黒い影
その時だった。
突如として黒い影が大広間を横切った。
何が起きたのか解らない。
赤い帯が、床から壁にかけて広がる。それが血なのだ、と皆が認識した瞬間、辺りには悲鳴が上がった。
悲鳴を上げながら大広間から逃げ出す人間も多かった。凄まじいまでの混乱。
クリスティアナ様は相変わらず僕の腕にしがみつき、小さく震えている。僕はどうすることもできず、ただ立っているだけ。
アストールは言葉を失って、その血の海をただ見つめた。その視線の先には、ジェイドという少年の無惨な死体。
少年の死体は、原型をとどめていなかった。
「将来、有望な子供だったのに」
アストールが小さく呟く。「人間の内臓引きずり出して笑っていられる子供は滅多にいない」
「頭おかしいわよ」
ジーンが吐き出すように言った。
アストールはその声を聞いて顔を上げ、陛下のほうに目をやった。
そして、陛下の身体に巻きつくようにして、ゆらゆらと立ち上る影を見つめた。
影は霧のようにも見えた。ただ、それは魔物のような形をしていた。僕が見たどんな獣より大きく、邪悪だった。
陛下は右手に何か持っている。首飾りと呼ぶには無粋なまでに重々しい鎖。それについていたのは、黒く艶やかに輝く鱗のようなもの。
その鱗から、煙のように立ち上がっているのが、魔物のような形をしているのだった。
「お前が欲しいのはこれか」
陛下が言う。
「ああ、確かに」
アストールが笑みをこぼす。
そのそばでジーンが腕を下ろし、ため息をついた。
「出番なしかしら、私」
手のひらの上に浮かんでいた水が弾け、床にこぼれ落ちた。
しかし、これで終わるはずがなかった。
「さて、それを渡してもらおう」
アストールは先ほどの惨劇を目にしても、あまり動揺を見せてはいない。むしろ、余裕すら感じさせる。
「この城の周りには、たくさんの魔術師がいる。壁を突破させるのも簡単だ。試してみようか」
アストールは低く笑い、その手を上げる。すると、風が動いた気がした。
陛下もその手を上げる。途端に、窓の外へ飛び出していく黒い影。
そして、遠くで悲鳴がかすかに聞こえた。
「一掃した」
国王陛下の声は静かだった。
一掃。
つまり、殺したということ。
「早いな」
アストールは呆れたように笑う。「まあ、奴らは捨て駒だ。次の手段」
彼がそう言った途端、女性の微かな悲鳴が上がった。
ジュリエッタ様。
壁際にいた彼女は、苦しげに自分の喉の辺りを押さえている。身体を強ばらせ、身じろぎすらできないようだ。
彼女の首の周りに、赤い糸のようなものがぐるりと巻き付けられていた。糸に見えたのは血であったらしい。じわじわと血が吹き出ようとしている。
「女。動くと首が落ちるぞ。おとなしくしてるんだな」
アストールはくくく、と声を上げて笑った。
ふと、ジーンがその表情を強ばらせている。近くに立っていたラースが、首を傾げた。
「近いですね」
彼の言葉の意味は、すぐに解る。
「申し訳ありません、陛下」
大広間の隅から、震えた声が聞こえてくる。まだ三十歳にもなっていないだろう男性。
彼の顔は僕にも見覚えがあった。魔術師であったはずだ。宮廷魔術師という肩書きのない、ジーンの部下の一人。
幾度か目にしたことがある。彼は今、顔を青ざめさせ、僅かに俯き加減にして立っている。
「どういうことだ」
さすがに陛下も顔色を変え、ジュリエッタ様とその魔術師を交互に見やる。
「寝返ったということかな」
アストールが肩をすくめてそう言った時、イリアスが疑念の混じった声を上げた。
「何をなさったのですか?」
「何を?」
アストールは不快感を露わにイリアスを見たが、すぐに機嫌の良さそうな口調で続ける。「説得は簡単でね。ちょっと妻や子供を誘拐しただけだ」
「誘拐……」
「指を一本切り落として送ったら、すぐ従ってくれた」
その場の空気が凍った。アストールだけが楽しそうだった。
「国のために女子供くらい犠牲にすべきと考える人間はここにはいないらしい。本当におめでたい」
「何てことを……」
陛下が怒りに満ちた光を瞳に浮かべたが、アストールはそんな陛下を鼻で笑って見せた。
「おっと、そんな正義感に溢れる陛下も、自分のしたことは無視するのか?」
「何?」
「さっき、一掃したと言ったな。捨て駒たちが、私の国の人間だと思ったのか?」
陛下が息を呑む。
そして多分、この場にいた人間が全てを悟っただろう。
「可哀想にな。女子供を取り戻すために集まったが、無駄死にだ」
しばらく、辺りは静まり返っていた。
「さあ、それを渡せ」
痺れを切らしたのか、アストールがゆっくりと陛下のそばに歩み寄る。
「娘を解放してもらおう」
陛下は低く言ったが、アストールは首を横に振る。
「交渉できる立場か? 渡せ」
そして、また暫しの沈黙。
やがて陛下は苦しげに息を吐き、手にしていた鎖を床に放り投げた。
辺りに響く金属音。鎖についていた鱗のようなものから、輝きがゆっくりと消えた。
そして、それを拾い上げるアストール。
アストールはそれを手の中で弄んでいたが、何の変化もなかった。
「どう使う?」
彼は訊いた。
「お前には――私以外の人間には使えない。そういうものなのだ」
陛下の口調は淡々としている。
アストールの表情から笑みが消えた。
彼はその鱗を撫でた後、鎖を自分の首にかける。
「まあいい。どちらにしろ、もうこの国も脅威ではないからな」
「娘を」
「馬鹿か?」
アストールは目を細めた。「これが使い物にならないのなら、別の方法を試さねばならんだろう?」
別の方法。
何か、嫌な感じがした。
アストールは言った。
「女は生け贄にする。この国の王妃の血を引いているなら、可能性はあるはずだ」




