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林檎と雪椿

作者: 朔良

 つん、と。

 消毒薬の匂いが他人行儀に漂うリノリウムの廊下を足早に抜け、病室の前で立ち止まる。

 いつものように個室のドアは細く開いていた。

 控え目なノック音に重なるように、窓の外で朔風が木立を嬲る。

 すすり泣くような虎落笛。

「…………」

 ベッドで半身を起こし、ブラインド越しに鈍色の雪空を見上げていた痩せた肩が、ゆっくりと振り返る。

 身体を傾けてドアからひょっこりと顔をのぞかせた私を見て、その人は静かに微笑んだ。

「いらっしゃい」

 いつもと同じ穏やかな表情。

 虎落笛のどこか物悲しい音色に遮られ、私の言葉はきっと、巻き貝の耳には届かなかったに違いない。

 …いいんだ、ただの練習だから。

 負け惜しみと同時に、ほっとしたような残念なような、複雑な気持ちを呑み、私は両手を後ろ手に回してベッドに近づいた。

「せんせぇ、お加減はいかが?」

「気分は悪くはないけど、一進一退ってところ、かな」

 昨日と同じ答え。

 ほぼ毎日のように繰り返しているやり取りに、面倒くさそうな様子も見せずに付き合ってくれる……真面目に答えてくれる先生の、教師らしい四角な律義さが、私はとても好きだ。

「む~。担当のお医者さまはちゃんと診てくれてるのかな? もっともっともっともーっとッ、真剣に取り組むように掛け合ってきましょうか?」

 両手は背中に回したまま、長い髪を揺らして青白い顔を覗き込みながら提案すると、先生はぶんぶんと首を振った。

「いや、いい。気持ちだけもらっておくね。だいたいさ、一日二日で病状が変わるわけないでしょーが」

「でもぉ…」

「でもぉ、とか言わないの。ほんっとに、なにもしなくていいから!」

「う~ん。納得いかない…。先生ったら、遠慮しないでいいんですよ? 悪役なら私が引き受けますから」

「いやいやいや」

 首だけではなく大仰に手まで顔の前でぱたぱた振りながら先生。

「遠慮じゃないし!」

 この動揺ぶりは、以前、先生にしたら冗談のつもりで「そうだね、お願いするよ」と言ったのを真に受けた私が、実際に担当の医師に食って掛かった前科があるせいだ。…もちろん、わざとだけど。

 先生は私をみてふっと笑い、

「そんな顔しないでも大丈夫。心配ないよ。あいつは信頼できる医者だしね」

 旧知の間柄と聞く医師への信頼に満ちた先生の表情に、軽く唇を噛む。

 私はすぐにわざとらしく唇を尖らせ、おどけた口調で、

「はーい。わっかりましたぁ。今回は引き下がっておきます。先生のお友達自慢は聞き飽きたしぃ」

「頼むよ、ほんと…。」

「ええ? いいんですか? はぁい、頼まれます! じゃ、今すぐに!」

「こらこらこら! 待って! 人の話聞かない馬の耳はこれか?」

 先生は手を伸ばし、私の耳たぶをぎゅっとつねった。

「や…」

 冷たい、指先。

 風花混じりの外気に慣れていてさえ凍えるような冷たさは、恐らく先生の身体の芯から生ずるもので。

 痛いほどの冷たさが不吉な何かを連想させ、私は怯えたように先生を見た。

 一瞬、先生の深い瞳と視線が合い、胸がぎゅっと苦しくなる。

「い……、いたたた、いったーい! 聞いてますってばぁ。」

 痛くもないのに大げさに声を張り上げ、私は動揺を誤魔化すように、背中の後ろに隠してた物を先生の胸に押し付けた。

「はい、お見舞い!」

 強引に押し付けて、一歩下がって先生から離れ、耳に指をあてる。

 熱く凍えた薄い耳たぶ。

 先生が触れた…。

「お見舞いぃ?」

 先生は、呆れたようにつぶやいて、お見舞いというには無造作すぎる、コンビニのビニール袋に詰め込んだだけの林檎と、雪が冷たく匂う肉厚な緑の葉と赤い花をつけた一振りの枝を、まじまじと見た。

 飽きれ顔に背を向けて、首にぐるぐると巻き付けた赤いマフラーを解き、脱いだコートとともに椅子の背にかける。

 頬の熱さを確かめた指先をそのまま滑らせて、髪を直すふりでもう一度耳たぶに触れ、私は何食わぬ表情をして先生に向き直り、ベッドのぎりぎりまでパイプ椅子を引き寄せてぱふんと座った。

 校則は破らない長さのプリーツスカートの裾が揺れる。

 黒のサージに襟には三本の白いライン。赤いスカーフ。

 休職前は嫌というくらい目にしてきたはずの黒いセーラー服にちらりと視線を走らせ、先生は小さく息をついた。

 学校と病院を往復しているような私の生活を、先生が快く思ってないのは知っている。

 学生の本分、とか、もっと友人を作って…なんて、ありきたりなお説教はもう聞き飽きた。先生だって言っても無駄だと知ってるはずだ。

 気付かないふりを決め込むと、先生は諦めたように椿の枝に視線を落とした。

「椿、ねぇ」

「……綺麗だったから」

 私は独り言のように答えた。

 椿がお見舞いに向かない花だって、知らないわけじゃない。

 でも……。

「無理やりへし折ってきたみたいな折れ跡だけど?」

「花盗人は罪にならないっていうでしょ?」

 上目遣いに先生を見て嘯く。

 そんな強気は先生の困った顔ですぐに吹き飛び、慌てて続ける。

「嘘嘘。嘘ですよ。先生の可愛い生徒が犯罪なんか犯すわけないじゃないですか。今日は鞄を置きに家に一度戻ったんです。庭の椿がすごく綺麗で、先生に見せたくなったの」

「そう、か」

 先生の視線が束の間空を泳ぐ。

 “ここに無いもの”を見る遠い眼差し。

 今、この瞬間。先生の脳裏を横切ったのが何か知りたい、と私は心の底から願った。

 遠い眼差しの先にあるものが私にも見えたらいいのに。

 不可能だと知りつつ、先生の視線を追う。

 もし…。

 知らず膝の上に置いていたてのひらが、サージのスカートをぎゅっと握る。プリーツを乱す深い皺。

 もしそれが、夏の匂いのする夕暮れだったら。カナカナと鳴く蝉しぐれの…。

 あの日の情景を切り取ったなにかだったら……。


 いきれのする夏草の庭で、先生は私に言った。

『そう…だね。確かに私には君の気持ちがわかるなんてとても言えないし、言わない。でも、私は君が好きだよ。』

『嘘ばっかり。もうそういうのうんざりなんです。お説教も同情もお腹いっぱい。いい加減帰ってくれません?』

『嘘じゃない。君が好きだし大事に思ってる。だからさ、君がどうしても自分を許せないなら…、そうやって自分を責めるのを止められないなら、私が君を大事に思ってるから、自分を大切にするっていうのは駄目かな?』

『馬鹿じゃない? そんなの!』

 反論を封じるように、先生は私の左手を…手首を握った。

『じゃあ、せめて思い出して。私は沙羅(さら)を大切に思ってるって。それだけでいい。』

『……。』

『何があっても何をしても、私にとって君は大事だよ。それは変わらないと約束する。』

 先生の怖いほど真剣な視線に心臓を掴まれる。

 目眩のするような動悸が苦しくて、なにも応えられず、私はふいと視線を逸らした。

 先生は、子どもにするようにぽんと私の頭にてのひらを乗せ、

『それじゃ、また明日来るよ。』

 四角な真面目さで告げてあっけなく立ち去った。


 ……大事な“生徒”だって言葉を抜かしたのが意図的なら、先生はきっと稀代の詐欺師になれる。

 先生にとってあれは、気の迷い…気まぐれですらない、教師として当然の生徒への対応、だったのかもしれない。

 でもそれは、私にとって、生まれてから今までの中で一番大切な記憶だ。

 大事な大事な、宝物だ。

 先生は、ふっと思い出したように、

「……そういえば、名前は椿から? いや、あれは夏椿の方だっけ?」

「あ…」

 その言葉だけでわかった。

 遠くを見る眼差しの先にあったのは……。

 あの夏。先生は、どれだけ私が嫌な顔をしても、懲りずに何度もうちの庭に来てくれたけど、私を名前で呼んだのはたった一度だけだ。

 嬉しくて嬉しくて。

 苦しくて苦しくて。

 私は返事もできず、うつむいてただこくりと頷いた。

 髪を伸ばしててよかった。

 重たいほど長くなった自分の黒髪に初めて感謝する。 

 独りよがりな願掛けであの日から伸ばし続けてきたこの髪が隠してくれなければ、きつく噛んだ唇が、潤んだ目元が、今にも泣きだしてしまいそうなのが、先生にばれてしまう。


 先生の、ばか。 

 忘れてしまえばよかったのに。

 あんな約束。

 先生が優しいから、私は。

 …嘘。

 忘れられていたら傷つくくせに。

 やつあたり、おかどちがい、いいがかり。

 そんなのわかってる。

 でも。

  

 パイプ椅子の両端を強く握りしめてうつむいたまま動けないでいると、かさかさとビニール袋がこすれる音がした。

 先生がサイドテーブルに手を伸ばす気配。

 甘い匂い。

 シャリシャリと。

 神経を撫でる音を立てて林檎の皮が剥かれていく。

 少し骨ばった綺麗な指先が、くるくると赤いリボンを作っていく。

「……せんせぇ」私はうつむいたままぽつんと呟いた。

「ん?」林檎を剥きながら先生。

「早く、元気になって」

「うん」

「早く、学校に来て」

「うん」

「いなく、ならないで」

「……うん」

「せんせぇ、私…」

「うん」

「私…」

 カラカラの喉はヒリヒリと痛むばかりで。

 今日こそ伝えると決意してきたはずの言葉が、どうしても声にならない。

「顔あげて」

「先生?」

「ほら、あげて」

 乱暴に頬をこすって、渋々顔を上げる。

 先生は剥いたばかりの林檎を有無を言わさず私の口に放り込んだ。 

「もご。いらない、こんなの」

「食べて」

「私ね、せ…」

「食べなさい」

 いかにも教師らしい、強い口調。

 ぽん、っと。 

 うらはらな優しさで、頭に先生の手のひらが置かれた。あの日のように。

 指先と同じくらい冷たい手のひらが、私の熱を瞬時に冷ます。

 私は肩を落として、口の中の林檎を噛んだ。 

 カラカラの喉を潤す、甘い果汁。

 しゃりしゃりと音を立てて、半ば八つ当たりのように果肉をかみ砕く。

「ん、美味いね。いい林檎だ。」

 教師らしい顔なんか忘れたように、目を細めて林檎を齧っている先生が恨めしくて…同時に、ほっとしてる自分が情けなくて嫌になる。

 この人にとって私はまだまだ子どもで…それ以前に、ただの“生徒”なのだ。


 トントントン


 ノック音にはっとして振り返る。

「そろそろ回診の時間ですよ」

 ベテランの看護師は、部屋には入ってこず声だけかけて通り過ぎて行った。

「もうそんな時間?」

「帰ります」

 私は潔く立ち上がった。

 手早くコートを着て首にマフラーを巻きつける。

「気を付けてね、雪道で滑るんじゃないよ、受験生」

「う~。縁起でもないこと言わないでくださいッ」

 頬を膨らませて。

 重くなってしまった空気を嫌うように軽口を叩く先生に合わせて、意識的に子どもっぽく振る舞う。

 こんなのはもう、慣れっこだ。

 先生の側にいたいなら、そうするしかない。

 教師を慕う可愛い生徒、でいるしかない。

「受験生らしく扱ってほしかったら、毎日見舞いにくるのなんかやめて学生の本分に勤しむんだね」

「先生のいぢわる」

「お見舞いに椿持ってくる生徒ほどじゃないと思うけど?」

「もぉ! いいもん、持って帰るもん、先生のバカぁ」

 枝を掴もうと伸ばした私の手に、先生の手が重なった。

「あ…」

「持って帰らなくていい。椿は好きだよ。」

「……」

 …先生の、意地悪。

「ううん。いいです。持って帰ります」

 私は、強引に先生から枝を奪い取って、

「代わりに明日はもっとすごいもの持ってきますから♪」

 せいいっぱいの笑顔で笑った。笑った…はずだ。無邪気に子どもらしく。

「あのねぇ、だーかーら、受験勉強は?」

「ふふん、そんな、方程式も解答もあるものなんか、片手間で楽勝ですよ。」

「言うじゃない?」

「まあ、待っててください、来週には推薦勝ち取って報告しますから」

「楽しみにしてる」

「はーい」

 廊下から聞こえてきた泡立つような人の声に、私はぴくりと耳をそばだてた。

 今までとは違うざわめき。

 タイムリミットだ。

 「じゃあ、また明日」と手を振って、先生の返事は聞かずに病室から飛び出す。

 廊下の途中で背の高い医師とすれ違った。

 胸の椿をぎゅっと握り、目も合わせずに早足で通り過ぎる。

 ぎりぎりセーフ。

 確かに私はまだまだ子どもだけど、人の恋路の邪魔をするほど幼くはない。


 うつむいたまま黙々と歩き、病院からだいぶん離れたところで私はようやく息をついた。

 吐いた息がそのまま結晶になりそうな、刃物のように冷たい空気。

「あーあ。また言えなかったなぁ……」 

 湿りを帯びた言葉がもし雪に変わるなら、ほとほとと降る重たい牡丹雪だ。


 どうして、先生なのかな。

 どうして、生徒なのかな。


 どうして、私は…。


「言えないのかなぁ……」


 この想いを。


 あの夏の日。

 私の胸に落ちた小さな種は、冬になっても枯れることなく赤い実を結んだ。私を先生に結びつける赤いリボンの果実。

 私の胸に挿された一振りの枝は、雪の中でこそ鮮やかに咲き誇った。無慈悲なほど艶やかな唐紅。


 何度散らしても、散らしても。

 私の両の瞳は先生以外映そうとしないし、リボンで結わえた両手は先生以外を求めようとはしない。

 叶わぬ想いだと、初めからわかっているのに。

 

 だって、先生は…。先生には。


「………」


 無造作に椿を枝から引きちぎり、凍えた指先で赤いはなびらを雪に散らす。

 言えない恋の残骸のように。

 癒えない恋の名残のように。

 雪に唐紅。

 恋が血を流すとしたらきっとこんな色だ。

 いつか私も、椿みたいに潔く散る。


 たった一言。

 胸に抱いてきた思いだけ、伝えて。


『あなたが…』


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