第58話 基準であることをやめる
制度が「完成した」と言われたのは、
境界域対応の現場が、ようやく落ち着きを取り戻した頃だった。
完成――
その言葉ほど、実感のないものもない。
世界は、相変わらず不安定だ。
異常は起きるし、被害も出る。
ただ一つ違うのは、
判断の前提に、俺の名前が出なくなったことだった。
法務局から正式文書が回ってくる。
> 「境界域対応において、
> 特定個人の同行・不同行を
> 判断基準としてはならない」
> 「違反した判断については、
> 責任の所在を明確化し、
> 当該組織が負うものとする」
淡々とした文章。
感情は、どこにも書かれていない。
だが、それで十分だった。
アレクが、会議室で言う。
「これで、戻れない」
「良くも悪くもな」
「はい」
俺は、短く答えた。
管理担当の女性は、
どこか肩の力が抜けた顔をしている。
「問い合わせが、減ったわ」
「“来る予定ですか”って」
それは、静かな変化だった。
誰も祝わない。
誰も騒がない。
ただ、
“前提”が一つ消えただけだ。
ミレイアが、書類を閉じながら言う。
「あなたは、もう基準ではありません」
「制度上も、世論上も」
それは、
宣告に近い言葉だった。
俺は、少し考えてから答える。
「……助かります」
正直な感想だった。
英雄にも、象徴にもならない。
責任の集積点にもならない。
それでいい。
午後。
境界域Hで異常が発生した。
対応は、通常通り。
俺は、動員されない。
報告だけが、後から届く。
『初動成功』
『被害軽微』
数字を見て、
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
(……俺がいなくても、回る)
それは、寂しさじゃない。
安堵だ。
夕方。
施設の廊下で、
若い職員に声をかけられた。
「……あの」
「ありがとうございます」
「?」
「前は、判断が遅れてました」
「誰かが来るのを、待ってたから」
彼は、照れたように頭を下げて去っていく。
俺は、その背中を見送る。
俺が何かを教えたわけじゃない。
何も導いていない。
ただ、
逃げただけだ。
“基準であること”から。
夜。
部屋の灯りを落とし、
静かに座る。
世界は、まだ不完全だ。
被害は、ゼロにならない。
それでも。
俺が基準でなくなったことで、
世界は、少しだけ大人になった。
便利な答えを、
一つ失った代わりに。
それが、
今の俺には、
ちょうどよかった。
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