第1話
三十歳になったばかりの脇田亮平は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。天井をぼんやりと見つめながら、亮平は小さく息をついた。
また一日が始まる。
亮平は都心の会社まで電車で三十分ほどの場所に住んでいた。特別便利というわけでもないが、通勤できない距離でもない。ワンルームの部屋には、最低限の家具と、特に趣味らしいもののない生活感が漂っている。
勤めているのは建設会社だった。
亮平の仕事は、建築現場で使うさまざまな部材を発注することだ。鉄骨、金物、配管、資材。図面を見ながら数量を確認し、メーカーや商社に連絡を入れ、納期を調整する。現場が止まらないようにするための、裏方の仕事だった。
土日は一応休みになっている。
しかし建設業界はそんなに単純ではない。
建築現場は土曜日も普通に動いている。
発注ミスがあれば電話がかかってくるし、材料が届かないとなれば確認の連絡が入る。
だから結局、完全に休めることは少ない。
日曜日はというと、特に何をするわけでもなく、部屋でゴロゴロして過ごすことが多かった。
月曜日になると、また満員電車に揺られる。
九時出社。
定時は五時。
だが五時に仕事が終わることは、まずない。
現場からの問い合わせ、見積りの確認、急な発注変更。気がつけば夜八時を回っている。会社を出るころには、外はすっかり暗い。
家に着くのは九時前後。
途中のスーパーで弁当を買うこともある。
風呂に入り、晩飯を食べると十時。
だからといって、何かする気力もない。テレビをぼんやり眺めたり、スマートフォンをいじったりしているうちに、気づけば日付が変わる。
そしてまた、朝が来る。
この生活が、もう五年以上続いていた。
五年以上。
思い返してみても、ほとんど何も変わっていない。
会社には女性社員も少ない。しかも独身の女性は、だいたい彼氏がいる。
仕事と家の往復。
たまにふと、
――俺、何のために生きているんだろう。
そんなことを思うことがある。
だが考えても答えは出ない。
だから亮平は、その考えをいつも途中で打ち消してしまうのだった。
今は三月。
年度末で、通常よりも忙しい。
もっとも、建設業界は一年中忙しいので、特別な感じはしない。結局、いつもと同じだった。
そして四月になった。
毎年この時期になると、新入社員の発表がある。だが今年は少し様子が違っていた。
朝礼で社長が壇上に立ち、社員たちを見渡した。
「今年は新入社員を採用しない」
ざわ、と小さなざわめきが広がる。
亮平も少し意外に思った。
だが社長は続けた。
「その代わり、これからはAIを積極的に使っていく」
社員たちは顔を見合わせた。
AI自体は、すでに社内でも少しずつ使われていた。だがセキュリティや著作権の問題などがあり、本格的な導入には慎重だったはずだ。
しかし社長は、どこか興奮した様子で言った。
「先日、AIの研修会に行ってきた。その進歩は凄まじい。私たちの建設業界でも、これは欠かせないものになるだろう」
そこから社長の話は長く続いた。
要するに、
AIを使えば作業時間が大幅に短縮できる。
だからできるだけ使え。
ということだった。
確かにAIは便利だった。
例えば難しい資料でも、
「内容をまとめて」
そう入力するだけで、誰でも分かるように要点を整理してくれる。
亮平自身も、見積り作成などで使っていた。
概算見積りなら、あっという間に出来上がる。
プロンプトを工夫して教え込めば、かなり精度も上がる。
そのうち図面を読み取って、数量拾いから工程管理、発注、メール連絡まで全部やってくれるようになるかもしれない。
そんな未来も、もう遠い話ではない気がした。
亮平はふと思った。
――そうなったら。
――僕がいなくても、よくなるのかもしれない。
人間がやっている仕事を、AIが全部やる。
もしそうなったら。
自分は何をするのだろう。
別の仕事?
それとも――。
そんなことをぼんやり考えていた、数日後だった。
「脇田くん」
突然、総務の女性に声をかけられた。
「社長が呼んでる」
亮平は少しだけ首をかしげた。
社長室に呼ばれる理由なんて、思い当たらない。
「今、ですか?」
「うん。今」
亮平は席を立った。
そして、ゆっくりと社長室へ向かった。
その時はまだ、これが自分の人生を大きく変える出来事になるとは、思ってもいなかった。
社長室のドアをノックすると、すぐに低い声が返ってきた。
「入っていいぞ」
亮平はドアを開けた。
社長は大きなデスクの向こうで書類に目を落としていた。窓の外には春の陽射しが差し込んでいるが、部屋の空気はどこか重かった。
「脇田くん、座ってくれ」
「失礼します」
亮平は椅子に腰を下ろした。
社長に直接呼ばれることなど、年に一度あるかないかだ。自然と背筋が伸びる。
社長はしばらく黙って資料をめくっていたが、やがて顔を上げた。
「最近、AIの導入を進めているのは知っているな」
「はい」
「君の部署でも使っているそうだな」
「見積り作成などでは使っています」
社長は小さくうなずいた。
「うん。いい傾向だ」
そして少し間を置いてから、言った。
「ところで、君の部下のことなんだが」
亮平は少し首をかしげた。
「部下、ですか?」
「そうだ。あの新人の女性だ」
亮平はすぐに顔を思い浮かべた。
去年入社したばかりの新人。
まだ仕事にも慣れていないが、毎日必死に図面を見て、数量を拾っている。
社長は資料を指で軽く叩いた。
「どうも、発注ミスが多いと聞いている」
亮平は少し言葉に詰まった。
「……はい。まだ経験が浅いので」
「だろうな」
社長はあっさりと言った。
「だが、考えてみてほしい」
椅子にもたれながら、社長は続ける。
「彼女のやっている仕事は、AIでもできるんじゃないか?」
亮平は黙った。
図面を見て、資材の数量を拾い出す。
ボルトやナット、配管の長さ、金物の数。
確かに――AIならできるかもしれない。
「図面を読み込ませれば、数量を拾うAIも出てきている」
社長は言った。
「だったら、任せてみたらどうだ?」
亮平の胸の奥が、少しだけざわついた。
「……じゃあ、彼女は」
思わず口に出していた。
社長は少しも迷わず答えた。
「他の部署に移ってもらう」
「他の部署というと……」
亮平はゆっくり聞いた。
「現場監督、ということですか?」
社長は軽く笑った。
「まあ、そういうことだな」
建設業界では珍しい話ではない。
事務職として入っても、結局は現場に回されることがある。
だが――。
亮平は頭の中で、彼女の顔を思い浮かべていた。
確かに仕事ができるとは言えない。
図面を読むのもまだ遅い。
ビスの数ひとつ数えるのにも時間がかかる。
だが、それは当たり前だった。
亮平自身もそうだったからだ。
図面からビスの数まで正確に拾えるようになるには、何年もかかる。
それがこの仕事だ。




