夕暮れ、図書館にて。自称悪役令嬢に求婚された
「イクセル・フェルトン、私と結婚してほしいの」
彼女は少しも表情を変えることなく感情のない声でそう言った。
西日に照らされて輝く柔らかいプラチナブロンド、白い肌に咲くアメジストの瞳、小さくて形の良い鼻と唇。
絵画から出てきたか、人形をそのまま人間にしたような、どこか無機質で生きる者と思えないほど美しい令嬢だ。
夕方、学園に併設された王立図書館にて。
いつものように僕は貸出カウンターに座り本を読んでいた。常連の一人である公爵令嬢レクシー・フォースターは図書館に入ってくるなり僕の元に訪れて開口一番そう言った。
突然の申し出に驚いて本を床に落としてしまったが、僕は動揺を悟られないようなんとか返事を返した。
「お断りします」
「なぜ?」
間髪入れずに彼女は尋ねる。
「なぜと言われても理由は貴女が一番ご存知でしょう。貴女がレーベン様の婚約者候補だからですよ」
僕は本を拾って心をなだめながらそう言った。彼女がカウンターを訪れるのであればいつものように本の返却だと思ったのだ。まさか求婚されるだなんて思わないだろう。
「あら、図書館の守り人でも知っているのね」
「なんですか。その名前は」
「私がつけたの」
「はあ」
「それで、私と結婚してほしいのだけど」
未だ状況が掴めない僕にレクシー嬢は微笑んだ、魅力的な表情だ。ついうっかり頷いてしまいそうなほどに。
「ですからお断りします」
「それは私がレーベン様の婚約者候補だから?」
「そうですね」
「でも候補は候補よ、婚約者ではないわ」
彼女は第一王子であるレーベン王子の婚約者候補だ。
候補、と濁されているのは、この国の王族は許嫁を作ることを禁止されているから。
不必要な政争を避けるために学園を卒業する際に初めて王族から婚約者発表される。もう一つ理由もあるのだが……。
とはいえ、水面下では候補は何人かに絞られていて、レーベン様のお相手はほぼ間違いなく同い年であり公爵家のレクシー嬢だと囁かれていた。
「妃教育もされていますし」
「あら、よく知っているわね」
知っていますよ、貴女のことは。そう言いそうになって僕は口をつぐんだ。
「レーベン様の不興を買いたくありませんし、僕と貴女では釣り合いませんよ」
「あらどうして? フェルトン家ならば何の問題もなくてよ」
「僕は三男ですから」
「でも近い未来に王立魔術団に入るでしょう。立場的に問題もないと思うのだけど」
「ですが、貴女はレーベン様の婚約者候補です」
僕の返事に彼女は淡々と返事を返していく。まるで僕の返事を想定していたかのように。
僕は反対する理由の手持ちが全てなくなり、それ以上言葉を見つけられずに黙っていると。
「でもどうしても私と婚約してほしいの」
彼女はカウンターから身を乗り出してじりじりと僕に歩み寄る。近くで見れば見るほど美しく、身体は凍りつくように動けなくなる。
「私、このままだと処刑されてしまうかも」
「はあ」
会話の繋がりが見えず、間抜けな声が出てしまった。
「私、悪役令嬢らしいの」
・
話が長くなりそうなので、僕は貸出カウンターの中に彼女を招き入れた。隣に座ると常連たちの迷惑にならないように小さな声で彼女は話し始める。彼女とはこの図書館で数えきれないほど顔を合わせたがこうやって並んで座るのは初めてだ。花のような香りがくすぐったい。
「私は近い未来に、婚約者候補から外れるわ」
「貴女が候補から外れる……? そんなことがあるとしたら聖女が現れるくらいしかないのではないですか」
「そうよ、聖女が現れたの。この学園で彼女のことを知らないのはあなたくらいかもね」
御伽話を思い出して冗談めかして言ったつもりだったのだけど、彼女は深く頷いた。
「貴方は最近ご令嬢の間で流行っている『メロウリリィの恋』という小説をご存知?」
「話が飛びましたね。……知っていますよ、あのくだらないラブロマンスですね」
最近最も問い合わせが多い書籍だ。普段図書館を訪れないご令嬢たちが何人もやってきては「メロウリリィはどこかしら?」というものだから僕も読んでみた。平民のリリィが王子に見初められる身分差恋愛小説で、中身のない陳腐な話。なぜこれが人気なのか僕には理解が出来なかった。
「そのリリィが現れたのよ」
「はあ」
「神託があったらしいの。地方で教会で働いていた方が聖女だとお告げがあって。ひと月前にこの学園に転入してきたわ。名前はリリィ。だから皆メロウリリィを思い出したの」
平民の女生徒など、この貴族社会ではつまはじきにされてやっかみを受けてもおかしくなさそうなものだが、好きな小説のヒロインと重ねたのならば憧れに変わるのかもしれない。
「そして私はリリィの恋敵・悪役令嬢のオリヴィアだと囁かれているわ」
「貴女が……?」
『メロウリリィの恋』のヒーローである王子には婚約者がいた。それがオリヴィアだ。
突然現れたリリィを許せず嫉妬に狂って嫌がらせを行い、加速した行為は殺人未遂まで発展し、オリヴィアは重い処罰を受けた。
僕から言わせてみれば、婚約者をないがしろにして突然現れた平民の女をこれ見よがしに大切にする王子の気が知れなかったが。
「たまたまヒロインの名前がリリィと被っただけで、なぜ貴女がオリヴィアだと……? 彼女と貴女は全く違うでしょう」
レクシー嬢とオリヴィア嬢はまるで違うではないか。
しいていうなら公爵家の美しいご令嬢、というくらいだ。
理由があるにせよオリヴィア嬢はリリィを様々な方法で痛めつけていたけど、レクシー嬢がそんなことをするとは思えない。
「そう思っているのもきっと貴方くらいだわ。貴方は学園にほとんど顔を出さないからそう思うのよ」
「まさか貴女がその聖女を虐げているとでも言うのですか」
「世間の評判はそうね」
彼女は僕をじっと見た。西日は赤く変化していき、プラチナブロンドが茜色に染まる。
アメジストの瞳を見ていると、そのまま吸い込まれてしまいそうだ。
「貴方に迷惑をかけてしまうことはわかっているの。でも頼れるのは貴方しかいなくて。どうか私の婚約者になってくれないかしら?」
僕は魔法にかけられたみたいに動けずにいた。
・・
彼女から婚約者の打診があった翌日、僕は数ヶ月ぶりに学園に登校していた。
集団の中が苦手だ。ざわざわとした声が耳に響き、それが僕の内臓をかき混ぜるようにぐるぐると巡って胃の中のものが逆流してくる、気づけば汗が身体中じっとりとにじんでいた。
「あの方はどなたかしら」
「フェルトン侯爵家の方だったと思うけれど」
「なんというか……お兄様とは違うわね」
噂好きのご令嬢たちの声が聞こえてくるから僕は俯いた。華やかな兄と違い、長く伸ばした前髪で鼻の下まで覆い隠してうつむいている僕は薄気味悪い男だという自覚はある。でもカーテンをおろして視界を遮っていないと不安で仕方なかった。
そんな僕を最初は物珍しそうに見ていたご令嬢たちも、朝の数分で興味をなくして僕は誰からも存在を認識されないほどになった。
半日ほど過ごして、昨日のレクシー嬢の話が真実だったことを知る。
・・
夕方が訪れて、図書館にレクシー嬢が現れた。
「こんにちは。こちらは返却です」五冊の本を彼女はカウンターに置いた。「ねえ今日もそこに座っていいかしら?」
「ええ」
彼女が席に座ると髪が揺れて僕の肌にほんのわずかに触れた。彼女の纏う花のような香りはこの髪からただようのだと知る。
「――今日学園に行ってみました。それで、あなたの置かれている状況がわかりました。僕に婚約者になってほしい理由も」
僕がそう切り出すと、彼女は本から顔を上げて僕を見つめた。カーテン越しとはいえ至近距離にそわそわと気持ちが落ち着かない。
「私のこと、幻滅した?」
「何に対してですか」
「噂を聞いたんでしょう、悪役令嬢レクシー・フォースターの」
彼女は僕から目をそらして自嘲混じりの声で小さく吐き出す。瞳から感情は消えて、彼女が自分の置かれている状況を諦めていることを知る。
「はい。ですが、僕は自分の目で見た物しか信じられないので。どうしても目の前の貴女と噂の貴女は重なりません」
本をめくろうとしていたレクシー嬢の手が止まる。
「私がなんと呼ばれているか知っている?」
「機械仕掛けの冷酷人形だと。
それから、傲慢で常に周りを見下し、身分の低い者を小馬鹿にして内心笑っているとも言っていましたかね。レーベン様の婚約者候補という立場に甘えて努力をすることもなく。さらには毎日男を連れ込んでいる悪女だとも。そして最近はリリィ嬢に嫌がらせ行為を続けている」
一日学園で過ごすだけで、僕がわざわざ聞き回らなくとも。レクシー嬢の悪評は次々に耳に入ってきた。
僕の集めてきた情報にレクシー嬢はおかしそうに微笑んだ。
「ふふ、正解」
「どこがですか。確かに貴女の見た目は人形のようではありますが……感情がないと思ったことはありません」
あまり大きく変化はしないけれど、彼女はわりとわかりやすい。
本棚の前で何を読もうか長時間悩んでいたり。定位置に座って読書している彼女は涙することもあるし、小さく笑いをこぼすこともある。僕が一方的に見ているだけだが、彼女は色々な表情を見せる。
「それから、冷たく見えることは否定しませんが、傲慢で見下されたと思ったことはありませんね」
今でこそ僕は人と会話ができるようになったけど(とはいえ図書館限定だが)数年前までは貸出業務もろくにできないほどだった。彼女は僕のつたない言葉を笑うことも一度もなかったし、言葉を発し終わるのをただ静かに待ってくれていた。
「そもそも毎日あなたは図書館にいるので、男を連れ込む時間もありません。リリィ嬢にしでかしたと言われることには放課後の話もたくさんありました。どうやってそんなことができるのでしょう。噂に尾ひれがつきすぎでは?」
「貴方だけだわ。そんなことを思っているのは」
彼女は零れ落ちそうにきらめく瞳を瞬かせた。
「そうでしょうか。図書館の常連ならば皆知っていると思いますが」
僕たち以外にも数名は常連がいる。毎日訪れるのは彼女くらいだし、彼らは積極的に誰かと関わるタイプでもないけれど。噂の彼女と図書館の彼女が異なるという点については、僕と同じ考えではないだろうか。
「しかし貴女が理不尽な環境にいるのはわかりました。そしてレーベン様がリリィ嬢に夢中になっていることも。であれば貴女が婚約者候補から外れても問題はないでしょう」
「それなら」
「ええ。婚約者がいれば嫉妬というくだらない噂がなくなるかもしれません。ぜひ結婚しましょう」
僕がそう言うと、レクシー嬢の目は大きく見開かれた。そして表情はみるみる崩れて……声を出して笑った。彼女がこんな風に笑うところを初めて見たかもしれない。
「何かおかしなことを言いましたか」
「いいえ。こんなにロマンチックさの欠片もないプロポーズがあるのかしらと思って、おかしくなってしまったの」
「元はと言えば、貴女が突然求婚してきたんじゃないですか」
「ふふ。本当にそうね。助かったわ、本当に感謝している、嬉しい。ありがとう」
彼女は涙を浮かべながら笑った。その表情に僕の胸はしめつけられて苦しくなる。涙を見ていると、あの日の彼女を思い出すからだ。
・・
初めてフォースター嬢と出会ったのは、僕が十を超えた頃だろうか。
この国の貴族は十を超えると、学園に通い始める。そこで貴族との関わり方を学び、婚約者を見つけ、将来の道を決めていく。それがこの国の習わしだ。だけど、僕は人間と関わることが苦手だった。
集団に入り込むとうまく息が出来なくなる。そんな僕に許されたのは図書館での勉強だった。それで学園に通ったとみなしてくれるということで、親の指示で渋々通い始めたのだが思いのほか僕はここが気に入った。
華やかな学園の中、敷地の隅にひっそりとそびえるこの場所は人があまり寄り付かず、訪れる生徒は僕と同じような生徒ばかりだった。僕は時が止まったように静かな空間と、大きな窓から入り込む陽の優しさが好きだった。
ある日の夕暮れ。僕は図書館の仕事を少しずつ頼まれていたから、誰もいなくなったと思い図書館の清掃をしていた。そこで一番奥の本棚の裏に西日に照らされたプラチナブロンドを発見した。振り向いた彼女を見て、僕は大げさだけれど、この世で一番美しいものを見つけたと思った。
アメジストの瞳から生み出された涙は宝石のようで、僕はしばらく見惚れてしまった。
「泣いてること、誰にも秘密にして」震える声で彼女はそう言った。僕が頷いたことを確認すると、小走りで僕の隣をすり抜けて図書館から出て行った。
僕はあまり人を見ないようにしていた。誰かの瞳に自分がうつることが恐ろしく怖くて。いつだって前髪を下ろし、世界を遮断していた。でもその日から。図書館に来る生徒の中に彼女を探していた。
彼女は僕より一歳年上で、レーベン王子の婚約者候補。レーベン王子は品行方正眉目秀麗、王子になるために生まれてきたような完璧な人だということは僕でも知っていたから。そんな王子の婚約者が美しい彼女であることは納得しかない。
一度認識すれば意識せずとも姿は目に飛び込んでくる。彼女は図書館にいるときはいつも涙を浮かべているように見えた。
一番奥の目立たないテーブルにいつも座って、本を山積みにして必死に勉強をしている。
その日も彼女は大きな涙をこぼしながらノートに染みを作っていたから、僕は掃除をするふりをしながら近づいて彼女にハンカチを渡した。
「本に染みができますので」
「……どうも」
僕たちの会話はそれだけだったし、それから六年間、特別な会話は特になかった。
僕は貸出の仕事も請け負うようになったから、彼女との会話は本の貸し出しの手続きをしている時に一言二言話すくらいなものだ。
だけど、僕は六年間見ていたのだ。彼女がずっとレーベン王子のために、勉強をしていることを。人知れず涙をぬぐいながら彼にふさわしい女性になるために努力をし続けていたことを。それほど彼を想っていることを。
それなのに、まさか彼女にそんなくだらない噂が出回っているだなんて。彼女と重ならないどころか真逆の人物像に、一体誰の噂なのだと疑ったものだ。
僕がお役に立てるのなら、彼女の婚約者として振舞ってみようか。
僕など彼女の相手にふさわしくないけれど。彼女が失恋から立ち直る時間くらいには。
・・
僕としては、噂が落ち着くまでの婚約者のふりのつもりだったのだが。
翌日には、レクシー・フォースター嬢との婚約が正式に決まっていた。
僕の両親は驚愕していたが大歓迎、フォースター公爵も最近の娘の噂を気にして王に抗議していたところだったのだという。こうして僕たちは婚約を結び、彼女は水面下で内定していたレーベン様の婚約者から降りることになった。
僕たちの関係は婚約者になったからと言ってほとんど変わらない。大々的に婚約を発表する気もないし、実際に結婚をするのも学園を卒業してからだ。
婚約が決まってから数日後。僕たちはいつもと同じように夕方の図書館にいた。
ああ、ひとつ変わったことがある。彼女は毎日カウンターの中で読書をするようになったのだ。お互い会話をするわけでもなくただ本を読んでいるだけだ。時々甘い香りがして僕の気持ちが落ち着かなくなること以外は、心地よい。
夕方の図書館は特に好きだ。大きな窓から入り込む光が柔らかくなって、白いページがキラキラして見えて、西日に照らされた塵さえ、美しく感じる。誰かの小さな足音や、ページをめくる音しか聞こえない特別な空間。僕の宝物のような場所だ。
そんな静寂を壊す怒号が突如響いた。
「レクシー!」
怒気を孕んだ低い声に、隣にいる彼女の身が固まるのが気配でわかる。
扉をガンと勢いよく開いて入ってきたのは、レーベン様だ。
いつだって微笑みを絶やさない爽やかな王子の、こんな鋭い瞳は初めて見た。
僕が面食らっているうちに彼はズカズカとカウンターまでやってきて、彼女の手首を取って無理やりカウンターから引きずり出す。
「探したぞ、話がある」
「……私はございません」
「婚約者候補を降りるなど身勝手な真似は許さない」
「もう受理されたことです」
「勝手にやったのだろう!」
レーベン様は周りが見えておらず明らかに苛立ちを抑えられないようだった。
図書館の常連たちが本棚の隙間から訝し気にこちらを見ている。視線に気づいたレーベン様は一度図書館の中を見渡し、その面子を確認して少し安堵しているように見えた。
「お静かに願えますか」
僕は彼女を庇うために前に躍り出た。初めて僕の存在に気づいたように、レーベン様は片眉を上げる。
「君は?」
「彼女の婚約者のイクセル・フェルトンです」
「ああ、フェルトン家の落ちこぼれじゃないか」
あざ笑うように彼は言葉を吐いた。……本当にこれがレーベン王子なのだろうか。怒りよりも驚きが出てくる。
「私はもう殿下の妃候補ではありません」
「聖女がいらっしゃったと伺いました。第一王子である貴方の妃になるのだと伺いましたが」
僕も彼女に加勢すると、レーベン王子は呆れた表情を作る。
「それはそうだ。しかし、候補側から辞退を申し出るだなんて許されると思っているのか」
「レーベン様のお手を煩わせるのも、と思いまして」
「辞退など前代未聞だ。恥ずかしい真似をしないでくれ。まもなく聖女就任のパーティが開かれる。それ以降に落ちこぼれ同士が結婚をするのは勝手だが」
王子は大きくため息をついてから嘲るように僕たちを眺めて口角を上げる。
「それにしてもレクシーの婚約者が、フェルトン家のお荷物とは」
「……殿下、私の婚約者を辱める言葉はお控えください」
「なに?」
レクシー嬢が意志を持った固い声で返答すると、苛立った瞳が僕を射抜く。威圧的な視線はひるんでしまうし、情けないことに奥歯は震えている。それでもなんとか口を開いた。
「僕のことは構いませんから。――殿下、恐れ入りますがここは図書館です。皆が静かに過ごす場所ですので、お話があるのであれば別の場所にしていただけませんか」
「話などない」
ふいと顔を背けるとレーベン王子は苛立った足音を響かせながら図書館から出て行った。
「彼はいつもああなのですか?」
「……私の前では……そうね」
僕から目をそらしたレクシー嬢の瞳は不安で揺れている。目の前で起こったことと、僕のイメージの中のレーベン様はかけ離れていてとても信じられない気持ちになるけれど。彼女の怯えた姿が事実だと言っている。
もう一度レクシー嬢に目をやると、先ほど掴まれた手首を軽く押さえている。
「少し見てもいいですか?」
「ええ」
彼女の手首には、王子の手の跡がくっきりと残っている。僕は彼女の手首に自分の手を重ねた。
「……きれい」
彼女の手首に淡いオレンジの光がふわふわと降り立ち、指の痕はたちまちに消えていく。
「そういえば貴方は天才魔法士なのだったわ」
「これくらい誰でもできますよ」
「ふふ」
彼女は手首をもう片方の手でそっと撫でると、自分の頬にくっつけて微笑んだ。
僕の心に芽生えたのはチリリとした痛みだった。
彼女の想いを知っているから、僕はずっと諦めていた。彼女は雲の上の存在だと。本を読む姿を見つめて、貸出の手続きで一言二言話すだけでいいと思っていた。
でも――。
「今からもう結婚してしまいましょうか」
それは初めての独占欲だった。
◆◆◆
六歳の時には、同い年のレーベン王子の妃候補だと決められた。
出会ったばかりの彼は、物語の王子のようで。こんな素敵な方の花嫁になれるのは夢のようだと思っていた。
けれど、学園に入った頃から彼は変わってしまった。
人前では爽やかな笑みを振りまき誰からも愛される王子だったけれど、私の前ではその姿などどこにもなかった。
「いつか僕には聖女が現れる。お前は保険なんだから」そう何度も繰り返し呪いの言葉をかけ、
成績が悪くなれば叱咤され、成績が王子より良ければ責め立てられた。私の言動はどれをとっても彼を苛立たせるらしい。彼に認められたくて、できる限り努力したけれど。全ては裏目に出て責められた。
表に立ち常に注目されている彼は心身削られることも多いのだろう。私の前で素でいてくれるのならばそれはきっと光栄なことなのだと自分を励まし続けて。
王子は私と時間を共にしたがり、その時間は彼の鬱憤のはけ口となった。
そんな時、図書館で私にハンカチを渡してくれる男の子がいた。
その頃の私といえば、涙など出そうものならば「女は泣けばいいと思っているのだから」と王子に嘲笑され、機嫌が悪ければいつまでも叱られた。
涙を見せれば怒鳴られる!と身構えた私に、彼は何も言わなかった。サラサラの前髪の奥に見える彼の瞳は私を気遣っていて。こんな風に誰かに見つめられたのは久しぶりだった。
学園では常に王子と一緒にいて、人前では不安を悟られないように笑顔を張り付けて、王子と二人きりの時間は何を言われても傷つかないように感情を波立てないようにしていたら。いつの間にか機械仕掛けの冷酷人形という名前がついていた。
私のことを表立って悪く言う人はいなかったけれど、王子から事情を聞いていた周りの人間は私を冷ややかな目で見るようになった。
放課後、レーベン王子は毎日国の仕事があった。本格的な政治に関わることはなかったけれど、優れた王太子である彼には未来のために学ぶことがたくさんあった。
王子から解放される時間、私は図書館で過ごすようになった。この学園でここは唯一私が息をすることができる場所。
王子の勉強が終わる時間には、彼の執務室に向かわなくてはいけないけれど。この一時間程の時間だけが一息つける場所になっていた。
私がどこかで時間を過ごしていることを不愉快に思った王子に「いつも他の男といる」と噂を流され、いつのまにか「レーベン王子が将来のために努力をしている時間を利用して遊び惚けている」ということになっていた。
彼の噂の流し方はいつだって絶妙で、彼が悪く言った事実は消えてうまく広まっていく。生徒だけに広まり大人には広がらない程度の噂で。話術がここまでうまい人を知らない。
私から婚約者候補を辞退するなど許されない。彼の内面に気づいている人など一人もいない。どこから見ても彼は完璧な王子で誰に訴えても取り合ってくれないことはわかる。両親に迷惑もかけられない、もう決まったことだ。私はこのままレーベン王子の妃になるため生きていくだけだ。
だけど、図書館に通うことだけは止められなかった。
柔らかい陽のなかで、時々彼と目が合う。彼は私を責めることも貶すこともなく、何も言わなかった。
ここにいる時だけ私が存在することを許された気がする。それを恋だと気づいたのは、何年経ってからだろうか。
「お前には感情がないのか、いつも頷くだけで」
そう繰り返されるたびに私は私を忘れてしまっていた。
でも、小説の主人公に自分を重ねるときだけは、感情を思い出すことができたのだ。ここにいるときだけは息を吐くことができる。
図書館で過ごす一時間だけが私の生きる時間だった。
そして、流行りの小説のように。ある日突然聖女が現れた。
上機嫌な王子は、自分の世代に聖女が現れたことがよほど嬉しいようだった。大変名誉なことだと言い、ようやく私の顔を見なくてもよくなると笑った。
聖女リリィを遠くから眺めると、美しく可憐な方で喜ぶのも理解できた。
そして気づけば、私がリリィ嬢を虐げていることになっていた。
今まで「婚約者候補」であり「公爵令嬢」だった私に表立って噂を流す者はいなかったけれど。世間が私を「悪役令嬢」とみなした途端、私は攻撃対象に変わった。今まで両親には隠し通せていた噂さえ知られることになってしまったのだ。
でもそんなことはもうどうだってよかった。聖女が来てくれたのなら、王子から解放される、それだけであとはもうどうだってよかったのだ。
そして、その日彼に会った瞬間。私の口は勝手に滑り出していた。
「イクセル・フェルトン、私と結婚してほしいの」
ずっと蓋をしていた気持ちがするりと飛び出した。
彼に婚約者がいないことはずっと前から知っていた。自分がなれるわけないということを知っていたけれど。
でも、今。可能性が少しでもあるのならば。そう思ったら口を開かずにはいられなかった。
・・
聖女就任のパーティーの日が訪れた。皆の目線が針のように突き刺さるけれど公爵家令嬢として出席しないわけにはいかない。私は一人会場の隅に佇み時が過ぎるのを待っていた。
「あらレクシー嬢よ」
「リリィ嬢を虐め抜いたのにこの場にいらっしゃるなんて」
「厚顔無恥とはこういうことを言うのね」
「婚約者候補を外されたのは本当ですのね。今日は殿下が隣にいらっしゃらないわ」
「当たり前じゃない、リリィ嬢とレーベン王子の婚約発表の場なのだから」
ご令嬢たちは私に声が届くように噂をしている。私は聞こえないようにやり過ごしていると彼女たちは面白くないのか別の話題を始めた。
「あら、あの方はどなたかしら」
「素敵な方ね。お見掛けしたことがないわ」
彼女たちの噂話は大体決まっている。悪口か、素敵な男性の話だ。興味がうつったのであればありがたい。ほっとして、私は近くの給仕から飲み物を受け取った。
しかし、飲み物を飲もうとして彼女たちの目線がこちらの方に向いていることに気づく。
「どうして先に行ってしまうんですか」と声がした。気づけば私の目の前には男性のタキシードがあり、どうやら私に声をかけているらしい。
上を向くと、エメラルドの瞳が私を見下ろしている。この瞳は……
「え?」
いつも彼の瞳を直接見ることはできなかった。髪の毛のカーテン越しの瞳が私を気遣っていることには気づいていたけれど。彼の瞳に直接私がうつることはなかった。
「え、ではありませんよ。自宅に迎えに行ったのにもう会場に向かわれたと聞いて。慌てました」
「だって、貴方は人前が、パーティーが苦手なのでは」
「まあそうです。でも、だからといって貴女を一人この場に送るわけないでしょう」
怒ったような口調で彼は言った。男性に怒られるのが怖かった。でも彼の口調は怒っているけど優しい声音で私を心配しているのがありありと伝わる。
「ここで私といると貴方もよくは思われないわ」
「それが嫌なら最初から婚約など受けていませんよ」
サラサラの銀髪から瞳がしっかり見える。鼻下まであった彼の髪の毛は短くなり左右に分けオイルでゆるやかに固められて、アーモンド形の瞳と筋が通った美しい鼻梁が露わになっている。
「髪の毛、どうして……」
「薄気味悪くて暗い男といたら貴女が悪い目で見られるでしょう。……これで一応普通の人間になれたとは思うのですが」
「…………」
私なんてこれ以上悪く思われることなんてないのに。そんな事を気にしてくれているなんて。そもそもあのカーテンは貴方のお守りがわりではなかったのか。人の目を受け流すための。
「ありがとうございます」
胸がいっぱいになってそういうのがやっとだった。彼は私の手を取ると不安な顔をした。
「不慣れですみません。エスコートのやり方も知らないのですが……」
困ったように笑う彼に涙が込み上げてきて、私はしっかり前を向いた。彼が勇気を出してくれたのに、私だけ目を背けるわけにはいかない。真っすぐ前を向くと、先ほど噂をしていたご令嬢たちと目があった。
彼女たちは気まずそうに目をそらすと
「どうしてレクシー嬢と?」
「遊んでいた男の一人じゃないかしら」
「エスコートの仕方もしらないようだし、どこかの卑しい者じゃないかしら」
ああやっぱり私のせいで彼まで悪しく言われるのか。彼は表に出てこない人だと思ってお願いしてしまったけれど結局こうなってしまうのか。自分の噂は気にせずいられたが、彼のことを言われるのは心底嫌だ。唇を噛みしめてから言い返そうとすると
「イクセルじゃないか!」と男性の明るい声がした。顔を上げるとそこには華やかな見た目の男性と穏やかな表情をした中年男性がいる。
「兄さん」
「イクセルがこんな場にいるだなんて驚いた。どうしたんだ」
美しい男性は嬉しそうに彼の肩を叩くと、私を見つめた。
「お前がこんな場に出てくるなんて……彼女のおかげかな?」
「はい」
「聞いていますよ、レクシー嬢。はじめまして。フェルトン家次男のデリックです。図書館に引きこもりの弟が、素敵な婚約者が出来て両親が泣いて喜んでいました」
近くにいる女生徒を冷ややかな目で見てから
「僕たちフェルトン家は、貴女の噂をひとつも信じていません。我が家の可愛い末っ子が十歳の頃からよく貴女のことを話していましてね。ああ、こいつは人前では大人しいんですが、家では結構おしゃべりなんですよ」と続ける。
十歳の時から私の話を? 隣を見てみると、イクセルは顔を赤くして「兄さん」と小さく抗議した。耳まで染まった赤色が私にまで伝染するのを感じる。
「でも愛する貴女のためにこんな場に出てくるとは思いませんでした。本当に感謝しているんですよ、我が家は」
「兄さん、もういいでしょう」
イクセルがそう言うとデリック様は声を出して笑って「団長、行きましょうか」と隣の男性に声を掛ける。
「婚約おめでとう、二人とも。イクセルくん、君が二年後に王立魔術団に入団する日を待っているよ」
と朗らかに言ってその場を去っていった。
嵐が過ぎると、周りの女生徒たちはますます気まずそうな顔になると顔をそらして立ち去って行った。
「兄のおかげで貴女が誤解されずに済んで良かったです。僕から言えば良かったのですが、すみません」
「貴方のせいじゃないわ。私の評判が悪すぎるからよ」
「……はは」
イクセルは小さく笑みをこぼした。彼の目が糸のように細くなるのを初めてみた。
「卑下し合っててばからしいですね。堂々としていましょうか」
「ええ」
笑っていると大きな音が鳴り響き、ホールの奥にある階段から王族が下りてきた。国王、王女、それから三人の王子だ。レーベン王子が、美しい女性をエスコートしている。リリィ嬢だ。
彼らは玉座まで移動して王とリリィ以外は着席した。国王は一歩前に出て話し始めた。
「皆、今夜は集まってくれてありがとう。皆知っていると思うが、聖女がこの国に誕生してくれた。本日をもってリリィ嬢をこの国の聖女と正式認定し、国母となるべく王太子との婚約を結ぶ」
威厳のある声がその場に響くと、リリィ嬢が小さく礼をした。サラサラの金髪をひとまとめにして、薄いブルーのドレスに身を包んだ彼女は清らかで美しかった。それを見つめるレーベン王子の瞳は優しい。
「こほん。それでは、聖女リリィとここにいる第二王子リーヴァイとの婚約を結ぶことをここに宣言する」
その言葉に会場内はシンと静まり返った。
……リーヴァイ様? 当のリーヴァイ様も驚いた顔で動けずにいて、レーベン様が代わりに立ち上がった。
「父上、今なんとおっしゃいました。名前を間違えていらっしゃいますよ」
「いいや、間違いではない。リーヴァイ、こちらに」
リーヴァイ様は周りを窺いながら一歩前に出る。会場内の誰もが言葉を発することができず静寂が訪れたままだ。皆、リリィ嬢の相手はレーベン様だと思っていた。なぜなら聖女の相手は、未来の国王を意味するから。リーヴァイ様が聖女の婚約者なのであれば、それはすなわち王位継承権が……。
「リリィ嬢、どうだ」
「ええ。わたくしのお相手はこの方です」
彼女は微笑むとリーヴァイ様に白い花を差し出した。リーヴァイ様は戸惑いつつそれをおずおずと受け取る。
ようやく皆何かおかしいとざわざわし始めるが、
「どういうことでしょうか」とレーベン様の鋭い声が響くと、また波を打ったように静かになる。
「わたくしは神の使いです。心の醜い者に嫁ぐことはできません」
リリィ嬢は立ち上がるとレーベン様をまっすぐみた。凛とした声が響く。
「な、なにを」
「あなたの行いを主は見ていらっしゃいます」
「おっしゃる意味がわかりません」
「民を慈しむ心のない者に王の器はありません」
そう言うとリリィ嬢はこちらを向き、私と目が合うと薄く微笑んだ。
その視線に気づいたのか、王子は私を見て目を吊り上げる。
「レクシー!」
何度も聞き慣れた怒鳴り声だ。私の身は一瞬ですくんでしまうけれど隣にいるイクセルが私の肩を抱いてくれるからほんの少し身体が和らぐ。
「レクシー、聖女に何を偽った。虐げるだけでは飽き足らず虚言まで吐いたか」
鋭い声が私を刺して、周りの視線も私に突き刺さる。
「やめてください」
震える声が隣で響く。
「彼女は僕が見続けた六年、貴方のためにずっと努力をしていました。彼女の努力に気づかずに嘲笑い、くだらない噂を信じた貴方は民の上に立てる人だと思いません」
イクセルは額に汗を浮かべ、私を支える手は震えている。普段学園に通うことさえ難しい彼が、私をかばうために声を張り上げてくれている。その優しさが身に染み込んで全身を駆け巡る。
だけど、同時に不安になる。どう考えても王族に放つ言葉ではないからだ。
顔を赤くした王子もそう思ったのだろう。
「侮辱罪だ……」と低い声を出す。
「勇気ある愛の言葉をありがとうございます」
低い声を押しのけてリリィ嬢の柔らかい言葉が降ってきた。彼女はもう一度微笑んでから
「くだらない噂といえば。なぜかわたくしはそちらのレクシー嬢に虐げられていることになっておりました。何度否定してもみなさま、お優しいのですね等と仰るばかりで信じていただけず。今この場で神と国王の前で、改めて否定いたします。言葉や視線を交わしたのも本日が初めてなくらいですから」
静まり返った会場が再びざわめく。
「父上! 父上は、彼女の言葉を信じるのですか! 突然あらわれた得体の知れない女でしょう!」
「……レーベン。それは神への冒涜だ」
国王は眉を顰めると、首を振った。レーベン様の顔がみるみる変化して、会場を見渡す。
ああ、彼はカッとなりやすいタイプなのに。落ち着かないと。私は今までの彼を思い出すと、そう言ってさしあげたくなるが既に遅かった。
「誰だ、誰の差し金だ、陰謀だ」
顔を真っ赤にして彼は叫んだ。彼はバカにされることが何より嫌なのだ。
「兄上、落ち着いてください。この場では――」
「お前が……! 仕向けたんだな……!」
レーベン様の怒りは、リーヴァイ様に向いた。聖女の婚約者であり、未来の国王である彼に。
「レクシー嬢」
私の手に温度が伝わる。それがイクセルからの熱だと気づき私の胸は跳ねる。
「ここから出ましょう。もうパーティーは中止でしょうし」
「そ、そうね……」
「送っていきます」
イクセルは私の手を取ると、騒然となった会場から飛び出した。
・・
自宅まで送ってもらってから、庭を少し歩きませんか?と私は提案した。薄暗い庭を二人で歩く。
「さっきは皆の前でありがとう。ええと髪の毛もありがとう。似合っているわ」
私がお礼をいうと、彼は立ち止まって少し困った顔をした。
「僕はああいう場に出るのは初めてなので、スマートなことができずすみません。貴女の評価を下げないように気をつけます」
「あら、私の評価って世間では最低なのよ。下がるところもないくらいに」
「それは周りの人間が決めたくだらない評価です」
イクセルはそう言うと、私を見つめた。暗闇の中でも彼の瞳はしっかりと見えて、そこに私がうつっているのは不思議な感覚だ。
「こちらこそ貴方の評価を下げることになるのに、求婚してしまってごめんなさい。リリィ嬢の件は誤解だったと今日知れ渡ったとは思うけど、それでも評判は最悪なの。今日あの場で思い知ったわ。本当にごめんなさい。まだ私たちの婚約は広まっていないから……婚約は破棄していただいても」
彼はずっと図書館にいるのだと思っていた。でも私のために出てきてくれるなら、彼が悪く思われてしまう。私の小さな恋心は、彼を傷つける浅はかな願いだったと知ったのだ。
「お断りします」
あの日のように彼は即座に返事をした。
「僕は世間のこと自体はどうでもいいんです。あの、今日はパーティーに出ましたけど、基本的には図書館にいますし。
ええと、そういうことがいいたいのではなく」
彼は少しだけ鼻をかいて次の言葉を探してから、真剣な表情で私に向き合った。
「そんなことはどうでもいいほど、貴女の求婚に飛びついてしまうほど。僕は長年貴女をお慕いしていました。ですから……」
暗闇でも彼の頬が赤いのがわかって、私の心臓が音を立て始める。
私を長年、慕っていた……? 予想もしていなかったことに言葉が出てこない。だけどそういえば彼のお兄様もそんなことを仰っていた。
「僕が貴女にふさわしくなったときで構いません。偽物の婚約者ではなく、本当の婚約者になってほしいです。
できるだけ、学園にも顔を出すようにしますし……」
寡黙な彼から紡がれるその言葉たちは真摯で嘘はない。私が目を瞬かせると瞼を閉じるたびに涙がぽろぽろとこぼれる。
「人の目が怖いのではないの?」
「そうだったんですが……。僕が知らないところで貴女が学園で悪く言われていることが情けなくて……。
それから、僕も貴女のようになりたくて。
悪しく言われても貴女は努力をし続けて、今日も自分自身を恥ずかしく思うことなく堂々と立っていました」
イクセルはハンカチを取り出して私に差し出す。あの日のように。
「僕も貴女のように立っていられるようになりたくて」
無理する必要なんてない。そう思うのに、目の前にいるイクセルは背筋を正して真っすぐ立ってくれていることに気づく。
「それにもし僕が悪く言われても、その分あなたの噂を減らすことができたならそれもいいかなと思って」
そう言ってイクセルははにかんだ。ハンカチで瞳を押さえても次から次へと溢れてハンカチに涙が次々と染みていく。
「私が今まで頑張れたのは、全部貴方のおかげ。貴方と過ごした図書館が私の生きていられる理由だったの」
震える声で続けると、イクセルはわずかに目を見開いた。
「だからあなたも必要以上に頑張らなくていいの。そのままの貴方にずっと救われてきたんだから」
ハンカチでは足りなくてイクセルが私の涙を掬った。
私たちは言葉に詰まって、少し笑った。
「では契約ではなく。僕と結婚していただけませんか」
イクセルが緊張した面持ちで尋ねるから、私はもちろん頷いた。
「明日も図書館で待っていますね」
目をつむると優しい橙の光が浮かんでくる。優しい静かな私たちの愛しい時間。夕暮れ時、図書館で。明日も貴方の隣で。
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