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紫色の信号機

作者: 枯れる苗
掲載日:2025/10/29

床に着いたのは日が昇りきった後だった。煩わしい鳥の声が四方から鳴り出して、徐々に真っ白な空気が薄黄色に染まり出していた。机の上にはまだ書きかけの物語が居る。一人で立つことも死ぬ事も出来ないものだから、どうしようも無く蠢いている。私はそいつを知っていながら、一人前にしてやることも殺してやることもせずに、ただ天井をぼんやりと眺めていた。どうせ今日も予定は無い。起きてしまえば、ただ何も無かったと思うことを避ける為の一日が始まる。煩わしかった鳥の声さえ段々と疎らなになっていけば、無能の孤独をより強く引き立てる。

作家には何かが起きなくちゃいけないと昭和の文豪の誰それが言っていた。何か大きな革命が起きなくては文字などいつまで経っても凡庸なままであるという話だ。ただ、同時に何かが起きた時、それを大きな何かだと理解できる様でなければダメだという風にも捉えられる。小石に躓いただけでも大作を編む人間は居るが、芸能人が必ずしも名著を生むわけではない。結局は才能なのだ。気持ちの悪い書き方をするならば、自然から何かを賜る事が才であり、また能である。

この鳥の声だってその例に漏れない。本物の作家ならば、きっとここから何か大冒険を生み出せるはずだ。つまり、そうやはり、私は本物ではない。その天の恵みからの疎外感を、この鳥の間抜けな悲鳴の中に見付けるのが精一杯だった。水があればそれを飲み、家が有ればそこに住むしか方法を知らない。素直で、哀れで、精一杯の凡人である。

私は結局今月もまた、この作品を仕上げるに至らなかった。もう六月も暮れである。書き始めたのが丁度昨年度のこの辺だった。全く随分な難産である。煙草を買う金さえ、今の私にはもう残っていなかった。

部屋の中にじんわりと熱が浮かび上がってくる。よれたシーツが心地好い。まだまだ私の中には希望がある。しかしまあ、全く居心地が悪い。なぜ、私は焦らないで居られるのだろう。こんなにもダメなままの私が、今目を瞑ってゆったり休もう、だなんて烏滸がましい。

結局のところ私には才能が、どうしても無いのだろう。あんなにドラマチックな大事件から生まれ始めたあの物語さえ、続きをどうも書きあぐねている。あの女が居るのだから、私は所謂天才では無いと、心のどこかで折り合いをつけてしまっている。私があの物語を書くに至った経緯の中に、「薫」という男だか女だか判別つかない人間の名前が出てくる。隠す訳でもないからはっきり申し上げると、薫は所謂天才だった。石に躓けば、辞書を三冊も四冊も並べた様な厚さの大作をかけてしまうような作家だった。薫にはそんな能の目下に、多大な才が用意されていた。正に本を書く為生まれてきた様な人だったのだ。

白樺 薫は代々作家やら芸能関係の人間を輩出している様な家に産まれた。本当に産まれる前から小説を書かざるを得なかったのだ。後になって聞いた話だが、彼女はずっとその出自を隠して執筆活動をしていた。というのも、薫には薫のポリシーがあったのだと言う。二世だなんだと持て囃されるのを良しとしない者のひとりだったのだろう。尤も私の様な一般家庭出身にはそれだってどうも鼻にかけている様に感じる。

ある時、私の元に知り合いの、そのまた知り合いくらいの作家から電話がかかってきた。作家同士交流会をしたいからいついつにどこそこの駅へ来る様に、と。当時の私は呑気なものであった為、酒が飲めるなら、と了承した。

騒がしい居酒屋の真ん中に陣取って、十人かそこらの作家が集まった。皆思い思いに自分の思う哲学がああだこうだと話し合っている。私は無学なものだから、無知を晒さないようにと、そっとその隅の方で一人安い酒をちびちび飲んでいた。我ながら惨めなもので、もう二度と来ないと何度も何度も心の中で唱えながら膝を抱えていた。

そろそろ十分に誘われた分の勤めは果たしただろうと立ち上がる。すると、長髪の生首がぼとりと目の前に落ちて来た。ぞっとして立ち上がるとその首の下がまだついている。不気味に下ろした前髪の隙間からは整った目鼻立ちの若い女が見えた。「驚かさないでください」なんて慌てて言うものだから、彼女は大笑いして床に転がった。周りの男たちもその様子を指差して笑う。

私はとうとうここには居られなくなって、慌てて荷物を纏める。千円札を一枚余分に置いて、厚手のコートで顔を隠した。酔っぱらい共の余興に使われるのも迷惑だったので、そのまま不機嫌に、そして静かに出ていこうとしていたのだ。「待ってよ、ごめんね。からかって」女にしてはやけに低い声だった。長い髪を綺麗に纏めている薫には、決して恐ろしさなど感じなかった。けれど、その雰囲気やら、オーラやら、なにか纏う美しいものが私を恐縮させた。「別に」と返すのが精一杯だった。本当は小言のひとつでも言ってやらなくては気が済まなかった。どんなのが良かっただろうとその後になっても度々思い返す。しかし、薫がやっている事が正しい様に思えた。多数決とは恐ろしいものだと思う。

私達は薫の所為で居酒屋からは出なくては行けなかった。冬の寒空に放り出された他人同士、もちろん会話など盛り上がる訳もない。葬式の後と言っても信じられそうなほど、深刻な空気の重さだったと、感じていた。しかし、薫が開いた口は案外軽かった。

「次の信号、渡りきれなさそうですね」

くだらない世間話の方向に風が吹いた。まさか謝罪ではないとは思わなかった。目の前には点滅する青のライトが今にも赤に変わりそうだった。「走りますか?」なんて聞いたのが間違えだった。薫は首を振って、それから私達は赤色に変わっていない横断歩道の前で立ち止まった。

「走ったとしたら、渡れたでしょうか」

「渡れたでしょうね」

私は走る気で居たし、大抵走るものだと思っていた。貧乏暇なしなんて言葉が頭を過る。ずっと急いているようで情けない。もっと余裕の中に自分を見つけなくちゃ文学なんか程遠い。

「しかし、点滅する青いランプを見て、走るのは人間くらいなものでしょう」

薫は全く不思議な事を言い始めた。そりゃそうだ。他の動物はむしろ青を認識しているかどうかすら怪しいではないか。この、青は安全で、また赤が危険という規則を知っているのは人間に限った話なのだ。

「そうでしょうな」

「不思議ですね。私達は意図的に習性を作り出している。通常青いランプの点滅を初めて観た人はそれを原因にして走り出したりしない」

「走る事は、別に習性ではない様な気がしますね。習性なんて言うと、何も考えずに行っているように感じます。人間は個々に何かを感じつつ、行動を決定している様に思いますよ」

薫は静かに赤に変わった信号機を見ていた。私がまるで彼女を黙らせたみたいで居心地が悪かった。下らない世間話に対して返すにしては些か真面目に取り合いすぎた。道路一帯の信号が赤に変わって、それから私たちの前の信号に青いランプが灯る。私が横断歩道に足を踏み出す瞬間、薫は私の腕を引いた。「ほら、習性」なんて無邪気に笑うものだから、私は頷かざるを得なかった。

彼女の背中は私よりも随分低いところにあった。背中には何も書いていない。しかし何故だか彼女の背中がこの横断歩道の中心にある様な気がした。さっきの下らない飲み会でも、薫は中心の方に居た。きっと売れっ子の作家かなんかなのだろうと、私は推測していた。売れっ子作家のことなんか、結局私にはなにも分からないのだ。「意味の無い世界の中で」と、薫は続けた。あたかも、その言葉が必然的に現れたというふうに振る舞う。私の困惑を知ってか、知らずか、いや、彼女ならば知っていたはずだ。その上で、彼女はこう続けた。「意味の無い世界の中で、信号は何色に灯るだろう」と。「意味の無い世界?」なんて聞き返したかったけれど、なんだか私の小さな知識の尊厳が、心の奥底でふつふつと反抗して、喉の奥でその言葉を食い殺してしまった。

「意味が無いのですから、必然的に灯らないでしょうね」

「点滅すると、貴方は『走るか?』と聞いた。それはどちらのライトも消えたから、もうすぐ信号が変わると知ったのでしょう」

「えぇ。しかし、点滅と消灯は意味が違います。いずれ光る点滅を、私は意味と捉えたのです」

「いずれ光るとなぜ確信しているの?」

私は言葉に詰まってしまった。経験が、信号に意味を与えたのならば、真っ暗な信号には経験と推測が纏わり付く。経験も推測も意味の種である。信号機には意味が付けない。信号機というものを全く新しい支柱と箱との塊であると理解しなければ、否応なしに意味を成してしまう。しかし、それを信号機であるとするには要素が全くもって足りないのだ。この世に存在するという時点でこの世で意味を持っている。ならば、無意味の世界には、さて、あぁ、そういうことか。

「第一私は無意味の世界の住人になったつもりはない。これからなる予定もない」

「作家なのに?」

「作家は合理的である」

「合理的な作家なんて、面白いことおっしゃいますね」

私は馬鹿にされた腹いせに散々罵ってやろうと彼女の背中を追って居たけれど、一向に何の言葉も思い付かなかった。なんたって、こんな気取り屋の作家に的外れではない芯を食った余っ程嫌な悪口がないんだ。作家になって初めて日本語を呪った。新しい言葉を作って笑い物にしてやろうと惨めに奮闘する。

「紫色に点灯する」

口をついて出たのはそんな誰にでも思い着くような退屈な答えだった。薫は立ち止まって、私の顔をじろじろと見る。解説を待っても、今ちょうど編み始めたところで有りはしない。必死に手を動かしてやらた何だかんだと言い訳を紡ぐ。

「赤でも、青でもなくって、あぁ、それからどちらでもないでもないのだから、どちらでもあるのだろうなって」

薫は人差し指を一周まわして、「確かに」と笑った。その後に偶然、彼女の名前と素性を知った。新作のインスピレーションを求めて出掛けた先の本屋で、彼女の本を見かけたのだ。私はその本を持ち上げて、ぺらぺらと流して、それからそっと元に戻した。「紫色の信号機」というものだった。

それ以来、出掛けるのが億劫になってしまった。何が起こっても、何が起こらなくても、この世の全てが憎く感じてしまうのだ。あるものも無いものも、ある理由もない理由も腹が立って仕方がなくなる。

私は縒れた布団を脇腹の方へ下ろして、その擦れた音を聞いた。日はもう登り、徐々に瞼が重くなる。書きかけの小説はもう消そう。いずれにしても完成するものではなかった。不意に、物音がした。私は無意識に玄関を覗く。隣の住人が家を出た音だろう。気が抜けて、そのまま力なく崩れ落ちた。


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