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第八話 全部捨ててやる!



 黒葉が深刻な顔つきで語り始めようとする手前、鳴海はまだ事の真相を理解できないままだったが、辻岡は肝を据えたようにどっしりと構えていた。


「事の起こりは二十年前……俺がヨッド・クローバー教団の禁則を破ったことから始まる」


 黒葉はいかにもそれらしい声色で切り出した。鳴海はいきなり不可解な疑問の壁にぶち当たった。


「二十年前って、君いくつ?」


 鳴海は尋ねたが、黒葉は聞かれることを予知していたようにただ頷いた。


「まあ聞け。ヨッド・クローバー教団の創設者である俺のひいひいひいひいじいさんは、十の魔術を生み出し、代々受け継がせてきたと言われている。本の目次にあったろう。あれがその魔術だ」


「ああ、あったよ。……9つだけどね」


 鳴海は思い出しながら付け加えた。黒葉はその通りだと頷いた。


「治癒、逆転、超越、支配、予知、召喚、憑依、蘇生、破壊。そして十個目の魔術は、あまりに危険なため使用を禁じられ、暗号としてある書物に隠された。だが俺は、その十個目が『永久』を手に入れる魔術だと知っていた。俺は4年という時間を費やし、そして遂に暗号を破った。……俺がそうまでして『永久』を手に入れたかった理由が分かるか?」


 鳴海は考えたが、その必要はすぐになくなった。


「永遠の命」


 背後から辻岡の小さな声が聞こえてきた。隠していた大罪を自白する時のような、恐ろしさに打ち震えた声だった。


「ご名答」


 黒葉は静かに言ったが、辻岡は打って変わって荒々しく息を吸い込んだ。


「時を冒涜するなんて! 愚かの極みだわ!」


「落ち着けよ。結局、『永久』を実行するには至らなかったんだ」


「じゃあどうして、二十年前に存在しているはずの男子高校生があたしたちの目の前にいるのよ!」


「それが俺にかけられた呪いだからさ」


 鳴海はハッとして黒葉を見た。大きな疑問の風船が音を立てて割れるのが聞こえた。


「まさか、前に言ってた、あの二十年前に行方不明になった生徒って……」


「そうだ、それが俺さ。俺は禁則を破ったことでじいさんから呪いをもらった。じいさんは、『クローバー教の9つ』に俺の“魂”を封じ込め、お望み通り、永遠の命をくれてやったってわけだ」


 切れていた糸と糸とが鳴海の中で見事につながると、後は冴えたひらめきに身を任せていればそれでよかった。


「分かった! ここしばらく君が姿を見せなかったのは、あの本が久木に没収されて手元になかったせいだね」


 鳴海は言ったが、自分の言葉がにわかに信じられるものではないことを承知していた。そんな映画みたいなシナリオが本当に起こり得るのだろうか?


「とにかく俺は気付くと、ここにいた。二十年という年月を経て、俺はようやく半分の力を取り戻したんだ。底無しの深い眠りから、暖かい森の中で目覚めたような清々しさだった。目の前に、一之瀬もと子が立っていた」


「……そうか!」


 鳴海は指を軽快にパチンと鳴らした。先ほどつながった糸の端と端がくっつき、輪となった。


「やっと黒葉と一之瀬さんの関係が分かった。一之瀬さんは黒葉を本から救い出そうとしたけど、君は実体を取り戻すまでには至らなかった。完全な復活には暗号の解読が必要だったからだ。一之瀬さんが言ってた……学校中に暗号をばらまいたのは自分だって。一番早く解読した僕が二人と出会った」


「そういうこった」


 黒葉が笑顔で受け合った。


「タロット占いや儀式なんかの黒魔術の扱いに長けていた一之瀬は、本から俺の意識を具現化させることを容易にやってのけた。俺はある条件を満たす時のみ、じいさんの呪いを緩和できる手段を身に付けた」


「条件って?」


 辻岡が性急に聞いた。


「一之瀬が儀式を行った、この倉庫内だけが活動範囲内であること。『クローバー教の9つ』を持った契約者を憑依体すること」


「えっ……契約者って僕のこと?」


 鳴海は呆気にとられた。確かに黒葉との『契約』は覚えているが、それを重要視したことは一度もなかった。


「あれがただの口約束だと思ったか? 契約が成立した直後、お前の左肩に触ったろ。あの時、契約の印を肩に刻ませてもらった。風呂入ってる時に気付かなかったか?」


 鳴海は驚いて左肩に触れてみた。指先には何も感じなかったが、それとは別に辻岡の強い視線を全身で感じ取った。


「だから言ったでしょ。くさいのよ、あんたの左肩」


「確かに、辻岡さんの言う通りだった」


 鳴海は改めて辻岡を尊敬し、そのまま切願するような眼差しを黒葉へ向けた。


「どうせ残すなら、今度は是非ミントの香りで」


「おあいにく、腐ったニンニクの香りしか用意してないぜ」


 鳴海は笑ったが、まるで面白くなかった。


「お前もしかして、信じてないだろ?」


 黒葉に指摘され、鳴海は急いで作り笑いを引っ込めた。


「やっぱりな」


 黒葉が肩をすくめるのを見て、鳴海は息巻いた。


「だって、内容が非現実的すぎるよ。信じろっていう方がどうかと思うけど?」


「この人の話に偽りはないわ」


 未だ警戒心をむき出しにしたまま、辻岡が弁護した。


「この人を取り巻くあらゆる環境が普通じゃないもの。この倉庫に、鳴海の持ってる本、一之瀬もと子だって。あなた、下の名前は?」


 辻岡の意表を突く問い掛けにも、黒葉は涼しい顔を向けて首を傾ぐだけだった。


「さあね。どうしてか、忘れちまった」


「奪われたからよ。あなたのおじいさんに」


 辻岡のその一言が、名ばかりか、黒葉から言葉をも奪い取った。


「西欧では、よく名を奪われた悪魔が人間に支配され、いいように扱われるフォークロアなんかがあるけど、それに似たようなものね。もしかしたら、あなたの呪いを解くためのキーワードになってるかもしれない」


「じいさんは死んじまったよ。俺に呪いをかけてすぐにな……」


「おじいさんを殺したのはあなたよ」


 鳴海は溜まっていた生唾を飲み込んだ。黒葉は目を閉じ、辻岡の言葉を受け入れまいと顔を伏せた。


「呪いには代償が必要よ。呪い執行のために召喚された悪魔は時として、施術者の命を代価として選ぶこともあるわ。あなたの愚かな行為を、おじいさんは命を捨てて喰い止めたのよ」


「分かってる!」


 黒葉の怒鳴り声が鳴海の鼓膜を震わせ、足下の埃を宙へ舞い上げた。


「俺だって魔術教団の端くれだ。そんなことくらい分かってる。ただ、浅はかだった……団長であるじいさんの孫という肩書が、俺に強い意欲と無謀な自信を与えていた。俺の力を自他共に証明するには、隠された『永久』の魔術を解読し、永遠の命を手に入れる他なかったんだ」


 逆光の、暗い影の中で映える黒葉の瞳が、鳴海をまっすぐに捉えた。その二つの光明が何を訴えかけるのか、鳴海にはよく分かっていた。


「僕と同じだ」


 窓から差し込む夕陽に向かって鳴海は言った。『ももたろう祭典』のポスターに描かれた桃太郎一行が、一人残らず自分を見つめていた。


「僕も柳川も、いじめを耐え抜くには自分の力を……誰にも負けない力を証明するしかないって、その志を持って今まで生きてきた。でも、これは勝手な憶測だけど、みんなそうやって今を生きてるんだって、最近感じるようになったんだ。誰もが持つ底意地のプライドが、その証明につながるんだ」


「これだけは誰にも負けたくないってプライドが、鳴海にもあんのか?」


 目の前に浮かぶ黒い陰に向かって、鳴海は曖昧にうなずいた。


「僕の取り柄はパズルが得意ってくらいだけど、それが誰かの役に立てるなら、僕はそこにプライドを持つよ」


 ティッシュを鼻に押し込んでつべこべ言っても格好はつかなかったが、それでも、黒葉を笑顔にさせるには十分な説得力があったようだ。


「つくづく思うよ。鳴海が契約者で良かったと」


 包まれた影の中で、黒葉は白い歯を覗かせた。鳴海は少しはにかんだ。


「仲間探しは順調か? 暗号の解読は?」


「おじいさんの残した暗号がノノグラムだってことは分かったけど、規模が大き過ぎていつ終わるのか把握できない。仲間は、須川と馬場って奴の二人……鬼退治にはあと一人必要なんだけど」


「その子でいいじゃないか」


 黒葉がアゴで指した先を、鳴海は急いで目で追った。ふてくされたような顔で辻岡が立っていた。


「何であたしが?」


「君以外にありえない」


 間に立って、鳴海はその様子を黙って見つめていた。かきあげた前髪の下から覗く黒葉の熱い眼差しが、辻岡の心にズカズカ入り込み、直に物申しているようだった。辻岡は幾度のまばたきを繰り返し、口を開いた。


「桃太郎サークルの存在は前に聞いたわ。あなたたちの主な活動目的は何?」


 しめた。鳴海は嬉しさを顔に出さないよう気を付けた。


「かいつまんで説明するね」


 鳴海はティッシュで詰まった鼻の奥から声をひねり出した。


「僕の友人だった柳川拓真が不良グループに加わった。顔の火傷跡でいじめられていたあいつは、自分の力を、自分のやり方で証明しようとしたんだ。一方、僕はそんなあいつを改心させようと、黒葉の力を借りて桃太郎サークルを立ち上げた。仲間を集めて柳川を連れ戻し、同時に、黒葉にかけられた呪いを解くことを目的として」


「何でそこまでして柳川って奴を助けたいわけ? ほっときゃいいじゃない、不良グループに加担する堕落人間なんて」


 容赦なしの辻岡の言動は相手を選ばなかった。鳴海は構わず続けた。


「それが僕の罪滅ぼしになると思ったんだ……小学生の頃から共にいじめられっ子だった僕と柳川は、互いに意識し合い、助け合って生きてきた。けど本当は違った。僕はいつの日からか、自分がいじめられるのは柳川と一緒にいるからだと、そう思うようになったんだ。僕は友人のフリをして、本心では柳川を忌み嫌っていた」


 辻岡は鼻から抜け落ちるような小さいため息を吐き出した。


「キモイ上にズルイなんて、もう救いようがないわね」


 鳴海は返す言葉がなかった。ただ肩を落とし、後は辻岡がサークルへの参加を正式に断るのを待つだけだった。


「いいよ、入っても」


 鳴海は顔を上げた。ピタリ、辻岡との視点が合致した。


「……ほんとに?」


 飛び出す言葉は辻岡を疑い、同時に自分の耳を疑っていた。かたわらで黒葉がニヤつくのがチラと見えた。


「言ったでしょう。物語を完成させるの。……それに、あんたには借りが多すぎる」


「はい、決まり」


 黒葉が教壇から飛び降り、二人の間に立って宣言した。気付くと、鳴海は嬉々とした笑い声を上げていた。


「勝手に盛り上がるのはいいけど、過剰な期待はしないでよ」


 鳴海の笑い声を遮るように辻岡が警告した。


「暗号の解読なんて面倒臭いものに協力するつもりは毛頭ないんだから。ついでに言っとくけど、あたしはこう見えて平和主義なの。前みたいな窃盗事件は大いに歓迎するけど、あたしを巻き込むのは勘弁してね」


「巻き込まれるから面白いのに……なーんてね」


 鳴海は呟いたが、刺すような辻岡の睨みを前にすぐさま怖気づいた。


「それじゃあ、また来るね。一人で寂しくない?」


 倉庫に縛り付けの黒葉が不憫でならなかったが、どうやら鳴海の心配は杞憂だったようだ。黒葉はかすかに笑っていた。


「俺は俺の意識そのものだ。寂しいとか、退屈とか、腹減ったとか、そんな感覚はない。俺はいつもここにいて、現れたいと思った時に姿を見せるだけだ。だから、もう本を失くすようなことはしないでくれよ、契約者さん」


 二人が倉庫を出て行こうとすると、黒葉がもう一度声をかけた。


「それと、今ここで見聞きしたことは秘密だぞ。絶対に」




 翌日の放課後、鳴海は辻岡と一緒に図書室へ向かった。図書室の一角には、お馴染みのメンバーが顔を揃えていた。


「全員集まった」


 出し抜けに鳴海が言った。ノノグラムに励んでいた須川は顔を上げ、肉まんに噛みついていた馬場は机の下から這い出し、タロットカードの手入れをしていた一之瀬は破顔した。


「やっぱ、こいつがキジ?」


 馬場は右手の肉まんに食いつくことも忘れ、辻岡を興味津々に眺めた。


「これで怖いもんなしだな」


 辻岡に目配せすると、須川は声をおののかせた。一之瀬は何も言わず、ただこちらに向けるその笑顔を絶やさなかった。


「辻岡可憐です。よろしく」


 みんなに見つめられる中、辻岡は改めて挨拶した。その曖昧な無表情が物語るのは、初めてできた仲間への不安と、期待と、希望の混沌とした姿だったのかもしれない。


「この机が、僕たち桃太郎サークルの集会所なんだ」


「非公認の縄張りさ」


 鳴海の説明不足とばかり、机の下からすかさず馬場が付け加えた。


「立地は悪いが、悪だくみするならもってこいの環境だぜ」


 鉛筆を放りながら更に須川が補足した。


「風水上、この一角は校舎内に三つ存在するパワースポットの内の一つです」


 カードを束ねていた一之瀬がアンカーを受け継いだ。


「私がいつもここでタロット占いをやるのはそのためで、このような団体が自然と集まってしまうことにも納得がいきます」


「一之瀬さんって、風水までやってるんだ」


 隣の空いた席から椅子を一つ拝借すると、鳴海は強い関心を示した。


「かじった程度ですよ。本業は占い師ですから」


「他の二つはどこなの?」


 辻岡を一之瀬の隣の席へ促し、自分は即席の真ん中の席へ腰掛けると、鳴海は一之瀬の瞳を覗き込んだ。茶褐色のその瞳は鳴海から辻岡の方へと流れていった。


「あなたになら分かるんじゃない? 見るに、第六感の扱いには慣れているようだし」


 辻岡は何も口にしないまま一之瀬を見つめ返した。満腹で這い出てきた馬場も含め、全員が二人の様子を恐々と観察した。この二人が見つめ合うと、ただならぬ緊張感に空気さえわななく。


「パワースポットかどうか知らないけど、気の流れ方が明らかに他とは違う、異質な場所なら知ってるわ」


「俺のクラスだといいなあ」


 馬場が呟いたが、辻岡はまるで取り合わなかった。


「一つは一階の西廊下の奥にある倉庫。もう一つは……」


 それから、辻岡の視線は鳴海を離さなかった。鳴海は訳が分からなかった。


「あんたが綺麗にしてくれたおかげで気付いたわ。二階の男子トイレよ」


 思い当たる節が後頭部に次々と体当たりし、鳴海は衝撃でしばし声が出なかった。戸田たちに一人悠然と立ち向かえたのも、個室にこもって穏やかに考え事ができたのも、そして……。


「久木のもくろみは、僕にあのトイレを掃除させて、パワースポットをより完璧に復活させることだったんだ」


「でも、あいつがそんなことさせて何になる?」


 須川が聞いた。全員首をかしげる中、馬場が机をノックした。


「パワースポットって何だ?」


 馬場は誰にともなく尋ねた。その脇で、須川がやれやれと首を振った。仕切り直すように、一之瀬が軽く咳払いした。


「宇宙や地球から生成された、生命の活動エネルギーが集まる場所のことです。地球上にいくつも存在し、この学校の建てられた土地もその一つです。前に挙げた三つは、校舎内でも特に強いスポットと言えるでしょう。リラックス効果や病気の回復、心の浄化、生命エネルギーの増幅、シックス・センスの向上。お寺や神社などの宗教施設がパワースポット上に建設されるのはこのためです」


 終始歯切れ良く言い切ると、一之瀬は博識な己を誇るような笑みでみんなを見回した。


「あなたがサークルのメンバーじゃないのが不思議だわ」


 鳴海が須川と一緒にノノグラムの解答に取り組み始めると、辻岡が呟くような小声で言った。


「メンバーの枠があって、私じゃダメなんです。黒葉と決めたことですから」


 鳴海は驚いて顔を上げた。一之瀬がみんなのいる前で『黒葉』という名を口にするのは、これが初めてのことだったからだ。そして、いぶかるような表情で顔を上げたのは鳴海だけではなかった。


「今、黒葉って言った? 黒い葉っぱと書いて、黒葉?」


 須川は前に乗り出し、食い入るように一之瀬を見た。


「ええ。彼を知ってるんですか?」


「珍しい名前だったから覚えてる。ただの同性かも知れないけど。……一学期、二十年前にこの学校で失踪した男子生徒のことを調べてほしいって依頼が来てさ、保管庫にある新聞をあさってみたんだ。確かに、二十年前の『ももたろう祭典』で行方不明になった生徒がいるって記事を見つけた。苗字は確かに黒葉だったが、名前の部分は切り取られてた」


「切り取られてた?」


 鳴海がオウム返しした。


「学校側の隠ぺい措置よ。知られたくないものを隠して、過去の汚点を闇に葬るなんて、今時珍しい話じゃないでしょ」


 冷静に伸べる辻岡の見解に、鳴海は言い知れぬ疑問を抱いた。学校側の隠ぺいとは違う、別の誰かが邪魔しているような気配を、鳴海はどうしてもぬぐえなかった。


「で、その黒葉が学校にいるのか?」


 22500あるマスのごく一部を塗りつぶしながら、須川は核心に迫った。辻岡は鳴海を見つめ、鳴海は一之瀬を見つめた。当の一之瀬は顔色一つ変えない。


「いますよ。呪いによって二十年の間、姿をくらませていたんです」


「ハイハイ、なるほどね」


 須川の性格を知って、一之瀬はわざと本当のことを言ったに違いない。その思惑どおり、須川はまともに取り合おうとせず、その後はひたすらノノグラムに身を入れるだけだった。


「おい鳴海、その横列は今俺がやってるぞ。そもそもお前は縦列担当だろ?」


「でも、縦ばかりじゃ行き詰まっちゃうよ。やっぱり二人でバランス良く攻略していかないと」


「ごもっともだが、まだ目標のマス数まで進んでねえんだ。全部塗り終わるために効率の良さを追求するなら、やっぱりこのやり方がベターなはずだ」


 鳴海は問題用紙と睨めっこしながら、数字まみれでパンク寸前の頭の奥で須川の言葉を整理していった。そして、ふと思い立った。


「そうか……全部塗る必要はないんだよ。このノノグラムがどんな絵柄を隠しているのかを知るのに、全体の80~90%もあれば十分なんだ。ジグソーパズルと一緒さ」


「ああ……確かに」


 須川は素朴に、しかし大いに納得したようだ。


「それで、今どのくらい進んでいるんです?」


 一之瀬が問題用紙を覗き込みながら尋ねた。須川は鳴海の進行具合を窺い、自分のものと照らし合わせた。


「3%だな」


 辛辣な現実味をにおわせる須川の一言は、濃い霧の中に佇んだ時の妙に息苦しい感覚を思い出させた。そんな状況でさえ、やはりあの男だけはひるまなかった。


「鳴海、顔どうした? 鼻が腫れてるぞ」


 抱き付くように机へ突っ伏すると、馬場が退屈しのぎとばかり話題を転がした。


「戸田に殴られたんだ。つい昨日……」


「あの馬面!」


 眠気眼をぎらつかせ、馬場が息を吹き返したように立ち上がった。その横で、須川が静かに鉛筆を置いた。


「俺も加勢するぜ。この期に及んで仲間が殴られたとなれば、もうあいつは放っておけねえ」


 一之瀬の顔がキラリと輝くのを鳴海は見た。


「ケンカするなら、見物しに行っていいですか?」


 一之瀬の声は玉のように弾んでいる。


「みんな落ち着いて!」


 鉛筆の先端を天井へ突き上げ、鳴海は声を荒げて注目を集めた。


「ありがとう。でももういいんだ。あいつは制裁を受けた……僕が目を潰してやったからね」


 立てた親指を前方へひねり出し、鳴海は笑顔で言った。本当は黒葉のことを話したかったが、彼の話題を持ち出すのはやはり好ましくないと思えた。

 眉が吊り上がったままの馬場とは反対に、須川は限りなく平静だった。


「お前はケータイを持ってないんだから、護身用に鉛筆くらいは忍ばせとけよ」


「うん。ちゃんと削っとく」


「……鳴海、ちょっとこっち来い」


 馬場を見るとまだ突っ立ったままだった。歩み寄る鳴海を、腑に落ちないような表情で睨んでいる。みんな黙ってその様子を窺っていた。


「そこに立っててくれ」


 椅子を背に、鳴海は無抵抗なカカシのように棒立ちで立たされた。脳みその端っこの、まだ浅い記憶の一部に、今と同じような光景が転がっていた。それは、中庭で馬場に殴られたあの時の……。

 気付いた時は手遅れだった。馬場の拳が音もなく空を裂き、下から上へ突き上げるように鳴海のみぞおち目がけて飛んできた。鳴海は全身に力を入れ、目をギュッとつぶった。

 痛みはなかった。うっすら開けた視界の中には、枯れ枝のような腕の末端に備わる、馬場の小さな拳が浮いているだけだった。


「おじさんから受け取ったパンチだ」


 椅子にヘナヘナと崩れ落ちる鳴海に向かって馬場は言った。


「ケンカをするのに、ボクシングみたいなスタイルも、レスラーみたいな大技も必要ない。一発でいい……たった一発のパンチが勝負を決めるんだって、あの人は言った」


「馬場のおじさんって、まじで何者なの?」


 鳴海は乾いた声で力なく尋ねた。同時に、無駄に集まった緊張感や疲労感が、背もたれを通して床へ垂れ流されていった。


「はたから見りゃ変わり者、俺からすりゃ師匠ってとこだな」


「一発でも百発でも、暴力に変わりないわね」


 つっけんどんに言い放つ辻岡の手には、鳴海だったら指の先さえ触れたくないような、世界史の分厚い書物が握られていた。


「そんなに誰かを殴りたいなら、不良にでもなってケンカしてればいいのよ」


「不良だったさ」


 馬場の一言が辻岡の意表を突いたのは確かだった。文章を追っていた辻岡の瞳孔が、その動きを止め、馬場を見据えた。


「俺は柳川とのタイマンで負け、不良グループの居場所を失った。でもこいつら二人と組んで過ごしていく内、気付いたんだ。もう強がる必要なんかない……自由でいいんだって。気持ちがスッと楽になった」


 馬場は空いた席へ腰を落とすと、夢見るような表情で天井を仰いだ。


「ふーん」


 なびくような声を出し、辻岡は須川へと目をやった。


「あんたは何でサークルに入ったの?」


 ノノグラム相手に複雑な表情を浮かべていた須川は、辻岡に対象が移ってもそのしかめっ面を崩さなかった。その顔つきはまるで、辻岡の質問が目の前に置かれたノノグラムのように難解な代物だと物語るようだった。


「俺は……俺は……何でだっけなあ」


 机に向かってぼんやりと声を投げかける須川の顔は、どこか恍惚で、うっすらと悲哀を帯びていた。


「鳴海さんとのナンプレ勝負で負けたからですよ。あの時審判やったの、私だって覚えてます?」


 一之瀬の出した助け舟は、須川にまばたきのやり方を思い出させただけだった。


「須川オフィスの助手が欲しかったんだろう?」


 今度は鳴海が問うてみた。いつものスカした笑顔を待っていたのに、彼が鳴海の期待に沿うことはなかった。


「違う……当初、俺はお前に何の期待もしていなかった。遊び半分のつもりだった。今だって、何も変わっちゃいない……」


「それ本気で言ってるのか?」


 馬場が凄んだ。鳴海にとって、須川の口からその答えを聞くのはただの恐怖でしかなかった。


「答え方によっちゃ、俺を殴りたいって面してるな」


 須川がいつも以上に冷酷な目つきで馬場を睨んだ。


「結局、ケンカに明け暮れてきたお前には、拳一つの重みがどれだけのものかなんて分からねえんだろ? 目先の感覚だけで受け売り押しつけて、いい気なもんだな」


「俺の質問に答えろ」


「まあもっとも、不良から足を洗ったつっても、根っから腐ってるんじゃ意味ねえけどよ」


 須川の胸倉に伸びていった馬場の腕も、今度ばかりは止まらなかった。猛然とつかみかかり、吊るし上げるように須川を立たせると、図書室は生徒たちの息を呑む音で静まり返った。


「二人とも落ち着けよ! 馬場!」


 鳴海が仲裁に入るも、二人をまとう不穏なオーラを取り払うことは困難だった。馬場は握り締めた拳をほどこうとしなかったし、須川は挑発的な笑みを引っ込めようとしなかった。


「十八番の暴力か? やれよ。おじさんから教わった必殺のパンチを見せてくれ」


「俺の質問に答えた後にな。そうすりゃ……」


「本気さ」


 潰れた声で須川が言った。


「100%お遊びだった。平穏な毎日をやり過ごすための退屈しのぎ……それが答えだ。辻岡さんに聞かれるまで考えたこともなかった。俺がこのサークルに入った本当の理由」


 馬場の手を払いのけ、荷物をまとめると、須川は張り詰めた図書室の空気の中を一人、出口へ向かって歩いて行った。去っていく彼を呼び止める者は誰一人いなかった……鳴海でさえも。


「追いかけなくていいんですか?」


 いきり立つ須川の後ろ姿がベージュ色のドアに変わると、一之瀬が振り向き様に案じ声をかけた。鳴海は、須川の残していったノノグラムの問題用紙をぼんやり眺めていた。


「あいつを信じてるから」


 鳴海は笑顔だった。その言葉には微塵の偽りもなかった。


「須川はあんたのこと、信じてないかもね」


 次の物凄く退屈そうな本を探しながら、辻岡は半ば冷ややかに呟いた。鳴海は聞こえていないフリをしつつ、書棚の前を右往左往する辻岡を目で追った。


「二人の仲の悪さを今になってどうこう指摘するつもりはないよ。むしろ、須川の本音を聞けてありがたいくらいだ」


 笑顔を維持したまま、鳴海は前向きな発言を繰り返した。その笑みは、どこまでが強がりで、どこからが本気なのか、自分でも分からなくなっていた。本当は、不安の方が勝っていた。


「怒らせた俺が言うのも何だけど、あいつちょっとおかしくなかったか? 俺が参るまでなじり続けるのがあいつのやり方だったのに。なんだよ……どこ行っちまったんだよ」


 確かに馬場の言う通りだと、鳴海は思った。いつもの須川なら、馬場なんかに背中を向けるはずがないのだ。


「露骨に友人を避けるような素振りを見せる時は、何かうしろめたいことがある時よ」


 意見しながら、辻岡は辞書まがいのとてつもなくつまらなそうな書物を手に取って戻って来た。彼女の今の気分をそのまま露呈するように、わざと退屈そうな一品を選別したに違いない。


「あいつ、絶対何か隠してやがるな」


 馬場の勘ぐりに誰も反論できなかったのは、鳴海含め、全員が同じ意見だったからだろう。


「面白くなってきましたね!」


 一之瀬が興奮で瞳を輝かせる姿を、鳴海はやはり笑顔で眺め続けていた。




 週が明けても、須川が図書室へ姿を見せることはなかった。

 ここまでくると、鳴海も不安の色を隠しきれないでいた。ノノグラムは一向に進まないし、焦る思いが常に気分をソワソワさせた。得たものへの希望は、失ったものへの絶望より遥かに小さなもので、須川がいなくなった現状、鳴海の心はかつてないほど不安定だった。

 それに拍車をかけるように、一之瀬もと子も図書室から姿を消した。それも、突拍子のない、ある日いきなりのことだった。独占していた机も三人では広すぎるようで、それは、欠け落ちてポッカリと隙間の空いた鳴海の心そのものだった。


「仲間意識、結束力、団結力、絆……難しいでしょ。目に見えないものを扱うのは」


 いつもの放課後、いつもの席、辻岡はボーっと窓の外を眺める鳴海に向かってそう言った。週末から、ノノグラムは全く手に負えていなかった。


「不慣れなだけさ。こいつにはまだ力がある」


 馬場は説得したが、呆け顔の鳴海を見て言い添えた。


「たぶんな」


 鳴海は頬杖の上でため息した。


「甘く見てたわけじゃなかった。ただ突然すぎて……」


「甘いわね」


 鳴海のモチベーションなど露知らず、辻岡は容赦のない言葉を浴びせた。


「気持ちばかり勢いづいて、やる事なす事空回り。ただ私たちをサークルに引き込んで、後のことは成り行き任せ? 甘いわね。戸田のことだって、やっぱり何も解決できてないじゃない。あの時鳴海が見せた正義は、やっぱり見せかけだけだったの?」


 機関銃から飛び出す弾丸よろしく、辻岡は次々とまくしたてた。鳴海は、耳を塞いで突っ伏して、全てから逃れたいという思いに駆られ始めた。辻岡の言葉の一つ一つが、剥き出しにされた鳴海の弱い内面に漏れなく体当たりしてくるようだった。


「帰ろう……三人で」


 立ち上がり際、鳴海は何げなく提案した。本当は一人で帰りたかったが、逃げるような後ろ姿を見せつけるのはイヤだった。こんな格好だけの自分はもっとイヤだった。


「おい。あれ須川じゃないか?」


 三人が玄関前のホールまでやって来た時、馬場が押し殺した声で言った。玄関ホールと下駄箱とはスライド式のガラス扉で仕切られていて、馬場の指差す先はそのガラスの向こう側だった。鳴海は目を凝らした。扉越しに見えるのは須川と……。


「柳川!」


 山積みにされていた迷いも不安も、その一瞬で全てが消え去った。須川と向かい合って話しているのは、間違いない、柳川拓真だ。


「ふーん。あいつが柳川か」


 納得しながら、辻岡は関心を露にした。そのかたわら、馬場は腕を組んで首をかしいだ。


「あいつが柳川と一緒……柳川は不良の一味だから、須川は不良と関りがあって……てことはつまり……」


 馬場は普段使いなれないツルツルの脳みそへシワを寄せるのに必死だった。


「バカね、簡単じゃない。須川は裏切り者ってことよ」


 鳴海は横目で辻岡を睨んだが、現状を前に言い返す言葉がなかった。須川は笑顔の柳川を一人残し、靴を履き換えて姿を消した。


「そう怖い顔で睨むなよ」


 ホールのど真ん中で怒りの形相を浮かべる鳴海を見つけるや、柳川はせせら笑った。


「須川と何してた?」


 すかさず鳴海が聞いた。


「お前らにそのことを教えて、俺に何かメリットはあるか?」


 ズボンのポケットに手を差し込んだまま、柳川は悠然と答えた。余裕の笑みと態度は、顔に刻まれた火傷跡のように、彼にとっては揺るぎなく、そして確固たる存在感だった。


『勝てない……』


 鳴海は認めてしまった。ケンカだの、暴力だの、話し合いだの……鳴海がいくらあがいても太刀打ちできない所に、今柳川は立っている。悠々と微笑む柳川が蜃気楼のようにおぼろめき、うんと手を伸ばしても、触れるのは指先の果てない虚空だけだった。


「にしても、お前はいい家来を持ったな。須川ほど忠実で、従順な犬は他を当たってもいないだろうよ」


「黙れ」


 馬場が拳を握った。


「それ以上でしゃばってみろ。この場で……」


「誰かと思えば、馬場じゃないか」


 馬場の警告などお構いなしに柳川は続けた。


「俺に負けた時の腹いせならやめとけな。いつまでも後悔にしがみついてるなんて、ダサすぎて見るに堪えねえよ」


「んだと……」


「殴りたいだろ? 拳を握るとまだ血が騒ぐんじゃないか? イライラを紛らわすのに、誰かを傷つけるやり方が一番手っ取り早いもんな。手段がむごければむごいほど爽快だ」


 柳川の不気味な薄笑いが顔中に広がっていくのを、鳴海は黙って見つめていた。


「物申すような顔で出迎えた割には大人しいじゃねえか、正義のヒーロー」


 柳川は鳴海を見据え、まるで挑発するように嘲った。


「もしかしてビビってる? 俺に?」


 その通りだった。据わった瞳はただ柳川を睨むばかりで、沈黙する口元からは声が出てこなかった。何も言い返せない……強がりの一つも生まれない。


「互いに別々の環境を生き、お前は正義を得た一方、俺は正義を捨てた。優しさや、情けや、愛なんてものは、所詮は自分を立派に見せたいだけの偽善でしかないことを知ったんだ。見方は変わり、世界が動いた」


「夢見てんじゃねえよ」


 馬場がうなった。


「正義を捨てて、自分勝手に生きて、立派な悪役のつもりかよ。結局、お前は自己陶酔して強がってるだけじゃねえか」


「語ってんなよ、クソが」


 柳川の引きつった笑みが悪態を放った。


「あの日、お前らは俺に負けたんだ。痛かったろ? 怖かったろ? 不安を感じたろ? お前らが感じたその苦しみで、俺の存在は完璧に証明される。俺はより強くなれる!」


 柳川の顔が醜く歪んだ。薄笑いの端にかつての怒りをちらつかせ、さげすむような眼差しは嘲りさえ見て取れる。立ち向かう勇気すら失った鳴海の度胸は、胃の下でひっそりと縮こまっていた。


「俺を……この火傷跡を哀れむような目で見る奴は許さない。バカにする奴らは、俺が今まで味わってきた同じ痛みで苦しませてやる! 鳴海、お前みたいな正義気取りは、勇者ごっこでもして遊んでろ。俺は……血も、希望も、愛も、涙も……全部捨ててやる! 全部捨てて、お前らを否定してやる!」


 刹那、ホールに響き渡ったのは、人が人を傷つける凄惨な破壊音だった。その光景に、鳴海は目を疑い、馬場は小さく叫んでいた。強烈なビンタを柳川にお見舞いしたのは、なんと辻岡だった。


「だっせーんだよ! 鳴海!」


 ほとんど放心状態の柳川を差し置き、辻岡は鳴海に向かって吠えた。


「こんな弱虫自己中に言われっぱなしかよ! しゃんとしろ、鳴海和昂!」


 凄まじい気迫を前に全員が言葉を失い、辻岡を見つめる眼は恐れおののくように黙々としばたいた。


「こんな所で堂々とケンカか?」


 突如、背後から現れたのは久木だった。鳴海は驚いて飛びのき、獲物を見つけて生き生きとほくそ笑む久木の顔面を見上げた。


「またお前らか。なあ、鳴海。辻岡をうまく仲間に引き込んで、これは歓迎パーティのつもりか?」


「いいえ」


 ヘタに盾突いて事を荒立てたい気分ではなかったので、鳴海は素直にそれだけを言った。久木の眼球が次のターゲットを絞った。


「なあ、辻岡。俺はガッカリだ。お前みたいな模範生なら、もっと他に付き合っていける友がいただろうに」


 鳴海たちを見つめる久木の目は、道端に置き去りにされた嘔吐物を避けて通る時のソレそのものだった。かたわら、辻岡は鼻で笑い飛ばした。


「いませんでしたよ、どこにも」


 辻岡がはっきり豪語すると、久木の鼻が憎々しげにヒクついた。


「もういい、さっさと帰れ。じゃないと処罰するぞ……お前ら全員だ!」


 三人は大急ぎで学校を飛び出し、いつもの大通りに向かってひた歩いた。もどかしい沈黙を破ったのは馬場だった。


「なあ、なんで辻岡があいつを殴るの?」


 馬場はダラダラと尋ねた。


「ムカついたからよ、あんたが」


 辻岡の睨みが鳴海のこめかみに食い込んだ。


「でもビンタはきついぜ」


 馬場は両手を叩き合わせ、宙に向かってビンタする仕草を一通り繰り返した。


「……負けたくない」


 自分へ言い込ませるように鳴海は言った。


「馬場。僕にアレを教えて。柳川を張り倒せるだけの、おじさん秘伝のパンチのやり方を」




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