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ミサの総て

作者: 井上靜

 これは前に予告していたとおり『リエとミサ』の脇役であるミサの物語で、彼女の小学五年生から高校卒業までの話です。

 今でいう「スピンオフ」(派生)の作品で、リエとの出会いなど『リエとミサ』の前提となることや、その詳細について、読めばわかるようになっています。

 ミサの総て


 第一章


 「あの娘が欲しくなった」

 これを聞いて、彼の隣に座っている妻は、そんなことを言う夫に少し呆れたというか納得したというかの微笑を浮かべて「あなたらしい言い方ね」と言いながらも続けて「私だって、気に入ったわ」と同意した。

  そのとき二人は、住宅地を走る自家用車の後部座席に並んで座っていた。

 「では早速、弁護士に頼んで、家庭裁判所に養子縁組の許可を申し立てしよう」

 「役所に届出るんじゃないのかしら」

 「それは成人の場合だ。成人なら当人の同意で済むから。しかし未成年者なら家庭裁判所に申し立て許可を得てのち役所に届出ないといけない」

 「そういう仕組みなのね。どうすると許可が降りるのよ」

 「うちの顧問弁護士の先生に訊いたら、まず配偶者がいて、その同意があること。これが絶対条件だそうだ」

 「なら、あなたの配偶者が今まさに同意したわね」

 「ああ。君もあの娘が気に入るはずだと確信していたさ。最初、弁護士から話があった時は、どんなもんだろうと懐疑的だったけど、あの娘に会ったら電撃を食らったような気がした。そして君もきっと同感だろうと、ね」

 「でも、弁護士の先生が言った話は、今も信じ難いわ。役所の無料法律相談を受け持ったら『雇った弁護士に裏切られてしまって、どうしたらいいのか』と相談された、なんて話は」

 「それが結構あるそうだよ。敵方と裏取引とか談合とかして依頼者を裏切るんだな」

 「なにそれ。オウンゴールならヘボ弁護士だけど、裏取引なんて八百長試合じゃないの」

 「それを平気でやらかす弁護士が少なくないんだな。あの娘の両親が事故に遭って亡くなった件では、どうやら加害者側から、被害者の訴訟代理人をしている弁護士へ、密かに取引をもちかけたらしい。勝訴で得られるであろう賠償金の相場があるけれど、そのうち成功報酬として弁護士が受取る額より割高になる金員を提示されて、これに弁護士が密かに応じた」

 「よく、そんなことができるわね」

 「まあ、加害者側としては、もしも敗訴したら相当の支払いを強いられるけれど、それよりは相手方の弁護士報酬よりやや割高の額なら安上りだ。和解金よりも安い。保険をかけていたとしても、被害者に金を払わされたというのは世間体が悪いし信用にも影響する。だから相手方の弁護士を買収するも同然のことをするんだろう。一方、被害者の訴訟代理人をしている弁護士としても、この取引に乗れば勝訴か敗訴か結果の解らない判決より確実で、受け取る額も多いし、労力も少なくて済む。その前すでに依頼人から着手金を受け取ってもいる。楽して大儲けだ」

 「だから依頼者を裏切って、弁護士はわざと負けたのね」

 「あまりに不可解な敗訴だと思った原告は、裁判所の記録を閲覧した。すると、提出した証拠が後から弁護士によって撤回されていた。依頼者が知らぬ間に。裁判所でも不正だろうと思ったはずだ。気づかないわけがない。でも弁護士のしたことは雇った者の責任になる」

 「じゃあ、弁護士なんて信用できないじゃない」

 「だから気をつけないといけない。こんなセリフが時代劇映画にあった。『雇った方で用心しなきゃなんねえ用心棒もいる』今なら弁護士のことだ」

 「でも、あの子のおじいちゃんは騙しやすそうな人だけど、親を無くした孫にお金がかかるから損害賠償の訴えをしたんでしょう。それを裏切るなんて、その弁護士はまさにヒトデナシよね」

 「そうだな。それでうちの弁護士は相談された。しかし、ヒトデナシ弁護士の責任を訴訟で追及しても、所属弁護士会に懲戒請求しても、法曹は身内に甘い世界だから期待できない。それよりなんとかしないといけないのは小学生の孫娘だ。それで、子供がいない夫婦すなわち我々に養子縁組の話をもちかけたという次第だ」

 「そうする前に、おじいちゃんが亡くなったら、どうなるの」

 「このままでは行政に委ねられるだろう。さすがにオリバーツイストみたいなことはないだろうが、施設に入れられても、里親が世話してくれても、その後は金が無いから進学できないという可哀想な話もよく聞く」

 「特に、あの子にとっては大事なことよ。あんなに成績優秀なんだから。それなのに進学できないなんてことになったら、これ以上の理不尽は地球上に存在しないってくらいよ」

 「私も、あの娘の成績には驚いたと同時に納得させられたな。やはり、と思った。最初に会ったとき、なんて賢そうな眼をしてるのかと思ったからなあ」

 「あの大きな目。パチクリとして可愛らしいけど、眼光が鋭くて射竦められた感じがしたわ」

 「それがなにより気に入ったのさ。もしも私たちに子供ができていたとしても、実の子を差し置いてあの娘に跡目を継がせたいと思うかもしれない。だから、この先なにがあっても養育費があるよう銀行に信託することにした。これであの娘は、仮に我々が死んでも大学まで行ける」

 「それなら家庭裁判所で認められるはずよね」

 そこまでの会話を交わしたところで、運転手の男が言った。「多奈部さま。もう少しで、その子の小学校に着きます」

 

 「あ、多奈部さん」

 その五年生くらいの女子小学生は、担任教師に連れられて職員室に来ると、その大きな目で、雰囲気を合わせたようにスーツを着こなしている夫妻を見て言った。この夫妻が両親だとしたら、見た感じから、やや遅くに産まれた子供という年齢差である。

 「ミサちゃん。ごめんなさい授業中に呼び出して」

 多奈部夫人が穏やかに、しかし緊張感を持って語りかけた。連れてきた担任教師の若い女性は、傍に立って会話を聞いている。

 「でもね、おじいちゃんが会いたがっているから。お身体の具合が悪くなって、さっき病院に連れて行ってあげたんたげど、そうしたら入院することになったの。だから、一緒に行きましょう。いいわね」

 こうして多奈部夫妻は、学校から早引きさせられた美早を自家用車に乗せて、美早を夫妻が両側から挟む形で後部座席に座り、その祖父が入院した病院に連れて行った。六人部屋の病室で、美早の祖父は鼻にチューブを付けて床に伏していたが、孫が夫妻に伴われて入って来ると、すぐに気づいた。

 「こんなことになってしまって」祖父は皺枯(しわが)れた声で三人に言った。「思っていたより、もっと悪いみたいです。退院して住んでいるアパートに帰るのではなく、病室から安置室に移される可能性が最も高そう。だから、お渡しした委任状などを、本当に使うことになるのでしょうかね」

 「それなら弁護士に委ねてあるから」多奈部が言った。「適確に法的な手続きが取られることになる」

 「そうですか。どうぞよろしくお願いいたします」夫妻に感謝の意を目で伝えると、孫に視線を移す。「美早、これからは多奈部さんが、お前のお父さんとお母さんになって下さるから」

 「ほんとうなの」美早は祖父と多奈部夫妻の顔を見比べた。多奈部夫妻は同時に頷いた。そのとき夫妻は、美早の祖父が辛そうな様子であることに気づいた。そしてコールを手に取ってボタンを押した。

 「どうしました」天井の小型スピーカーから女性の声がした。

 「気分が悪いそうです」多奈部夫人が言った。

 「すぐ行きます」

 その返事のとおり、ベテランそうな女性看護師が病室に小走りで来た。そして患者と「痛いかしら」「いいえ」「気持ちが悪い」「はい」と会話を交わしながら、相当に状態が悪そうだと視たようで、看護師がコールのボタンを押して「はい」「先生を呼んで」「わかりました」というやり取りをした。

 「ご親族の方ですか」と看護師が問うと、多奈部は「いいえ仕事の関係です」と否定すると、さらに「見舞いにきただけで、赤の他人です」と、ことさら突き放すように言った。そして「では、私たちはこれで失礼します、あとはお任せします」

 こうして多奈部は、妻と、娘にしようとしている美早を、病室から引っ張り出すように連れ出した。


 「あのアパートは引き払うことになるな」三人で病院の廊下を歩きながら多奈部は言った。「解約の手続きなら弁護士に頼める。彼は年金の他に収入も財産も無く、預金口座の額も僅かだと言っていた」

 「前に行ったとき、彼とミサちゃんの身の回り品しか部屋に無かったわ」と多奈部夫人が言い、彼女に手を引かれている美早は、話している夫妻の顔を不安げに見比べていた。

 「置いてあるものは処分していいだろう。これから美早が使うものは、これから新しく買えばいい。いや、心機一転して買い替えるべきだ」

 「どうしても、っていう思い出の物は、なにかあるかしら」

 多奈部夫人に問われた美早は、顔を横に振った。

 「転校することになるけれど、特に仲良くしていた人には、今までありがとうと言って文具を渡すものだけど、そういう子がいるかしら」

 美早は、また顔を横に振った。

 「なら、これからまた学校に行って、転入先に出す書類を作ってもらい、それを受取ったら我が家へ向かうぞ」と話しながら病院のロビーに来ると公衆電話があるのが目に付いた。「そうだ、先に学校に電話かけて、これから受け取に行く書類を作ってもらうよう言っておけば時間の節約になる」


 そして、先ほどの小学校に再び着くと、電話で依頼していた書類が出来上がっていて、すぐに受け取ることができた。いちおうの挨拶をして、三人はまた車中に戻った。

 「これから必要な物を色々と買うために寄り道するからな。まず服装だ」

 それでデパートの自動車を立体駐車場に停めて、ここでの買い物に一時間はかかりそうだから、それまで車外に出て何をしていてもいいと運転手に多奈部は伝えて三人は出た。店内で最初に靴の売り場が目に付いたので、美早に革靴を買い、それまで履いていた少しくたびれたスニーカーは店員に廃棄してくれるよう頼んで渡した。

 次は肌着である。多奈部夫人は女性の店員に「この子の」と美早を示し売り場を訊いて、そこに向かうと下着の上下と靴下やハンカチなどを、それぞれ数点ずつ購入した。さらに子供服売り場で、ブレザーとミニスカートに白いシャツを見繕って買い、そのまま試着室で着換えさせることにした。

 「ミサ」多奈部は言った。「カーテンを閉めたら、上着も下着も靴下も何もかも脱いで、この袋に入れなさい」それは店の手提げ袋で、さっき買った一切を入れていたものだ。美早は言われたとおり、試着室の鏡の前で全裸になった。多奈部夫人がカーテンを細目に開けて中を覗くと、脱いだものが入った袋を取った。そして買ったばかりの肌着を袋から取り出して代わりに着るよう渡す。

 「あの子、発育がいいわね」多奈部夫人が夫に言った。「今、裸になっているのを見たら、びっくり」

 「ああ、背が高いだろう」

 「それに、身体全体は細いけど胸の盛り上がりも腰のくびれもお尻の恰好も、この先が楽しみになるわ。顔が端正なうえで、あの身体つきだから」

 「五年か六年後には芸能人かな」多奈部は微笑んだ。「しかし頭脳明晰なうえ容姿端麗ということか。天は二物を与えずというのは嘘だな。もっとも、その代わり親が相次いで早死にのうえ、あの頼りない爺さんと二年間も一緒に暮らしていたなんて可哀想なことだったんだから、それで相殺ということだろうさ」

 「それよ。あの子が着ていた下着、ただ大きめなだけで身体にちゃんと合ってなかった。月一のもの用に履く下着にしても、さっき訊いたら持ってないって言うの。それで難儀していたそうで、話を聞いていて可哀想になったわ」多奈部夫人は目を潤ませて言った。「それでやっと今日からもう大丈夫になったってことね」

 そう話している間に肌着を付けたようなので、続いて上着を渡して着させた。もうカーテンを開けて良い。店員の女性たちが「ピッタリですね」「やはり背丈があるから」と、にこやかに言う。ネクタイは、結んだようになっているものに紐が付いている子供むけではなく、小型だけれど本式に結ぶものが店にあったので、これを多奈部は美早の襟に通し、しゃがんで向かい合うとウインザー結びにした。

 「さあ、出て来て靴を履きなさい」

 言われたとおりにした美早は、店員たちに「よくお似合いですよ」と称賛され、これが営業用の世辞とばかり言えない、心底からの言葉のようだった。

 「このまま着せて行くから、古い服は廃棄処分してくれますか」

 「かしこまりました」と店員は言って、その古い安物が入った袋を受け取った。そしてクレジットカードで支払いをすると、三人は売り場を後にした。店員は深々とお辞儀をして見送った。

 エスカレーターで移動し、腕時計の売り場で多奈部は「時間の管理を覚えるために」と美早に言って、若い女性に人気のブランドを買い与えた。大学生なら持っている女性も珍しくはないし、たまに高校生が持っているけれど、小学生には早い。しかし多奈部は、自分が持っているどの腕時計より遥かに安いと言った。ベルトの長さを調節すると、店員は、取り外した部品は保存しておくべきだと言った。成長してキツくなるかもしれないから、その時にまた調節できるように。

 あとはバッグやポーチ、そして財布だった。これもちょうどよく売っていたので揃えた。そして駐車場に戻った。運転手は先に戻って待っていた。ドアを開けて三人を迎え入れると、次は何処へと伺いをたてた。

 「美容室ね」多奈部夫人は言った。「この髪、わざと伸ばしているのかしら」

 美早は顔を横に振った。

 「なら、無造作に束ねていたのね。身に付けているもの一切が新しくなったのだから、髪型も新しくしましょう」

 それで駐車場を出ると、見た感じ良さそうで予約なしでも受付てくれる店を探した。それに合致した美容室を見つけて、多奈部夫人は美早を連れて入った。

 「いらっしゃいませ」モノトーンの服装をした女性の店員が出迎えた。

 「この子を」

 「ご案内します」

 そして鏡の前に美早は座らされた。

 「そうね」多奈部夫人は少し考えてから「ショートにまでしないで、セミロングより少し短めに切ってくださいね」

 「かしこまりました」

 その間、近くの時間貸し駐車場にクルマを停めると、多奈部は運転手と一緒に向かいの店舗で手洗いを借りた。女性たちは美容室に手洗いがあるけれど、こちらは今のうちに済ませておいたほうがいいということで。そのあと運転手は喫煙できる場所に行った。多奈部は煙草嫌いで自動車内は絶対禁煙だから。この運転手は多奈部より少し年下だが、そうは思えないくらいオッサン臭い雰囲気の持ち主だった。それにはニコチン依存症が影響しているのではないかと、多奈部は常日頃から感じていた。先にクルマに帰った多奈部は、時間が帯に短し襷に長しの半端さだからとカーステレオで音楽をかけ、助手席に座って目をつぶって聴いた。つかの間の安堵を求めて。

 しばらくしたら運転手が戻ってきて、美容室の方に視線を送った。多奈部は窓を開けた。すると運転手は言った「奥様と御嬢様、お店から出てきました」

 多奈部はクルマの外に出た。彼の妻は、髪型が変わった美早を連れている。

 「ほう」多奈部は感心した。「うまくイメージチェンジしたじゃないか」

 「これはベッピンさんだ」運転手は驚嘆して言った。「もともと思ってましたけど、これで尚更に」

 そしてクルマに乗ると、また多奈部夫妻に挟まれて座った美早は、カーステレオから流れるピアノ曲に強い関心を示した。音楽が重力のように、美早の意識を引き寄せていた。それで多奈部夫人が訊いた。

 「ミサちゃん、音楽は好き」

 「はい」

 「ピアノ弾いたりしたことは」

 「学校の音楽室で、少しだけ」

 「そうだろう」多奈部は言った。あのアパートでは無理だし、あのおじいちゃんでは解らないだろう」

 「同級生で興味がある子は、習っていたでしょう」

 「うん」

 俯いて答える美早に、多奈部夫人はまた目を潤ませていた。

 「とりあえず、家に帰ろう。外食しようかとも考えていたけれど、まずは帰宅だ」多奈部が前方に顎をしゃくって発車を促した。それで運転手は「ではシートベルト締めてください」と言い、確認してから発進させた。

 ちょうど道路は空いていたので、二十分ほどで多奈部邸に着いた。門の前で三人は降り、クルマは運転手によって車庫の出入口に向かった。

 その大きな家を見上げて、美早は、どうして自分がこんな家の前に立っているのかという顔をしていた。

 「ミサ」多奈部は美早の肩に手をかけて自分に引き寄せた。「今日から、ここがお前が住む家だ。それで服装も髪型も、何もかも一切が新しくなった」

 「家の中に入ればピアノがあるわ」多奈部夫人は、身を屈して美早と視線を合わせ、優しく、かつ決然とした口調で言った。「スタインウェイのグランドよ。最初は私が教えてあげる。上達してきたら先生に就けさせてあげるから」

 それで嬉しいといより戸惑う美早に、多奈部は宣告した。

 「お前は私たちの娘になったんだ。そのための法律上の手続きを、雇った弁護士に頼んでいる。それが済んだら、お前は多奈部美早だ」 

 


 第二章


 「校長室は、どこですか」

 美早は、あの人生が変わった日に買ってもらい着替えさせられた服装で、自宅からそう遠くない小学校に独り徒歩で行った。児童の姿は疎らだったが、まだ教師は残っている時間だった。正門から敷地内に入り、玄関で靴を脱いで持参した上履きに履き替え、まだこの学校には自分の靴入れが無いから、履いてきた革靴はビニール袋に入れて手提げ鞄に納めた。そして校舎内に入ると、見かけた教師らしい若い女性に声をかけて訊いたのだった。

 すると、その女性は怪訝そうに訊き返した。

 「校長室に何の用なの。あなた見かけない顔ね」

 「転校生です。そのための書類を提出するので」

 「そうなの。保護者の方は…」

 「来ていません。書類を校長先生に渡すだけですから」

 「そうなの」親などの付き添う大人がいないことに少し驚いた様子だが「まあ、そうかもね。書類を出せば済むことよね」と言って軽く笑い「こっちよ、付いて来なさい」

 そして美早を校長室の前に連れて来ると、彼女は戸を叩いた。「どうぞ」と男性の声がしたから、ドアを開けて「失礼します」と言い入室すると、美早も招き入れて、この人がそうだと美早に紹介することも兼ねて年配の男性に「校長先生」と呼びかけ「転校生です」と伝えた。

 「はじめまして校長先生。私は、この学校に転校することになった多奈部美早です。どうぞお見知りおきを。これが書類です、ご査収ください」

 この美早の言葉に、校長は思わず椅子から立ち上がって、両手で、差し出された封筒を受け取った。その姿勢のまま見下ろし、制服ではなくブレザーを着こなしてネクタイをウインザー結びしている小学生を観察しながら、意識の中に色々と去来することがあることを伺わせる顔の表情をした。そのうえで封筒を開けて書類を見た。そして一通り目を通すと言った。

 「姓がこの漢字で、住所も、ということは、あの多奈部さんか。校長に会うから正装ということかな。あの人らしいかも。夫妻に子供はいなかったはずだし、他所から転校して来るのだから、事情は容易に察しが付く。でも余計なことは言わないように」と女性に向かって釘を刺すようにすると「他の先生たちにも言っておくから」と、美早に優し気な口調で言った。さらに「3組がいいだろう。転出があって一人減っている。今から担任の先生を呼んで対面させるからね」


 「それで、ミサは学校に馴染めたみたいか」

 多奈部は、妻に訊ねた。彼はパジャマの上からガウンを着ていて、就寝前のくつろいだ恰好だ。同じようにガウンをまとった妻は、夫と向かい合って居間のソファーに座っている。

 「ええ」と妻は答えて「早速、あちこちで噂になっているみたいね。身寄りのない子供を引き取ったというと善行のようだけど、年齢的に手がかかる時期を過ぎた子供を貰って可愛がって悦んでいるから、いい所取りしている多奈部夫妻というわけよ」

 「実際そうだから、言われても仕方ない」多奈部は苦笑した。「とにかく、地元の学校に適応したなら、私立校は中学からということでいいな」

 「その受験なら、あの子、どこだって受かるんじゃないかしら。これ見てよ」ソファーの傍らに置いてあったファイルを取りあげて夫に差し出す。「今までミサが持って帰った返却答案よ」

 その結構な厚みのあるファイルを開いてめくって見た多奈部は、何かの冗談ではないかという顔の表情になった。

 「すごいな。満点ばかりじゃないか。よく頑張っているようだな」

 「そうじゃないのよ」

 「どういう意味だね」

 「あの子、うちに来てからピアノ弾いてばっかりで、そりゃ、今までやりたくても出来なくて悔しいとか悲しいとかの思いがずっとあったはずだから仕方ないと思ったわ。夢中になって鍵盤に向かっている姿を見て、私、思わず涙ぐんだほどよ。でも、そろそろ他の勉強もしないと駄目よって言ったのに、全然しないの。宿題は仕方ないからやっていたみたいだけど。それなのに、試験は全教科が、これなの」

 「じゃあ、学校の授業だけで完璧に理解して、予習も復習も無用ってことか」

 「そういうことになるわね。それがピアノの時も、先ず、じっと楽譜を見つめていたら、あとは全く見ないで完璧に弾くのよ。初見で弾くどころか、かなり長い曲でも一度読んだら暗譜できちゃう。読んだというより、あれは見たというべきね。それが画像として頭の中に記憶されて、それを後で思い出して読むのよ。楽譜を凝視していときも、思い出しながら演奏する姿も、あれはどうもトランス状態としか思えないの」

 「なら天才ってことじゃないか」多奈部は少し首を傾げる。「それなら困ることもあるぞ。そんな人は、他の人と普通に接することができない。幼少期を抑圧された環境で過ごすと、脳内の神経が変わった構造になってしまうと聞いたことがある。それで特殊な能力を発揮する一方、奇人変人と言われてしまう」

 「社会不適合者にならなければいいけれど」

 「ジーニアスでルサンチマン持ちは危険だからな。そうならないように将来、芸術家にするか。容姿端麗だから芸能人でもいい。せっかく成績優秀でもマッドサイエンティストになっては困る。とにかく、注意して様子を見ようじゃないか」

 「あっ、そう、そう」妻はほんとう楽しみしているという感じで夫に言った。「様子を見るなら今度ピアの発表会があるわ」

 「ミサが出るのか」

 「ええ。ミサは早くも私が教えることは無くなったの。これは、あの子が天才なのか、私が大したことないのか、どっちにしても、まずは最低でも音大出の先生に付けないといけない段階になったからね。その教室の発表会に、ミサは習い始めでもう出ることになったの」

 「上達が早いから」

 「そう。それで別珍のドレスを仕立てるから」

 「べっちん」言って多奈部は語尾を上げた。

 「特別注文のことよ。あの子なら映えるわ」

 「楽しみだね、まあ、どの親も、うちの子が最高だと思っているだろうけれど」

 「それでもう一つ、あなたに見てもらいたの。同じ教室に通っている別の学校の女の子。ミサと同じ学年で、里英子だからリエとミサは呼んでいるけど、そのリエちゃん、ミサと気が合うらしくて仲良しで、それがね、見たらちょっと驚くはずよ」

 「なんで」と怪訝に言う夫に、妻は説明を続ける。

 「リエちゃんは背がミサと同じくらいだから平均より高めで、リエちゃんの方が少し細身。これは痩せているんじゃく華奢な体形ということね。それで顔は、大きな目といい、少し先の尖った鼻といい、理想的な縦横比と適度な厚みの唇といい、よく似てるのよ。並べて見比べると違うけれど、別々に見るとソックリな感じ。あれなら姉妹と言っても通用するわね」

 「へえ、それなら予定表に入れておこう。そんな子がいるなら、ぜひ見てみたい。もちろんミサがどの程度の上達なのか演奏も聴きたいし、その別珍のドレス着て演奏している姿も見たいけれど」

 「私がクルマでミサを送迎していた時、リエちゃんのお父さんに会ったわ。いつもお父さんがクルマで送迎しているけれど、そのときミサを見て驚いていたわ。他人の空似なんてものじゃないと言って」

 「もしかして、ミサの家系と、そのリエちゃんの家系と、つながりがあったりしないか」

 「それは無いわね。向こうはミサの事情を知らないけれど、こちらは知っているので気になるでしょう。それで調べてみたけれど、全然、親戚じゃなかったの」

 「それは不思議な巡り合わせだな」

 「でしょう。ただ、違うのは性格ね。ミサって意外と豪放な性格じゃない」

 「そうだな、最初の緊張が解けてきたら、ハッキリした」

 ここで夫妻は一緒に苦笑した。

 「ミサと違って、リエちゃんは落ち着いた感じ。でも、芯は強そうなの」

 「ほう」

 「それが、今度の発表会の曲目に反映しているから、それも面白いわよ」

 「ますます楽しみだ」


 発表会の当日、音楽教室の講師をしている女性が正装のうえ司会進行役をしていて、広いホールなのでマイクを使い、客席にいる親などに紹介している。

 「小学生の部、次は設楽里英子さん。演奏するのはドビュッシーのベルガマスク組曲から『プレリュード』と『月の光』です」

 やはり別珍の青いドレスを着た里英子が舞台中央に置かれたピアノの前に出てきて、照明を浴びながら暗い客席に向かい、美早と同じくらいの長さの黒い髪を揺らしながら、子供の仕草にしては優雅なお辞儀をして、椅子に腰かけた。これを見て、客席の多奈部夫妻は囁き合う。

 「なるほど似ている」

 「でしょう」

 里英子は目をつぶって一呼吸すると、眼を開けて指先を鍵盤に向かわせた。早すぎも遅すぎもせず、大きすぎも小さすぎもせず、強すぎも弱すぎもせず、最初から最後まで何もかも一定に保ちながら落ち着いた調子で流麗に音型の波動を周囲の空間に送り続ける。

 最後の音の微少な響きも消えると、里英子は立ち上がる。すっかり感心したという拍手が鳴り響いた。里英子は無事に弾き終えて安堵した表情と、拍手による満足感の表情で、晴れやかに微笑み、お辞儀をして、退場して行った。

 「うまいじゃないか」

 「良かったわね。雰囲気を出せるかに成否がかかっている曲よ。あの子の落ち着いた性格のためね。しっかり練習してるのも判るけれど」

 「ということは、ミサにとって、いい友人みたいだな」

 「そうね。さて次はミサよ。小学生の部の最後を飾るからね」

 そこで司会役が出てきて言った。「小学生の部、最後は多奈部美早さん。曲はリストの超絶技巧練習曲より『マゼッパ』です」

 客席から軽いどよめき。小学生の女の子が選ぶ曲目とは思えないと言いたげな。

 美早が登場すると、着ている別珍のドレスはワインレッドだった。これを見て養母は嬉しそうに微笑み、養父はカメラを取り出してレンズを向ける。音楽教室の撮影担当者がいるのだけれど、そんなことはお構いなしで、自分の写真を撮ろうとする。

 美早は、堂々とした態度でお辞儀をするとピアノ前の椅子に腰かけ、精神統一のような目つきと呼吸をしはじめた。徐に手を持ち上げ鍵盤の上に翳すと、そこから一気に振り下ろし猛然と叩き始めた。それから数分間、多い音符の激しく理路整然とした配列が、聴く者の意識内に美を発生させた。そして最後は余韻を感じさせる締め括りで曲を終えた。

 もちろん難点を指摘することはできるが、それは演奏のための基礎体力不足に起因していて、修練の期間が短いという、彼女のやむを得ない事情によるものであった。それ意外のことは、楽譜の読み取りといい曲想の解釈といい完璧だった。それで呆気にとられたような客席に向けて、美早は立ち上がってお辞儀をした、途端に割れんばかりの拍手が沸きおこり、その響きというより轟きのなかには感嘆の声が混ざっていた。

 美早は無表情のようでいて、その大きな両目には満足気な光を灯していた。そしてまた堂々とした足取りで退場した。この様子を見つめている養父母は、激しく手を叩きながら卒倒しそうなほど興奮していた。



 第三章


 「盛大な拍手ありがとう」

 舞台の上、ピアノの前で、受け取った花束を抱えながら、演奏し終えたタキシード姿の五十がらみ男性が、盛大とはいえ義務感で手を叩いている聴衆たちに向けて言った。

 「今年も、おかげさまで定期演奏会を無事に開催できたけれど、そのうえ今年は本当に喜ばしい出来事がありましたね。みんな知っての通り、私が顧問をしている音楽教室に通う中学生の多奈部美早さんが、音楽コンクールピアノ部門で地区優勝しました。この先の全国大会に向けて、私が直々に指導することになるでしょうけれど、どうか応援してあげて、また、皆さんも負けないように頑張ってください」

 このとき、小ホールにも関わらず所々に空席が目立つ観客席には、多奈部美早も座っていた。中学校の制服を着ている。周囲に座っている人達は、美早の方に向けて拍手をした。しかし美早は無反応を決め込んでいた。

 そのあとみんなロビーに出ると、帰る人達の一方で、音楽教室の講師の女性が、受講生たちから花束代を徴収していた。舞台で演奏後に渡した他ロビーにも飾られている。そこで美早は反感と嫌悪感をなんとか隠して言った。

 「今日は学校から直に来たので、お金を持ってません」

 「それなら仕方ないわね。立て替えておくから、後でね」

 「すみません」と美早は言ったが、その様子から到底すまないとは思っていないうえ後から払う気も無さそうだ。そして、彼女の傍には別の中学の制服を着ている設楽里英子がいて「リエもだよね。直に来ないと間に合わなかったんだから」

 すると里英子が、花束の代金なら持って来たと言いそうだったので、これに先回りして美早は自分に同意するよう強い視線を送った。これを感じた里英子が頷いて「ええ」と言った。

 そこへ今日の主役が歩いて来た。一同は、そのタキシードを来た男にお辞儀をする。卑屈なほどの平身低頭ぶりだった。それを当然のことのように男は威張って通り過ぎる。これを美早は無視し、周囲に迎合せず、そっぽを向いてる。里英子は美早の態度に合わせていた。美早の気持ちを里英子は他の誰よりも理解しているというように。

 「じゃあ、失礼します。リエ、帰ろう」と美早は言って里英子の腕をとり軽く引っ張って促した。里英子も「失礼します」と言って美早に続いた。

 外に出ると、ホールのすぐ隣にある外資系ホテル一階のラウンジに、さっきのタキシードの男が入って行くのが見えた。そこに待っている女性がいて、二人は同じテーブルに腰かけた。そして何やら談笑しているのが、大きなガラス窓を通じて見えている。

 「教授の奥様ね」里英子は言った。

 「さっきの偉そうな態度」美早は反感を剝き出した。「受講生たちにチケットを捌くように押し付けてさ。スタープレイヤーじゃなく大学のセンセイの発表会なんてチケット売れるわけないから、みんな友達なんかにタダであげて代金は自腹で上納してるでしょう。そのうえ花束代まで。頭を下げるべきなのは教授の方よ。それなのに、みんな世話になっているからと卑屈になってる。あれじゃあ、みかじめ料でしょう」

 「まあね」里英子は、充分理解できるという反応をした。「家元制度みたいなもの。それで、チケットのノルマをこなした形でお金をたくさん上納すれば教授一派の中で地位が上がるんだから、みんな従っているのよ」

 「政治家のパーティー券と同じだね。しかも、先生が演奏会をすれば弟子は御祝儀を渡す、弟子が発表会に出れば先生に礼金を渡す。結構な金づる」

 二人は地下鉄の駅に向かって歩き出した。騒々しい夜の街中を、建物と自動車の明かりが照らし出している。そこで里英子が問うた。

 「特にミサは、さらにお金がかかるわね。ミサのうちなら大丈夫だけど。これから全国大会の指導を教授から受けるんでしょう」

 「受けないよ」美早はきっぱりと言った。

 「でも、教室の先生が言っていたでしょう。受験やコンクールで点を取るやり方は、上に進むと上の方にいる先生じゃないと解らないって」

 「出ないよ、大会には」

 「えええっ」里英子は美早に負けない大きな眼を見開き「それ、どういう意味よ」

 「もう私は音楽教室やめる。受験があるからってことにして」

 「そんな必要、ミサには無いでしょう。受験勉強しなくても入れる高校がいくらでもあるくらいなんだから」

 「もちろん口実よ。たくさん入試の勉強して、偏差値の高い学校に入って、東大を出たら霞が関の官僚になるつもりだって言ってやるわ。嘘だけど」

 里英子は可笑しくなって噴き出した。「先生たちを刺激する言葉ね。でも、ミサなら医学部に入ると言うほうが似合うんじゃないの。歯医者の方が説得力あるかな、お父さんは歯科医師会の理事だから」

 「かもね」美早は口元に笑みを浮かべた。それを見て里英子が打ち明ける。

 「実はね、私も、受験のためにピアノは止めるか休むかと考えていたのよ。もともと私は、親が娘の嗜みとしてやらせていたことだったし」

 「私の母も、そうだったらしい」そして美早は、それなら話は早いと言うように提案した。「じゃあ、一緒にやめて一緒に受験勉強しよう。同じ高校に入ろうよ」

 「そうしましょうか」

 二人は互いに、他人から似ていると言われる顔を見合わせた。どちらの顔も表情が輝いている。

 「よし、約束ね。ハイタッチ。手を挙げて」

 「こうかしら」

 「そうよ」

 二人の掌から甲高い音が強く響いた。

 

 「今日も放課後は公民館の学習室かしら」

 養母に問われて美早は頷く。登校の前、多奈部邸の、吹き抜けから採光する広い玄関で、制服の美早は靴を履いているところだった。

 「うちに来てもらってもいいのよ」

 「でも、うちと、リエのうちと、中間地点だから」

 「そうね。そのほうが勉強に集中できるし。自宅に集まると、一緒に勉強するつもりでも、つい遊んじゃうものだからね」

 「経験者は語る、ということね」美早が揶揄う。

 「親を揶揄うんじゃありません、とばかりも言えないわ。実際そんなことあったから」そう言って軽く笑うと、一転して真面目に「女の子が夜に自転車って心配だから、あまり遅くならないようにしなさい」

 「はい。解りました。じゃ、行ってきます」


 公民館の学習室は、他にも自習する中学生と高校生たちがいる一方、数名の高齢者も来ていて、備えてある新聞を閲読している。

 その中に美早と里英子がいる。並んで座り、入試の問題集とノートを広げて、猛然とした調子で、課題をこなし続けていた。そして一段落というところで美早が里英子に言った。

 「今日は、これくらいにしておこうか」

 「そうね、今日も頑張ったわね」

 それで二人が卓の上に広げていたものを鞄に納めて立ち上がり玄関に向かうと、そこで上の階から降りて来た集団と出くわした。その中には弦楽器や吹奏楽器をケースに入れて抱えた者もいる。公民館の上の階には歌舞の練習場と小規模なコンサートホールがあって、地元のアマチュア管弦楽団が来ていたのだった。さっきまで上から練習する音が聞こえていた。

 その集団のうちのバイオリンケースを持って眼鏡をかけた男性が「あれ」と言って「もしかして多奈部美早さん」と声をかけてきた。これに反応して他の者たちも美早に注視した。

 「いかにも」と美早は時代劇のセリフを真似して言った。このオッサンなんで自分に声をかけるのかと警戒していたからだ。

 「ピアノコンクールで優勝した多奈部美早さんですよね」そして一緒にいる里英子の顔を見て「お姉さん、それとも妹さん」

 「いとこ」美早が適当かつぶっきらぼうに言うので、里英子は笑いを堪える表情をした。

 「そうですか。似ていますね。ところで、私がコンサートマスターをしているアマチュアでローカルのちっぽけなフィルハーモニーがピアノ協奏曲をやろうとしているんですけれどね、ピアノの独奏者がいなくて困っているんです。ここで会ったのも何かの巡り合わせです。貴女にお願いしていいですか」

 「でも私は中学生だから」

 「年齢は関係ありません。むしろ私どもの方が貴女より格下ですし」

 「そういう意味じゃありません。受験生だから『お忙しい身』ということです」

 「ああ、そうですよね。でも、受験勉強の合間の気晴らしということで、どうですか」

 美早は上を指差して「ここで練習しているのかしら」

 「そうです。明日もやります。招聘した、といっても無名というかハッキリ言って二流の人だけど、いちおうプロの指揮者が来てリハーサルをするつもりだったのに、ピアニストは来てくれる人がいない。見つけるつもりが見つからなくて、どうしようかと思っていたんですよ。なので、その場に居てくれるだけでもいいくらいです。来てくれませんか」

 「わかったわ。明日も自習に来る予定だったから」そして里英子に「じゃあ、私が抜けている間は一人で勉強していてくれるかな」

 「私もお付き合いさせてもらっていいかしら。なんか面白そうだから見物したい」

 「もちろん」コンサートマスターの顔から笑みが零れた。では多奈部さん、明日の午後六時からです。よろしくお願いします」


 翌日、下校してから公民館で会った美早と里英子は、一時間半ほど受験勉強をしたのち一緒にエレベーターに乗り上の階へ向かった。そこのホールは客席と舞台が擂り鉢状で、舞台に集合している楽団員たちと指揮者が話しているところだった。美早と里英子は最上部の扉を開けて入ったので、舞台とは最も距離が空く位置関係だった。昨日のコンサートマスターがコンダクターらしい男と、入って来た二人に気づかず、会話を続けている。美早から見て、指揮者は今の父親と同じくらいの年齢で、それよりマスターが十歳は年下という印象だ。

 「中学生の女の子と言っても、ピアノコンクールで優勝した子です」

 「それにしても、決まったのが昨日だなんて。それでは練習なんて―」と指揮者が言いかけたところに割り込む形で美早が上から言った。

 「全然してません。曲目も知りません」

 これで一同が気づいて見上げた。そこには学校の帰りで制服のまま寄った女子中学生が二人いた。そして二人は座席の間を下った。

 「なんてことだ」指揮者が嘆かわしい顔をして言った。「ベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番だけど、知っているかね」

 「聴いたことはあります。有名だから。楽譜を見たことは無いけれど」

 「それじゃあ―」

 「今から見ますね」遮って美早は言い、台の上から総譜を取り上げて一ページずつめくり始めた。その様子を、周囲の一同が怪訝そうに見つめている。美早は大きな両目を見開き、読むと言うにしては奇妙な目つきをしているからだ。これはいつものトランス状態だと、里英子は知っている。里英子は自分と美早の鞄を持って近くの座席に座る。

 一同がざわつき始めたけれど、美早は意に介さず集中力を持続させている。どの位の時間が経過したのかは誰も測っていなかったが、そう長くはなかった。総譜を途中で閉じると、美早は「とりあえず第一楽章は読みました」と言って総譜を元の場に置き、腕時計を外して里英子に預け、ピアノの前に進み椅子に腰かけた。椅子の高さが問題ないことを確認し、楽譜を集中して見ている間に少し緊張して湿った手を、ハンカチを取り出して拭った。

 「これか」美早はピアノに付いているロゴを見て呟いた。「でも好都合。スタインウェイだと、細かい部分で誤魔化せないから」

 これに指揮者が少し驚いて「スタインウェイって」

 「うちの」

 「君のうちのってこと」彼は語尾を上げた。

 「ええ」

 そんな家庭の子なのかと、一同が言いたげにする。

 「じゃあ、はじめましょう」と美早が言うので、一同は呆気にとられた。それで美早が促す。「さあ」と、穏やかながら押しが強かった。

 それならというように、指揮者が一同に対して、着席し演奏の待機状態になるよう両手で指示した。そのうえで美早の方へ視線を送り、美早が頷くので演奏を開始することにした。

 指揮棒が振り下ろされると、やはりこの程度の楽団という水準で、いちおう強い和音が奏でられた。続いてカデンツァふうのピアノ独奏を美早が奏でると、指揮者と楽団員たちが吃驚した顔で美早を見た。管弦楽団を圧倒する響き。指揮者と楽団員たちが気を取り直して再び和音を奏でると、美早も独奏を繰り返す。三回目の最後、次はオーケストラの番だと促すように、美早はピアノが揺れそうなほど力強く和音を叩いた。それと同時に管弦楽が、この曲の良く知られた楽想を演奏する。

 「もっと気合いを入れろ」指揮者が棒を振りながら言った。「ピアノに負けてるぞ」

 そう指揮者が言っても、またピアノが入る部分になると、その音がグイグイという感じでオーケストラを圧しまくった。右手で合奏すると同時に左手で下降音型を繰り返す部分では、その下降音型が打ち寄せては退く波のように反復され、これに指揮者は興奮し、楽団員たちは気分が乗ってきたようで、楽しそうな笑みを浮かべる者もいた。このまま第一楽章の終わりまで驀進しそうである。

 この様子を楽しそうに見物している里英子の目の前で、ついに第一楽章が全く閊えることなく演奏し終えた。楽団員たちは全員立ち上がり美早の方に向けて手を叩いた。ここで美早は我に返ったようになり、深呼吸すると立ち上がり、拍手への返礼に軽くお辞儀をした。指揮者は顔面をクシャクシャにしながら寄って来ると、他所様の女の子に触れてはいけないので美早の頭すれすれで撫でまわす仕草をした。

 里英子も立ち上がり拍手していた。そして美早を見ると、いつも冷淡で渇いた態度の美早もさすがに嬉しそうにしているのが判った。これなら数回の練習で演奏会を開けそうだ。


 「ついに、この日が来たな」

 「珍しく客席が埋まっているぞ」

 「うちの観客動員数としては最高記録かもよ」

 「あの子の効果だ」

 「どの程度の腕前かという興味だろうね」

 などと正装したオーケストラのメンバーたちが舞台の脇から会場を覗いて口々に言葉を漏らした。

 そのとき美早は更衣室にいて、前に発表会で用いたドレスに着替えていた。

 「もう着ることは無いと思っていたけれど」と独り言ちながら「少しキツイけど、太ったんじゃないね。ウエストもヒップも同じだけど、バストがね」と胸の部分を摘み前に向けて引っ張る。そして「また乳が大きくなったか」と、困ったように呟いた。


 時間になり、先ずオーケストラのメンバーたちが舞台に登場した。客席からの軽い拍手が一同を迎えた。そして指揮者が入場すると、コンサートマスターと宜しくの握手。そして指揮者の手招きで主役というべきピアニストの美早が現れ、ここで拍手が強まる。

 客席に美早の両親が来ていた。他の観客と一緒に拍手していると、前の席にいる男性が「うわっ、可愛いなあ」と言うのが聞こえ、その隣に座っている女性が「綺麗な子よね」と言った。

 指揮者の音頭で演奏者一同が聴衆にお辞儀をしてから着席すると、一人だけ立ったままの指揮者が客席に背を向けて、目配せして演奏者全員とくに美早の準備完了を確認すると、演奏開始の合図をする手を振り上げて指揮棒を振り下ろす。

 何度かのリハーサルで確認しあったとおりにベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番は順調な演奏が進み、第三楽章の楽譜の最後の二本線まで、辿り着いたのではなく一気阿世の突入とでもいう活気でもって達し、この音楽は終結した。

 爆発するような拍手に応えて、習慣に従い独奏者が立ち、観客に向けてお辞儀をする。そして指揮者とコンサートマスターに眼で挨拶する。次に演奏者が促して全員で立ち客席に向けて感謝を意を表してから、指揮者も観客にお辞儀をして、独奏者を誘導して二人で先に退場する。

 里英子も席にいた。大喜びで拍手しながら、気づいたことがあって微笑んでいる。入場した時より深々とお辞儀する美早が、心を込める意思表示として胸に左手を当てているようでいて、実は衣装のため胸の谷間を気にしての仕草だということに。いずれ美早は身体で男性を魅了するだろうと、もちろん里英子は解かっているが、美早より先に自分の方が男性から身体を愛撫されることになるとは思わなかったし、そのあとになってから、美早の胸を最初に愛撫するのが自分であるとも思わなかった。



 第四章


 多奈部美早は、放課後の教室で、同じ制服を着ている設楽里英子に言った。

 「今日はスタジオにスコアを持って行くから」そして机の上に置いたナップザックのファスナーを開けて、中に入っている紙の束を見せ「総譜と五人分のパート譜。ちょっとずっしり」

 「作ってあげると約束しちゃったから、しょうがないよね」と里英子はナップザックの中を見て言いながら、美早がピアノを弾いては五線紙に書き留めたり、ギターやベースで鳴らしてみたりしている様子を想像しながら「さすが美早、早いわね」

 「まあね」美早は、この程度なら簡単だと言いたげだ。

 「私、今日は茶道部の活動があるから」

 「お付き合い無用よ。渡して、読ませて、説明する。それだけだから」そして美早は笑みを浮かべて「せっかくのお菓子だから、しっかりお召し上がりになってね」

 「ありがとう」里英子も微笑んで「お茶は口実ね。実質お菓子部」

 「はは」美早は軽く笑い「それじゃあね」

 「また明日」里英子も軽く手を振った。

 美早は里英子を残して、数名の生徒が残って其々のことをしている教室から出て行った。

 

 練習用の貸しスタジオで、美早は、集まっている五人にパート譜を手渡していた。譜面を見て、担当する楽器により渡す相手を確認しながら、一人ずつ。

 ここにいる男性三人と女性二人の社会人は、学校帰りで制服を来た高校生の女子からスコアを受け取ると譜面に眼を落すようにして読み出したが、目を通しただけで直ちに曲想が頭に浮かぶほどの読譜力がある者は居なかった。

 「一通り目を通してくれましたね」美早は言ってから、そこに備え付けてあるアップライトピアノの前にある椅子に腰かける。「だいたい、こんな感じです」美早は渡した曲をパート譜まとめて合奏したように響かせて演奏しはじめた。それを聴きながら、五人は楽譜を改まって読み進める。

 弾き終えると、五人は頷き、すっかり感心したように口々に言った。

 「よくできてるね、ありがとう」

 「今のピアノも、五人分を一人で。演奏だって、私よりずっと上手」

 「じゃあ、みんなで演奏してみましょうよ。ミサちゃん、ちょっと聴いていてね」

 美早が同意の頷きをすると、五人は合わせて演奏を開始した。ギター、ベース、ドラム、サックス、キーボードの編成で、ロックンロールだがリズム&ブルースに近い楽想。ぎこちないが通して演奏し終えると、では、もう一回ということになって、今度は前よりスムーズになった。さらにもう一回。今度はメトラノームを使って。調子が良くなった。

 「いいね」と一人が言うと、四人が同意の表情をして見せる。

 「詩に節回しを付けるだけじゃなく、楽器編成まで。大したもんだな」

 美早は笑みを浮かべて「お気に召していただけたなら良かった。あとは歌唱ね」

 「そうね、どう唄えはいいのかしら」

 そこで問われた美早は、歌詞の書かれた総譜を手に取って「♪黄昏の街、喧騒の中~」と唄い出し、一旦中断して「転調するさい、異なる調の間で誘導する音に注意して」と言って、また唄い出し「♪この気持ち~」そのうえで「この次、ここで最高潮、♪ho~はファルセットね」と説明してまた唄うことを再開する。この唄っては説明してを繰り返して終曲に到達した。

 ところが、これを聴いていた五人は、歌の解説ではなく美早の歌声の方に気持ちを引きつけられ、そのうち互いに顔を見合わせて同感の首を縦に振った。

 「どうですか」と美早は言った。「わかりましたか」の意味だった。しかし美早の言葉に対する返答は彼女の歌声に対してのものだった。

 「いい声しているね」

 「ほんと美声だ」

 「いつも喋っているのを聴いていて感じてはいたんだけど」

 「ちょっと、一緒に唄って聴かせてよ」

 美早は一瞬黙った後「まさか、そんな反応があるとは。じゃあ練習に付き合わせて頂きます」

 そして美早が立ち上がると、改めて五人は演奏を開始し、これに合わせて美早は自作の歌を自演することになった。練習の付き合いとは言っても、それ相当に美早は気持ちを込めて唄い出す。演奏が進むにつれて熱が気持ちに入ってきて、この歌唱が伴奏を牽引しはじめた。みんなで意気投合したような雰囲気となって気と音が盛り上がり最高潮に達すると、楽曲は解決の和音で終了した。

 一同が興奮して拍手すると、全員で美早に寄ってきて取り囲み、みんなで美早の髪に触れそうな擦れ擦れで、愛おしそうに手で頭を撫でまわす仕草をした。これに、まんざらでもない顔をしていた美早は、懇願されるように言われた。

 「ミサちゃん、ヴォーカルとして参加してよ」

 「お願い、ミサちゃん」

 「そうですか」美早は語尾を上げて言い、頭を少し傾けた。


 「それで、自分で唄うことになったんだ」翌日、登校して会うとすぐ、美早から話を聞いた里英子は笑みを浮かべて言った。「でも、私も普段から美早が喋るのを聞いて、綺麗な声だと思っていたけれどね」

 「そうなの」美早は言って語尾を上げる。「まあ、似ていると言われる顔だけど、リエの方がやや端正だからね。私の方にも長所があるなら結構なことだけど」

 「長所なら美早の方にいっぱいあるでしょう」

 「それは、私がフリークってことだから」

 これを言ったとき、美早の口元は笑っていたけれど、目は曇っているのを里英子は見て取っていた。

 「とにかく、日時が決まったら教えてね。私、美早の歌を聴きに行くから」

 「はい、はい」そこで美早は教室に担任の教師が来たのを見て言った「あ、来やがった」

 そして教室にいる生徒たちが着席する。 

 

 その日になり、ライブハウスの前に告知のボードが掲げられた。

 「ゲストヴォーカリスト ジーニアスビューティフルガール ミサ」

 これを、その当日になって見た美早は、少し呆れた様子で「天才美少女とは、嬉しいというか、くすぐったいというか」

 そのあとのこと。ステージ脇の部屋に、全身が映る鏡が壁に据付られている。それに向かって自分の服装を確認する美早は「黒も悪くないね」と独り言ちた。ジャケットとパンツとブーツを黒で統一していた。他のメンバーも似た感じの服装をしていて、これに合わせているからだ。この服装に合わせて髪はハーフアップにしたところ、いい感じだと美早は思った。

 「みんな化粧しているんだから、私だって」と美早は言うが、部屋で一緒にいるバンドメンバーの女性は否定した。

 「ゲストは十代の女の子だから」

 「それを強調するためスッピンで唄えってことね」

 「もう宣伝しちゃったから、協力してね」

 「はい、はい」

 この一方、集まって来た観客たちは、前の演奏者が終わって次の演奏者を待っている。その中に里英子もいた。彼女の近くに、連れの者と話している者がいて、それを聞いていると、待ちながら語り合う話題は、ゲストについてだった。

 「大人のバンドがオリジナル楽曲作りで難儀していたら、高校一年生の女の子がササッと作ってしまったって話だけど、ほんとうなの」

 「親が同業者、というのは歯医者か口腔外科医らしいけど、それで知り合ったらしい。親睦のパーティーかレセプションで」

 「ってことは、裕福な家のガキたちが成人してもまだ道楽でバンドやっているってことかしら」

 「まあ、そういうことだろう。いちおう演奏は上手いと言われているけど、独創性は持てなかった。ところが、その高校生の女の子は、たちどころに作曲して編曲まで。しかも唄い出したら美声ということだ」

 「にわかには信じられないわ」

 すると、そこで録音の音楽が流れ出した。よくある、開始のファンファーレみたいな意味で。曲はヴォルトン作曲の戴冠式行進曲『王冠』だった。颯爽とした雰囲気であるが、聴衆から「曲の意味を解って使ってるのかよ」「ロックやレゲエをやるバンドだろうが」「しょせんお坊ちゃまおじょうちゃまさ」などと言う声が聞こえる。

 その五人組がステージに登場すると、既成曲をコピーで演奏し始める。歌が入る部分では、楽器を演奏しながら分担して歌唱した。これを三曲続けて披露すると休止し、いちおうの演奏なので、いちおうの拍手が鳴った。するとサクソフォンの男性が「ありがとうございます。ではラストナンバーです。オリジナル曲で、この作者でもあるゲストのヴォーカリストをご紹介します」と言い、自信を持った強い調子で「ミサ」と呼んだ。

 ステージに向かって右手からミサが現れ、中央で正面に向き直る。この姿を見た聴衆の間から「ほう」という声が漏れた。「美少女は本当だな」と囁き合う声もした。

 そしてイントロが奏されると、ステージ中央の美早は両目を瞑り、研ぎ澄まされた集中力を発揮し始める。そのうえでカッと眼を開くと持ったマイクを口に向けて唄い出す。最初に説明するため解説しながら唄ったが、それを今、聴衆に向けて忠実に自ら実演している。時々もう片一方の手を握ったり振ったりして見せ、また両足も軽やかにステップを踏み、こうすることで要点になる部分を仕草でも強調する。

 こうして美早は自作自演を成功させた。終わるまで少しの失敗もなく唄えて安堵する彼女の顔面には僅かに汗が光っている。すると拍手と歓声と口笛が、歌い終わった美早だけに向けて発せられる。「ブラボー」「ミサ、君、最高」などと口々に。これに対して美早はお辞儀をしながら、ピアノ協奏曲の時と同じ、否、それ以上の爽快感を覚えていた。


 「また唄って。出演料を払うから」

 そう、帰り際に言われた美早は顔を横に振った。「唄うのはいいけれど、お金は受け取れない」

 「遠慮しなくていいよ」

 「そうよ、そうよ」

 「君が出るだけで会場は満員になるんだから」

 口々に言われて、それでも美早の答えは変わらなかった。

 「駄目なの。父親から注意されているから」

 「注意って何を」

 「未成年者それも女子だと、時間が遅くなった時に法規制に引っかかるかもしれない。報酬をもらうと労働になるから」

 「そうか。お父さん、さすがだね」

 「だから、唄うだけ」

 「悪いね」

 「いいえ。私も、結構、楽しかったから」

 「そう。これからもよろしくね」

 こうして次の約束をして、美早は一足先に、次の演奏者のため客が残っているライブハウスを後にすべく出入口に向かった。そこで里英子が待っていた。着ていて楽そうなトレーナーにスカートという服装をしている。そこで美早は微笑む。

 「お出迎え、ありがとう」

 「おめでとう。また成功ね。美早は何をやっても完璧。ただ、今日は特に楽しそうだったよ」

 「そうね。こんなに面白いとは思わなかった」

 「病み付きになりそうかな」里英子が優しく揶揄う口調で問う。

 「そうかもね」美早は正直に認めるように言った。 


 里英子が指摘したとおり病み付きになったのか、美早は請われて参加しただけでなく能動的になり、衣装にも凝りだした。この着こなしが決まっていると、仲間からも聴衆からも賞賛された。

 さらに美早は楽曲を作って、ロックふう、レゲエかスカふう、ポップスふう、などと多彩になり、こうして曲目を増やし、歌い続けた。キーボードの弾き語りも披露する。彼女が作った楽曲のうち、特に、シベリウスのヴァイオリン協奏曲の第三楽章を、ロンド形式を解体したうえでその主題をプログレッシブロックふうに編曲して歌詞を加えた曲は、ノリが良いと好評だった。しかも美早が歌唱に続いてマイクをヴァイオリン持ち替えて演奏し始めると、歌とピアノだけでなくヴァイオリンも上手なのかと聴衆は驚き、大喝采を彼女に送った。

 その何回目の時だったか、終わって他のメンバーと一緒にステージを降りた美早は、後方から誰かに肩を叩かれた。彼女は立ち止まり、振り返ると、他の客とは違う服装で背広姿の男性が会釈して名刺を差し出す。これを美早が受け取って見ると、レコード会社に務めている人ということであった。

 「評判を聴いて興味を持って来ました。実際に貴女を見て確信した。ぜひ契約したい」

 「私が作った楽曲を買ってくれるのかしら」美早は、それなら嬉しいけれど信じられない、というように問うた。

 「まあ、君が作ったのも悪くないけれど」その男の意思は明らかに美早の期待とは違うようだ。そして、こう言った。「十五・六歳の女の子らしい楽曲を、専門の人たち作ってもらうから」

 これを聞いて、美早は嫌悪感を露わにして言った。

 「それじゃあ、まるでアイドルみたいじゃない」

 「みたいじゃなく、そうですよ。君はアイドルとして充分に通用しますよ」

 「お褒め頂き光栄だけど、そんな歌を、恥ずかしくなりそうな衣装着て唄うなんて御免よ」

 そう言い放つと、美早は踵を返して小走りにその場を去った。仲間が下がって行った部屋に向かう途中の誰もいない薄暗い狭い通路で立ち止まり「あのとき貰われなかったとしたら、多奈部の養女にならないでいたら」と呟きながら、かつて親を亡くして祖父と一緒に日々を送っていた時のことを思い出した。

 「あの生活が続いていたら、楽器の演奏はできなかったし、理論も知らなかった。見様見真似で唄うしかない。どうせ使い捨てにされる。でも、惨めな生活から脱出できさえすればいいから、この話を受けたかもね」

 美早の両目から大粒の涙が零れる。

 「私は幸運だけど、今の私は本当の私じゃない。あの惨めな私が本来の姿のはず。そこからどんどん別の私に変わって、自分を見失いそう」

 

 「たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失ったならば、なんの益になろうか。マタイによる福音書16章24~26節」

 授業を担当する講師の老け込んだ男性が漫然と説明している。また学校の日常に戻って、今は聖書の時間である。美早と里英子が通う私立高校は受験指導が売りだが、ミッション系なのでいちおう聖書の授業がある。この時間は「内職」の時間でもあり、だいたいの生徒は聖書を広げた机の下では受験の参考書を広げている。

 いつもこの時間は適当に聞き流している美早だったが、今の福音書の言葉には身につまされる思いだった。それで少しだけ考えたものの、教室で突然に涙を流すと周囲から奇異に思われるので、考えるのは打ち切りとした。

 そして退屈な授業を終えて講師が教室を出ていくと、担任教師の女性が来て出入口のところから「多奈部さん」と言って手招きする。美早が席から立ち上がり近づくと、この、前に自分は教師になって三年だと言っていた女性が、それくらいの人らしい従順さによって上から指示された通りに「校長先生がお呼びだから来て」と美早を教室から連れ出す。

 美早が担当教師に引率されて校長室に入ると、そこに置かれた机の向こう側に校長が座っていて、傍には教頭が立っていた。この二人の男性、いつものように二人とも黒いスーツを着ていて、これは威圧感を演出するため意識しているかのようだ。その効果なのか、地位と年齢差のためなのか、白っぽいが純白ではない女性のスーツを着た担任は、見るからに緊張している。一方、紺のブレザーに襟元は蝶結びという制服の美早は、怪訝な顔の表情で同室内の三人を見比べている。

 「多奈部さん」まず校長が眼鏡を下げて上目遣いで不機嫌そうに口を開いた。「どうして呼び出されたか判りますか」

 「ごめんなさい」美早は判っているかのように謝り、しかし続けて「私は感が鈍いものでサッパリ判りません」

 そう言われて揶揄われたと思ったらしい校長は憮然としているのに対して、教頭は微かに笑みを浮かべている。そして教頭は、上辺は優しいけれど内心では違う発想をする人によくある調子で、美早に語りかける。「未成年者が、夜の酒場のステージに立っていたという問題ですよ」そして続けて、こう言いかけた。「それを、ある人が、学校に―」

 「チクったわけですね」美早は相手の言葉に自分の言葉を割り込ませて単刀直入に指摘した。

 「そんな言い方しなくてもいいでしょう」

 「じゃあ言い方を変えます。タレコミした人がいたのですね」

 「君ねえ、君の将来を心配して言ってくださったのだし」

 「何が心配なのかしら。報酬は受け取っていないし、成人している人達が付添っているし。私は飲酒も喫煙もしてません。まったく法律に触れていないのに、あたかも不法ないし不道徳な行為でもあったように言うのは不当です」

 「しかし、だね」校長が苛立った口調で言った。「まるでドサ回りの歌手みたいなことをするなんて」

 「差別発言ですよ」美早は厳しい口調で指摘する。

 「でも君は中学生の時にピアノコンクールで地区優勝したそうじゃないか。それなのに…」

 「それは止めました。高校受験があるので。そして偏差値の高い此処に入れました。いけませんか」

 「いけないとは言ってない。成績優秀な君が来てくれて嬉しい。それなのに歌手の真似事なんかして…」

 「それで成績が下がりましたか」

 担任の女性が恐れながら口を挟む「相変わらず学年トップです。ダントツで」

 「なのに、そんなことしているから、レコード会社の人に誘われたそうじゃないか。よく芸能人を輩出する学校もあるけれど、わが校は違う」

 「それも断りました」美早は思い出した。あのとき、近くで見ていた人が何人かいて、話も聞いていたことを。そこから話が伝わったのだろう。そういうことか。

 「なら、学校の体育館で文化祭の時にでもやればいいじゃないか。テレビか何かの真似事の学芸会みたいなことなら、どこの学校だってやっていることだし」

 そう言いながら校長が野卑た薄ら笑いを浮かべたので、美早の大きな両目は怒りの火が灯ったように光った。そのうえ少し顔面が痙攣しはじめた。そして意を決したらしく、美早は制服の胸から校章のバッチを引きちぎるように外すと、これを床に叩き付けた。

 「こんな学校,やめてやる」

 啖呵を切るように言い、退学届は後で郵送すると言い添えて、美早は、唖然とする教師たちを残して部屋から出て行った。美早は廊下にいる人達の間をすり抜けて走り、休み時間が終了する直前の教室に戻ると、自分の机から横のフックに掛かっている鞄を取って教室を出た。これを見た里英子が何事かと廊下まで追いかけて来た。

 「どうしたの」

 「ごめん、せっかく一緒に入った高校なのに、私の我儘(わがまま)を許して」

 そう言って美早は里英子を残して去った。


 その二日間後、学校に書留郵便が届いた。

 「多奈部美早から退学届が送られてきたよ」校長が渋い顔をして言った。その時、校長室に、また教頭と担任が呼び寄せられていた。

 「そうですか。残念だけど仕方ない」教頭は諦め顔だった。

 「いいんですか」担任の女性は、それが本当に上司の意思なのかと疑問を持っているようだ。「彼女がいないと、確実に、受験の成果に影響しますよ」

 「たしかにね」教頭は頷きながら言った。「予備校の宣伝で、どこの大学に合格者が何名と謳っているのは、名義貸しがある。後から合格者に頼んで、予備校に通っていたことにしてもらうわけだ。これだから予備校の宣伝なんて信用できない。しかし高校は、生徒でなかった者を後から生徒だったことには出来ない」

 「それだよ」と校長は、まとめに入った。「したがって、大学進学の実績を確実に作ってくれる生徒に、不祥事があったわけでもないのに中途退学されては困る。この退学届は受理しないで、撤回してもらうよう親御さんを説得したい。そうするには、どうしたらいいのか」

 「特待生ということにして、卒業までの学費は免除すると言えばどうですか」

 「君は甘いよ」校長は、担任の提案が浅はかと言いたげだった。「その程度の金に靡くような親かね」

 「そうですね。では、多奈部さんと最も仲がいい設楽さんに頼んで、退学を思いとどまるよう説得してもらうのは、どうですか」

 「頼めば、やってくれるかね」

 「説得できたら君の学費を免除すると提案したら、それは親孝行になると思って、じゃあ頑張って説得しよう、ということになりそうかな」

 しかし、この校長と教頭の会話に対して、担任は顔をしかめる。

 「えげつない感じがします。見返りなど提示しないで、ただ友情から説得してもらう方が良いと思います」

 この結果、担任の言うとおりにすると決まった。


 多奈部美早と設楽里英子は、よく一緒に受験勉強した公民館で落ち合った。二人とも自宅から気楽な普段着で来た。そして話をしたいから、周囲の迷惑にならないよう、自習室ではなくロビーのベンチに座った。

 「ここで会うの、久しぶりね」美早が言う。

 「ほんと」里英子も少し懐かしそうに答える。

 「それで、学校当局の意を受けて、私を説得するつもりかしら」

 「そんなことしないよ」里英子は強い調子で否定する。

 「あ、ごめん。とがめてるんじゃないよ」美早は真摯に否定した。「学校で教師から圧力をかけられたでしょう。だから私、リエに迷惑をかけたから、謝らないといけない」

 「担任から頼まれたけれど、圧力ってほどのことは無かったの。ほんとうよ」

 「なら、いいけれど」

 「それでね、会って話したかったことは、退学を思いとどまって欲しいんじゃなく、私も退学しようかと思っていることなの」

 里英子の言葉を聞いた美早は、怪訝そうに里英子の顔を見つめて暫く沈黙した。

 「私にお付き合いとか、私に触発や影響されたとか」

 「違うの。少し前から考えていたことよ」

 「私とは別に、独自に考えていたってことかしら」

 「実は完全に独自ではないの。美早みたいに喧嘩したのではないけれど、この学校は息苦しいから退学したいと言っている人がいて、私は、そこまでは思ってないけれど、でも気持ちは解かるから、それで一緒に退学して通信制に移るか高卒認定試験の勉強をしようかという話になっていたの。そこに美早のことがあったから」

 「ちょっと待って」美早は驚いて言った。そして強く問い詰める口調で「誰よ、それ」

 「鷹野くん」と答える里英子は少し照れたような表情と口調だ。

 「いつのまに」美早は笑い出した。「その話からすると、相当に親密ね」

 「美早が歌に夢中で、放課後は早帰りばかりだから」

 「それで私は気づかないでいたわけだ」美早は哄笑し、さらに両手を叩いた。「まあ、顔的には、うちの学校で一番の美少女と吊り合ってるわ。お似合いね」

 これに里英子が、褒められたのか揶揄われたのか解らないという顔をしていると、美早は続けて言った。

 「なんだか彼の雰囲気が暗いと言っている人がいたけれど、そういう事情だったのね。もちろん学校が息苦しいに決まっている。平気な人がいたら、そいつは只のバカよ」

 「そうね。でも、私も彼も、親が退学に反対なの。ミサの親御さんは、賛同してくれたのかしら」

 「私が勝手に退学届を書いて書留郵便で学校に送っちゃった。事後承諾を求めたら、両親とも呆れていたわ」

 「でも、退学届は受理してないそうよ」

 「そのことは、うちに担任が電話してきて言ってた。保護者の承認が無いから、そこが弱いかな。電話で話したのは母上だけど、娘に翻意を促すよう求めていたそうよ。それで話を聞いた父上は、私にこう言ったの。一旦は退学を決意したのだから、もう退学させられるのは怖くない。退学させられるまで好き勝手にやれば良いじゃないか、って」

 「それも、そうね」里英子は、なるほど、という顔をした。

 「だから、これまで通りに続けてやろうかとも思っている。あの人たち、よく言われているようにバカ息子とバカ娘でも、年の功で上手よ。それに比べると、うちの学校で仲間集めてバンドやっても、技術的に相当落ちるから」

 「なら、また一緒に学校へ行けるわね」

 里英子は微笑むが、美早は皮肉っぽく応じた。

 「ええ。でも、リエは私より大事な人ができたでしょう」

 「そんなぁ、意地悪言わないで」

 「まあ、私が趣味に夢中になっちゃったんだから、しょうがないよ」

 

 

 第五章


 「結局、私たち一緒に卒業ね」

 「ミサ、ありがとう」

 「こちらこそ」

 二人は同じ制服を着て、はじめは同じようなセミロングの髪型だったが、あれから美早は気に入ったのか髪型をいつもハーフアップにするようになっていたし、毛染めも繰り返して、そのたびに違う色にするから、元々の色は親でも忘れたのではないかと、周囲から言われていた。

 二人は校門から出ると、その正面から伸びる道を歩いて駅の方に向けて市街地を歩いて進み、学校から遠ざかって行った。歩きながら晴れ晴れとした表情で言葉を交わす。周囲はいつもどおり放課後の光景で、学校にも卒業式らしい様子がまったく無かったが、美早は言った。

 「これで、この忌々しい学校ともお別れ」

 「みんなより一足お先に、ね」里英子は楽しそうに言った。

 「そう。みんな卒業式なんてものに出ないといけないと思い込んでいるからね。進学先とか、どこかに提出するのは卒業証明書で、自分の部屋に額縁に入れて飾っておく卒業証書は、もらわなくてもいい。それなのに、受け取らないと不味いことがあると錯覚しているのさ」

 「彼も言ってたわ。卒業証書なんて、尻を拭くには硬すぎるし、落書きしようにも、もう書いてある、って」

 里英子が笑いながら言うと、美早も吹き出した。

 「そのとおり。あれ以上くだらな落書きは、探しても他になかなか見つからないだろうね。とにかく、教師でも生徒でも、なるべく早く遠ざかって二度と近づきたくない奴らがいるんだからね。省けるものは省くに限るのよ。その最たるのが卒業式。ついでに今後の準備をしたり、どうするか色々と考えたりするべきさ」

 「ミサは、お父様の後を継いで歯科医師になるのね」

 これに美早は顔を横に振った。

 「推薦入学は決まったけれど、大学卒業後のことは解らない。大学卒業するかも解からない。偏差値も学費も高いことになっているけれど、実質は金ばっかりかかる私立大学。それなのに、歯学部ということで父上はたいそうお気に召しちゃってね、仕事の仲間に大喜びで話しているそうよ」

 「お気持ち、共感ではないけれど、理解はできるわね」

 「で、その関係の人たちがうちに来ると、私を見てベッピンさんの跡取り娘だと言うのよ」

 「そりゃ、言われるでしょう」

 「けれど、いつもマスクしている仕事に顔なんか関係ないでしょう」

 「そうよね」

 「私は大学で仲間を募ってバンドやるつもり。それが、うまくいかないとか、つまらないとか、そういうことならサッサと大学はやめる。もともと大学そのものに興味が無かったんだから」

 「私だって、そうよ」

 「それで、リエは大学に行かないで、どうするのよ」

 「彼が退学しないで我慢したのは、高校を卒業した方が就職に有利だからよ。結婚するなら就職しないと。一緒に住む部屋を借りるためにも」

 「それ、本気なの」美早は真剣な眼差しで里英子を見つめて問う。

 「本気よ。だから、揶揄われたりしないように今まで黙っていたの。彼も当然のこと卒業式は出ないけれど、最後まで慎重にして、今日だって一緒に帰らないで、後で会うことにしているから」

 「なんで付き合いを続けているだけじゃなく結婚までするのかな。そこが解からないけど」

 「そうね」里英子は少し考える仕草をしてから「失ってきたものを取り戻すため」と言った。

 「たしかに忍従して失ったものは少なからずあるけど」美早は共感しながらも、まだ疑問があった。「そんなに生き急ぐなんて、どうして」

 「わからない。でも、どうしても、そうしないといけない気がするの」

 里英子が深刻そうに言うので、美早は不安の色を顔に出した。

 「正式に就職するなら健康診断があるでしょう。入れたなら彼は大丈夫だったのね」

 「そういうことね。なんでそんなことを訊くのかしら」

 「どっちかが不治の病で余命幾許(いくばく)もないから、せめて今のうち結婚というものをしてみたいということじゃないかと思ったの」美早は両手で里英子の両肩を掴んで真剣に「嫌だよリエ、死んじゃ嫌だよ」

 「ありがとう」里英子は涙ぐんだ。「そんな誤解を、聡明な美早がするなんて。私のために。嬉しい」

 「違うのね」美早の表情が明るく輝く。里英子は微笑んで頷く。

 「そうよ。心が綺麗なミサの美しい早とちり」

 「ほんとうね」

 「ええ」

 「良かった。それなら幸せになってね」

 「約束する。だからミサも頑張って」

 「うん、頑張る」

 しかし美早は、里英子が結婚することで幸せになれるのだろうか、という不安を払拭できてない。周囲が賛同や容認をしても、経済的その他の課題がなんとかなったとしても、そうした解かり易いことではないこととは別の何かがあるような気がしてならなかった。

 でも、それならそれで、なにか他のことによって幸せになれるはずだ、という思いもあった。

 「じゃあ」と美早は言った。

 「そうね」と里英子も言う。

 二人は一緒に右手を挙げて、美早が「私たちの前途に」と言い、そして二人はハイタッチをして、美早が力強く「栄光あれ」と続けた。これに里英子も微笑み唱和した。

 「栄光あれ」

 この物語の冒頭に出てくる、両親を失った孫のために祖父が訴訟を起こしたら、雇った弁護士に裏切られて敗訴してしまった、という部分は、すべて実話に基づいています。

 この人と作者は知り合いです。

 

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