普段優しい人が怒ると怖いっていうけど。普段優しくない人が怒っても怖くない?
チーちゃんとの昔の思い出も一段落したところで、俺はノートに文字を書き始めた。随分と多い文字が黒板にビッシリと書かれていた。もう先生が説明をしているところだ。
「大丈夫? ノート、私書こうか? 汚いと読みづらいでしょ?」
遠藤が隣から声をかけてきた。自分でいうのも何だけど、実際今の文字は見るに耐えないものがあった。もはや日本語じゃない。
「いや、大丈夫だ。遠藤の邪魔はできないしな」
「そう? もう駄目って思ったら言ってね」
「分かった。サンキュウな。遠藤、お前は良い奥さんになると思うぞ」
「そんなことないって」
俺の冗談に、遠藤は顔を赤くした。チーちゃんと言い、遠藤と言い……女ってのは意味がわからない。でも、そんなことを考えている暇もないのは明確なので、シャーペンをノートの上で走らせた。
チャイムが鳴り、1時間目の授業を終えた。その時、フレームなしのメガネをかけた中年くらいの白髪が混じった男性が教室に入ってきた。
「どちらさまですか?」
先生はその男性に問い掛けた。先生が名前を聞くということは、この学校の先生ではないことが分かる。
「私、こういうものです」
男性は名刺を先生に渡した。名刺を読むと先生はすぐに自分の名刺を渡した。
「どの生徒ですか?」
先生が男性に聞くと、男性は俺の顔を見て、
「村井 利信くんだね?」
と聴いてきた。
「はい」
俺は的確に淡々と答えた。
「少し、来てくれるかな?」
「次、授業なんですけど」
俺は若干の警戒感を男性に見せ付けた。すると男性ではなく先生が答えた。
「村井、次の授業の先生には俺が伝えておくから、この方についていきなさい」
「分かりました」
先生にこう言われれば俺だって納得がいく。この男性は『卓球関係者』であることは間違いない。学校側は卓球部には特別な援助をしてくれている。授業よりも部活優先なのは卓球部だけだ。
「じゃぁ行こうか」
俺は教室をでる男性について行った。
「……」
「……」
廊下を移動している間はそれといった会話もなく、ただゴム製の靴が廊下と接触するときの音しか聞こえなかった。廊下を歩いてすぐにチャイムがなった。
「失礼します」
男性は1階の『応接間』の前に立つとノックをして入っていった。
「! こんちわ!」
中に入ると、大鉄先輩をはじめとした先輩達が座っていた。
「よっ。村井」
荒木先輩はいつもどおりの感じだったが、その他の先輩達はその空気に負けたといった風に黙り込んでいた。
「荒木先輩、この人誰ですか?」
荒木先輩の隣に座った俺、そっと聞いてみた。
「知らね。俺も今来たところだからよ」
「そうですか」
俺と荒木先輩はそれから何も話さなかった。俺が納得するとほぼ同時に、さっきの男性が声を発したからだ。
「後から来た2人にはまだ自己紹介をしていないので、改めて自己紹介をさせてもらう。私は桐谷 秀才(きりたに ひでとし)だ。帝國大学卓球部現コーチ兼監督だ。先月までは城峰コーチがいたのだが、私と意見が合わなくてな。こちらに転入してしまった」
今の自己紹介で分かったことは3つ。まずこの人の名前は桐谷さん。次に今の帝國大学卓球部の頂点であること。そしてチーちゃんとは違う考えの人というこだ。
「今回私が来た目的は2つ。高校卓球界1位のこの津貫高等学校と我が帝國大学とではどちらが強いのかの検証。そして――」
そこで桐谷さんは言葉をとめた。いや、正確には止めざるおえなかった。荒木先輩は、帝國大学の名前を出してきた桐谷さんにも臆さずに、言葉を出した。
「帝國大学は俺たちを見下してるのになんで今更……」
だが、その言葉は、桐谷さんの前では『文』ではなく『単語の集まり』以下になってしまった。
「黙れ。今は私が話をしているのだ。君のそのくだらない疑問は私の発言の中に答えがある。一々止めるな……!!」
「……はい」
あの荒木先輩が、黙り込んだ。俺も、黙ることに決めた。
「2つ目の目的は実に簡単。城峰コーチをこちら側に返して欲しい。あの方は考え方は違うにしろ私の右に出る唯一の卓球人だ。それをこんな下らない選手の集まり程度の場所で捨てたくはない」
実に失礼な言い方だが、今は黙るしかない。チーちゃんが昨日言い放った『帝國大学に勝つ!!』とい目的を果たすには、我慢が大事なのだ。
「……」
「何か質問は?」
何も言わない、言えない俺達に、桐谷さんはただ視線を送る。正直、怖い。こんなコーチのいる大学の選手は、どれほどの実力なのか計り知れない。まだ卓球の経験は大鉄先輩達には負けるが、これでも一応は卓球人。分かる。 だが、そんな状況を打破してくれる人物はいた。チーちゃんだ。
「失礼しま~す!! 桐谷監督! 私は貴方の場所には戻りません! 大学を出るときにも言いましたでしょう? 貴方の知能はチンパンジー以下ですか!!?」
「「プッ」」
チーちゃんの発言に、笑いを堪えきれなくなった寿先輩と荒木先輩は吹き出していた。
「……貴女は変わりませんね。で? やるんですか? 帝國大学と」
「やるに決まってるでしょう? こっちの選手はそんな名前だけの大学には負けませんから!!!」
チーちゃん、何か勝ってに盛り上げてない? だって、監督だけなのに、俺達はこんなにビビッてるんだよ。
「ほら、貴方達行くわよ。校長から特別練習許可貰ったから、今日は今から練習。それと。こんな奴に近づくと黴(かび)が生えるわよ」
なんて言いようだよ……。ついこないだまでお世話になった人だぞ?
「はい! いくぞ皆」
チーちゃんの登場によって完全復活した大鉄先輩が、俺達に声をかけた。チーちゃんを先頭にして外に出ようとした。
「城峰元コーチ。さっきの問題ですが。チンパンジーは中々知能があるんですよ?」
「そ~ですか!」
チーちゃんはそれだけ言うと、応接間から出て行った。