第六話 こんな感じでいいじゃないか
『クローバー教の9つ』に残されていた数字の謎を解き明かしたその瞬間から、鳴海にとって、本が手元にないことはもどかしさの極みだった。一刻も早く作業へ掛かりたいのに、本はいまだに久木の手の中だった。
黒葉が一向に現れないことも、鳴海の焦燥感を加速させていた。
不良たちの真の親玉、久木先生(サークル内で、この線はほぼ確定だった)が仕組んだ鬼ごっこゲームから五日、黒葉が鳴海の前に姿を現すことは一度としてなかった。朝と放課後、カラッポの倉庫を覗くたび、鳴海は一人ため息し、心に不安を募らせた。
「顔に死相が出てるぜ、鳴海さんよ」
恒例となったトイレ掃除をさっさと済ませた後、図書室にいた須川の所へ行くと、出し抜けにそう言われた。誰も好んで近寄らないような埃っぽい図書室の隅っこは、誰が決めるでもなく、ある日から桃太郎サークルの集会場となっていた。
「顔のどのあたり?」
パソコンに向かってタイプし続ける須川の横顔を見つめながら、鳴海は暗い声で聞いた。
「眉間。すごい谷間だぞ。落ちたら命はないね」
鳴海は生気の薄れた笑い声を上げた。
「これは傷だよ。不安や悩みが僕の眉間に傷を負わせたんだ」
「お前が言うと気味悪いな」
ドアの開く音がした。一之瀬もと子がいつもの黒革のカバンを手に、脇目も振らずにこちらへやって来た。足を踏み出すたびに長い黒髪が弾み、風を受けて豊かになびいている。
「こんにちは、みなさん」
机の上にカバンを下ろすと、一之瀬はうやうやしく挨拶した。
「やあ」
須川の隣の席へ腰を据えると、鳴海は慣れた要領で応じた。一之瀬が放つ神々しい風格には、もう慣れっこになっていた。
「また来ちゃいました。ここ、居心地いいですね」
放課後、一之瀬が桃太郎サークルを尋ねるのは日課になっていた。
「もういっそのこと、サークルにお入りなさい。ここへ来るのにそれ以外の口実はありえない」
須川がパソコン越しに一之瀬を見つめながら、きっぱりと指摘した。鳴海もそのとおりだとうなずいた。
「この絶妙な立ち位置が心地いいんじゃないですか。邪魔立ては許しませんよ」
笑顔の中に鋭い威厳を見せつけながら、一之瀬はピシャリと返した。
「それに、桃太郎のお供は三匹……失礼。三人までですから。選ばれるべきはあと一人。無論、それは私の務めではないのです」
「どっちみち、あと一人は女の子がいいね」
須川が意見した。
「桃太郎のお供がみんなむさい男なんて、まったく絵にならないぜ。特に、あの熱苦しい男をプラマイゼロに帳消しできるだけの、限りなく女子に近い女子がほしい」
須川の視線の先は、今しがた勢い良く開かれたドアの向こう側にあった。馬場が華麗に飛び込んできて、歩調はスキップよろしくこちらへ歩み寄って来た。
「ういっす!」
最近、馬場はいつもこんな調子だ。
「もういいから、野山に帰れ」
須川が非難がましく煽った。鳴海も一之瀬もつい笑ってしまった。
「おいおい。中庭にたむろしてる連中と一緒にしないでくれるか?」
一之瀬の隣にドカッと腰を落とすと、馬場が須川に詰め寄った。
「俺は足を洗ったんだ。もうカツアゲもしないし、万引きも盗撮もしない。タバコも酒もやめだ。ただちょっと、授業中に寝るだけだ」
「それで十分じゃないか」
二人をなだめるように鳴海が割って入った。こうでもしないと、口角泡の飛ばし合いが始まるのは目に見えていた。須川と馬場は読んで字のごとく、犬猿の仲というわけだ。
「一人、僕が推薦したい子がいるんだけど、いいかな?」
睨み合いで互いを威嚇し続ける両者に向かって、鳴海は遠慮がちに口を開いた。
「あんまり素敵な予感はしないけど、聞いてやるぜ」
チラと鳴海を一瞥しながら須川が受けた。
「辻岡さん」
三人分の視線が鳴海をとらえた。
「誰だ?」
馬場がすかさず尋ねた。
「聞き覚えあるな。良い印象はないけど」
須川が続いた。
「名案ですね」
一之瀬が締めくくった。
「一之瀬さん、彼女を知ってるの? 面識あったっけ?」
鳴海がいぶかると、ふと、一之瀬の瞳が埃まみれの図書室の一角を泳ぎ回った。
「……だって私、一之瀬もと子ですから」
その一言で、鳴海はすべて納得した。
「あー、思い出した」
キーボードを眺めたままだった須川が、ようやく顔を上げた。
「あの変な子か。確かにかわいいけど……覚えてるか? このメガネに向かってダサイって言ったんだぜ?」
「おお!」
馬場が歓声を上げた。
「そのメガネを? ダサイって? そいつとは仲良くなれそうだ」
馬場の満悦な笑みを見て、鳴海は、彼も須川のメガネを侮辱した者の一人だということを思い出した。ただ、そんなことは二の次だった。
「メガネのことはどうでもいいよ。重要なのは、辻岡さんが魔術なんかのオカルトに詳しいってことだ。悪魔の匂いを嗅ぎ分けられる人間は、少なくともこの学校では彼女くらいだ」
「なるほど。でも、どうでもいいってのはちょっと傷ついたぞ」
「ごめん」
須川の膨れっ面に向かって、鳴海は半笑いで謝った。
「名案ですけど、一つ問題が残っています」
静かにきっぱりと一之瀬が言った。
「魔術に詳しい者が知恵を貸してくれても、あの本がなければ手も足も出ません。まだ返してもらえる気配すらないんでしょう?」
鳴海は返事代わりにうなだれた。素直に「うん」とは言いたくなかった。
「あの本が無事かどうかさえ分からないよ」
馬場が薄汚れた白い机をノックし、注目させた。
「誰でもいいから、俺に“あの本”が何かを教えてくれよ。そもそもこの桃太郎サークルって何?」
「お前、よくそれでサークルに入ろうと思えたな。まあ俺もだけど」
須川が嘲るのを傍らで聞きながら、鳴海はすっかり思い出した。まだ馬場には何も話していなかったのだ。
鳴海は柳川のこと、先日教室に貼られた暗号文のこと、『クローバー教の9つ』のこと、そこに残されていたノノグラムのこと、本が久木に没収されたこと、桃太郎サークルの主な活動内容について話して聞かせた。無論、黒葉との契約に関しては約束どおり触れなかった。
「なんかよく分かんねえけど、柳川がどういう奴かは理解した。お前らには悪いけど、俺の本来の目的は柳川への報復だ。そいつを忘れないでくれよ」
「お前みたいに勝手な奴がチームワークを乱して、こういった団体での活動媒体を破滅へと導くんだよな……」
「でもさ!」
馬場が食って掛かる直前、鳴海が間髪入れずに滑り込んだ。
「でも、結果それが解決につながるなら別にいいんじゃないかな。柳川を改心させられるようなキツイ一発をお見舞いしてやってよ」
鳴海による見え見えのサポートも、馬場にとっては効果てき面だった。
「さすが桃太郎、話が早い。でも俺がリーダーだけどな」
「一言多いんだよ」
鳴海は呆れて呟いた。
結局、その日の内に本奪還のための解決策を見出すことはできなかったが、辻岡をサークルへ迎え入れることに反対の意を唱えた者は誰もいなかった。
辻岡を怒らせてしまったあの日から、仲直りする機会をずっと窺っていた。桃太郎サークルという恵まれた境遇の中で、こいつを利用しない手はないと思えた。確かに、魔術に詳しい辻岡の力は必要だ。だがそれ以上に、鳴海自身が辻岡可憐を必要としていたのも事実なのだ。
そして、事の起こりは月曜の昼に起きた。
その時鳴海は、弁当を頬張りつつ、辻岡にどう切り出そうかと試行錯誤の真最中だった。辻岡とはあれから一切口をきいていない。
やはりやぶから棒に話題を振るのは気まずい。何か物を落とそうか。手元のミニトマトにしよう。こいつは箸で滑りやすいからタイミングがいい。でも足下に落としても気付かれないかもしれない。彼女の机の上まで飛ばしてやろうか。だったら枝豆の方が好都合だ……しかし枝豆はさっき全部食べてしまった。もうこの際、弁当をぶちまけてやろう!
弁当箱を構えた時、鳴海はふと気付いた。隣の辻岡の席はカラッポだった。
「アホくさ」
鳴海は空になった弁当箱を睨みつけながら声を吐き捨てた。
辻岡が戻って来たのはそれからすぐのことだった。鳴海は須川から貸してもらったナンプレ問題集に一生懸命取り組むフリをして、話しかけるチャンスを探っていた。
席に座るなり、辻岡は忙しなかった。机の中に両手を突っ込んでまさぐり、立て続けにカバンへ手を伸ばすと、中の物を全部机の上に放り出してしまった。どうやら、何かを探しているらしい。
「探し物?」
チャンスとばかり、鳴海は妙に上ずった声で話しかけた。ただし、ナンプレにめちゃめちゃ熱中しているフリを装いながら、だが。
「……ないの」
辻岡は一瞬ためらったが、観念したようにそう答えた。鳴海は教科書とノートで散乱した机の上を見て、それから『この世の終わりだ』と嘆かんばかりの辻岡の青白い表情を見た。只事ではなさそうだった。
「もしかして、本がないの?」
ただ当てずっぽうで言ったつもりなのに、次の瞬間、辻岡の鋭い眼光が弾丸のように飛んできて、鳴海の両目を貫いた。
「知ってるの! どこ! あんたが隠したの? そうなんでしょ!」
その圧倒的な気迫に戦慄し、鳴海は首を横に振ることしかできなかった。
「この前の仕返しってわけ! あたしが久木にちくったから、その腹いせってわけ!」
気付くと、鳴海はナンプレ集を盾に、椅子の上でのけ反っていた。今や教室中から注目を集めている。
「僕じゃない。僕に人の物を盗む度胸なんかない」
か細い声はどこか自信を帯び、説得力に満ち溢れていた。何しろ、興奮状態の辻岡を黙らせるのに十分な効力を発揮したのだから。
「失くした本って、あの白い本?」
また暴れ出さないよう、鳴海は慎重に聞いてみた。辻岡は力なく椅子に落ち、うなだれた。
「大切なものだった。どこにいても手放せないくらい……今朝はあったのに」
「僕も探……」
「やめて」
辻岡がとんでもないスピードで拒絶するので、鳴海は呆気に取られた。
「これはあたしの問題で、鳴海には関係ない」
「あのことなら全然気にしてないのに……」
「それに、あんたなんかに借りを作るのがイヤなの」
カバンの中へ教科書を放り戻しながら辻岡は言い放った。もう何を言っても無駄だなと、鳴海は観念した。
「これから道を歩く時は、下を見て歩くようにするよ」
再び教室を出て行こうとする辻岡の後ろ姿に向かって、鳴海はそっと声をかけた。辻岡は止まりかけたが、何かを振り切るような力強い足取りで教室を出ていった。
この日最後の授業は移動教室だった。化学の教科書、ノート、ナンプレ集を脇に抱えて、鳴海はある男子グループのすぐ後を追うようにして教室を出た。辻岡にけむたがられ、サークルへの参加が絶望視された今、歩調はズシリと鈍く、教科書がダンベルのように重たく感じた。
「アレ、渡した?」
その言葉に引っ張られるように、鳴海は顔を上げた。五人の男子生徒に囲まれるようにして前を歩くのは、戸田だった。
「いや、まだだ……」
戸田は長い襟足を左右にゆすると、取り巻きの顔を一つ残らず見渡した。
「俺たち『辻岡可憐・秘密ファンクラブ』にとっちゃ、ありゃ至高のお宝だ。明日あいつへ渡すことにすれば、今日一日辻岡さんの温もりを堪能できる」
刹那、鳴海は足音を消し、鼻息一つ荒げまいと警戒した。
「しっかし、あいつは何で本なんか欲しいんだ? 俺たちに盗みまでさせて」
戸田が誰にともなく質問したが、五人の取り巻きは互いに顔を見合わせ、肩をすくめることしかできなかった。
「きっと、あいつも辻岡さんのファンなんだな」
結局、戸田は自問自答した。
「声がでかいよ」
五人の内の誰かがそう囁いた。焦ったように辺りをキョロキョロし始めた戸田の目が鳴海を捉えた。鳴海は咄嗟に窓の向こうが気になって仕方がない風を装った。手遅れだった。
「良い天気だね」
廊下の真ん中で壁のように立ち塞がる六人に向かって、鳴海は愛想良く振る舞った。
「聞き耳立ててやがったろ?」
戸田が詰め寄るのをうまくかわそうと歩き続けたが、足の生えた壁は都合良く鳴海の前に横滑りした。鳴海は立ち止まるしかなかった。
「聞きたくて聞いたんじゃない」
「チビのくせに、どこにいても目障りなヤローだな」
戸田に胸倉を掴まれ、鳴海は苦しさで顔を歪めた。以前は味方だった悪臭のトイレも、クソまみれのモップも、今や遠い廊下の向こう側だ。今度ばかりは分が悪かった。
「ちくりやがったら……特に辻岡さんにちくりやがったら、まともな学校生活を送れなくなると思えよ。分かったか?」
戸田の面長気味の馬面をかすんだ視界に溶け込ませながら、鳴海はじっと黙っていた。こんな奴らに屈したくなかった。反抗すればどういう事態になるかは心得ている。だがどうしても、首を縦には振りたくなかったのだ。
「聞いてんのか! 鳴海! おい!」
鳴海を救ったのは、遠くから鳴り響く始業のベルだった。突き飛ばし、その場に尻もちをつく鳴海を置き去りにして六人は足早に去っていった。ひと気もゼロ。立ち上がる気力もゼロだった。
「須川オフィスに、ぜひ依頼したいことがあるんだ」
「嫌な予感しかしねえな。まあ言ってみ」
「辻岡さんの大切な本が盗まれた。盗んだ犯人は分かったけど、そいつらに指示を出した別の誰かがいるらしい。真犯人を見つける知恵を貸してほしいんだ」
「前言撤回!」
放課後。鳴海が須川に持ち掛けた依頼は、図書室の陰湿で地味な雰囲気を吹っ飛ばすには十分すぎるほどの威力を示した。途中で馬場と一之瀬も加わり、桃太郎サークルはひとしきり盛り上がった。
「ちなみに盗んだグループは『辻岡可憐・秘密ファンクラブ』、会員NO.001~006までの会員六人」
「辻岡の何だって?」
机の下でこっそり『ちくわパン』を食べていた馬場が、這い出してきてモゴモゴ聞き返した。
「『辻岡可憐・秘密ファンクラブ』ですよ」
下品な馬場を不快と憐みの目で見つめながら、一之瀬が不承不承応じた。
「そのファンクラブのことなら聞いたことあるぞ」
須川が指で軽快にキーボードを弾きながら続けた。
「夏休み中に依頼のメールが来たんだ。ほら、これだ。『ある女の子のファンクラブがあると噂で聞きました。興味があるので調べてください』。やっとこいつに返事ができるぜ」
「秘密って割には、情報が筒抜けですね」
画面を覗き込みながら一之瀬が嘲った。馬場がニタニタしながら机の下へ戻っていった。
「頭取の戸田って奴が間抜けなんだ。メンバーの六人全員が同じクラスだけど、まともなのは一人もいないよ」
「集団の組織なんてそんなもんさ。弱い奴が集まって、見かけ倒しの強さを誇示してる」
「俺たちみたいだな」
机の下から馬場がもぐもぐ言った。
「違う点は、こっちのリーダーは優秀で情に熱いってところだけど」
「ここのリーダーって?」
一之瀬が誰ともなく聞いた。馬場の咳払いが机の下で反響した。
「もちろん、この俺さ」
「目くそ鼻くそ」
須川がすげなく取り合った。鳴海と辻岡に至っては無視だった。
「メンバーの一人から話を聞き出すのが、一番手っ取り早そうだな」
机の下で両足を前後に揺らしながら須川が意見した。その様は、足が間違って馬場を蹴っ飛ばしてはくれないかと願っているようだった。
「でもどうやって? 普通のやり方じゃ教えてくれないよ」
「誰かがクラブの会員になって、聞き出してみたらどう? ついでに本も奪っちゃいましょうよ!」
一之瀬の意見に、三つ分の低い歓声が重なった。
「名案だ。で、誰がなる?」
須川は一人一人の顔に瞳を走らせながら聞いた。
「僕は無理だ。あいつらに嫌われてる」
即座に鳴海が断った。
「私はサークルのメンバーじゃないので……」
一之瀬が丁重に断った。
「俺がやろう」
パンをたいらげた馬場が、すっかり満腹そうな表情をこしらえて机の下から飛び出してきた。
「大丈夫かよ?」
「失敗は許されませんよ」
須川が露骨に不安がり、一之瀬がぐいと念を押した。
「これは遊びじゃないんだからね」
胸騒ぎで気分をソワソワさせながら鳴海がトドメを刺した。馬場の嘆息がそれに続いた。
「お前ら、俺を猿か何かと勘違いしてないか?」
「いやいや、君は人間さ。人間になりたて、って点は否めないが」
須川の一言が争点となったのは確かだった。二人の舌戦は、カップラーメンを立て続けに三個以上作れるだけ続き、話し合いはその間、完全に中断となった。それは、二人の仲の悪さを改めて実感させられた瞬間だった。
「というわけで……」
馬場をこてんぱんに言い負かした後、須川が仕切り直すように言った。
「誰が会員になるとしても、実行は早い方がいい。……こういう作戦はどうだ?」
作戦決行は次の日の昼休みだった。
「森野くんいる?」
13時きっかり。馬場が会員の一人である森野を尋ねてきた。友人らと談笑していた森野は、怯えきった表情で馬場を観察していたが、馬場が入り口で急かすので重たい足取りでそちらへ向かった。出だしは好調。作戦通り、森野を教室の外へ連れ出すのに成功した。鳴海も後を追った。
「やあ」
「うっす」
いつもひと気のない一階西廊下の奥までやって来ると、防火扉の陰であらかじめ身を潜めていた須川と合流した。馬場と森野は扉の向こう側で向かい合っている。
「本当にあの森野って奴で大丈夫なのか?」
息を殺しながら須川がヒソヒソ声で尋ねた。
「うん。クラスでは僕の次にバカだから」
「……なら安心だ」
やがて二人の会話が聞こえてきた。
「もうここらでいいでしょう? 用って何なんですか?」
肩に腕を回され、ほとんど拘束状態だった森野は、もうすっかり怯えきっていた。
「僕、会員になりたいんだ。ある筋から情報を聞いてね。例の……ほら……あのファンクラブの……分かるだろう?」
「ああ……」
不気味なほど愛想良く話し続ける馬場に心を許したのか、森野は笑顔をちらつかせた。
「そっかあ! 君も同志だったんだね。名前は?」
「馬場達平。同じ一年だよ」
「会員になるための必須条件は辻岡さんを好きって気持ちだ。馬場くんにはそれがあるかい?」
「もちろん! 弁当を食べる時、これは辻岡さんが作ってくれた弁当なんだって、そう思い込みながら食べてるくらいさ!」
「どっちもバカだな」
笑いを堪えながら須川が囁いた。
「うん、その意気だ。それじゃあ、最終試験を始めよう」
鳴海と須川から笑みが消えた。
「え……試験って?」
度肝を抜かれたような声色で馬場が聞いた。
「一発芸さ。本当はリーダーの戸田くんが審査するんだけど、今回は特別。さあ、何かやってみせてよ」
二人は扉の陰からできる限り首を突き出し、その様子をつぶさに観察した。入会の試験が一発芸なんて、まるで予想外だった。
「じゃあ、マジックやります」
馬場が唐突に尻ポケットから引っ張り出したのは財布だった。禿げかけのくたびれた財布の中から取り出したのは、一枚の千円札だった。
「僕が三つ数えると、この千円札、なんと宙に浮きます。三、二、一……はあっ!」
つまんでいたお札を宙に放ると、千円札は馬場の手の下で不自然にプラプラ浮いた。
「あー、ダメダメ。釣り糸が見えちゃってる。不合格」
鳴海と須川が同時に舌を打った。
「バカの割に目ざといな」
「目はいいのさ」
鳴海も視力は良かった。ここからでも、細い釣り糸が宙でお札をぶら下げているのが見え見えだった。
「次は? もうおしまい?」
愉快げに森野が言った。作戦決行中でなければ、馬場はとっくに暴れている頃だろう。その顔は怒りを押し殺すように、無様に歪んでいた。
「じゃあ、モノマネするぜ。オランウータン。……オウ? ウホホ! ウオフ! ブッ、ブエェェウッ! ゲウッ?」
「合格!」
爆笑の中、森野が息苦しそうに言い渡した。森野が声も高々に笑ってくれていて本当に助かった。そうでなければ、鳴海と須川の笑い声が向こうまで響き渡っていたはずだ。
「そんなに面白かったか?」
笑いすぎで窒息寸前の森野に向かって、馬場はややいぶかしげに尋ねた。
「だって……その顔……!」
「真似たのは声だけだっての!」
更なる笑いの津波が三人を襲った。鳴海自身、こんなに笑ったのは生まれて初めてだったかもしれない。笑ってはいけないという緊張感が、更に面白さを引き立てているようだった。
「ファンクラブってからには、何か辻岡さんのお宝なんかを持ってたりするんじゃないか?」
鳴海と須川が笑い過ぎて腹筋を痛めている最中、馬場は一人、冷静に事を運んだ。
「ああ、一つ持ってるよ。明日にはなくなっちゃうけどね」
「調子いいぞ」
鳴海が拳を振った。
「ある人からの命令で、辻岡さんが大切にしてた本を盗んだんだ」
「へえ。その、ある人って……?」
馬場の声がじゃっかん上ずった。森野は辺りを窺い、自分と馬場の他に誰もいないことを再確認した。
「誰にも言うなよ? 久木先生だ」
「……ほう」
「クラブ内の秘密だよ。放課後、屋上へ来なよ。僕らの集会場があるんだ」
鳴海と須川は驚愕しきった顔をぐいと近寄せた。
「放課後、辻岡さんを図書室に呼ぶんだ。いいか? 絶対だぞ」
彫像のように硬直して動かなくなった鳴海に、須川がそう声をかけた。状況をよく呑み込めないまま、鳴海は漠然とうなずきかけていた。
「でも、辻岡さんには誰がやったのか、絶対に内緒だよ。じゃなきゃ彼女、犯人のどれかを呪い殺しかねないよ……」
放課後。仕入れた本の手掛かりをほのめかして辻岡を図書室へ呼び出すのに、大した苦労はなかった。辻岡は、自分の手元に本が戻って来るなら手段を選ばない、といった様相で、鳴海の話も暴れることなく素直に聞いてくれた。辻岡と共に図書室を訪ねると、いつもの席に須川と一之瀬が向かい合って座っていた。
「馬場は?」
机の下がカラッポなことに気付いた鳴海が聞いた。
「屋上。あっちの方に顔出すとよ。入会の儀式があるらしいぞ」
「んー……実に興味深い」
三人の笑い声は辻岡の咳払いで掻き消された。
「久しぶり」
さっそく須川が声をかけた。辻岡は無視した。
「初めまして、一之瀬もと子です」
一之瀬はわざわざ席から腰を上げ、辻岡に向かって笑顔で一礼した。
「女子高生兼、タロット占い師をやっています。道に迷った時は、ぜひ私を頼ってくださいね」
「あなたが本の在処を占ってくれるわけ?」
うさんくさいとばかり、辻岡は安物の骨董品を識別するような目つきで一之瀬を観察した。
「場所が分かっても、取り戻せるかどうかはあなたたち次第ですね」
辻岡の怪訝な視線が鳴海へ横滑りした。
「教えて。これって何の集まりなの?」
「桃太郎サークル。内密に組織された、学校非公認の活動媒体さ。ちなみに桃太郎役は僕」
「そりゃちと、カッコつけ過ぎじゃないか? “暇人寄せ集めサークル”ってのも悪くないぜ」
口角をニヤリと吊り上げながら須川が言った。
「こいつ、筋金入りの皮肉屋なんだ」
鳴海は努めて明るく振る舞った。
「一之瀬さんはメンバーじゃないけど、僕の心強いサポート役。もう一人、馬場って奴がいるんだけど、まあ追々話すよ」
辻岡を一之瀬の隣に座らせ、鳴海は須川の隣に腰を下ろした。すると、須川がさっそく口を開いた。
「君をここに呼んだのは他でもない。俺の運営する須川オフィスに、鳴海が依頼を出したからだ。君の本を見つけ出す知恵を貸してほしい、と」
「関らないでって言ったじゃない」
「ごめん……でもほっとけなくて」
「大きなお世話よ」
「まあまあ」
須川が余裕の構えで制止させた。
「うまくいけば、メンバーの馬場って奴が本を持って現れるかもしれない」
「どういうこと?」
須川が鳴海の目を見て合図した。その眼差しに向かって鳴海はうなずいた。
「本は盗まれたんだ。誰とは言えないけど。でも馬場が……」
「盗まれた?」
辻岡が奇声を発した。
「誰が盗んだって?」
「言えない。言ったら君、何をしでかすか分からない」
「呪い殺してやるわよ」
辻岡の目を見て、鳴海は背中一面を寒気が疾駆していくのを感じた。彼女の瞳の奥には、殺気だったおぞましい輝きが爛々とたたえられていた。
「罪人の行く末には底無しの闇が広がるばかりです。罪人に裁きを下すということは、その闇に足を踏み入れることと同じですよ」
一之瀬が何を伝えたいのか良くは分からないが、辻岡を落ち着かせようとしているのは確かなようだ。
「それに、辻岡さんには僕らがいるじゃないか。一人ではできないことも、みんながいればできるはずだよ」
鳴海の精一杯の笑顔へ反するように、辻岡の冷めた眼差しが鳴海を見据えた。
「“僕ら”って、目の前にいる桃太郎とその家来のこと? ずいぶんと頼りないじゃない。……まっ、所詮は寄せ集めだもんね」
三人が同時に顔を上げ、辻岡をねめつけた。
「誰かのために努力する人たちに対して、そんな言動は失礼じゃないかしら?」
一之瀬の声に怒りがちらつくのを、鳴海はかすかに感じ取った。矢先、辻岡が鼻を鳴らした。
「くだらないのよ、結局は。どっかから拾い集めたような人間関係なんて。安っぽい仲間意識で強くなったつもり? 独りの方がよっぽどマシね」
心臓の高鳴りが胸の内側を強く叩き始めた。大好きな辻岡を相手取って、ほとんど怒りに任せて喋っている鳴海がいた。
「辻岡さんにはまだ分からないかもね。僕には絆ができた。昔の僕とは違う。誰かを救える力を手に入れたんだ。みんながいるからこそ出来る可能性ってやつを、僕は信じてる」
「だったら、そいつらと一致団結して、さっさと本を取り返してみせてよ! 信じるだけなら私にだってできるわ。神だろうが奇跡だろうが、何だってね。でも、あんたが信じてるものは残酷なのよ。誰かを救うって? その中途半端な正義感が勘違いだって、気付かないの?」
「言い過ぎだぞ」
須川による非難の声は右から左へ流された。
「そういえばあんた、いじめられてるんだよね?」
たたみかけるように辻岡は続けた。
「現実、いざって局面では誰も助けてくれない。独りでいじめや悪党に立ち向かうのは、漫画に出てくる都合の良い主人公くらいなもんよ。あんたみたいな脇役はね、カッコつけてないで、ただじっとしてればそれでいいの。意味分かんないサークル開いて、家来集めて、終いには世話焼いて人助けまでしちゃおうってわけ? 何も知らないくせに……あんたがやってること、一つ残らず迷惑なのよ!」
真っ白な頭を持ち上げ、気付くと、鳴海はその場に佇立していた。至福の夢の中から、いきなり現実世界へ叩き起こされた時のような虚しさが心を満たしている。
自分の考え方がどれだけ幼稚で、恥ずかしくて、他人の迷惑になっていたのか……そのことを振り返ると、鳴海は一刻も早くそこから逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。今や図書室中の生徒たちが、自分を嘲笑しているように見えて仕方がなかった。
「……ちょっとトイレ。すぐ戻る」
全然気にしていない風を装って「すぐ戻る」なんて言ったものの、声はどす暗く、その歩調は足裏が床から離れないくらいに重かった。無論、すぐ戻るつもりもなかった。
鳴海が汗水流してせっせと掃除した甲斐あって、二階にある例の男子トイレは最初の頃より見違えるほどベッピンになっていた。壁の黒ずみは元の緑へと落ち着き、床を支配していた暗緑色のヘドロは綺麗に一掃された。窓を開け放てば、爽やかな涼風が喜んで中へと入って来てくれる。
鳴海は馴染みある個室の一つへこもった。掃除が終わると、いつもこの個室で用を足していた。ここにいると、なぜかとても冷静になれた。悩み多き鳴海にとって、このトイレは心安らぐ憩いの空間となっていた。
十分も経った頃、鳴海はノロノロと図書室へ引き返した。あんな形で逃げ出してしまったことを今頃になって後悔し始めたが、図書室に辻岡の姿はなかった。足下に置かれていたカバンもなくなっている。一之瀬は何か言いたそうな不安げな表情で鳴海を見つめ、須川はブスッと頬を膨らませてそっぽを向いている。
「辻岡さんは?」
「さあな。屋上じゃねえの」
「屋上……何で?」
「あいつがそれを望んだからさ」
「まさか……喋ったの? 戸田たちのこと……?」
だんまりを決め込む須川を置いて、鳴海は再び図書室を飛び出した。放課後特有の喧騒を駆け抜け、屋上への階段を踏みしめ、金属製の冷たく重いドアをこじ開けた。
汗で濡れた額が秋の風になでられ、かすんだ視界にはおぼろな学生徒たちの輪郭が遠くに映っていた。たそがれ間近の空の下、辻岡が戸田たちをフェンス際に追い詰めていた。
「来ないで!」
鳴海が近くまで迫ると、辻岡は背を向けたまま言った。戸田たちの凍りついたような表情が、漏れなく全部辻岡を見つめている。その内の一人は、妙に存在が浮き立って見える馬場だった。
「僕じゃ君を救えないの?」
鳴海はそっと辻岡に尋ねた。辻岡の髪がふわりと風に乗った。
「違う。私は、物語の続きを知りたいだけ。誰も踏み入れることを許さない、私だけの世界。その本は、私の存在そのものだった」
辻岡の想いは、そよ風にさらわれそうなか細い声となって鳴海に伝わった。辻岡の白い本を両手で握りしめたまま、戸田が半歩前へ出てきた。
「聞いてくれ。これは命令だったんだ。久木だ。あいつがこの本を盗めって。だから……」
「返せ!」
辻岡が絶叫した。喉が枯れ、声は裏返っていた。戸田は元いた場所へ飛び退き、本を後ろ手で隠した。
「できない。あいつに盾突くとどうなるか、君だって知ってるだろう? 失敗は許されない……あっ!」
戸田の後ろへ回り込んだ馬場が、本をひょいっと取り上げ、空高くまで掲げた。
「もういいだろ、鳴海。この役飽きちまった」
「名演技だったよ、馬場。戻って来いよ」
驚愕で青ざめるファンクラブの面々を愉快げに観察しながら鳴海は言った。本を頭上へ掲げて闊歩する馬場の勇ましい姿は、大スター顔負けの輝かしい瞬間だったに違いない。
「あんたも家来だったの? こいつの?」
鳴海を一瞥しながら辻岡が驚嘆した。本を辻岡に手渡しながら、馬場は首を横に振った。
「家来じゃねえ。仲間だ」
直後、金属のこすれる音が屋上に響き渡り、鳴海はすぐにドアが開いたのだと分かった。後ろを振り返ると、須川と一之瀬がこちらへ歩み寄って来るところだった。顔に自然と笑みが広がっていくのを、鳴海は止められなかった。いや、止める必要などなかったのだ。
「馬場だけじゃ頼りないからな。俺らも加勢するぜ」
到着するや、須川は両腕を振り回しながらどこか愉快そうに言った。
「こんな奴ら、俺と鳴海で十分だったのに」
手足をグリグリ揉み回す馬場の姿は、体育の前の準備運動さながらだった。
「暴力には反対ですけど、ケンカって見てる分には面白いですよね」
発破をかけるように一之瀬が呟いた。おそらく、この状況に胸をときめかせている者の一人だったはずだ。鳴海、須川、馬場、一之瀬……そして、鬼のような形相の辻岡が横一列に並んで威嚇を始めると、ファンクラブは一人残らずフェンスへ磔にされた。他の四人はともかく、辻岡はもちろん本気だった。鳴海のすぐ脇で、何か呪文めいたものをブツブツと唱え始めている。
「逃げた方がいいよ。君たちの誰かが呪い殺される前に」
鳴海は全力で警告した。辻岡の据わった瞳は、ターゲットである戸田をまっすぐ見据えるため、ろくにまばたきさえしなかった。戸田が小さな悲鳴を上げた。
「今日のところは引き上げだ。……覚えてろよ、クソ鳴海!」
よくある捨て台詞を残し、『辻岡可憐・秘密ファンクラブ』は足早に立ち去った。辻岡の目が獲物をしつこく追尾したが、結局はその場にとどまった。理由はすぐに分かった。
「ありがとう」
無事に戻って来た本を体全体で包み込みながら、辻岡はしおらしい声で礼を言った。いつも仏頂面で黙々と読書に励む辻岡だったが、今は子供のように穏やかな、まるで眠りにでもつくかのような表情を浮かべている。
「辻岡さん。君の意見は98%が正解だった」
須川が遠くから声をかけた。辻岡は顔を上げ、残りの2%を問い求めるような眼差しを須川へ向けた。
「人間、“いざ”って時は確かに一人だ。各々がとても非力で、もろく、重ねてきた己の努力に押し潰されることもあるだろう。でもな、そんな“いざ”って時に手を差し伸べてくれるのが、親友や仲間ってやつなんだぜ? 君のことを一番に良く思ってる奴がこんなそばにいるじゃねえか……そいつのこと、ちょっとは信じてみてもいいんじゃねえかなと、俺は思う」
鳴海は辻岡の強い視線を感じたが、彼女の顔を見ることはできなかった。辻岡の目を見ると、心の内を……辻岡のことが好きなのだという思いを、見透かされそうで怖かった。
「私、鳴海のこと嫌いじゃないよ」
危うく、跳ね上がった心臓が口から飛び出すところだった。鳴海を含め、全員が辻岡を見つめた。
「私がずっと探していた物語の続きを、鳴海は知ってる」
「僕が? どうして……」
「この本を拾ったのが鳴海だからよ」
辻岡がカバンのサブポケットから取り出したものを見て、鳴海は思わず叫んでいた。継いで背後から覗き込んできた須川がそれに続き、一之瀬が締めくくった。辻岡が手にした黒い本は、紛れもなく『クローバー教の9つ』だ。
「どうしてこれを?」
震える指先で本を受け取りながら鳴海が聞いた。
「私からお願いして返してもらったの。鳴海にはその本が必要なんだって、ずっと分かってた。告げ口したことを日毎に後悔していく自分がいた。さっき言ったことだって、ただ八つ当たりしたかっただけ。誰かに救われる自分が悔しかっただけ……素直じゃなかった」
「僕は怒ってないよ」
もう二度と手放さないぞと、本をしっかり脇に抱えながら、鳴海は満面の笑顔で言った。
「それに、さっきの辻岡さんはやっぱり正しかった。僕は、誰かを助けようとする自分自身に酔ってたんだ。いじめられていた僕にとって、自分を変えるチャンスがそこにあると思ったから。でも結局はいじめっ子と同じ……相手のことを何も分かっちゃいなかった」
鳴海はもう笑わなかった。ちぎれた雲のかけらの一つ一つがこちらを見下ろすのを、悲哀な想いで仰いでいた。自分という存在が、際限のない空の一端に浮かぶあの雲のように、あまりにちっぽけで、どれだけ儚いものなのかを、鳴海はふと考えてしまった。
「けど……やっぱり独りはイヤだ。誰かが独りなのはもっとイヤだった。こんな僕にだからこそできることがあるんじゃないかって、その思いに突き動かされることが何度もあった。助けたい、力になりたい、この人の笑顔が見たいって。例えそれが自己満足でも構わない……どこかで見返りを求めていた……僕は、誰かに愛されたかった」
風に乗って静寂が訪れた。思っていたことが口から飛び出してくるのを、鳴海は止めることができなかった。瞳の奥に溜まっていく込み上げる想いを、鳴海は雲を見上げてごまかした。
「愛してやるよ」
馬場の一言が沈黙を貫いた。
「不器用な愛情だけどな。でも、お前がいなけりゃ、俺は今独りぼっちだった。そうだろ? この姉ちゃんに何言われたか知らないけど、俺は鳴海がやってること、考えてること、間違ってないと思うぞ。こう見えて、俺は鳴海にすっげえ感謝してんだ」
見ると、みんなが自分を見つめていた。中学の時、不良たちに取り囲まれた時とは違う……その視線からは敵意も殺意も感じなかった。そこにあるのは、心身が優しく抱擁されるような、安堵の温もりだけだった。
刹那、鳴海は、自分がみんなを上辺だけでしか信用していなかったことに気付き、逆に、みんなが自分を自分以上に愛していたことを理解した。
「俺の溢れんばかりの愛に気付かないなんて、ほんと、鳴海って鈍いよなあ」
須川が言った。呆れたような口ぶりで、しかしどこか嬉しそうだ。
鳴海は目尻に押し寄せた涙の粒を拭った。はにかむように破顔し、そして、自分の考えがどれだけ杞憂だったのかを再認識した。
『こんな感じでいいじゃないか』
鳴海は自分に言い聞かせた。複雑で、単純だ。こんな感じでいいじゃないか。
心なしか、腕の中に包まった本と左肩が、共鳴するように熱を帯び始めた。
あいつが……黒葉が呼んでいるような気がした。