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第五話 いい相棒を見つけたな




「この街は俺の庭みてえなもんだ。夏休み中、ずっと相棒を転がしてた。ボスは相手を間違えたな!」


 コンビニへの道をひた歩きながら、馬場はとにかく喋りまくっていた。途中から鳴海の相槌がなくなったことにさえ気付かないほどだ。鳴海はその傍らで、機関車の蒸気のように溢れ出るがむしゃらな馬場の闘志を、ただ冷め切った気分で浴び続けるしかなかった。


「校則がうるせえからな。店員に知り合いがいて、そのコネで駐車場を使わせてもらってる」


「君が校則を守れたなんて、かなり意外だよ」


「俺は律儀なんでね。……お前、顔色悪くないか?」


 鳴海は気付いていた。話すたびに奥歯がガタつき、喉は乾き、前へ進もうと振り上げた足はでたらめな方向を向いている。殺伐とした住宅地が戦火の最中に見えた。

 校門を出て南へ100mほど住宅地を進むと、交通量の多い大きな通りに出た。飲食店や雑貨店などが軒を連ねている。目的のコンビニが目の前まで迫った時、馬場の携帯電話が鳴った。


「もし……」


「須川だ。もう着いたか?」


 須川の大きな声が慌ただしげに聞こえてきた。


「もう着く。お前こそ、俺たちをサポートしてくれる万全の場所を見つけたんだろな?」


「あったりめーだ。街を一望できる特等席だぜ」


「……屋上か?」


 鳴海は思わず学校のてっぺんを振り返っていた。ベージュ色の頂きがこちらを黙然と見下ろしている。


「中継器をこっそり拝借して、屋上まで電波を引っ張って来た。ここなら弊害もないし、電話も安全だ。まあ5、6人の男子が固まってヒソヒソ話してるが、この際気にはしない。今ウェブ上の地図を使って、ノース・アレセントアまでの最短距離を計算してる。4分後に詳細を記したモバイル用の地図を送信するぞ。それまでに準備を頼む」


 電話は一方的に切られたらしかった。しかめっ面で電話を睨みつけながら、馬場は軽い嘆息を漏らした。


「やっこさん、何であんな張り切ってんだ? リーダーは俺なのに」


 鳴海は何も答えなかった。狭い駐車場の片隅に置いてあるスクーターが視界の一部を黒く染めた。漆黒のそれを指差して、馬場は胸糞の悪い笑みを浮かべた。


「グランドアクシス。2005年モデル。俺のおじさんに無理言って譲ってもらったんだ。かっこいいだろ?」


「ああ。転び方を知らなさそうだ」


「それって褒めてんの?」


 グランドアクシスの脇を通り過ぎ、二人は店内へ入っていった。馬場はボトルのお茶を2本手にすると、そのままレジへ直行した。うねるようなくせ毛を肩まで伸ばした、ずんぐり体型の男性店員がカウンター越しに馬場を出迎えた。年は鳴海とあまり変わらないようだ。


「お前がうちのブツを買ってくなんて、一体何企んでる?」


 若い店員は不機嫌そうに、しかし小さく囁いた。


「お前のジェットヘル貸してくれや。夜までには返す」


 レジの上で小銭を散らかしながら馬場が言った。


「女でも乗っけるのか? だったら他を当たりな」


「ちっげえよ! ほら……こいつだよ」


 馬場に腕をつかまれ、鳴海は店員の前へと引っ張り出された。若者のニキビまみれの顔が、無愛想にこちらを睨んでいた。


「こんにちは」


 鳴海は笑顔で応じた。胸元の名札に『真田』と書いてあるのを見つけた。


「……ちっす」


 馬場から小銭の山を受け取りながら、真田は体格にそぐわないひ弱な声で挨拶した。


「真田はよ、めっちゃ人見知りが激しいんだぜ」


「余計なこと吹き込むな」


 真田はニキビを潰さんとばかりに額をかきむしった。馬場がお茶を受け取ると、真田は店の奥へと引っ込み、太い腕に黒いヘルメットを抱え込んで戻って来た。


「ほら、壊すんじゃねえぞ」


 鳴海の胸にヘルメットを押しつけながら真田がすごんだ。


「ありがとう……大切に使うよ」


 鳴海はまた笑顔で返した。真田の表情が少しだけ和らいだように見えた。


「馬場、いい相棒を見つけたな」


 店を出る間際、真田の言葉がそうはっきり聞こえた。馬場は何も言わなかったが、親指をぐっと立てて店を出た。


「最後のアレ、どういう意味?」


 ヘルメットをかぶりながら鳴海は聞いてみた。真田のジェットヘルはぶかぶかで、乾いた汗の悪臭が腹の中のものをかき乱した。


「真田は中卒で根暗な引きこもりだったけど、俺が家から引っ張り出したんだ。あいつには人を見る目があるからな……おっと、メールだ」


 馬場は画面をしばらく眺めた後、何か重大な危機を思い出したかのように電話を鳴海に押しつけてきた。鳴海が画面を覗くと、赤いラインの記された何の変哲もない地図が表示されていた。


「実は俺、地図読めねえんだ。道案内はお前に任せる」


 馬場の言葉に“恥”など皆無だった。


「じゃあ、この際だから僕も言うよ? バイクに乗るなんて心底気分が悪い。恐い。吐いたらごめん」


 鳴海はとうとう、胸中の不安をすべて出し切ることに成功した。学校を出てからずっと苛まれていたことだった。


「やっぱな。そんなことだと思ったぜ」


 シート下の収納スペースから自分のヘルメットを取り出すと、馬場は呆れたように呟いた。


「いいから、後ろに乗れ。時間がねえ。振り落とされないように、しっかり俺に抱きついてろ」


 携帯電話を胸ポケットにしまうと、言われるまま、鳴海はシートをまたぎ、馬場の腰に腕を回してピッタリと貼り付いた。落ちる時は道連れにするつもりだった。


「一つ言い忘れてたことがある」


 遮られた視界の向こう側で馬場が言った。エンジンがうねりを上げ、尻の下が鋭く震えた。


「免許取得から一年以内の二人乗りは禁止されてる」


 鳴海が抗議している暇はなく、後頭部に殴りかかる余裕もなかった。グランドアクシスは蛇行しながら駐車場を飛び出し、自動車に混じってグングン加速した。

 胃の底から吐き気が這い上って来るのが分かった。捉えた景色が目玉の奥で回転し、認識した色や形が混沌として頭蓋の内側を駆け回った。生身が時速50キロの空間にさらけ出されている恐怖に意識は浸食され、宙を飛んでいるように錯覚するまでそう時間はかからなかった。ブカブカのメットはアゴの隙間から風を誘い込み、まともに呼吸ができない。


「地図を確認してくれ!」


 気付くと、周りの景色は止まっていた。馬場がメットの中からこもった声で叫んでいる。鳴海は地図に示された赤いラインを震える指先で辿った。


「ここから300m先の郵便局を左。そこから二つ目の信号を右。そのまま直進してゴール」


 鳴海は力なく言った。ほとんど停止寸前の脳みそをもっといたわってやりたかった。

 グランドアクシスはまた豪快に走り始めた。鳴海は目を閉じてみた。エンジンの高鳴りだけが鼓膜を打ったが、不安は掻き立てられ、余計に気持ち悪くなってしまった。

 馬場の背中に顔を埋めた矢先、車体が大きく左へ傾くのが分かった。しがみつく鳴海の腕に満身の力が加わった。


「放せ! 絞め殺す気か!」


 鳴海はハッとして腕の力を抜いた。その拍子にシートからずり落ちたが、感覚のない足が地面をうまくキャッチしてくれた。すかさず臭いヘルメットを剥ぎ取り、見渡すと、周囲は見覚えのある街の一角だった。


「着いたぞ。ノース・アレセントアだ」


 鳴海は背後にそそり立つ巨大な威厳を感じ取った。振り返ると、10階建てのとんでもなくでかい建物がそびえ立っていた。食料品から日用雑貨、飲食店やスポーツジム、映画館までも備えた何でもござれの最強デパート『NORTH ARESENTOA』だ。


「『AM10:05』って店を知ってるか?」


「えーえむ……何?」


「『エイエム・テンファイブ』。午前10時5分。意味は不明だけど、海外の音楽CDや楽器を扱ってる、オレ御用達の店さ」


「……へえ」


 具合の悪さも相まって、本当にどうでもいいことのように思えた。

 鳴海は今、デパートの駐輪場にいるのだとなんとなく分かっていた。自動車が向こうに広がる駐車場を忙しなく出入りしているのを眺めていると、タイミング良く電話が鳴った。


「もう着いたよな?」


 すぐ脇の道路を走り抜ける、自動車の騒音にも負けぬ大声で須川が聞いた。


「よく分かったな。ちょうど今着いたとこさ」


 ノース・アレセントアの入口へ向かいながら馬場が称賛の声を上げた。


「そこまでの距離から、お前が出しそうな運転速度、信号の数や道路の混み具合を予測したんだ」


「へえ、ご苦労さん」


 馬場は冷ややかだ。


「で? 何の用だ?」


「ああ、今しがたPC側のアドレスでメールを受け取ってね。ターゲットが場所を移動するみたいだ」


 自動ドアを前に馬場が急停止した。鳴海がそこへ鼻から突っ込んだ。


「そいつを早く言えってんだよ!」


 Uターンし、痛みでひるんでいた鳴海の腕をつかんで引きずりながら、馬場が非難の声を響かせた。


「次からは、受け取ったメールを黙ってそのまま転送するぞ。俺はやっぱり地図で計算しなきゃいけないから、すぐ出発できるよう待機していてくれ」


「勝手な奴だ!」


 急におとなしくなった電話を睨みつけながら馬場が言った。


「大切なのはチームワークだよ」


 されるがままに引きずられながら、鳴海が弱々しく忠告した。吐き気が喉の奥で息を潜めているのが分かっていた。

 二人がグランドアクシスの停めてある駐輪場まで戻って来た矢先、馬場の携帯電話が須川からのメールをキャッチした。


「次の移動先は最寄りの本屋。<小説>でも買うとしよう」


 馬場が短いメールを読み上げた。


「うちのボスは少なくとも、文字は読めるみたいだな」


 馬場はヘルメットをかぶりながら、新たに得られた真ボスの情報に気分を高揚させていた。鳴海もためらいながらヘルメットに頭を突っ込み、さっきのコンビニで消臭剤を買っておくべきだったと激しく後悔した。


「おえ……僕吐きそうだ」


 鳴海は呻きながら、もうむやみに着けたり外したりするものかと誓った。


「悪いね、お客さん。当バイクに吐き袋は備え付けておりません……地図がきたぞ」


 怯えるように電話を鳴海へ押しつけると、馬場は黙ってバイクにまたがった。


「すぐそこの国道を西に400m、最寄りの本屋は『TAKE・OFF』だ」


 地図を読みとってすぐ、再び須川からメールがきた。内容はボスメールの転送だった。


「もう着いちゃったよ。さて、どれを読もうかな?」


 読み上げると、馬場が鳴海の手から電話をもぎ取った。馬場の顔色がみるみる悪くなっていく。


「須川のヤローがもたもたしてるからだ! 急ぐぞ、乗れ!」


 臭いヘルメット越しに見るグランドアクシスは、地獄行きのジェットコースターを連想させた。乗ったら今度こそ死ぬと思ったが、乗らなくても馬場に何をされるか想像もつかない。


「安全運転で頼むよ」


 馬場の大きな背中に向かって鳴海が哀願した。バイクはお得意の蛇行運転で駐車場を飛び出し、国道へと舞い降りた。

 2つの信号を青で走り抜け、二人を乗せたグランドアクシスは難なく『TAKE・OFF』の狭い駐車場まで辿り着いた。


「待って、またメールだ!」


 エンジンも切らずに店内へ乗り込もうとする馬場を、鳴海は間一髪で引き止めた。馬場がいきり立って戻って来ると、鳴海は受信したメールを開いた。再びボスメールの転送だった。


「本を買ったので次へ出発する。場所は最寄りの<ゲームセンター>」


 二人はとっさに顔を上げ、駐車場をくまなく注視した。小さな駐車場には隅っこに自転車が停まっている以外、人影さえも見当たらなかった。馬場は怒り狂ったような手つきでボタンを叩き込み、電話を耳へ押し当てた。


「今のメールはどういう意味だ?」


 出し抜けに馬場が凄んだ。


「つまり、そいうことだろ?」


 電話越しの須川はあっけらかんとした調子だ。


「駐車場を見たが人っ子一人いねえ。お前、場所を間違えたな?」


「一番近い本屋は絶対にそこだ。この俺に間違いは有り得ない。分かったら、作業の邪魔しないでくれるか? エンジン吹かして待ってろ」


 電話がただの無口な機械に戻ると、馬場は吹かされたエンジンのようなうなり声を頭上へと轟かせた。


「どうも須川とは馬が合わねえな」


「どっちも頑固だからでしょ」


 鳴海の素っ気ない返事が馬場の癇に触れたらしい。メット越しにこめかみをえぐるような視線が突き刺さった。


「お前はどうなんだよ。さっきから何もしないで、文句言ってばっかじゃねえか」


「何もしないんじゃなくて、何もできないんだよ」


 今回はヘルメットをかぶっていて正解だった。このしかめっ面を見られたら罵倒されていたに違いない。


「……地図だ」


 ナイスタイミング。須川からのメールが不吉な沈黙にピリオドを打った。


「ちょっと遠いよ。ここから5キロは離れてる」


「指示しろ、大雑把でいい」


 二人は三度バイクにまたがり、大型トラックを追いかけるようにして道路を突き進んだ。そのまま100mほど走った後の赤信号で、鳴海はメールをキャッチする携帯電話のバイブレーションを感じ取った。内容を見て、鳴海は目を疑うと同時に唖然とした。


『ゲーセンに到着。さて、太鼓でも叩こうか』


 鳴海は電話を前方へ突き出し、内容を直に馬場へ見せつけた。怒りか、それともグランドアクシスの挙動かは分からないが、馬場の肩が大きく震えるのが分かった。

 馬場はすぐにUターンすると、元いた本屋の駐車場でバイクから飛び降り、鳴海から電話をもぎ取った。あまりに乱暴過ぎて、電話がほんの一瞬宙を舞った。


「分かってるよな?」


 電話そのものへ脅しかけるように馬場が切り出した。相手はもちろん須川だ。


「今度こそお前のミスだ。5キロ先のゲーセンへ行くのに1分とかからない手段があるなら、是非教えてくれよ」


 馬場の口調には鳴海が恐れていたほどの荒々しさはなかったが、その言葉の所々には須川をさげすますような残酷さがかいま見えていた。


「俺の見解は憶測じゃない。事実だ」


 それは、今までで一番小さな声だった。言っていることはいつもの須川だが、完全に打ちのめされているのは確かなようだ。


「当てにならない事実なんていらねえよ」


 馬場が追い打ちをかけた。


「見上げた意気地だ。これでもまだ自分の非を認めないってのか?」


「その減らず口を50%でいいから引っ込めろ……」


「お前はただそうやって、インテリ気取って空回りしてるだけじゃねえか!」


「不良まがいの“でくの坊”に俺の何が分かんだよ!」


「……聞こうよ!」


 意を決して鳴海が叫んだ。赤信号を目隠しで横断している気分だったが、鳴海はそのままの勢いで馬場から電話を奪い取った。


「ねえ須川。本人にもっと詳しいヒントを聞こう。ゲームで手詰まったら、やり方を変えるしかない。これはトリックだよ。必ず裏があるはずだ」


「……分かった」


 少し遅れて須川からの返事がきた。


「焦りで不安定になってたな、すまない。ちょっと待っててくれ。頼んでみよう」


 電話は静かに切られた。鳴海は黙ってそれを馬場に返すと、どこに目をやるともなく向き合った。


「俺はお前のことをまだよく知らないが……」


 手の上で所在無げにヘルメットを転がしながら、馬場がおもむろに口を開いた。


「真田がお前を認めた理由が分かった気がするぜ。お前は……うん、普通じゃねえ。良い意味でな」


 鳴海は耳の裏側が熱くなるのを感じた。


「僕はそんなんじゃないよ。内気でパズル好きの、ヘタレないじめられっ子だよ」


「自分をバカにするな」


 馬場が語勢を強めて言った。


「俺は自分に誇りを持ってる。他人にけなされた時、俺は自分が誰よりも優れていると心に言い聞かせるんだ。脳みそは弱くても、負けず嫌いなド根性なら誰にも負けねえ。柳川の鼻っ柱をいつかへし折って、ボスの正体も暴いてやるんだ」


「馬場ならできるよ」


 鳴海は心からそう思った。折しも、携帯電話がメールをキャッチしたところだった。


「ボスからだぜ」


 二人は一緒に画面を覗いた。


『これはかくれんぼじゃないんだ。だが、一方的なゲームは面白くない。いいだろう、君たちの要求どおり、ヒントを上乗せしてあげよう。小腹が空いたのでそろそろ次の目的地へ出発する。場所は<レストラン>、最初の目的地のすぐ上にある』


「ノース・アレセントアの……北ってこと?」


 鳴海が見解を述べた。


「雲の上にレストランがあったら、さぞかし“ろまんてっく”だろうなあ」


 馬場が恍惚そうな表情で空を見上げた。ちぎったような小さな雲の群れが風に身を任せて漂っている。暮れはじめた太陽の光を雲間に浴びて、それぞれがオレンジ色に染まっていた。二人はグランドアクシスに乗り込み、須川のメールも待たずにノース・アレセントアの北を目指した。

 バイクが信号で止まるたび、鳴海はターゲットの逃走ルートを、ヒントを頼りに振り返った。脳みそに一番親切なやり方だ。

 まず、『NORTH ARESENTOA』。次に本屋、ゲームセンター。そしてレストラン。目立った共通点はない。ノース・アレセントアの駐車場を東に構えた赤信号で、鳴海はヒントとして送られてきたメールをざっと読み返してみた。2つ目のヒントが鳴海の手を止めさせた。


『次の移動先は最寄りの本屋。<小説>でも買うとしよう』


 ヒント枠が『本屋』ではなく、『小説』なのはなぜだろうか? タイヤが地を滑り出しても尚、鳴海は考え続けた。ノース・アレセントアの巨大な建物が、段々と視界から遠ざかっていく。『最初の目的地の上』とは、本当に“北”のことなのだろうか?

 まとまりのない見解が一緒くたになって渦を巻き、喉の奥からなびくような唸り声を吐き出させた。 


「おい、俺の背中に吐くんじゃねえぞ」


 背後にゲロの気配を感じ取ったらしい馬場が、自らの肩越しに警告した。ちょうど、信号が黄色から赤へ変わった時だった。


「トイレならどこにだってあるんだ。やばくなったらすぐ言えよ」


 鳴海は何も答えなかった。点滅を始めた青信号が歩行者を急かす様を漠然と眺めながら、今の馬場の言葉が頭の裏側で引っ掛かるのを不思議に感じていた。鳴海はもう一度ノース・アレセントアを振り返ってみた。

 トイレどころの騒ぎじゃない。あの巨大な建築物の中には、たくさんの店舗が軒を連ねている……。


「止めて」


 動き始める直前、鳴海が言った。馬場はいよいよかという振る舞いで、そばの路肩へ慎重に移動した。

 バイクから降りて電話を確認すると、二通のメールを受信していた。一つは須川からの地図、もう一つはターゲットからの転送メールだ。


『レストランへ到着。オーダーしたところだ。長居はしない』


「新幹線にでも乗ってやがるのか?」


 肝を潰したような声で馬場が言った。鳴海は首を振った。


「もっと効率の良い乗り物だ」


 ヘルメットに包まれた鳴海の笑顔が、馬場を更に驚愕させた。


「分かったのか?」


 鳴海はカバンの中からメモ帳とペンを引っ張り出し、手の平に広げた。


「ターゲットは街の中を逃げてたんじゃない……ノース・アレセントア内の店舗を、エレベーターを使って移動してただけなんだ」


 ペンを走らせつつ、鳴海は早口で説明した。かなり経ってから、馬場の悲鳴のような叫び声がメットの中でこだました。


「そうか……ああっ、そうか! 何で今まで気づかなかったんだよ!」


 驚嘆はやり場のない怒りへと変わっていた。


「じゃあ早く行こうぜ! 今ならまだオーダーに間に合う!」


 鳴海はやはり首を横に振った。


「僕はあそこの飲食街を知ってる。すごい数で、正体の分からないターゲットを短時間で探せるような環境じゃない」


「じゃあどうすんだよ……」


「次の逃走場所を見抜いて、先回りできるかもしれない」


「まじかよ……つうか、さっきから何書いてる?」


 馬場がメモ帳を覗き込んできた。鳴海は、メールで送られてきたヒント枠内の単語を、あらゆる形に変換して並び替えていたところだった。ひらがな、カタカナ、アルファベット、数字、逆読み。すべて英単語に置き換えた時、へその内側でずっともやもやしていた不快感が少しずつ解消されていくのが分かった。


「NORTH・NOVEL・GAME・RES……N・N・G・R……違う。NO・NO・GA・RE……? NO・NO・G・R……ののぐ……そうか! 分かった!」


 腹の底から頭のてっぺんへ向かって興奮が貫いた。ペンをメモ帳に突き立て、鳴海は歓喜の雄叫びを上げた。


「ターゲットが最初に言ってたこと覚えてる? 『このゲームはヒントと答えを両方あわせ持っている』って。その意味がやっと分かった」


 鳴海は放心状態の馬場をないがしろにして説明を続けた。


「全てのヒントが、次の逃走場所と、ある単語を示す答えになっていたんだ。僕の予想が正しければ、恐らく次の移動が最後になるはず……最後の移動場所は『AM10:05』だ」


「まさか……それ本気で言ってるのか?」


 鳴海は運転できないことも忘れ、真っ先にバイクへ飛び乗った。


「行こう! 早く!」


 突っ立ち呆ける馬場に向かって、鳴海が性急に催促した。馬場は突如、自分が今何をすべきかを悟ったような機敏な動きでバイクに乗り込み、間髪入れずにエンジンを轟かせた。

 グランドアクシスは急発進し、交差点の手前でUターンした。鳴海は振り落とされまいと必死で馬場の体にしがみついた。

 そこにはすでに、恐怖などなかった。トリックを見破った。役に立たなかった自分が成し遂げたのだ。充実した達成感が心を満たしている。あとはターゲットの正体を見破るだけ……そのはずだった。


「やべ……」


 馬場のくぐもった声が聞こえた気がした。右のサイドミラーをチラチラと気にしているようだ。鳴海は恐る恐る振り返ってみた。何がやばいのか、理由は一瞬で理解できた。

 暇を持て余していた警察のご登場だ。上から赤・白・黒といった独特なスタイルは、喧騒で溢れた街中でも異風に個性的で、見る者を心底おののかせている。

 ノース・アレセントアはもう目の前だった。


「そこの黒いスクーター、左へ寄ってただちに停まりなさい」


 生まれて初めて掛けられたパトカーの声は、男らしい野太いしわがれ声だった。


「一体何したの?」


 今しがたの高揚した気分は完全に縮こまってしまっていた。


「速度オーバー。まあ、停まるつもりはねえよ」


 グランドアクシスは更に加速してデパートの駐車場を突っ切り、歩行者の波を縫って入り口の手前で徐行した。


「お前は降りろ」


「そんな……いやだ!」


「俺なら大丈夫だ。初めてじゃないし、また逃げ切ってやる」


「でも……」


「早くしろ! 後は鳴海に任せるって言ってんだ!」


 腕をほどき、馬場は鳴海を突き飛ばした。パトカーが駐車場の中をこちらへ向かってくるのがはっきり見えた。最後に馬場を一瞥し、鳴海は全速力で店内へ駆け込んだ。

 ヘルメットを剥ぎ取り、鳴海は店内の涼しい空気を顔に受けた。一階の食品売り場は人で溢れていた。その中を、ヘルメットと電話を手に鳴海はひた走った。電話の相手はもちろん須川だった。


「すぐに『AM10:05』の場所を調べてほしいんだ」


 鳴海の第一声が須川の度肝を抜いたのは確かだった。


「エイエム・テンファイブって……いきなり何言い出すんだ? レストランはどうなった? 地図を送ったろう!」


「罠だよ、須川。地図なんて意味なかったんだ。全部ノース・アレセントアの中だったんだよ」


 人の流れをかいくぐり、エスカレーターを探しながら、鳴海は説明した。電話越しの遠い向こう側で、須川の悔しさにまみれた嘆息が聞こえた気がした。


「それから、メールで言ってたヒントの本当の意味が分かった。“ノノグラム”だったんだよ。行き先を英単語に直して並べてごらん。レストランの次は『AM10:05』の可能性が最も高い」


「先回りしようってのか!」


「ご名答。できたら、すぐにでもお店の場所を教えてくれる? 広すぎて把握できない」


「ちょっと待ってろ」


 その間、鳴海は店内の中央から上階へ伸びるエスカレーターに乗り込み、息を落ち着かせていた。後ろを振り返ったが、警官が追いかけてくる気配はなかった。なんとか逃げ切ったようだ。


「店の場所だが、8階の東寄り、『ゾーン・C』とかいうスポーツ店の向かいだ。エレベーターを降りてすぐ右だ」


「エレベーター嫌いだ」


 3階へのエスカレーターを駆け上がりながら、鳴海は切れた息の中でそう呟いた。


「そういや、馬場はどうした?」


「パトカーから逃げてる。なんとか振り切って、僕だけ戻って来たんだ」


 須川の乾いた笑い声がスピーカーの奥で響いた。


「まあ、あいつなら心配ないだろ。悪運強そうだし。それより、いざ対面するとなると、鳴海一人じゃ心細いな。相手は腐っても不良の親玉だからな」


「やばくなったら逃げるよ。どのみち、僕たちの勝ちに変わりはない」


「健闘を祈るぜ。また何かあったら連絡くれよ」


 電話をポケットに押し込むと、鳴海はエスカレーターに身を任せ、賑わいに耳を傾けながら気分を落ち着かせていった。

 緊張は微塵もなかった。須川と馬場が、こんな自分を頼ってくれた。そのことが嬉しくて、身に巣食っているはずの恐怖は自信へと変わっていた。大久保よりもはるかに巨大な不良の親玉が出てこようとも、一人で立ち向かうのに十分なほどの勇気は集まっていた。

 8階のステップに足を乗せた時、それは現実となった。


「……久木!」


 すぐ右手に構えるカバン専門店『American Vems』のショーウィンドウ越しに見えたのは、間違いない、大久保よりもはるかに巨大な久木先生だった。仏頂面で商品を眺め、油断に染まった横顔を見せつける様子から、まだこちらには気付いていないらしい。


「とんでもないことになった!」


 久木のいる店からは死角となる太い柱の陰に飛び込むと、鳴海は声を殺して須川に伝えた。


「須川、僕らの予想は当たってたんだ……久木だったんだよ! 今アメリカン・ヴェムズって店でカバンを物色してる」


「大手柄だぜ、鳴海!」


 須川の声ははち切れそうな興奮で裏返っていた。


「怪しいと踏んでたんだ。久木のヤロウ、尻尾を掴んでやったぜ。しかも店の名前を見てみろ。お前の予想は当たらずとも遠からずってわけだ」


「でも何で久木がこんな……そうか、ノノグラムだ!」


 この状況下、鳴海の頭はとんでもなく冴えていた。


「ノノグラムって、俗に言うピクチャーロジックとか、ピクロスのことだろ?」


 こんな時に何を言い出すんだと、須川の声はやけにいぶかしげだ。


「忘れたの? 昨日見せた『クローバー教の9つ』に残されてた数字。あれはノノグラムを意味してたんだ」


 しばらく後、須川の息を呑む音がはっきり聞こえてきた。


「確かに……確かに似てる。ノノグラムだ」


「実はあの後、久木に本を没収されてたんだ。だからあいつは中身を知ってる。目的は分からないけど、あいつは僕たちにあの数字がノノグラムだということを気付かせたかったんだよ」


「それにしちゃあ、ずいぶんと大掛かりなやり方だな、おい」


「暇だったのさ」


「お互い様だろ」


 二人が疲れ切った笑い声を上げることができたのは、ほんの束の間のことだった。すぐ背後に邪悪な気配を察した瞬間、疲れも笑いもどこかへ吹っ飛んだ。


「奇遇だな、鳴海和昂。かくれんぼの最中か?」


 鳴海は言葉も出なかった。振り向くと、暑苦しいスーツ姿の久木が、仁王立ちしてこちらを見下ろしていた。何とも例え難い無表情だったが、目だけは不気味に微笑んでいる。それは、いたぶり甲斐のある弱者を見つけた時の、久木特有の愉快げな笑みだった。


「ここが学校だったら、そのケータイも、ヘルメットも、即座に没収して罰則を与えてやれたのに」


 鳴海はじりじりと後ずさった。遠くから聞こえる須川の呼び声がやかましくて、鳴海は焦燥感でたちまち頭が熱くなるのを感じた。


「電話の相手は誰だ? 答えろ」


 久木の低い声にはわずかの怒りが注がれていた。


「母です」


 鳴海は自信を持って嘘をついた。なんだか清々した。


「お遣いを頼まれていたので、確認の電話をしていました」


 久木が知って得することなど一つもくれてやらないとばかり、鳴海は威勢良く答えた。久木の小さな瞳が舐めるように鳴海の全身を見つめた。説教する口実を探しているに違いなかった。


「そのヘルメットはどうした?」


「借りました。必要だったので」


 鳴海は迷わず答えた。


「お前が自転車をこげるものとは知らなかった。それとも、それはケンカから身を守るための防具か?」


「グランドアクシスにケツを据えるためのお守りですよ、先生」


 鳴海の心は躍った。左手奥の通路の陰からさっそうと現れたのは、ヘルメットを小脇に抱え、だらしなくワイシャツを着こなすきゃしゃな救世主、馬場達平だ。汗で透けたシャツは、細身の枯れ木のような体にピタリと貼り付いていた。


「あなたが……そうか」


 鳴海のすぐ真横に並んだ時、馬場は真相を把握した納得のいく声色でそう呟いた。


「一年の馬場だな。中庭でケンカ騒ぎを起こした張本人か。こんな奴とつるんで、鳴海、お前もいよいよ猿どもの仲間入りか」


「違います。ただ僕は……」


「よせ、鳴海」


 鳴海の手から電話を取り、すばやくポケットにしまい込みながら、馬場が割って入った。落ち着いた態度も口調も、まったく馬場らしくなかった。


「ここであなたと口論するつもりはない。あなたの正体に関しては内密にするし、俺の要望を聞いてくれとは言わない」


 怪訝な顔つきで黙ったままの久木に、馬場は一方的にしゃべり続けた。


「俺はあなたを崇拝してるわけじゃない。考えてたんだ……俺が選ばなくちゃならないものに関して、ずっと。俺の居場所は、あの猿山の中にない」


「その小せえ肝っ玉で、答えを見出せたってわけだ。俺は不良どもの内部情勢に際しては一通り把握してる。お前は新参の柳川拓真に負けたせいで、唯一の居場所をなくしたこともな。自立して、孤高の中で報復でもしようってのか?」


 久木の挑発じみた言葉を聞いて、馬場は鼻で笑ってあしらい、胸の上で腕を組んだ。堂々たる態度は久木の仁王立ちにもひけをとらなかった。


「俺はズルイ生き物でね。寝返るのは得意なんだ。報復したい意志は確かだが、環境に贅沢は言わない。……さあ、帰るぞ、鳴海。それが俺の出した答えだからな」


 馬場は鳴海の肩に腕を回すと、久木に背を向け、鼻歌混じりで歩き出した。馬場の出した答えが何なのか、鳴海には分かっていた。今は、その答えを否定する理由はどこにもないと、はっきり断言することができる。


「一つ忠告だ」


 背後から久木が声を上げた。


「帰りはエスカレーターを使え。二人一緒だ」


 二人は顔を見合わせたが、あえて久木に盾突くつもりはなかった。人の波に紛れ、二人はエスカレーターに身を任せて階下へ向かった。


「下の飲食街でカレーでも食って帰ろうぜ」


 久木の視界から完全に遠ざかると、馬場が揚々と提案した。


「いいよ。帰り道は徒歩だけどね」


 悪臭のヘルメットを馬場に押しつけながら鳴海が言った。あらゆる緊張から一気に解放されたような心地で、腹は空腹に轟き、瞳は期待で輝いた。




 馬場達平が桃太郎サークルに加わった。




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