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第七話 君の225倍難しい




 翌朝、鳴海は登校して席に着くなり呆気にとられた。ドア枠にピタリとはまるのは、立っているだけで異質なオーラを放てる『一之瀬もと子』だった。小柄な体格には不釣り合いな長い指をしならせ、手招きしている。


「おはよう。どうしたの?」


 クラス中の生徒たちの注目をかいくぐりながら、鳴海は一之瀬のもとへ近づいて聞いた。その間、一之瀬は、黒板の横に貼られた授業の時間割が気になって仕方がないようだった。久木先生が殴り書きした質素な代物がそれだ。


「大切な話があります。放課後、必ず図書室へ来て下さい。それもなるべく早く」


 鳴海はポカンと口を開けたが、すぐに声は出てこなかった。


「……えっ……どうしたの急に?」


「あなたにとって重大なことですから……靴、どうかされました?」


 話題が急に方向転換したので、鳴海は再三驚かされた。この日、鳴海は学校から借りたスリッパを履いていたのだ。


「汚れたから洗ってるんだ」


 つま先でスリッパをもてあそびながら、鳴海は明るく答えた。


「ほら、放課後にトイレ掃除やってるから。クソまみれの上履きなんてカッコ悪いからね」


「……そうですか。では、今日の放課後お待ちしています」


 去り際、一之瀬はもう一度惜しみげに時間割を覗くと、髪をなびかせ姿を消した。


「くさい」


 席へ戻ると、出し抜けに辻岡が言った。立てかけた本に視線を落とし、ひどくしかめっ面だ。白い本の窃盗事件に警戒してか、今日は薄っぺらい文庫本だった。


「あんた、またくさいよ」


「ちゃんとお風呂に入ってるんだけどなあ」


 何が“くさい”のか分かっていたが、鳴海はあえてごまかした。


「左肩。また悪魔の匂い……」


「僕は悪魔なんかとは面識ないよ」


「あの人にも気をつけて。なにかとても嫌な感じ」


「あの人って……一之瀬さん?」


 鳴海を睨むように一瞥すると、辻岡は本に向かってうなずいた。どうやら、二人で話していたのを見ていたらしい。


「あの人の言葉を鵜呑みにしない方がいいわ。なにか引っ掛かる」


 本へ視線を落としたまま辻岡は言った。


「でも一之瀬さんの占いは凄く当たるんだよ」


「当たりすぎる占いは危険よ」


 話を聞きながら、これは辻岡なりの優しさなのだと、鳴海は気付いた。サークルメンバー一同が本を取り戻してくれたことを、彼女ながらに感謝しているらしい。


「一之瀬さんは……うん。確かに普通じゃないね」


 ポロっと落ちたその独り言に、偽りはなかった。黒葉との関係は未だに謎のままだったし、普通じゃないという点では、あの存在感そのものが答えになっていた。




 昼休み。気付くと弁当箱は早々に空だった。この休み時間で黒葉を訪ねたり、『クローバー教の9つ』に記されたノノグラムを解読したりするつもりだったが、事態はそこそこ緊急だった。


「……やばい」


 カバンの中をひっかき回しながら鳴海は絶望していた。サイフを失くしたのだ。中身は現金200円とノース・アレセントアのポイントカード、図書券、オリンピック記念テレカ、溜め込んでいたレシートだった。

 昼休みの時間をフルに費やし、学校中を捜し歩いたが成果はなかった。見つからなかったとしても大した損害にはならないが、オリンピック記念テレカだけはいささか惜しい気がした。

 放課後、恒例のトイレ掃除を手際よく終わらせ、鳴海は足早に図書室へ向かった。分厚い歴史書の並べられた書棚を背に、いつものメンバーが教室の一角を独占していた。


「よう。かっこいいスリッパだな」


 鳴海の存在に気付いた須川が目ざとく皮肉を吐き出した。


「足が蒸れない最新モデルさ」


 鳴海は笑顔で応えた。


「でもスリッパって、階段降りる時によく脱げるんだよな」


 足下から馬場の声が聞こえた。机の下でコンビニのちくわパンを食べるのは馬場の日課になっている。

 鳴海はふと、須川の左隣に座っていた一之瀬の強い視線を感じた。焦りと不安の入り混じった複雑な表情だ。


「昨夜、桃太郎サークルの今後を占ってみたんですが、非常に興味深い結果が出ました」


 鳴海が席に着くと、一之瀬がせきを切ったように話しだした。


「サークルの活動自体はとどこおりない事が分かりました。ほぼ順調に進むでしょう。しかし、サークルの統率者に不穏な陰りが見えました。これからの一ヶ月間……十月に実施される『ももたろう祭典』をピークに、鳴海さんの運気は最悪の時期を迎えます」


 一之瀬からの宣告を受けても、鳴海はさほどショックを受けなかった。


「これまでの人生が最悪だったんだ。これ以上悪くなりようがないさ」


 鳴海が強気な態度に出ると、一之瀬はいつもの黒革のカバンから、いつものタロットカードを取り出した。


「鳴海さん。あなたには、あなた自身のことを知っておく権利があるのです。己を知ることは、故に周囲へ向けて警戒を高める術となる。では……」


 一之瀬は置かれたカードの束を手に取り、机上に広げてシャッフルした。鳴海は、一之瀬が束に戻したカードを上から三枚取り、三角形に並べていくのを終始黙って窺っていたが、結局は疑心をぬぐい切れなかった。

 一之瀬は瞳を閉じ、研ぎ澄ますような集中力のもとで深呼吸した。そして、一枚目をめくった時は眉間にしわが寄り、二枚目では下唇を噛み、三枚目にはため息だった。


「どう?」


 鳴海は聞くまでもないことを聞いてみた。案の定、期待以上の答えが返ってきた。


「かんばしくないです。不吉な災いが降りかかり、すでにその火種はまかれています。私物の紛失、怪我、争い……不幸は絶えないでしょう。物事が思い通りにならず、焦燥感や不安が心身に追い討ちをかけます。……ただし」


 落胆の色を隠せない鳴海に、一之瀬は希望の一言を添え、三角形の頂点に位置するカードを指差した。


「厄災は現在と過程です。結論の場にあるカードは最悪を越えたその先……ピークとなる『ももたろう祭典』の向こう側を明るく照らしています」


「どういう意味?」


 一之瀬が女神のような微笑みで鳴海を見つめた。胸の内側に張り付いていた不安が、一気に解けて消えていくのを感じた。


「全てが終わり、そして始まるのです。人の幸福や不幸というものは、輪廻する魂のように繰り返され、生まれ変わるもの。導く希望がどんなに小さな光だったとしても、それを見失わないでください。そして、この悲惨な運命を乗り越えられるかはあなた次第だということも忘れないで」


 一之瀬が語り終えると、辺りは静寂のベールをまとったかのようにシンとなった。鳴海はこの重苦しい空気を何とかして断ち切りたいと思慮したが、これが図書室の本来あるべき姿なのだということを冷静に思い出した。


「では、私はこれで」


 沈黙を破ったのは、沈黙を招き入れた一之瀬本人だった。おもむろに席から立ち上がり、彼女は言った。


「今日は用事があるので帰ります。希望を見失わないでくださいね、鳴海さん。全てはあなた次第ですよ」


 一之瀬は最後にもう一度念を押すと、屈託のない笑顔を残して去っていった。机の下から馬場が這い出てきた。


「運命は背負うな、コイツで飛び越えろ」


 馬場が唐突に大きな声を出すと、須川があけすけに怪訝な顔を向けた。


「おじさんがスクーターをくれた時の言葉さ。あいつにまたがる度、俺は勇気を奮い起こせるんだ」


「フン」


 須川が鼻で笑い飛ばした。その一吹きが、馬場の言葉を彼方まで吹き飛ばす様を鳴海は見た。


「占いだの、運命だの、呪いだの……まったく不完全でバカバカしいね」


 今度は馬場の番だった。大げさに深呼吸し、広げた鼻の穴から思い切り吹き飛ばした。


「お前みたいな理屈こきの皮肉野郎は、目に見えるものだけを信じてりゃいいんだよ」


 須川と馬場の口論はいつものことだ。終わらせるには、須川が馬場を言い負かすか、鳴海が割って入って収拾をつけるしかない。


「せっかく本が戻って来たんだから、誰か一緒にノノグラムを解いてみない?」


 鳴海は『クローバー教の9つ』をちらつかせながら提案してみた。二人の仲裁に入るのはもう手慣れたものだった。須川は黙ってパソコンを片付け、馬場は鳴海の隣の席に慌ただしく座り込んだ。


「ノノグラムって何だ?」


 本を覗き込みながら馬場が聞いた。


「これさ」


 須川の迅速な対応に鳴海は舌を巻いた。須川がカバンから取り出したのは、使い古されてくたびれた『イラロジ100問』と書かれた問題集だった。


「ノノグラムってのは、俗にイラストロジック、ピクチャーロジック、ピクロスと呼ばれるパズルゲームの総称さ。縦・横に記された数字をヒントに網目状のマスを塗りつぶしていって、最終的に一つの絵が完成する」


「実際にやってみるといいよ」


 本を広げながら鳴海が補足した。馬場は須川から受け取った問題集を恐る恐る開き、ついには顔をしかめた。


「何が面白いんだ、これ?」


「最初は、10×10マスくらいの簡単な問題で慣らすといいよ」


 須川が今にも毒舌を吐き出しそうな面を構えたので、鳴海は急いでアドバイスした。


「俺たちはこっちをやろうぜ」


 しつけの悪い犬に餌付けして黙らせてやったとばかり、須川は涼しげな表情で鳴海と向かい合った。

 各ページに残された数字の羅列をまともに見るのはこれで二度目だ。しかし、この数字の正体がノノグラムだと分かる今、後に残されたのはまさに絶望だった。


「二、三日で終わるような代物じゃないぞ」


 須川の声は焦りでかすんでいた。鳴海もまったく同じ気持ちだった。


「この横の数列を見て……『51・22・8・4・10・15・23』って……ノノグラムの限界を超えてるよ」


「ページが進むにつれ縦の数列は右へ、横の数列は下へ移動してる。おそらく、この本に記された数字を全部並べると、一つの問題ができる仕組みになってるんだろう。本のページ数、縦列・横列の合計数が同じという点から、予想されるマスの数は……150×150マス!」


 二人は興奮のはち切れそうな、瓜二つの表情を見合わせた。かたわらで、馬場が鼻息も荒々しく問題に取り組んでいる。


「40×40でも難問なのに……一体誰が、何のためにこんな問題を残したんだ?」


 問いながら、須川は笑っていた。パズル好きの人間が超難問に遭遇した時の、好奇心が奮い立つような笑みだった。


「もっと重大なのは、この問題を解いた時“どんな絵が出来上がるか”だよ」


 鳴海も負けじと顔を輝かせた。その横で、馬場が歓声を上げた。


「できた! こいつは……UFOだな」


「そりゃ亀だ。ほんと、幸せな奴だぜ」


 須川がせせら笑った。馬場は気に止める様子もなく次の問題に取りかかった。


「そっちはどうなんだ?」


 鉛筆を額にグリグリ押し当てながら馬場が聞いた。鳴海には、馬場の相手取る10×10マスの問題が、今やゴマ粒のようにちっぽけに見えた。


「君の225倍難しいよ」


 言いつつ、鳴海は複雑な気分だった。その存在自体が奇跡といえる超難問に出くわせたのはとても嬉しいが、問題を解けるかどうかは話が別だ。数字が大き過ぎて把握しきれないが、今までとは明らかに次元が違う。

 黒葉の期待に応えられるかどうか……不安とプレッシャーの交錯する思いを、鳴海はしばらく断ち切れないでいた。


「でも、やるしかないよね」


 鳴海は腹を決めた。悩んでいる間に、眼前の男はもう行動に移っていた。


「鳴海、紙とペンを用意しろ。俺は縦、鳴海は横の数列をメモするんだ。後でまとめて俺のパソコンに取り込んで、完成した問題をプリントアウトしてやる。まあ、解くのはもっぱらお前だけどな」




 次の日、鳴海は学校を遅刻した。

 寝る間も惜しんでノノグラムに励んでいたせいで、布団の中で目を覚ました時にはもう始業のベルが鳴る頃だった。鳴海はのんびりと身支度し、ことさら焦る様子もなく家を出た。遅刻が確定した段階では、さっさと吹っ切れて鼻歌でも歌っていた方が気は楽だ。あたふたしたところで、失った時間など戻ってきやしない。

 学校のそばを横切る大きな通りまで来た時、コンビニの駐車場に見覚えのある黒いスクーターが滑り込んで来るのを鳴海は見た。ドライバーが馬場だと分かった時、鳴海の心は躍った。


「スクーターでの通学は許さんぞ!」


 鳴海は久木先生の声色を真似て言ってみた。効果は思いのほか絶大だった。馬場は取りこぼしたヘルメットを足の上に落とし、そのまま3メートルは後方へ飛びのいた末、自分の足につまづいてバランスを崩し、尻もちをついた。


「朝からびっくりさせんな!」


 馬場は飛び出た目玉を引っ込めようともせず、腹を抱えて笑い込む鳴海に向かってがなった。だが結局、馬場も安堵の笑みを広げていた。


「素敵なリアクションだったよ」


 馬場を助け起こしながら鳴海は称賛した。


「鳴海にやられっぱなしなんて癪だな。ちくわパンおごれよ」


 二人でコンビニの中へ入ると、すぐさま店員からの熱い視線を感じた。以前、久木との鬼ごっこゲームで鳴海にジェットヘルを貸してくれた、無愛想の真田がレジ前に立っていた。

 客が馬場だと分かるや、真田の顔つきが露骨に仏頂面となった。


「……いらっしゃいませ。本日当店では、好評の肉まんセールを実施中。肉まん全種類10%引きとなっております。この機会にぜひ……まあ、別に買わなくてもいいんだけど」


 真田は面倒くさそうに言い切った。


「サボり方がヘタクソだな、お前」


 陳列棚からお目当ての品を探しながら馬場が声をかけた。真田は何も答えなかった。


「おい真田、ちくわパンがねえよ」


「……ああ。毎日お前の顔見るなんてストレスだから、発注リストから除外した」


 途方に暮れる馬場を楽しむような目つきで観察しながら真田は言った。


「肉まん食え、肉まん」


 それを聞いて、馬場はニヤリとほくそ笑んだ。


「分かったぞ。肉まんの売上ノルマがあるんだろ? それでわざと俺に買わせるために、お前、ちくわパンを隠したんだな?」


「…………本日当店では、好評の肉まんセールを実施中。肉まん全種類……」


「わーったよ! 買うよ!」


 馬場はいよいよ折れた。


「どうせ鳴海のおごりだし。俺、肉ジャガまん」


「……あっ!」


 蒸気で曇った肉まんケースを目の前にして、鳴海はようやく重大な事実を思い出した。


「ごめん。サイフ失くしてたんだ」


 馬場のうなり声と真田のしかめ面が絶妙にマッチした。


「失くしてたって……ちっとは焦ろうぜ」


「ろくなもん入ってなかったから。筆箱失くす方がショックだよ」


 鳴海は笑顔で言った。馬場はほとんど呆然としていた。


「そういやお前、上靴はどうした? 昨日はスリッパだったよな?」


「ああ、あれは……」


「誰かにやられたか?」


 真田がぼそりと言った時、馬場がハッとしたような表情で鳴海の肩につかみかかった。


「戸田か? あいつの仕業なのか? そうだろ!」


「まだ分かんないよ。それに、サイフはともかく、上靴がなくなるなんていつものことだ。こういうことには慣れてる」


 来店した若い女が、一緒に沈黙を運んできた。馬場は黙って鳴海を見下ろし、鳴海はその視線から逃れるようにカレーまんを見据え、真田はその両者を眺めた。


「で、どうすんの? 肉まん買うの?」


 何かしらの期待を込めるように、真田が静寂を裂いた。


「肉ジャガまん」


 しばらくして馬場が答えた。


「カレーまんも」


 鳴海がさりげなく続けた。


「遅刻の原因も、やっぱりいじめが関係してるのか?」


 学校への道を歩きながら馬場が聞いた。その案じ顔に馬場らしい勇ましさがかいま見えて、彼がちょっぴり頼もしく見えた。


「違うよ。ほら、昨日のノノグラムさ。徹夜したんだ」


 あくびがてら、鳴海はのんびり言った。


「用紙を四枚つないでやっと一つの絵になる規模なんだ。なかなか進まなくって……」


「そっか……でも、そういう大事なことはさっさと言えよ」


 馬場はわずかに空を仰ぎ、はにかむように言った。


「もっともっと頼ってくれ。俺たちはお前の骨董品じゃねえんだぞ」


 鳴海は雄々しく前を向いて歩く馬場の横顔を見た。胸中をかき乱していた不安や迷いが、その真剣な眼差しの中に吸い込まれ、溶けて消えていくのがはっきり伝わった。


「君たちにだからこそ言えないことがたくさんあった。もっと気楽でいいんだ……素直になっていいんだって、気付いたばかりなのに。……不安が邪魔して、結局は気の弱い自分に妥協してる。本当は、こんなんじゃダメだって分かってるんだ」


「焦んな。少しずつ変えていけばいい」


 馬場はそれ以上何も喋らなかった。その一言に、今の鳴海に必要なものすべてが詰め込まれていた。今日は遅刻して良かったと、鳴海は心からそう思えた。




 ひょんなことから始まった放課後のトイレ掃除も、鳴海の惜しまぬ努力が実を結び、終焉を迎えつつあった。下水道の様相をかもしていた二階の男子トイレは、鳴海の手によって学校中のどのトイレより綺麗に生まれ変わったのだ。

 壁の黒ずみは洗い落とされ、床を浸食していたヘドロは姿を消した。悪臭は窓から流れ込む秋の風に吹かれ、黄ばんだ便器は自分の顔が写るほど磨き上げられた。ここで一夜を明かせと言われれば、鳴海は喜んで布団を敷くだろう。


「鳴海って、ほんとキモイね」


 窓を念入りに拭いていた鳴海はことさら驚いて後ろを振り返った。カバンを肩にひっかけ、トイレ中を満遍なく見回す辻岡が、開け放たれたドア付近に立っていた。


「あんたに取り憑いた悪魔は、さぞかし綺麗好きみたいね」


 感服の表情に尊敬の眼差しを称えながら辻岡は言った。それは褒め言葉に違いないと鳴海は解釈した。


「隣の女子トイレが辻岡さんの持ち場だってこと、忘れてるでしょ」


 バケツに雑巾を投げ入れながら、鳴海は笑顔で指摘した。辻岡はわざと取り合わないように視線を逸らした。その先はスリッパだった。


「鳴海……靴」


「ああ」


 笑顔のまま、全然気にしていない素振りで鳴海は答えた。


「ほら。ここの掃除やってるとどうしても汚れちゃうだろ? 洗濯してるんだよ」


「……あいつに……戸田に隠されたんじゃなくて?」


 一瞬、雑巾を絞る手の動きを止めてしまったのは不覚だった。何とかごまかそうと顔を上げると、視界の中に辻岡とは別のもう一人が飛び込んできた。


「……先生」


 辻岡の背後に向かって鳴海が呟いた。辻岡は驚いて飛びのいた拍子に、うっかりトイレの中へ足を踏み入れた。辻岡のすぐ背後に、久木の巨体がズッシリと貼り付いていた。


「さてさてさて……」


 大きな顔にピタリとはまった目玉をギョロつかせ、トイレの隅々まで窺いながら、久木はヘドロのような粘着質のある声を放った。あの狡猾な瞳は常日頃、誰かに罰則を与えられるだけの決定的な口実探しに余念がない。


「たまげたな、まっこと」


 目だけを辺りに走らせながら、久木が感嘆な声をあげた。


「汗で磨かれた、日々の努力の賜か。鳴海、よく独りで頑張った」


 鳴海は唖然として久木を見上げていた。あの久木が人を褒めている……何かがおかしい。窓から射る暖かな陽射しが背中に触れているというのに、鳴海は背筋をゾクゾクさせていた。


「今日でここは終いだ。明日からはもうやらなくていい」


「待って」


 立ち去ろうとする久木の背に、辻岡が声をかけて引き止めた。語調に憤りの影がちらついていた。


「あなたのことは全部聞きました。戸田たちをけしかけて、あたしの本を盗ませたのはなぜ?」


「そうか……しくじったか」


 久木は彫像のように動かなかったが、陰湿な声だけがおぼろに聞こえてきた。


「今は何も話してやれんが、戸田らに盗みを働かせたのはこの俺だ。それは確かだ」


 久木が肩越しにこちらを振り向いた。その視線は辻岡を通り越し、鳴海を見据えていた。


「よく聞け鳴海」


「あ……はい」


 背筋を伸ばすと、出てきたのは締まりのない声だった。


「事態はより深刻だ。行動は慎重に、しかし大胆にやれ。俺はいつだってお前らを見張ってる」



 

「いかれてる。腐ってる」


 久木が姿を消すと、辻岡が汚くののしった。今やこのトイレにはそぐわない言葉だった。


「あんな危険人物が学校を徘徊してるなんて……事態をより深刻にしてるのはあいつ自身じゃない」


「何を隠してるんだと思う?」


 名残惜しげに掃除用具を片付けながら、鳴海はそっと聞いてみた。


「久木に関しては、不可解なことばかりさ。不良の親玉説も浮上したままだ」


「不良どころか、ヤクザの回し者も同然よ」


「そうだね。……ねえ、このモップを見て」


 腕を組んでいきり立つ辻岡に向けて、鳴海が黒ずんだモップを突き出した。辻岡がいぶかしげにそれを眺めた。


「僕がここで戸田たちと戦った時、クソまみれだったこのモップを武器に威嚇したんだ。今までありがとう、モップ。さようなら」


「いかれてる……」


 身震いしながら辻岡が呟いた。


「ところでさ、ずっと気になってたんだけど、あの白い本ってどんな内容なの? 久木が欲しがるくらいなんだから、きっとすごく貴重なものだよね」


「価値なんてないわよ。他人から見ればね」


 二人はトイレを出て、ひと気のない廊下を渡った。


「あれはね、両親があたしに書いた本なの。あたしがまだ小さい頃、仕事で忙しかった父と母が交代で書いて、枕もとで読んでくれるのを楽しみにしてた。あたしの生き甲斐だった。けど……物語はずっと終わらないまま」


 一階へ続く階段を、鳴海は危うく転げ落ちそうになった。


「まさか両親は……」


「生きてるわよ。海外へ転勤になって、あたしは祖父母の家に預けられただけ」


 鳴海はほっとした末、結局足を一段踏み外した。


「あたしは、この物語の続きをずっと探してた。この本の主人公は私だったから」


 鳴海は階段を一段踏みしめるたび、辻岡の言葉を一つ一つ鮮明に思い出していった。


「そういえば言ってたよね。その物語の続きを知ってるのは僕だって。それって何かの間違いじゃ……」


「確かよ。だってあんた、普通じゃないもの。悪い意味で」


 辻岡の口調は揺るぎなかった。


「鳴海のそばにいれば、いずれは災いを……物語には欠かせない山場を迎える。今思えば、本が盗まれることも必然的な事象だったんだわ。だって運命は変えられないもの。乗り越えるしかない」


「一体何をしようっての?」


 恐れ入ったとばかりに鳴海が尋ねた。辻岡の燃え上がるような瞳が鳴海を捉えた。


「あたし自身の手で、あの物語の続きを完成させるのよ」


 最後の一段につま先が触れた矢先、物陰から現れた何者かが二人の目の前に立ちはだかった。次には、鳴海は腹にタックルされ、そのまま廊下に投げ飛ばされ、頭を打ち、漠然とした意識で天井を仰いでいた。辻岡の声がどこか遠くの方から聞こえてくるようだった。かすんだ視界に複数の人影がよぎった。


「お前らは辻岡さんを。俺は鳴海をやる」


 胸倉とベルトをつかまれ、鳴海は壁際に叩きつけられた。眼前に戸田が立っていた。眉毛の一本一本にさえ憎悪の念が滲み、怒りにたぎる瞳には鳴海の怯えきった表情が反射している。


「薄気味悪い野郎だ」


 怒りをたたえた表情とは裏腹に、戸田の声はやけに落ち着いていた。


「邪魔立てばかりしやがって。しまいにゃ辻岡さんと仲良しになれてご満悦か? 甚だムカつくぜ、クソ鳴海」


 いきり立つ戸田の肩越しに見えるのは、辻岡が複数の男子に取り囲まれている光景だった。どうやら、諦めきれない秘密ファンクラブの面々が、本を取り戻しに来たらしい。


「こんなことしたって、何の解決にもならないぞ」


 食いしばった歯の隙間から鳴海は言った。圧迫された喉からこぼれ落ちるのは、かすれた弱々しい声ばかりだ。力の加わった戸田の腕が、鳴海の首を更に締め上げた。


「変わったな、鳴海。入学当初はうじうじした根暗だったくせに」


「手を離せ……」


「嫌だと言ったら?」


 鳴海は戸田の向こうずねを思い切り蹴飛ばしてやった。直後、戸田の膝蹴りが鳴海のみぞおちを直撃した。痛みと衝撃は、束の間、鳴海の意識を3メートルは頭上へ弾き飛ばした。


「叫べよ。仲間がいるんだろ? “いざ”って時は誰も来ねえ仲間がよ」


 狂気の笑みで破顔する戸田の向こう側で、あの白い本が森野の手に渡るのを鳴海は見た。目はかすみ、意識はもうろうとしていたが、耳だけは鮮明に機能していた。辻岡の罵声が廊下に響き、目と鼻の先では戸田がしゃべっている。

 もうなりふり構っちゃいられない。鳴海は渾身の力で左腕を振り上げた。そのまま親指を突き立て、戸田の右目にブスリとぶち込んだ。

 痛みで呻く戸田を突き飛ばし、鳴海は牙を剥き出した獅子のような形相で森野に飛びかかった。本を奪うと、辻岡の手を取り、廊下の突き当たりまで突っ走った。一階西廊下の奥……その先に何があるのか、鳴海にはちゃんと分かっていた。


「あの倉庫の中に!」


 辻岡が先に中へ飛び込み、鳴海が続いた。鍵をかけようとしたが手遅れだった。閉めたドアは意思を持ったかのように再び開き、同時に、戸田の拳が鳴海の顔面をもろに捉えた。


「こんなはずじゃなかったんだ……」


 埃の絨毯の上に転がった鳴海を、戸田は充血した右目で睨みつけた。鼻血があごを伝い、床に落ちて埃を染める様を、鳴海は呆然と眺めていた。


「もう手遅れだ」


 戸田が力なく呟いた。積み上げられた椅子の一つを手に持ち、悲哀を刻んだ表情はどこか遠くを見据えていた。


「俺たちはただ……ただ、辻岡さんが大好きだっただけなのによう……」


 倉庫のすぐ外で制止を呼び掛ける森野たちの声も、そばで悲鳴を上げる辻岡さえも無視し、戸田は椅子を高々と振り上げた。だが、鳴海だけは動かなかった。ずっと感じていた。あいつを……黒葉を。


「椅子は行儀良く座るもんだ。振り回すもんじゃない」


 鳴海は顔を上げた。変形した椅子のパイプ部分を片手で握り締める長身の男は、気だるそうな猫背の上にボサボサ頭を乗っけて、余裕を含んだ優雅な顔つきで戸田を見下ろしていた。


「黒葉!」


 鼻血が出ていることも忘れ、鳴海は嬉々としてその名を呼んだ。


「何……今どっから出てきた?」


 戸田は愕然と黒葉を眺めていたが、椅子から手を離すことを忘れはしなかった。黒葉はそんな戸田の手から椅子を奪い取り、倉庫の端っこまで軽々放り投げた。


「失せろ。そして、もう二度とここへは近づくな。鳴海に指一本触れてみろ。ただじゃすまさねえぞ」


 戸田たちにとって、黒葉が味方でないことは一目瞭然だった。戸田は浮足立たせて物言いたげに黒葉を見上げていたが、結局は悔し紛れに鳴海をねめつけることしかできなかった。


「久しぶり」


 戸田たちが尻尾を巻いて退散した後、鼻血を垂れ流しながら鳴海が言った。


「殴り合いのケンカなんて、鳴海らしくないんじゃねえの?」


 鳴海の腕を掴み、ゆっくりと立たせながら黒葉は嘲った。立ち上がり様、腕がズシリと重く感じた。そのきゃしゃな二本の腕は、辻岡の本をしっかりと守り抜いていた。


「ありがとう……」


 本を受け取ると、辻岡は抑揚のない声で言った。突如湧いて出た謎の男子生徒の存在が気になって仕方がないらしい。二つの瞳は忙しなく、鳴海と黒葉を行ったり来たりしている。


「あ……鼻血。ほら」


 辻岡はポケットティッシュを取り出すと、紙を一枚、鳴海の鼻に押し込んだ。


「すっげえ。両方の鼻から出てら」


 物珍しげに覗き込みながら黒葉がせせら笑った。


「笑うな。めちゃくちゃ痛かったんだぞ」


 鳴海が両方の穴にティッシュを詰め込んでいる間、黒葉はずっと笑いっぱなしだった。


「……くさっ」


 壁際まで後ずさりながら、辻岡が唐突に吐いた。


「くさいくさいくさい……くさい!」


 辻岡の様相は、もうほとんど正気ではないように見えた。鼻の上に深いしわを何本も刻み、指全部を駆使して鼻を密閉している。本当にくさそうだ。


「何がくさいって?」


 黒葉は取り分け驚いた様子も見せず、辻岡の方へゆっくり歩み寄った。辻岡はためらいがちに鼻から指を離し、黒葉を差した。


「悪魔のにおいらしいよ。辻岡さんには分かるんだって」


 自分の言っていることをバカバカしく思っていた鳴海にとって、黒葉の反応は鼻血が引っ込むほどの衝撃だった。黒葉は物思いに耽るような眼差しで辻岡を見つめていたが、やがて言った。


「なんで分かった?」


 ティッシュを詰め直していた鳴海の手が止まった。鼻血も止まった。


「俺が悪魔だって、なんで分かった?」


 黒葉が繰り返した。感情の読みとれない、静寂をまとった声だった。


「匂い。気配。雰囲気。何もかもが人間じゃない」


 辻岡はお構いなしだった。


「驚いた。とんでもねえ逸材がいたもんだ」


 ボサボサの頭髪を手ぐしでなでつけながら、黒葉は嘆息混じりに言った。


「君が普通じゃないのは分かってたけど、まさか悪魔ってのは冗談キツイよ」


 鳴海は笑ったが、黒葉は笑わなかった。


「環境は整ったみたいだな。こうして再会もできたし……そろそろ、打ち明け時か」


 黒葉は中央に置かれた教壇の上であぐらをかき、二人と向き合った。


「気を楽にして、だがよく聞いとけ。これから話すことは、一くせも二くせもある、めんどくせえ代物だからな」




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