彼女が『あなたの顔が見たい』と言った。ずっとそう考えていた、と。私は困って相談できる相手を探した。その頃、ある男がこの国に宮廷魔術師として就任して、一人の息子を連れてきていた。息子もまた、魔術師として育てられていて、幼いのに優秀だと言われていた」
イリアスがゆっくりと顔を上げる。その視線がラースへと向けられ、その幼い魔術師がラースであろうと僕は知る。
「その子供は私の目付役みたいな立場に置かれ、私は勝手に友人のように感じていた。彼に取っては、ただの任務だったろう。命令されたからそこにいる。しかし、私は勘違いしていた。だから、『友人に相談』した。目を治す魔術はないだろうか、と」
「イリアス様」
僅かに焦ったように口を開きかけたラースを、イリアスは手を挙げて遮る。
「彼はそれを『命令』だと受け取った。魔術を使い、義母は短い間であったが視力を取り戻した。私は彼に感謝した。魔術師は神のように凄い、と素直に感動したのだ。しかし、私は無知だった。彼は義母の視力を取り戻すために、自分の視力を犠牲にした。私の無知のせいで、優秀な魔術師が将来を潰されたのだ」
「私はそんなふうに考えたことなど!」
ラースの顔色が白くなったような気がした。
「義母は喜んでくれた。私の顔を見て、考えていた通りの優しい顔立ちだと褒めてくれた。しかし、彼女の病状は重く、すぐに視力をもう一度失った。ほんの僅かな間の視力回復。その犠牲は大きすぎた。私は彼に大きな負い目がある」
「私が勝手にやったことです」
必死に言うラースを一瞥し、イリアスは首を横に振る。
「私には何の力もない。今回のことも、少しくらいは国の未来のために兄をとめたいと考え、そして失敗した。だからもう、全て終わりにしてもいいと思った。どうせ、何もできないのだから」
彼の手が胸元に置かれる。その表情は、どこか達観しているようにも見えた。
「短剣」
僕は呟いた。「死ぬ気ですか」
ラースとテオドアの顔が強張ったのが解る。
テオドアが鋭く言った。
「我々を見捨てるおつもりですか?」
「見捨てるも何も、この国には正当な跡取りがいる」
イリアスは怪訝そうに彼を見やる。
テオドアはそんな彼を正面から睨んだ。
「あれが正当? 狂人を飼って、人間を面白半分に殺させて笑うような男が正当だと!? 本気でそう思われるんですか!?」
「それでも、義母の血を引いている」
絶望にも似た響き。
そのイリアスの言葉に、テオドアも怒りのぶつけ場所を失って口を閉じた。
「私が義母の血を引いていたら、少しは違っただろう。兄もここまで私を蔑むこともなく、対等に話せたはずだ」
「しかしそれでも」
ラースが静かに言った。「陛下の血を引いていらっしゃいます。そのほうが重要なのでは」
「いや……私はそうは思えない。父のことは愛せない。父が私を愛さなかったように」
イリアスは力無く笑う。そして、その視線が王妃様へと向けられた。
「それでも」
僕は言う。「やっぱり、間違っていると思います。少なくとも、大切な人を傷つけるのは違う。血はつながってなくても、親子なのでしょう」
そう言いながら、僕は父の顔を思い浮かべた。
僕を息子として育ててくれた。ただの成り行きだったとはいえ、色々なものから守って、大切にしてくれた。
剣を教えることを躊躇ったのも、僕に危険なことをさせたくなかったからだろう。
血のつながりなんて関係ない。
だから、手にかけようなんて間違っている。
さらに、自分の命まで絶とうというのは。
「ガラムの子供も人間と同じか?」
イリアスは苦笑した。「お前は血のつながらない父親をどう思っている?」
「大切です」
僕は声に精一杯力を込めた。「誰より感謝しています」
「じゃあ、その父親が苦しんでいたらどうする?」
イリアスは僕を見つめ、苦々しく続ける。「義母の価値は、寝たきりでも生きていることだけだ。義母の出身国は裕福でね、毎月、治療費として大金が送られてくる。父も兄も、その金目当てだ。魔術師を金で雇い、魔術師の命を削って義母の命が僅かに伸ばされる。これは正しいことだろうか?」
――確かにそれは。
僕は僅かに言葉に詰まる。
でも、やっぱり考えは変わらない。
「僕はもし父が苦しんでいても、自分では殺したくない」
そう言いながら、イリアスを見上げた。「何か別の方法を探します」
イリアスはしばらく無言で僕を見つめていた。
やがて、小さく言った。
「詭弁だね」
僕が何か言うより早く、彼は扉のほうへ歩き出していた。
「地下へ戻ろう。連れが心配じゃないか?」
まるで何もなかったかのように言う彼に、僕は戸惑って言葉を失った。
「殿下」
テオドアが苦しげに呼ぶと、イリアスは少しだけ足をとめた。
「義母を頼む。私もできるだけのことをする」




