始まりを告げる前奏曲
一年前。
麻央は高校入試という大きな壁に進路を塞がれていた。
なりたい職業も、夢もない。
麻央には全く将来への希望がなかった。
かと言って女の子のように、「来年は男を探して結婚」できるはずもない。
麻央が結婚するには少なくともあと三年の月日が必要だった。
それに結婚しても、女の子のように働かずに家事を営むこともできない。
女に仕事を任せて家事をする男、近年ではそう珍しいパターンではないらしいが、正直麻央の性分ではなかった。
母親は麻央の進路について、ろくに興味を抱かなかった。
麻央の容姿が元夫に似てきたことだけに気を尖らせていたからだ。
麻央は中学校の教師に相談を持ちかけ、ようやく受験する高校を決定した。
受験勉強の最中に、母親は麻央に対して嫌がらせをするようになった。
「不合格だったら家から出ていってもらうから」
「不合格になってよ」
「お前なんかいらないよ、邪魔だよ」
浴びせられる言葉は、麻央の心を傷だらけにしていた。
それに耐えきれなくなって、11月のとある夜、麻央は家を飛び出した。
走って、走って、母親の言葉を忘れるために走って。
邪魔な自分を忘れたくて。
誰も自分を呼び止めない。
……どれだけ走っただろうか。
麻央は町外れまで走ってきていた。
「…はぁ、はぁ………っ…」
乱れた呼吸を整えながら、近くにあった広場にふらふらと足を踏み込んだ。
明るく暗闇に光る街灯の脇にあるベンチに座り込んで、麻央は膝を抱えた。
走って乱れた呼吸が少しずつ落ち着いていく中で、麻央の高ぶった気持ちも冷めていった。夜風で冷めていく体と同じように。
一陣の風が広場を横切った。
ジャージを着込んでいただけの麻央は、その冷たい風に体を震わせると、ぎゅっと自分の体を抱きしめてうずくまった。
――――――「…おい」
「!」
うずくまった刹那、横から肩をたたかれた。
警察だったら面倒なことになるな、と麻央は内心ため息をついて声をかけてきた相手を見上げた。
「…………あ?」
そこには仏頂面の警察官がいるとばかり思っていたのに、全く違う人が立っていた。
だから、間抜けなつぶやきを漏らしたのだが。
麻央のすぐそばに、どう見てもサラリーマンの風体をした男が立っていた。
仕事帰りだろう、着ているスーツは優雅に着崩され、ネクタイはだらしなく首から下がっている。
若いとはどう頑張っても言えない。
しかし、おじさんというには若すぎた。
顔は不細工ではないが整っている方ではない。短い黒髪が印象的で、右耳にピアスがしてある。
見た目サラリーマンの男は、じっと麻央をみていた。
その口元が動いて、言葉を紡ぐ。
「…お前、こんな所で何してる?」
男の声は静かだった。
この場にある空気を崩さないように配慮したかのような、静かな声。
「別に……何も」
男の問いかけに、麻央は素直に答えた。
実際、ただ辿り着いた広場で見つけたベンチに腰掛けて、休んでいたにすぎない。
麻央の答えに男は、「そうか」、と風に混ぜるように呟いて、それからはっきりこう言った。
「…隣、いいか?」
「え?…あ、はいどうぞ」
男はドサッと麻央の隣に腰を下ろして、夜空へ目を向けた。
何故か麻央はぼんやりと男を見上げた。