48:06:19 絶望
お嬢様視点
「ん……んぅ」
目が覚める。
自然にではない。床が冷たくて、意識が無理やり覚醒させられる。
それでも意識は朦朧で、疲労で鉛のように重たい体を動かすよりももう一度意識を沈めようとしたくなる。
「寒い……ですわ」
けれど、自分の体温以外に温かなものは無く、その体温でさえ今にも床の冷たさと同じようになってしまうのではないかと不安になるぐらいに儚い。
精一杯の抵抗として身体を丸めても、目立った効果などなく、逆に自分の今の状態をありありと実感させられて嫌悪が走る。
慣れない。慣れられるわけがない。
衣服は纏わず、毛布は無く、あまつさえ手と首には外れない装置。まるで、犬の様ではないか。いや、今の自分は犬よりも惨めに違いない。
起きたくない。いっその事ならばこのまま眠って、2度と目を覚ましたくなんてない。
けれど、そろそろ起きないと。あの男が何をしだすかわからない。何も知らないままに何かされるぐらいなら、まだ行われる何かを把握している方が心は平静を保ちやすい。この短い時間で学んだことだ。
「よかった……まだ寝てますわ」
幸いにも、男は寝ていた。こちらに背を向け、大きないびきをかいている。
「今のうちに、端末を探さないと」
そう、わたくしの体内時計が正しいのであれば、もう20時間は経過したはず。
だったら、端末を手に入れて首の装置さえ外してしまえば、あとはこの男が起きるまでに逃げればいい。
「ありましたわ!」
男の寝ている脇、荷物置き場の中に、端末がある。
音をたてないように、息を潜めて……とれた!
「あとは、確認――」
「おい」
「っ!?」
そこで、男の声が、背後から聞こえた。
全身から血の気が引き、興奮によって温められていた体が、一瞬で凍り付いた。
振り向くことが出来ない。
体が震えて、上手く動かせない。
「テメェ、何やってやがんだぁ? あぁっ!?」
「ひっ!」
「勝手な行動してんじゃぁねぇ!」
――ゴッ!
「ぐふっ、がぁ!!」
脇腹に鈍い痛みが走り、固くて冷たい床を転がる。
痛い。痛い。痛いよりも熱い。
容赦ない暴力。ここまでの痛みは初めてであり、反射的に涙が流れる。
「なぁに、人様の持ちもん勝手に触ってんだよ!!」
「あぐっ、かはっ……」
「どうせテメェ、もう首の装置の解除条件が達成されたからオレが寝てる隙に外して逃げようとしてたんだろ? ああ?」
「うぅ……」
その通りだ。
「けど、残念だったなぁ」
「けほっ、かはっ……ど、どういう、ことですの?」
「特別サービスだ。ほれ、自分の端末をよく見てみな」
「きゃっ」
男が端末を弄ぶと、私へと放り投げ、辛くも落とさずにとる。
どういうこと? なにが……え、そん……な。
「『14:34:59』……? どうして、なんで時間が……まるで――」
「まるで、最初からやり直したみたいだ、か?」
そう、時間はまたも二桁の時間から、着々と減っている。
既にこの男とは20時間一緒にいたはずなのにだ。
「まさ……かっ! 貴方、私が寝ている間に!?」
「ごめ~と~。テメェがすやすやと寝息たててる間に、ちょっくらトイレのつもりだったんだがなぁ? すこ~しばかり離れ過ぎちまったみたいでぇ、すこ~しばかり長くなっちまんだよ。そんで、不本意ながらやり直しってわけ。いやよぉ、俺も悪気は無かったんだぜぇ? これは不慮の事故だ。オレは悪くねぇ」
「くっ……!」
「おいおい、そんな親の仇みてぇな顔で見ないでくれよ。そんな顔してるとよぉ、滾っちまうじゃねぇか。滅茶苦茶にしてくなるじゃねぇか」
なんて、白々しい。
明らかに故意。確実にこの男は私が意識の無い時に、50m離れて1時間いたのだ。
そう、この男がみすみす私を解放するわけがない。それぐらい、当然の事ではないか。
どうして、希望を持ってしまったのだろうか。
「う、うぅ……あぁ……あぁあああああああああ!!!」
「はっはっはっはっは! ひゃっはっはっはっはっは! いいねいいね、いい鳴き声だ、いい叫び声だ! やっぱり女は鳴く時が一番いい! 最高だ、テメェ最ッ高だよっ! その表情、その泣き声、その希望から絶望へと染まる一瞬、その輝き……いつ見ても、いつ聞いても、いつ感じても、これほど満たされる瞬間はねぇなぁ!!! あっはっはっはっはっは!!」
男の嘲笑が響く中、ただひたすらに私は泣いた。鳴いた。嘆いた。
心の奥が染まっていく。絶望に。真っ黒に。ただ何も、信じられなくなる。
壊れていく。心が。だけど壊れないように、心は守る。
あらゆる敵から。自分から。
閉じた心は感情を発することは無い。人形のように。
ただ思考するだけのもの。ただ刺激に曖昧に返すだけのもの。
視界は次第に霞んでいき、聞こえる音も遠くから聞こえる。
感触はほとんど存在せず、自分が何を思考すればいいのかも定まらず、ふやけていく。
徐々に。徐々に。辺りから光は消えていき、意識は泥の中へと沈んでいく。
やがて鈴白伊菜穂という私の意識は、全てがその沼へと沈む。
「安心しろって、ちゃ~んとテメェは飼ってやるからよ」
最後に聞こえたのは、男の黒く塗れた声だった。




