第九話 熱いアレ
火曜日の昼休みから始まった馬場の特訓(おじさん秘伝、一発でケンカ相手をぶっ倒すパンチ)は、もっぱら二階のトイレでやることに決まっていた。鳴海の努力によって美しさとパワースポット本来の力を取り戻した、あの男子トイレだ。
「常にイメージしろ。窓ガラスが柳川、ドアが柳川、鏡が柳川、そして俺も柳川だ!」
正拳突きを繰り出す鳴海に向かって、馬場が声を荒げた。腕を組み、うなり、鳴海の周囲をゆっくりと回っている。
「あの窓ガラスを割ってやるぜ! って勢いと気合いが必要だ。あいつをぶっ倒したいっていう憎悪で心を満たせ」
鳴海は突き出した拳を引っ込めた。
「やだ、誰かを憎むなんて」
「ケンカに情けなんかいらねえんだよ」
トイレットペーパーで鼻をかむと、馬場はたしなめた。
「おじさんは言った。大事なのは技量じゃない、思いだって。鳴海がすべきことは、柳川への憎しみを拳に集めて……突く!」
馬場はひょろりと細い腕を鳴海の眼前に突き放った。
「いくら偉そうに語っても、ただの暴力に代わりはないわね」
窓に肩を預け、中庭を見下ろしながら辻岡が吐き捨てた。
「拳と拳で語り合うのが男ってもんだ」
馬場が左右の拳を叩き合わせながら息巻いた。
「それと余計なお世話かもしれないが、忠告しておくぞ。ここは男子トイレだ」
辻岡は振り向いたが、あっけらかんとした表情だ。
「パワースポットの神秘にあやかろうと思って」
辻岡に見えない角度で、馬場はしかめっ面をこしらえた。
「俺たちがあやかりに来たのにな」
馬場は囁き、怒った猿のように唇を突き出した。
「そんなことより、こっから面白いものが見えるわよ」
辻岡は窓の外へ視線を流すと、中庭へ向かってアゴを差した。鳴海は窓際へ駆け寄り、その上から馬場が覆いかぶさった。
「あれって……」
「須川じゃねえか!」
覗き込むと、馬場は再び息を荒げた。馬場の言う通り、中庭にたむろする不良たちに歩み寄るのは須川だった。遠目からでも分かる、銀縁のごてごてとしたダサいメガネが派手に輝いて見えるので、間違いない。
「遂にあいつも寝返ったか」
ここ最近、漠然と這い回っていた馬場の怒りが、遂に須川へ判決を下した。
「裏切り者決定」
「やめろよ」
鳴海は言い、窓に背を向け拳を放った。
「あいつは、そんなんじゃない。何か、理由が、あるはずだ」
放つ拳の一つ一つに言葉を叩き込み、鳴海は力任せに言い切った。
「否定したいお前の気持ちは買うが、アレが現実だ。現実は素直に受け入れるもんだ」
「それも受け売り?」
辻岡が冷ややかに問うた。
「ただ見たものを現実として受け入れるなんて、クソ真面目もいいとこね。表と裏、両方合わせて現実じゃない」
「それじゃあ聞くが、須川のアレは表か? それとも裏か?」
これは見事な質問だった。あの辻岡から次の言葉を奪うのに、これ以上の質問は有り得ないと鳴海は思った。辻岡はもう一度窓に肩を預け、思いに耽るような眼差しで中庭を見下ろしていた。
「表に決まってる」
鳴海は空に向かって拳を叩き込んだ。
「裏が……何か理由があるはずだ」
結果、馬場のトイレ特訓が暗号解読を手助けしてくれるきっかけとなったのは事実だった。須川がいなくなり、作業が滞りつつあったノノグラムの解読作業が、ここしばらくは嘘のようにはかどった。運動嫌いだった鳴海がただでたらめに拳を突き出すたび、ノノグラム解読への英気が養われていくようだった。
鳴海を勢いづかせる理由はそれだけでなかった。辻岡がサークルに加入し、そばに貼り付いていてくれるだけの存在は、鳴海のやる気をすこぶる活性化させる原動力そのものだった。心臓をグサリと射抜かれるような毒舌も、“一緒に過ごせるひと時”の代償と思えば気分はまだ明るかった。
九月も半ば、ノノグラムの解読率は10%を超えた。
「昼飯買いに行く時くらい、男同士の会話ってのを楽しみたいよな?」
昼休み、鳴海は馬場と一緒に購買へ向かって廊下を歩いていた。だが二人だけではなかった。
「便所にまでついてこられちゃ、もうお手上げだぜ」
二人の後ろにピタリとくっついて離れない辻岡に向かって、馬場は聞こえよがしに言った。
「でも大勢の方が楽しいじゃん。だろ?」
「お前は辻岡の味方だもんな」
異論を唱える鳴海に向かって、馬場がニヤリと微笑んだ。鳴海はとっさに視線をそらした。
「僕はみんなの味方さ。敵は……」
鳴海は言葉を切り落とした。下ろうとした階段を上って来たのは、大久保を先頭に、柳川を含めた不良たちだった。スナック菓子や缶ビール、雑誌の詰まったコンビニ袋を抱え、ゲララゲララと下品な笑い声を廊下に響かせている。
三人は一行が通り過ぎるのを待っていた。唯一、柳川だけは鳴海たちの存在に気付いたようだったが、特に突っかかって来る様子も見せず、何事もなかったように姿を消した。
「何か企んでやがるぞ、あいつら」
階段を下りながら馬場が言った。
「不良の悪巧みなんていつものことだろ?」
小馬鹿にするように鳴海が受け合った。馬場は鼻で笑った。
「否定はしねえけど、もっとでかい何かだ。あいつらが酒の買いだめなんて、祭りの前祝いに決まってる」
「経験者は語るってわけね」
階段を下りると、辻岡が後方から声をかけてきた。声は弾み、性悪げに一閃する瞳は不良たちも顔負けだった。
「鳴海、あんたの元友人が道を踏み外そうとしてるのよ。尾行しましょ」
「どうしてそうなんの?」
鳴海は非難したが、たっぷり笑顔だった。
「辻岡さんっていきなり面白いね」
「あら、冗談じゃないのよ。あんたがアクション起こしてくれないと、物語がちっとも進まないじゃない。日記じゃあるまいし、山も谷もない物語なんて退屈でしょ。それより馬場、不良たちが何を企んでるのか見当くらいつかないの?」
「あいつなら知ってるかもな」
購買の手前まで来た矢先、馬場が声をひそめて言った。睨みつける視線の末端にいるのは、生徒たちでごった返す購買で順番待ちをしている須川の姿だった。
「後ろから見ると更にムカつくぜ、あのメガネ」
体をよじりながら馬場が呻き声を上げた。須川の輪郭からはみ出た銀縁のメガネはどの方角から観察しても、その威厳の見せつけ方に遠慮などなかった。
「どうする? 声をかけようか?」
鳴海は生徒の群れに見え隠れする銀縁のメガネを窺いながら相談してみた。
「ご自由に。俺は見てるだけ」
「話しかけてみて。何なら頭を小突いてもいいわ」
鳴海は勇気を奮い起こす一方、この二人を須川に近づけるのは避けるべきだと悟った。鳴海は抜き足になっていることにも気付かず、須川のすぐ背後まで接近した。声を掛けようとしたその時、隣にいた友人らしき人物が須川に話しかけた。
「お前、不良とつるんでるんだって? 噂になってるぞ。最近だって、こっち戻ってきたと思ったらパソコンとばっか睨めっこしやがって」
動悸が不安定なのは、出かかった声が喉をふさいでいるせいだった。鳴海は思わず身をかがめた。
「噂って……お前な、噂を信じるほど取り越し苦労なことって他にねえよ。それに、あの猿たちに接近してるのは須川オフィスに依頼が来たからだ」
「どんな依頼?」
「教えねえよ」
「じゃあ、昼休みと放課後のほとんどを図書室で過ごしてるのも、依頼の一つなわけ?」
何も答えようとしない須川の横顔を、鳴海は息を潜めて見つめていた。
「お前が一緒にいるのって、久木のブラックリスト入りしてる奴らばっかりなんだろ? いじめられっ子に不良、根暗な女子に占い師……言っとくけど、これ噂話じゃねえぞ」
「ああ、その通りだ」
須川はどこか遠い眼差しで応えた。
「けど、別に友人なんかじゃねえよ。ただ何となく一緒にいただけさ。どいつもこいつもワガママな頭弱い奴ばっかで、甚だむかついてたとこだ」
自分の番が来ると、須川は迷うことなくメロンパンと牛乳を購入し、去り際に続けた。
「一人、パズル好きのお人好しがいるんだ。弱いくせに強がってばかりで空回り。あんまりイライラさせるんで、そいつの上靴隠してやったよ。まだ実験準備室の隅で埃かぶってんじゃねえかな」
笑い声を上げて立ち去る須川の後姿を、鳴海はただ呆然と眺めていた。今、沈黙する鳴海の心はカラッポだった。悲しみも、怒りさえもなかった。
「話せたか? ……おい、なんて顔しやがる」
あらゆるものが欠け落ちた鳴海の表情を見て、馬場はぎょっとした様相だった。その脇で、辻岡が呆れ気味に首を振った。
「話した様子じゃなかったわね。差し詰め、須川と友人の立ち話からマズイことでも聞いちゃったんでしょ。違う?」
鳴海はただうなずくばかりで、据わった瞳はまばたきすることすら忘れていた。たった一つ……須川を信じたいという想いだけが、つむじの真下をグルグルと旋回していた。
ノノグラム解読への熱意も、意気込みも、そのすべてがついえたように思えた。午後の授業はノートさえ取らず、ただ時計の針の追いかけっこを観察し、足下のスリッパをつま先で転がすことに専念していた。
放課後の図書室はより閑散として見えた。馬場は机の下でちくわパンを食らい、辻岡は世界一面白くなさそうな本を読みふける一方、鳴海は握った鉛筆を所在無げにクルクル回すだけだった。
「あんた変よ」
イライラしたように本を閉じると、辻岡が鳴海をねめつけた。
「元から変だったけど、ことさら変よ」
「一体、須川は何て言ってたんだ? いい加減教えろよ」
鳴海の足をツンツンしながら馬場がせっついた。
「だめ。言ったら馬場、すごく怒るもん」
「じゃあよそう」
馬場はあっさり諦め、再びちくわパンにかじりついた。
「あいつのことだから、どうせあたしたちの悪口でも言ってたんでしょ」
手の上で器用に回っていた鉛筆が机の彼方まで吹っ飛んだ。鳴海と辻岡の目が合った。
「鳴海ってすごく分かりやすいのね」
それから十分と経たない内に帰る支度をし、三人は図書室を後にした。玄関前のホールに出ると、再び不良たちとご対面だ。
「大久保がいねえな」
十数名の不良たちが賑やかな足取りでガラス扉をくぐり抜けていくのを見届けると、馬場が小さく呟いた。集団に少し遅れて現れたのは柳川だった。前方で盛り上がる仲間たちに冷たい視線を投げかけ、一人優雅に歩いている。
「どこ行くんだ?」
鳴海は距離を置いたまま、ほとんど無意識の内に声を投げかけていた。そうしなければいけないという、責任感に似た何かが芽生えたのだ。柳川は足を止め、しばらく鳴海を見つめ続けた。
「知らない」
柳川は微かな声で答えた。
「ただ、眺めるだけさ。この顔に傷を刻んだ、熱いアレを」
言い残し、柳川は不良たちの喧騒に混じって姿を消した。
「前に会った時と様子が違うわね」
辻岡が指摘した。鳴海も同意見だった。
「嫌な予感しかしないよ」
明朝、大地震の後のような慌ただしさと戦慄が、学校全体を包み込んでいた。教職員は忙しなく走り回り、廊下の曲がり角で何度も生徒たちとぶつかった。鳴海が登校するや、生徒たちの口から聞こえるのは「放火」「逮捕」という二つの言葉だった。次第にいたたまれなくなり、鳴海は教室へ向かって走った。
「鳴海!」
階段を上ろうとした矢先、後ろから声がかかった。カバン片手に、辻岡が立っていた。
「放火って、不良たちが……柳川がやったの? 逮捕されたのは誰?」
開口一番、鳴海は待ち切れずに問い詰めた。取り乱す鳴海とは両極端に、辻岡の表情は実に涼しげだ。
「落ち着いて。誰にも聞かれたくない話があるの。分かるでしょ? 倉庫へ行くのよ」
鳴海は辻岡の後に続いて倉庫へ入った。教壇の上で眠るのは、そこにどっしりと尻を据えた黒葉だった。
「みんなが言ってる。放火とか、逮捕とか……一体どういうこと?」
「これを機に、朝は新聞くらい読むことね。一面大見出しだったわ。放火で捕まったのよ、この学校の生徒が。老人が一人死んだ」
鳴海は息を呑んだ。最後に見た柳川の姿が、どうしても頭から離れなかった。
「朝から慌ただしいと思ったら、なんだそういうことか」
見ると、黒葉があくび混じりに伸びをしているところだった。外の騒ぎなど露知らず、実に悠々とした風貌だ。そんな彼を、辻岡がいかにもいぶかしそうに仰いだ。
「一つ聞きたいんだけど、あなた、ここで聞いたことを口外するようなことはしないのよね?」
辻岡は注意深く、加えて詮索するようにうかがった。黒葉は親指を突き立てた。
「無論。そもそも、実体を持たず、ここに縛り付けの俺にそんな力はない」
「それを聞いて安心した」
辻岡は鳴海の方に向き直った。
「知りたいことはあたしにだってたくさんあるわ。でも、あんたが問い詰めるのはあたしじゃない。この意味が分かる?」
鳴海はこくりとうなずいた。
「須川を探さなきゃ。購買で言ってた……不良たちに近づいたのはオフィスに依頼が来たからだって。もし……もし、その依頼が今回の放火事件に関っていたとしたら……」
「どっちみち、あいつはもう放っておけないわね。間接的であるにしろ、片棒を担いだのは事実なんだから。いい? 放課後、須川を問い詰めるわよ」
「昨夜零時過ぎ、ここから20キロ程離れた町で放火事件があった。老朽化が進んだ平屋で、ほとんど廃屋だった。建物は全焼、中にいた老人一人が亡くなった。警察が近くの河原をうろついていた16~18歳の少年たちの身柄を拘束。捕まった十二人の少年らは犯行を自供した。中に人がいるなんて知らなかった、頼まれてやったと、いずれも共通の供述をしている。誰に頼まれたかはまだ口を割らない。ちなみにこの少年十二人についてだが、全員漏れなくうちの生徒である」
朝のHR、久木先生は教室に入って来るや、流暢な口ぶりで包み隠さず事の真相をさらけ出してくれた。聞き入る生徒たちの姿勢には、どの授業風景にも見られない集中力と、先生を崇める尊敬の眼差しが備わっていた。皮肉な話だ。
「以上、話は終わり」
続きを期待した生徒たちは顔をしかめたが、大半は額を寄せてヒソヒソと話していた。鳴海は辻岡の右手が音もなく挙がるのを横目で見た。
「捕まった生徒の詳細は?」
辻岡が声を張ると、生徒たちは再び沈黙し、久木に注目した。
「質問は許さん」
高鳴る心臓に後押しされるように、鳴海の手が勢いよく天井へ伸びた。
「柳川は? あいつも捕まったん……」
「固有名詞を出すな!」
バズーカ砲のような轟音で久木が怒鳴った。体は1,5倍まで膨らみ、顔は耳まで真っ赤だ。鳴海は引っ込めた手を机の中に放り込んだ。
「いい事を教えてやろうか? 捕まった生徒は学校でクズ呼ばわりされるような奴らばかりだ。アルコール分が検出された奴もいる。捕まって当然だったってわけだ」
大きな拳で教壇をバンバンと殴りつけながら久木は言った。かたわら、辻岡が鼻で笑い飛ばした。
「自分のこと棚に上げて……」
辻岡が床に向かって呟いた。久木の眼球が辻岡に向かって飛び出した。
「何か言ったか?」
「警察もたまにはいいことするんだな、と言いました。学校の掃除をしてくれたわけですから」
辻岡は真顔でさらりと言ってのけた。久木の顔から怒りが消え、代わりに醜悪な笑みがこぼれ落ちた。
「確かに綺麗にはなった。手荒過ぎて学校の名は傷ついたがな」
落ち着かないまま放課後を迎え、鳴海は辻岡と馬場を連れて須川のクラスへ向かった。だが、教室に須川の姿はなかった。
「まだ帰ってないよ、カバンあるもん。しかも理由は知らないけど、午後の授業は全部欠席してる」
クラスメイトの男子に聞いてみると、返ってきた答えがこれだった。
「どこで何やってんのかしら」
「バツが悪くなって隠れてんだろ」
辻岡と馬場のやり取りを聞きながら、鳴海は考えていた。もし、須川は隠れたのではなく、どこかで誰かを待っているとしたら……あそこで鳴海を待っているとしたら?
「思い当たる場所がある」
鳴海は言い、そこへ向かって一人歩き出した。
「どこだよ。屋上か?」
後を追って来た馬場が聞いた。
「違う。いいからついて来て」
鳴海は小走りで廊下を渡り、道をふさぐ生徒の間をすり抜け、階段を二段ずつかっ飛ばして三階まで駆け上った。
「いい加減どこか教えなさいよ」
少し遅れてやって来た辻岡が、追いついて早々非難の声を発した。
「ここだよ」
鳴海は眼前のドアの上に掛けられたプレートを指差した。『実験準備室』と記されたそのドアを、はやる気持ちとは裏腹に、鳴海はゆっくりとスライドさせた。
大きな窓を背に、須川が立っていた。
「正解」
抑揚のない声で須川は言った。感情の損なわれた表情が薄暗い教室の中で不明瞭に浮かび上がり、鳴海たちを一人ひとり黙視している。
「まだ靴があった……鳴海が俺を探しにここに来ることは想定内だった」
実験器具が乱雑に並べられた机の上に投げ出されたのは、紛れもない、鳴海のくたびれた上靴だった。
「知ってたの? 僕が購買で話を聞いてたこと」
「ああ。だからわざと聞こえるように話した」
「ちょっと待て……」
フラフラと歩み出ると、馬場が困惑げに待ったをかけた。
「なんで鳴海の上靴をお前が持ってる? それは腹いせに戸田が隠したやつだろ?」
「違う」
須川は毅然と否定した。
「俺だ。俺がここに隠したんだ」
「君を信じてる」
馬場よりさらに前へ歩み出ると、鳴海は説きつかせるように言った。
「誰かに頼まれたんだろ? 依頼が来たのか? 鳴海をいじめる手助けをしてほしいとか……」
「俺がやったっつってんだろ!」
鼓膜をつんざくような怒声が廊下まで響き渡った。反動でメガネがずれていた。
「俺の意思で、俺の判断で、俺の手で! 靴だけじゃない、あいつらに放火現場の情報を提供したのも俺だった!」
荒げた言葉に思いのたけをぶつけ、須川は叫び続けた。
「でも、知らなかったんだろ? 教えた場所が放火されるなんて……」
「どこまでもおめでたい脳味噌だな、鳴海」
須川は言い、静かに鳴海を睨んだ。
「知ってたに決まってるだろ。俺に半端な仕事はありえない」
「須川……だって……どうして……?」
「お前、俺を天使か何かと思ってたのか? 誰にだってな、踏み外す道くらい用意されてんだよ」
須川は並べられた幾本の試験管に指を這わせ、あの遠くを見つめるような眼差しで鳴海を見た。
「知りたかった……俺の存在理由。サークル内だけじゃない。俺は焦ってた、非力感と束縛感……時間からは逃げられない。だが、見えるもの全てがくだらない、聞こえるものすべてが退屈だった。あのノノグラムでさえも、俺が存在する理由にはつながらなかった」
「サークルから……僕から離れたかったの?」
今自分がどれほど恐ろしい質問を投げかけているのか、鳴海にははっきり分かっていた。故にその答えは、己の愚かさを痛感させられる現実そのもの……須川を強引にサークルへ引き込み、綺麗事を並べ聞かせていただけの鳴海自身への叱咤そのものだった。
答えを待つ鳴海は、ぼーっと遠くを見据えていたはずの須川の瞳に生気が宿るのを見た。
「いや、お前との出会いは俺にとっての転機だった。ずっと無口で、クラスでもほとんど孤立していた俺は、毎日図書室通い。須川オフィスを立ち上げたのも、暇を持て余しすぎたからさ。しがない依頼と向き合い、どこの誰とも分からない依頼主を相手取る……最初は楽しめた些細なスリルも、日常化すれば呼吸と同じだ。そんな時、俺の前に鳴海が現れた」
鳴海はその時のことを克明に思い出していた。一之瀬の占いで導かれた生徒こそ、須川蓮太その人だった。
「見ず知らずの奴がいきなりサークルに入れときたもんだ。俺はかっこつけて無関心を装ってたが、壮大な何かが始まりそうな予感に心躍らせていた。この退屈さえ紛らわせればそれでよかった……過度な期待はしない……だが結局、今までと同じ繰り返しだった」
「ただの飽き性じゃない」
辻岡が呆れ声で指摘した。
「それで? 恩は仇で返すのがあんたのやり方ってわけ? 靴を隠したのも、放火事件に加担したのも、みんな退屈しのぎだったんでしょ」
「相変わらずだなあ、辻岡さんは」
銀縁のメガネを押し上げ、須川は参ったとばかり肩をすくめた。
「呼吸するぐらいしかやる事なくたって、鳴海の靴を隠したりなんかしないさ。俺はただ、試したかったんだ。靴を隠された鳴海が、俺たちに何を求めてくるのかを。でもやっぱ、鳴海は筋金入りのお人好しだった。俺たちには何も話さねえし、文句の一つも言いやしねえ……気ぃ遣ってんじゃねえよ」
「……ごめん」
鳴海は咄嗟に謝ったが、須川はさほど怒っていないようだった。暮れなずむもどかしい太陽の光を背に浴びて、須川の顔は不明瞭に微笑んで見えた。
「でも、お前は誰も疑わなかった。あの戸田さえも。だからいいんだ、もう」
「俺はまだ納得いかねえぞ」
しっとりと上質な雰囲気をかき乱すように、馬場が強引に噛みついた。
「お前のせいで12人も捕まった。さっき言ったよな、あいつらが放火することを承知でその場所を教えたって。オフィスに届いた依頼ってのは何なんだ?」
「いちいちわめくなよ。お前たちが俺を探しに来た理由くらい分かってる。そのことを話すために、わざわざひと気のないこの場所を選んだんだ」
「誰からの依頼だったの?」
鳴海は躊躇なく聞いたが、須川の顔には睨むような怖い表情が戻っていた。
「答える前に確認しておきたい。鳴海にとって俺は何だ?」
須川の質問には意表を突かれたが、答えは簡単だった。
「仲間だ」
鳴海は迷わず答えた。偽りもごまかしもない、本気の一言だった。その意志は、彼と出会ったその瞬間から何も変わってはいない。
「上出来」
須川は親指を立て、鳴海は満面の笑みで返した。
「これが男の友情ってやつ? 何だか汗臭いわね」
鼻の上に深いシワを刻みながら、辻岡が不快げに呟いた。
「まだまだ。本物なら抱き合って肩をポンポンしてる」
馬場がブルンと身震いすると、それを見ていた須川がせせら笑った。
「安心しろ。明日地球が滅ぼうとも、お前とは絶対ポンポンしねえから」
「メガネ折るぞ。いいから早く教えろ」
声をイラつかせ、馬場はせっついた。須川はコンと咳払いし、腕を組んで一人ひとり眺めた。
「依頼が来たのは先週、馬場とひと悶着起こした前日だ。差出人は不明、内容は簡素だが異質。『火遊びをしたい。ターゲットである廃墟の情報をくれ』というものだ」
「あんた、その廃墟に人が住んでることを知ってたんじゃないでしょうね?」
にじり寄る辻岡に怯えるように、須川はとにかく首を横に振った。
「殺人依頼ならお断りだ。依頼主の正体はいまだ不明だが、恐らく、そいつは廃墟に誰か住んでることを知ってたはずだ」
「依頼主の目的は火遊びでなく、端から殺人だったってことか」
鳴海が声を潜めると、須川は自責の念にかられるようにうなだれた。
「正直、こんな大事になるとは思ってなかった。俺は依頼主から頼まれた通り、廃墟の情報を柳川に伝えた……俺が調べ得た情報はたった一つ、元家主が『桐井多代子』という人物であること、それだけだ」
「おいおい……だとしたら、その依頼主ってのはとんだ罪人だな」
感銘の声色をかいま見せ、同時に、馬場は驚嘆した。
「須川を騙して情報を収集、不良たちを使って殺人、自分は高みの見物か。しかも柳川を指名したとなると、不良たちと面識のある人物なんじゃないか?」
馬場の憶測は的を射ていた。辻岡が慌ただしく咳払いし、その人物が誰なのかを問うように全員へ目を走らせた。
「昨日、不良たちが出発する時、大久保がいなかった」
馬場が即座に指摘した。
「久木も怪しいぞ。前科は山ほどあるし」
間髪入れずに須川が続いた。
「そういえば、今朝久木が言ってた」
朝のHRのことを思い出しながら鳴海が言った。
「捕まった生徒は誰一人、誰から頼まれたのかは供述しなかたって。口止めか、あるいは命令した者の存在を知らなかったのかも」
四人は互いに見つめ合ったまま、時間だけが過ぎていくのを感じていた。静寂からは何も生まれず、ただ行き過ぎた妄想が頭の中で展開されるばかりだった。いくら心のねじ曲がった久木でも、殺人を犯すほど落ちぶれているとは思えない……鳴海は強引に結論づけることで、一時的に収拾をつけることにした。
「こんなやり方、らちが明かないよ。今は……うん、『ももたろう祭典』の日を待つしかない」
「何で『ももたろう祭典』なの?」
辻岡がいぶかった。
「前に、一之瀬さんに占ってもらったんだ。僕のこと、サークルのこと。彼女は、僕は今最悪の運気にあって、そのピークは『ももたろう祭典』だと言った。祭典まであと二週間……その日、きっと何かが起こるはずだ」
次の日の昼休み、鳴海は包まれるような上靴の心地良さに歩調を早め、辻岡と共に図書室を訪れた。日当たりの悪いいつもの席、ノートパソコンと向き合う彼の姿に向かって、鳴海は二コリと微笑んだ。
「そうこなくっちゃ!」
自分の席へ滑り込むと、鳴海は揚々と須川の肩を叩いた。
「けじめが着いた。だから戻って来た」
言い、須川は辛酸な表情をディスプレイに投げかけた。他に誰も手に取ったことがなさそうな茶色の分厚い本を脇に、辻岡が席へ腰を落とした。
「今までずっと、俺は自分の在り方に疑問を感じていた。ただ生きて、ただ死ぬことに意味はあるのかと……そんな苦しみの中で、俺はひたすら闇雲に手探りし、何かにすがろうと必死だった」
「ねえ須川、君は十分サークルのために頑張ってるよ。君がいなきゃ、僕はここまでやってこれなかった」
鳴海は賛嘆し、熱い眼差しで須川の横顔を見つめたが、彼は否定するように首を横へ振った。
「表向き、そう見えたのかも知れない。助けを求められ、誰かのために犠牲にする自分を、カッコイイと俺は思った。鳴海とは違う……そこに愛はなかった。あるのは情けと偽善だけ」
「それでいいじゃない」
立てかけた本に向かって、辻岡はつっけんどんに言い放った。
「上っ面だけの人助けなんか、取って付けたような理由だけあればそれで十分。見返りもなし、理由もなしに人助けするのは、スーパーマンくらいよ」
ちらと辻岡に一瞥された瞬間、鳴海の心臓がキュンと縮こまった。
「それに、救われるその人にとって、あんたの算段なんか知ったこっちゃないのよ。愛のある人助けがしたいなら、せいぜい命を懸けることね」
「ごもっともです」
手痛い指摘を次々と繰り出す辻岡を前に、須川は頭が上がらないようだった。
「でも、鳴海たちと出会い、このサークルを経て、俺は自分の役割を見つけたんだ」
溢れるような熱意に自信をたぎらせ、須川は気炎を吐いた。
「今まで好き勝手振る舞ってきた俺に、それでもお前は仲間だと言ってくれた。自分の生き様にまだ答えは見出せないが、俺は今、その役割に誇りを持ってる。だから……その……つまり……ありがとう、ってわけだ」
柄にもなく、頬を赤らめ、須川ははにかむように言った。そんな彼がとても滑稽に見えたが、かつて例を見ないほどの素直なその姿に、鳴海は心打たれ、同時に胸を撫で下ろした。須川をサークルに誘ったことが間違いではなかったと、改めて安堵することができたのだ。
「気難しい奴だよな、ほんと」
三人は椅子ごと飛び上がった。なんと、机の下から馬場が這い出てきた。
「いつからそこに?」
鳴海が真っ先に聞いた。
「結構前から……そんなことより、須川、俺はどうしてもお前に言いたい」
馬場はふんぞり返って物申したが、見計らった登場タイミングは完全にズレていた。
「もっとさっぱり生きろ。お前はそうやって、何にでも理由をつけたがる」
「一理ある」
意外にも辻岡が同意した。
「俺が初めて警察に捕まって落ち込んでた時、おじさんがこう言ってた」
止める素振りを見せない須川を前に、馬場は得意げに切り出した。
「失敗し、苦難を積んできた奴らをたくさん見てきたが、生きる理由を見出せた奴なんか一人もいなかった。取り越し苦労はやめて、正直に笑ってりゃいい。笑っていれば何でもうまくいく。いけないのは、失敗をなかったことにするズルイ心を持つことだ」
「さすがだな、お前のおじさん節は」
反論する兆候も見せず、須川は微かな笑みを投げかけた。
「ぜひ一度お目にかかりたいね」
空気がまろやかに和んでいくと、鳴海はここ最近忘れかけていた清々しい気持ちを取り戻すことができた。馬場がおじさんの自慢話を始めるのを耳に挟みながら、鳴海は、こんな楽しい時間が永遠に続けばいいのにと、ふと思ってしまった。
「本当にありがとう」
放課後、鳴海は一人で倉庫に立ち寄り、教壇の上で居眠りしていた黒葉に向かって礼を言った。
「なんだよ、やぶから棒に。気味悪いぜ」
黒葉は冷たく返したが、顔はまんざら嬉しそうだった。
「今がこんなに楽しいのは、全部黒葉のおかげだ。かつてないほど充実してる……かけがえのない仲間もできた。こんな僕でも、明日が待ち遠しいと思えるようになれたんだ」
「いい笑顔だぜ」
黒葉は嬉々とした声色を放ち、心から楽しそうに鳴海を見た。鳴海はますます破顔した。
「いつの間にか、笑うことが癖になってた。相手の機嫌を窺うのに、とりあえず笑っておけばいいやって……笑顔なんてそんなもんだと思ってた。でも今は、腹の底から笑える素晴らしさを知ってる。それに僕、笑ってる自分が好きだ」
「変わったな、鳴海」
放課後の静ひつさをまとった声で黒葉は続けた。
「ここで初めて鳴海に出会った時のことを覚えてる。俺を見上げるお前の目には、世のねじけた卑劣さが映え、見せる表情は引きつった真顔とおべっか笑い。薄気味悪いことこの上ない」
「そこまで言う?」
鳴海は微苦笑し、恨めしげに黒葉を見た。
「些細なきっかけだったのさ」
黒葉は気にせず続けた。
「お前には素質があった。俺はただ、その素質を呼び覚ますきっかけを与えただけだ。仲間というきっかけをな。俺じゃない……鳴海自身が、桃太郎サークルをここまで作り上げたんだ」
「ねえ黒葉、桃太郎サークルはこれからどうなるの? 『ももたろう祭典』で、一体何が起きるの?」
黒葉の視線がやにわに黒板の方へ移っていった。後を辿ると、その先に『ももたろう祭典』のポスターが貼られていた。
「分からない」
ポスターをひどく睨みつけたまま、黒葉は暗い声で囁いた。
「分からないが……何が起ころうと、鳴海、お前ならそれを乗り越えられるはずだ。それだけは確かだ」
鳴海は揺るぎなく輝く黒葉の漆黒の瞳を見た。ふつふつと心を満たしていく決然たる熱意は、鳴海に勇壮な活力をみなぎらせる希望そのものだった。
「ああ、やってやる! 見ててよ、黒葉。あがいてでも、すがってでも、絶対にフィナーレを迎えてやる!」