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母親

「中にはテオドアが」

 歩きながらラースが小さく囁いている。

「ああ、それならちょうどいい」

 イリアスが静かに応えた。それから、ちらりと僕を振り返り、目を細めた。

 夜遅いせいか、階上の廊下には誰もいなかった。ぽつぽつと間を置いて明かりは灯っているが、かなり薄暗い。

 さらに階段を上がり、ある部屋の前で彼は足を止めた。

 イリアスはその重々しい造りの扉を軽くノックして、ゆっくりと開けた。すると、薄暗い部屋に衣擦れが響いて、一人の男性が出てくる。

 多分、魔術師だろう。二十代後半の年齢に見えたが、その短めの髪の毛は真っ白だった。

「殿下」

 彼は驚いたように目を見開いて、僕らの顔を見回した。それから、慌てたように廊下を覗く。誰もいないのを確認してから急いで扉を閉め、イリアスに頭を下げてきた。

「一体何が起きてらっしゃるんですか? あなた様について色々噂が……」

 彼はそう言いかけて、すぐに僕らの存在を気にして口を閉じた。

「テオドア」

 イリアスはその青年を見つめ、口早に続ける。「お前にもラースにも迷惑をかけた。そろそろ片を付けたい。ラースは国を離れさせようと思う」

「それがいいかと。この国には未来はありません」

 テオドアと呼ばれた青年は薄く笑った。

「できればお前も逃がしたいのだが」

「お気になさらず。私には『あれが入って』いますから」

「すまない」

 イリアスの声が苦痛を帯びたように震えた。

 ――あれが入って?

 どういう意味だろう、と僕はイリアスとテオドアを交互に見つめた。

 イリアスはしばらく沈黙した後、さらに小さく言った。

「意識はあるのだろうか」

 その視線は部屋の奥へと向かっている。暗くて最初はよく解らなかったけれど、そこには大きな天蓋つきのベッドがあり、誰かが寝ているらしいと気づく。

 呼吸音すらほとんどしない。ただ、じっと見つめていると、僅かに毛布が上下していた。

「この数日、眠ったままでいらっしゃいます」

 テオドアが応えると、イリアスは「そうか」と呟きつつ、懐から何かを出した。

 短剣だ、と気づいた瞬間、僕は手を伸ばして彼の手首を掴んでいた。薄闇の中でも強く輝きを放つそれは、切れ味の鋭さを主張している。

「駄目です」

 クリスティアナ様の言葉。きっとこれだ。

「お前は事情を知らない」

 イリアスは冷ややかに言った。でも、多分駄目だ。

「殿下、こちらは……」

 戸惑いながらテオドアが僕と門番を見やる。怪訝そうに。

「ガラムの子供と門番だそうだ。信じられるか?」

 くくく、とイリアスが自嘲じみた笑い声を上げた。

「それは……」

 テオドアは息を呑んで言葉を失った。

「正直、もう私の手には負えない。兄もとめることができない」

 イリアスはそう言った後、僕を睨んだ。「手を離せ」

「駄目です」

 僕はすかさず言った。「事情は解りませんが、クリスティアナ様があなたに殺させないように、とおっしゃいましたから。クリスティアナ様は……」

「自ら生け贄となった王妃の娘、か」

 ふと、イリアスは眉を顰めた。そして、僕の手を優しく振り払うと、悩みながらも短剣を懐にしまった。

「最後に話せるだろうか」

 イリアスはテオドアを見つめた。それを受けて、少しだけ困惑したようにテオドアは見つめ返す。

「最後?」

「延命は……もういい。充分だろう」

「しかし」

「父も兄も、治療費との名目で送られてくる金にしか興味がないらしい。この部屋に見舞いにきたことがあるか?」

 テオドアは顔をしかめた。そしてそのまま、ベッドのほうへ歩み寄る。

 イリアスがゆっくりとベッドに近づき、近くにあった椅子に腰を下ろした。

 僕も少しだけ近寄ると、そこに眠っている女性の顔が見えた。

 イリアスの母親かもしれない、と考えていたけれど、すぐに違うと解る。

 そこにいた女性は、かなり太っていた。その顔色は土気色に近く、病状を見る者に伝えている。

 イリアスではなく、アストールの母親?

 この国の王妃様。

 テオドアが王妃様の額に手を置いて、何事か囁く。一瞬、その手のひらが青白い炎に包まれたように見えた。

 ひゅう、という大きな呼吸音が響いた。

 そして、彼女がゆっくりと目を開く。

 テオドアは足音もなくベッドから離れると、息を殺してそれを見つめていた。僕も彼に習って息を殺した。

「誰か、いるの?」

 彼女は白く濁った瞳を天井に向けたまま、掠れた声を上げた。どうやら目が見えないらしい。

「います」

 イリアスは酷く優しく言う。

 すると、彼女は嬉しそうに笑った。

「ああ、アストール。そこにいるのね」

 ――アストール。

 彼女はイリアスのことをそう呼んだ。

「はい、母上。お加減は?」

 イリアスも否定しなかった。

「もうね、指先の感覚もないの」

 彼女は悲しげに笑い、目元に涙を滲ませた。「あなたに触ることもできないわねえ」

「母上」

 イリアスは王妃様の手を握った。力が入らないらしく、イリアスが僅かに持ち上げても指先はだらりと下がったままだった。

「ごめんなさいね、あなたは何回も食べ過ぎだって注意してくれたのに」

「いいえ。母上も色々つらかったでしょうから」

「言い訳よねえ」

 王妃様は笑う。「食べたり吐いたり繰り返してたら、訳が解らなくなってしまった。全部、わたしの弱さのせい」

「父が母上を顧みなかったせいです」

 イリアスの声が苦々しげに歪んだ。

「仕方ないのよ。あのかたは無理やりわたしと結婚させられたんだもの。本当に好きなかたが他にいたのに……」

「それでも」

「わたしにはあなたがいるじゃない」

 王妃様の笑顔は崩れない。

 ジーンはアストール王子の母親だから、性格的には期待できないと言った。でも、何だか想像とは違う。

「あなたが息子でよかったわ。いつも気にかけてくれてありがとう」

「……母上」

 イリアスの表情が苦しげに歪んだ。

「あなたは幸せになりなさい。大丈夫、優しい子だもの。絶対大丈夫よ」

「母上」

 イリアスが彼女の手を握る自分の手に力を込めた。

「少し、眠るわね」

 彼女は疲れたように目を閉じた。

 イリアスはしばらく、身じろぎせずにいた。それから、彼女の手をベッドに優しく下ろすと、俯いて唇を噛んだ。

 誰も、彼に声をかけることができなかった。

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