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第四話 ゲームをしないか?



 鳴海がふと目を覚ますと、そこは保健室……ではなかった。まだ中庭だった。

 ベンチの上で仰向けになり、肘かけに首を垂らしながら、だらしない格好で空を仰いでいた。濡れたシャツが肌にまとわりついて気持ちが悪い。雲間からはわずかな青空が覗いている。


「あと五分もそのままだったら置いて帰ろうかと思ってたのに」


 すぐそばから声がして、鳴海はとっさに上体を起こした。隣のベンチに悠々と座っていたのは須川だった。


「こういう場合、普通は保健室なんかの温かいベッドで目覚めるもんじゃないの?」


 まだ痛む腹部をさすりながら、鳴海は非難がましい声で尋ねた。須川は足を組みかえながら鼻で笑った。


「ドラマの見過ぎだっつうの。ケンカで負けた奴をわざわざ保健室に運んだりする物好きなんかいねえよ」


「どのくらいこうしてたの?」


「そこの窓から終始見てたけど、きっかり十五分だ。あの後すぐに雨が上がってね。ほっとくのも気が引けるし、とりあえずベンチに寝かせておいた。鳴海と、あともう一人」


 鳴海は須川の視線の先を追った。雨上がりの中庭にひと気はなかったが、たった一人だけ、向かいのベンチに横たわる男子生徒の姿があった。その坊主頭は、意識のはっきりしない鳴海の記憶にいまだ鮮明だった。柳川に倒されたあの生徒だ。


「誰なんだろう?」


「たぶん不良の一味だろうな。一緒にいるのを何度か見たことある」


「柳川は仲間を殴ったってこと?」


「本人に聞けよ」


 見ると、むくりと起き上がった坊主頭が弱い陽を受けてキラリと光っていた。両目は重たげに細く開き、まぶたの下でその小さな瞳孔が辺りをキョロキョロと見回している。


「よう」


 須川が声をかけた。細く吊り上がった目が攻撃的にこちらを見据えた。


「柳川は? あいつらどこ行った?」


 耳に障る甲高い声で男が聞いてきた。細い首に手をあてがい、頭を左右に傾いでいる。


「あの後、僕が止めに入った。そしてやられた。不良たちはもういないよ」


 まだ意識のはっきりしない互いの脳みそでも十分理解できるくらい簡潔に、鳴海はそう説明した。男は悔しそうに坊主頭をかきむしった。


「何でお前みたいにヒョロイ奴が止めに入れんだよ」


 行き場を失くした怒りを吐き散らしつつ、男は尚も頭をかきむしり続けた。


「柳川は僕の友人だった。止められると思ったんだ」


 頭の上を駆け回っていた男の手がふと立ち止まった。


「そうか、元友人か……名前は?」


「鳴海和昂。一年一組」


「俺はあの馬場だ。一年三組の、あの馬場達平だ。鳴海、折り入って頼みがある」


 どの『馬場達平』かは分からないが、鳴海はとりあえず警戒心で身を固めた。不良たちの頼み事が災いを招く元凶であることは過去の経験からも明らかだった。返事に困っている間に、馬場は二人のいる方へ歩み寄ってきていた。まだおぼつかない足取りで、それでも懸命に歩こうとしているように見えた。


「ちょっと立っててくれねえか? その場に立つだけでいい」


 そばで見ると、馬場はかなり背の高い生徒だと分かった。恐々と立ち上がった鳴海はいささか縮こまってはいたが、それでも頭三つ分ほどでかい。


「何するの?」


 鳴海は馬場を見上げた。その瞬間、これが返事とばかりに馬場の拳が飛んできた。鳴海は無抵抗の顔面でそれを受け止め、バランスを崩してベンチの背もたれに叩きつけられた。


「いってえ!」


 鳴海が痛みに悶えた。


「俺もいてえよ!」


 愛おしげに拳をさすりながら馬場も叫び返した。


「お前ら何やってんだよ」


 涼しい顔に嘲笑を重ねながら須川が言った。ちょうど、カバンから御愛用の小型ノートパソコンを取り出したところだった。


「くそっ……まだ気が晴れねえ」


 馬場は鳴海の泣き声に覆い被さるような荒声を放つと、次の獲物を探して目をキョロキョロさせていた。その間も、飼い慣らした凶暴な生き物をたやすく扱うように、その無駄に長い両手を宙でブラブラさせていた。


「ケンカはよそでやってくれよ。俺まで巻き添え喰っちゃいい迷惑だからな」


 パソコンのディスプレイを覗き込みながら、須川が平然と言った。その肝の据わりっぷりに、鳴海は感心すると同時に恐怖した。須川の悠然とした言動は、明らかに馬場を侮辱している。


「俺の嫌いな物をこんないっぺんに持ってる奴見たことねえ」


 馬場は危険な好奇心を小さな瞳にぎらつかせ、その眼光を須川へ向けた。


「インテリ口調、ナルシスト風情、見下すような態度。……そしてだっせえメガネ」


 今まで何を言われても動じなかった須川が、最後の一言で顔を上げた。思考の読めないカラッポの表情は、頬に残っていた痛みをほとんど消し去ってしまうほどの強烈なインパクトを鳴海に与えた。


「……なんだよ」


 芯まで埋め込まれた戦慄を払いのけようとばかり、馬場は怖気の宿った表情で構えた。


「このメガネをバカにされるのは今日一日で二度目だ。いいか、こいつはフランスの一流メガネブランド『メルヴェイユー』から直々に取り寄せた代物だ。須川といえばメルヴェイユー、メルヴェイユーといえば須川なんだ」


「じゃあ、まさか、お前がオフィスの……」


 馬場は言いかけた言葉を飲み込んでしまったかのように、はたりと声を切った。


「そうさ。俺があの『須川オフィス』の須川さ」


 須川はかわいい自慢の愛犬を見せびらかすように、誇らしげな表情で自らをさらけ出した。荒ぶる馬場の拳は静かに気を落ち着かせていった。


「……お前はムカツクが、今日のところは許してやる。そこのチビが勇敢だったら、もっと暴れてやれたのに」


 小さな水たまりを踏み越え、馬場はそそくさと中庭を出て行った。鳴海は心の底から安堵した。


「俺の名前を聞いてから急に大人しくなりやがった。いよいよ俺の名も知名度を上げてきたかな」


「僕、『須川オフィス』を知ってる人初めて見た」


「そいつは俺への腹いせか?」


「まあね」


 やって来た安息が、左頬に痛みを呼び覚ますきっかけになったのは間違いなかった。鈍い痛みを放つ頬をさすりながら、鳴海はニタリと微笑んだ。


「そうやって笑ってられるのも今の内だぞ。『須川オフィス』が現在受け持っている詮索依頼は大きく二つ。そのどちらも危険で、魅惑的で、好奇を掻き立てる一級品さ」


「それってどんな依頼なの?」


 須川がこの一言を待ち望んでいたことはお見通しだった。鳴海の笑顔はそっくり須川へ移動していた。


「オフィスでの活動はほとんど委託者とのメールでのやり取りになってる。依頼内容はピンキリで、『あの子に彼氏はいるの?』とか、『復讐したいからあいつの弱みを握ってくれ』とか、しがない内容ばっかりだ。今扱ってるものだが、一つは、不良たちを仕切る真の親玉を見つけてほしい、というもの。つい先週そんな内容のメールを匿名で受け取った」


「不良たちに聞けば?」


 鳴海はすげなく提案した。


「もうやった。無論、誰も知らなかった。不良たちを牛耳ってやがるのは三年の大久保って奴らしいが、その大久保をも陰で手駒にしてる野郎が学校に潜んでるらしい」


「それってもしかして、生徒じゃないんじゃない? ……例えば、教師とか?」


「いい線いってるぜ」


 須川はキザな笑みで鳴海を一瞥すると、太ももの上で稼働中のパソコンを引き寄せ、すばやくタイプした。


「その可能性は思慮できた。そして結論は、もう一つのでかい依頼へごく自然と結びついたんだ。その依頼ってのが……こいつだ」


「『ある教師の詮索をお願いします』」


 鳴海はパソコンの画面に整然と貼り付く無機質な文面を読み上げた。それは、ある一通のメールのようだった。


「『その人物は、私たち生徒の行動を常に監視し、校内を徘徊しています。限度を超えたやり方にみなが迷惑し、私たち生徒の自由は制限されつつあります。名前は久木将人。現在、一年一組の担任教師を務めています。依頼内容ですが、久木将人の真意を探り出してください。彼の異常とも言える行動には必ず裏があると踏んでいます。分からないことは返信お願いします』」


 鳴海は画面から須川へと視線を流した。


「まさか、冗談だろう?」


「心当たりあるか?」


「当たりまくりだ」


 その言葉に嘘はなかったし、久木を陥れる罠でもなかった。鳴海は本が没収されそうになったことや罰則のことを話して聞かせた。


「昼休みに見せたろう? なぜか分からないけど、久木はあの本を没収したくてたまらないみたいだった。本が絡んでなければ、トイレの床掃除……だって……」


 足の裏からじわじわと這い上って来る恐怖を前に、鳴海は気付くとその場に立ち上がり、呼吸は止まり、音もなく歩み出していた。


「……おい、どこ行く?」


「忘れてた……戻らなきゃ……トイレの床掃除」


 鳴海は背中に喋らせるかのように、須川へ背を向けたまま更に前進を続けた。穏やかに、しかし小走りだ。


「お前まさか……罰則中に抜け出してきたのか?」


 答える間はなかった。次には全力で駆け出し、中庭を出入り口のドアまで突っ切っていた。廊下で助走をつけ、階段はたった三歩で駆け上がった。遠くに、トイレの手前に浮かぶ二つの人影が見えた。辻岡と、そして久木だ。


「話は全部聞かせてもらった」


 鳴海が謝ろうとするのをわざと邪魔するように、久木が出し抜けに言った。その声に怒りはなく、しかしどこか冷淡だった。久木の脇腹あたりから放たれる辻岡の視線は、校庭で吹き荒れる小石まじりの突風を思い出させた。露出した肌にチクチクと突き刺さるような感覚だ。


「辻岡が話してくれた。さっきここで何があったのか。そして、この本のこともな」


 掲げられた久木の手の中に、鳴海は信じられないようなものを見た。『クローバー教の9つ』だ。


「辻岡はお前に同情して、かばってやったそうじゃないか。こんな拾い物の本のために。図書室から借りたってのも嘘らしいな」


「返して下さい……」


「ならん!」


 怒号が全身を貫き、廊下へ反響していった。成す術を失った鳴海は、その場に立ち尽くしているしかなかった。


「自分の立場をまだ分かっていねえみたいだな。お前は俺に嘘をつき、辻岡を巻き添えにし、科せられた罰則を二度も放棄した。挙句には中庭でケンカ騒ぎだ」


 竹刀よろしく手の上で本を叩きながら、久木は鳴海の周囲をグルグルと回り始めた。


「これまでの自身の行動を“カッコイイ”とか勘違いしてるんだったら、今すぐ考えを改めろよ? いいか、鳴海。お前は、ただの、問題児だ」


「僕は、僕のやり方を誇りに思ったことなんか……」


「口答えは許さん!」


 すぐ耳元で怒声が鳴り響いた。鼓膜が震え、だらしなく伸びた前髪がなびいた。


「これ以上の罰則は無駄だと、俺は考えた」


 仕切り直すような落ち着いた語調には、久木特有の冷酷さが滲み出ていた。


「トイレ掃除は続けてもらう。お前一人でな。そして、やはりこの本は俺の手元にあるのが妥当ではないかと、俺はそう思う。拾い物なら尚更だ」


 反論する手立ても、本を奪い返す余力も、鳴海には残されていなかった。立ち去る男の背に向かって、鳴海は深くため息をこぼした。


「辻岡さん……」


 帰ろうとする辻岡を呼び止めるも、彼女が振り向いてくれることはなかった。悪臭を放つトイレを背に、鳴海はその場に一人残された。惨めで、情けなくて、そんな自分に腹が立ち、叫びたくなる衝動を、鳴海は歯を食いしばって我慢した。

 自分を支えてくれていた存在を半分も失った気がした。




 明朝、鳴海は早々と登校するや、一階の倉庫へ向かった。黒葉に会って本を没収されたことを相談しようと考えていた。だが、倉庫には誰もいなかった。

 さっさと切り上げ、鳴海は一之瀬もと子の教室を訪ねた。鳴海が教室を覗き込むと、すぐに一之瀬と目が合った。まるで、鳴海が来ることを予知していたかのようだった。

 長い黒髪をビロードのマントのようになびかせながら、一之瀬は愛想のよい笑顔でこちらへやって来た。


「おはようございます。顔、ぶつけたんですか?」


 一之瀬の爽やかな表情が不安色に染まるのを見て、鳴海は焦った。とっさに笑顔をつくろい、馬場に殴られて青く腫れた左頬を手で覆った。


「ちょっと色々あって。全然心配いらないよ。……今日の昼休み、相談したいことがあるんだけどいい?」


「ええ、構いませんよ。図書室でお待ちしていますね」




 隣の席の辻岡と、頬に刻まれる鈍痛、没収された本への絶望感を除けば、この日の午前授業はよどみなく進んだといってよかった。辻岡とはあれから一切口をきいていない。

 辻岡を怒らせ、築き上げていた信頼を崩し、本まで失った。それら全てが身から出た錆だということを、鳴海はちゃんと認めていた。自分一人の力で打開したいが、事があまりにも大きくなりすぎてしまった。

 わらにもすがる思いで、鳴海は図書室へと足を運んだ。


「こんにちは」


 前と同じ席に腰掛けていた一之瀬が、明るく声をかけた。今度ばかりは、鼻の下を伸ばしてヘラヘラしている余裕はなかった。


「こんにちは。早速だけど、一之瀬さんの力と知恵を貸してほしいんだ」


「何かあったんですか?」


「昨日、あの本を没収された。呪い解除のヒントが記された『クローバー教の9つ』が」


「誰に?」


「僕の担任、久木将人」


 鳴海はまるで容疑者を扱うようにその名を言った。優雅さを湛えていた一之瀬の顔から、感情の一切が溶けて消えたように見えた。


「あの本を、久木先生に? いつですか?」


「つい昨日。僕が罰則のトイレ掃除をサボったから……」


「なんてこと……」


 鳴海の予想以上に一之瀬は落胆したようだった。


「私もあの本のことは知っています。黒葉にとっても、そしてあなたにとっても、『クローバー教の9つ』はただの本ではなかった。それを……彼との絆を、失くしたですって?」


「ごめんなさい……」


 段々と語調を荒げる一之瀬を前に、鳴海は自分のおかした失敗の大きさを改めて思い知らされた。安易な気持ちで、あの本を人に見せるようなことがあってはならなかったのだ。


「……私の方こそ、取り乱してしまってすみません」


 一之瀬は言ったが、視線は沈んだままだった。


「咎めるばかりでは何も解決しません。すぐにとはいきませんが、取り戻す手段とチャンスを作らなければなりませんね」


「僕、先生に返してもらえるように頼んでみる。無理だろうけど……」


「ところで、あの本は読んでみましたか?」


 鳴海は曖昧にうなずいた。


「深読みはしてないけど、大雑把な内容なら把握できたよ。黒葉のおじいさんが残したっていう数字の暗号も」


「鳴海さんなら、もう暗号を解いてしまったんじゃないですか?」


 一之瀬の期待に添えなかったのは残念だが、鳴海は素直に首を振った。


「全然ダメ。どっかで見たような配列だったのは覚えてるけど。それに、解読にはやっぱり本がないと……」


 また嫌なことを思い出してしまった。イライラを抑え込むのに、鳴海は別の話題を探した。


「そういえば、ずっと気になってたんだ。黒葉と一之瀬さんの関係」


「黒葉との関係は特殊です」


 占う時の深刻な声色はそのままに、一之瀬はすかさず答えた。


「特殊というのは、まったく普通ではないという意味です。私たちは友でもなく、仲間でもなく、共謀者でもなく、敵同士でもないのです。互いに己を語らず、無意味な詮索もしません」


「よく分かんないや」


 鳴海は白状した。ややこしいのは苦手だった。


「うーん……利用し、利用される者、とでもまとめましょうか」


「僕と同じ、契約してるの?」


「それとは少し違います。正当な契約に悪意はありませんから」


 一之瀬が黒葉との関係を隠したがっているのを、鳴海はそれとなく理解していた。しかし、曖昧な答えだけで納得するようなつもりはなかった。


「黒葉とはどうやって知り合ったの?」


 ここぞとばかり、鳴海は質問を重ねた。溢れるような好奇心も相まって、出てくる言葉はやけに流暢だった。


「詳しくはお教えできません」


 一之瀬がピシャリと返した。鳴海は物足りなげに一之瀬を眺め続けた。


「まあ、鳴海さんと違う点は……」


 努力が功を奏したのか、諦めたように一之瀬は続けた。


「私は偶然にではなく、必然的に出会ったということです。私は黒葉を求め、彼はそれに応えた。さて……」


 「さて」にどんな意味が込められているのか、鳴海には分かっていたはずだった。それは、黒葉が触れられたくない話題を持ちかけられた時に見せた、あの不審な動きと酷似していた。


「仲間探しは順調ですか?」


 今度は一之瀬が質問した。鳴海に好き勝手質問させる隙を与えないとばかりの意気込みだった。


「順調……ではないかな。できたら、また占ってもらえる?」


「そのためにここへ来ましたから」


 一之瀬は脇に置いてあった黒革の手提げカバンから紫の布に包まれたタロットを取り出し、机の上で広げた。


「そのカバンには何が入ってるの?」


 鳴海はふと気になったことを尋ねてみた。カバンの口から、黄金の燭台のようなものが見えた気がした。


「主に魔術道具が揃っています。ろうそく台に聖水、書き写しの魔方陣、杯、銀の短剣」


「短剣?」


「人を傷つけるための物ではなく、あくまでも儀式用です」


 手際良くカードを取り出し、シャッフルが始まると、自然と会話はなくなっていた。やがて三枚のカードが三角形に並べられると、一之瀬はゆっくりと丁寧にそれらをめくっていった。


「人との出会いを無駄にしないでください」


 姿が明確になった三枚のカードを覗き込みながら一之瀬が切り出した。かかった前髪の中でちらつく瞳は、占う時にだけ見せる妖美な輝きを放っていた。


「分からず屋の暴君があなたの助けになります。過去に、そういった人物との接触があったはず」


 一之瀬の言葉の解釈はいつものように難儀だった。分からず屋の暴君が善良な味方になってくれるとは思えない。鳴海にとって一番厄介なのは、その人物に心当たりがあることだった。


「確かに、分からず屋の暴君のことなら知ってる。この頬がうずく度にそいつの頭を思い出すよ。でも、そいつがサークルに馴染めるかどうかは話が別」


「人を見た目で判断してはいけないという、大げさな教訓ですよ」


「人の外見も中身も、実は大差ないんだよ」


 鳴海は辻岡の言葉をそっくり呟いた。口の中にこもったせいか、タロットカードをせっせと片付ける一之瀬には届いていなかった。


「鳴海さん。数少ない、小さなチャンスを逃さないようにしてください。カードから得た直感では、今日の放課後がその時です」




 醜悪なトイレ掃除を全うできたのは、この日が初めてのことだった。開け放った窓からは秋を告げる涼しい柔らかな風と共に、中庭にたむろする生徒たちの賑やかな会話が舞い込んでくる。

 暖かな白い日差しが汚れた床をピカピカに磨いてくれることはなかったが、せっせとこすった床を綺麗に魅せてくれたおかげで、鳴海の心は最後まで折れずに済んだ。


「サークルを統率する立場として、この状況はあんまりにもお粗末すぎやしないか?」


 用具入れに道具の類を投げ入れていた鳴海に声がかかった。振り向くと、入り口付近に須川が立っていた。カバンを肩にかけ、今まさに帰宅しようというところだった。


「それって冷やかし? ご苦労さん」


 片付けの続きをダラダラとこなしながら鳴海は呟いた。


「90%の冷やかしと、10%の同情さ」


 楽しむような須川の言葉に背を向けると、鳴海は窓を閉めるために中庭を覗いた。眼下に集うのは、日向ぼっこにいそしむ不良たちの姿だった。ベンチをまるまる四つも占領し、寝転がってあくびを吐き出したり、タバコに火を着けて高笑いしたりしている。

 猿山の猿たちを連想させるその群れの中に、鳴海ははっきりと見覚えのある坊主頭を見つけた。


「馬場がいる。やたら大きな男子と話してるみたいだ」


「ツバでも吐くか? 手ぇ貸すぜ」


「……僕、ちょっと行ってくる」


 鳴海は窓を閉めると、手洗い台に置いてあったカバンを持ち、須川には目もくれずに中庭を目指した。


「殴られた仕返しをしようってんなら、やめといた方がいいぞ。窓からツバにすべきだ」


 後を追って来た須川が背後から忠告した。


「そんなんじゃないよ。ただ、今日の放課後じゃなきゃダメなんだ」


 階段を下りながら、鳴海は一之瀬の言葉を思い出していた。『今日の放課後がその時』なら、まさに今しかないと確信できた。

 中庭を見渡せる廊下へ出ると、鳴海と須川は息を揃えてその場に立ちすくんだ。すぐ前方から不良たちが闊歩してくるところだった。一際体格のガッチリした生徒が先頭で、そのゴリラのような強面には生々しい向こう傷がいくつも刻まれていた。


「猿たちを仕切る大久保だ」


 須川が囁いた。恐れ、震えるような語調に、かつてのクールな印象は微塵も感じられなかった。


「面白い噂を聞いた」


 二人の目の前でわざわざ立ち止まると、不良どもを引率していた大久保がおもむろに声を放った。体格にピッタリの野太い声だ。まずいことに、顔にごろっと張り付いた巨大な目玉が、二つともこちらを見下ろしている。鳴海は慌てて目を逸らした。


「妙ちくりんなサークルが俺たちを潰そうと企ててるらしい。しかも内の一人は、俺たちの内情を暴こうとコソコソ詮索してるみてえだ」


 事態は非常によろしくなかった。理由はどうあれ、二人揃って既に身元が割れているのは予想外だった。小柄な鳴海など、つまんでプチっと潰せてしまいそうなほどたくましい大久保の両腕が、視界のほとんどを覆ってしまっていた。

 鳴海は横目で須川を見た。さすがに相手の悪さを把握しているらしく、馬場に見せたような勇敢さはその強張った横顔に窺えなかった。


「この後、どうしてもやらなきゃいけない用が控えてなかったら、今この場でそいつらを痛めつけてやれたのに。そうだろ、柳川?」


 大久保が振り返り際にその名を呼んだ。気付くと、鳴海は顔を上げていた。大久保の背後から現れたのは間違いなく柳川だった。冷たい眼差しが鳴海を静かに捉えていた。


「大久保さん。俺が認知していることは一つ、そのゴキブリみたいな輩が“敵”だということだけです」


 恐怖ですくんでいたはずの鳴海の心に、メラメラと熱い炎が灯った。かすかな怒りが、鳴海の手に拳を握らせていた。


「強さの証明を“正義”なんて甘ったるい言葉で補おうとした奴を、俺は知ってます。その儚い存在であがいて、所詮は偽善でしかない正義を装って立ち回ってる。仲間を集めて、世界を救う勇者気取りか?」


 須川の肘打ちが、今にも飛びかからんとする鳴海の脇腹に食い込んだ。柳川の冷酷な微笑みが鳴海の目に焼き付いた。


「行きましょう、大久保さん。こんな所で立ち止まるだけ時間の浪費ですよ」


 十数人の不良たちが姿を消すのを見計らうと、須川渾身の舌打ちが廊下に響き渡った。


「お前の元友人だろうが、はっきり言わせてもらうぜ。はなはだムカツク野郎だ」


「僕たちとほんのちょっとズレてるだけだよ。柳川は利巧な奴だし、物事の道理を忘れたわけじゃないはずだ。……やっぱちょっとムカツク」


 二人は中庭へ続くドアを開け、そこに差し込む太陽の英気を漏れなく浴びた。雲一つない晴れ空の下、ベンチに座る抜け殻のような男子が一人……。


「馬場」


 鳴海は強気になって声を投げかけた。大木のような大久保に比べれば、目の前のそれは枯れ枝にぶらさがる木葉そのものだ。あらゆる感情が抜き取られ、倦怠だけが残されたその表情が、鳴海と須川を交互に見据えた。


「俺の負けさ。あいつに……柳川に、すべて奪われた」


 生気の削がれたような声が言葉を並べた。心なしか、そのつぶらな瞳には涙が浮かんでいた。


「一体あの日、この中庭で何があったの?」


 鳴海が聞いた。馬場の湿った両目が荒々しくこちらを見上げた。


「誰だよてめえ……なんか見覚えあるな」


「殴ったこの顔を忘れたっていうの?」


 馬場はしばらく鳴海を見つめていたが、明日までにやらなければならない宿題を思い出した時のおっくうげな顔で「あー」と漏らした。


「それってため息?」


 鳴海が喰ってかかった。


「嘆きだ。腹の底からの」


 馬場は激しく音を立てながら頭をかきむしった。


「君が実力で負けたんじゃないってことくらい分かってる。次は君が勝つかもしれない。そうだろ? 僕が知りたいのは、その可能性なんだ」


 掴みどころのない不良の端くれの扱い方を、鳴海はよく心得ているつもりだった。こういう奴らは決まって、自分に媚びてくる者には心を許すものだ。野生の猿を手なずけるよりも手っ取り早く、確実だ。


「一週間くらい前。俺たち不良グループに柳川がやって来た」


 うつむいたまま、地面に向かって馬場は切り出した。頭の上にあった手は首の裏筋まで移動していた。


「自分を変えたい、過去を捨てたいと、なんか訳分かんねえこと言ってたな。俺は一番下っ端だったし、ただ遠くから眺めるだけだった。そうしたらいきなりだ。俺と柳川にタイマン命令が下されたのは」


「誰からの指示だったんだ?」


 須川が性急に喰いついた。馬場は肩をすくめた。


「さあな。大久保さんより更に上の人間が指示したって噂もある。はっきり誰かは分からねえが、いるみたいなんだ……俺たちを陰で操ってる絶対的な奴がさ」


「不良の親玉か」


 鳴海が呟いた。須川オフィスに届いた依頼が脳裏をよぎった。


「……俺は柳川に負けた」


 絶望的な声色で呻きつつ、それでも馬場は絞り出すような声で続けた。


「グループから追い出された俺は、今さっき、もう一度チャンスをくれと、大久保さんに頼んだ。答えは『あの人次第だな』」


 その時、携帯電話のバイブがどこかで作動する音を鳴海は聞いた。須川がズボンのポケットから引っ張り出したのは青い質素な携帯電話だった。


「オフィス用のケータイだ」


 ボタンを連打しながら須川が言った。


「依頼が来たってこと?」


 鳴海の質問に返事はなかった。須川は画面を見つめたままうんともすんとも反応しない。ちょうど、女子生徒二人が中庭を出て行くところだった。残されたのは鳴海たちだけになった。


「面白いメールが来た。周りに誰もいなくて好都合だ」


 須川は周囲に目を走らせると、低い声で言った。


「何だよ、早く言え」


 馬場が歯がゆそうにせっついた。鳴海も同じ気分だった。


「知らないアドレスから、匿名。だが身分は明かしてくれた……“あなたが探し求める者”。不良たちを裏で牛耳る真の親玉からだ」


 得体の知れない戦慄が鳴海の心身を満たしていった。その瞬間、誰かの強い視線を確かに感じた。気付くと、馬場は須川と一緒に携帯電話を覗き込んでいた。


「どうして須川のアドレスを知ってるの?」


 もっと他に聞くことはあったが、落ち着かない気分は鳴海にそんなことを口走らせていた。


「『須川オフィス』依頼専用のアドレスは色んなところにばらまいてある。学校の掲示板からウェブ上の裏サイトまで。ホームページも開設してるしな」


「んなことどうでもいいから、さっさと読めよ!」


 しびれを切らした馬場がいよいよ本気で怒り始めた。地面を蹴り鳴らし、開いた鼻の穴からは荒々しく空気が出入りしている。須川はそんな馬場をめんどくさそうに眺めながらメールを開いた。三人が一斉に画面を覗き込んだ。



あなたが探し求める者より。

大久保から話を聞き、あなた方が私を求めてることを知った。

そこで一つ提案がある。互いの利益につながるゲームをしないか?

ルールは簡単。

逃げ回る私を捕まえれば君たちの勝ちだ。言わば鬼ごっこのようなもの。

ただし、範囲は広い。ヒントとして移動先をメールで送るが、大切なのはチームワークだ。

各々が役割を果たし、3人でかかってこい。


参加の意を2分以内に返信してほしい。

10分後、第一のヒントを同アドレスに送信する。


追伸:このゲームはヒントと答えを両方あわせ持っている。



「こいつは、今僕たちが三人揃ってることを知ってるみたいだ」


 三人の頭が忙しなく辺りを窺った。こちらを見下ろす何百という窓の一つ一つから、誰かに監視されているような気がしてならなかった。


「さて、どうする?」


 須川が腕時計に注目しながら聞いた。馬場が大きく腕を組んだ。


「もちろん、ゲームに乗る。捕まえて、俺をもう一度不良グループに戻してもらう。俺の居場所はあそこしかねえから」


「僕も賛成!」


 鳴海が快活に声を張った。ゲームと聞いて、黙っていられるものか。


「それに、このゲームはただのゲームじゃない気がする。相手は最近の僕たちの行動に関してやたらと詳しいし、追伸で言っていたヒントと答えがそれに結びついてくるとすれば、これがただのお遊びにならないことは明確だよ」


「鳴海に同意だ。ここまで見透かされてちゃ気味が悪いからな。とっ捕まえて正体を暴いてやろうぜ」


 須川が返信してからきっかり10分後、再び携帯電話がメールをキャッチした。


「ゲーム開始。初めの逃げ場所は<NORTH ARESENTOA>」


 須川が読み上げると、鳴海と馬場が顔を見合わせた。


「ノース・アレセントアって、あのでかいデパート?」


 鳴海が怪訝に尋ねた。あまりに大き過ぎて、子供の頃はよく迷子になったものだ。そして今でも迷子になる。


「さっさと行こうぜ! 俺のスクーターが近くのコンビニにとめてある」


 忙しなく足踏みしながら馬場は言った。だが、鳴海も須川も動かなかった。


「免許持ってたの?」


 鳴海の一番の不安はそれだった。


「なめんな。取りたてホヤホヤだ」


 財布から証拠の免許を取り出そうともたもたしている馬場を眺めても、鳴海の不安はなぜか解消しきれなかった。


「俺は残る」


 電話とにらめっこしながら須川が言った。鳴海と馬場が同時に須川を見た。


「理由は、お前たち二人をサポートするのが俺の役割だからだ。言ってただろう。大切なのは個性を活かしたチームワークだ。逃げ回る範囲が広いのなら、俺はウェブ上の地図を使って最短の道を割り出す役目が妥当じゃないかと、そう考えた。馬場、ケータイは持ってるか? 番号を教えてくれ」


 馬場は素直に番号を教えた。須川の説得力とやる気の大きさに度肝を抜かれ、何も口答えできないようだった。


「僕は何をすればいい?」


 鳴海は驚愕した。突然、何もできることがない自分に気付いたのだ。二人にというより、自分自身に問いかけたい気分だった。


「しゃあねえ、ケツに座らせてやるよ。お前くらいチビなら余裕だぜ」


「ありがとう……僕、後ろで歌でも歌ってようか?」


「そいつは勘弁。お前、あんまりうまそうじゃねえし」


「準備はいいか?」


 須川が威勢よく割り込み、注目を集めようとした。今や他の誰よりも張り切り、ゲームへの期待に胸を昂らせているようだ。


「言っとくけど、俺がリーダーだぜ?」


 中庭から廊下へ出た矢先、馬場がアゴをツンと上げて豪語した。


「馬場がリーダーなら、そんなものない方がマシだ」


 馬場が反論できなかったのは、須川の言葉を理解するのに時間がかかったからに違いなかった。先頭を闊歩していたので見当もつかないが、彼の眉間には深いしわが寄っていたことだろう。


「俺は無線LAN電波の許容範囲で、且つ安全に電話がかけられる教室で待機する。健闘を祈ってるぜ」


 鳴海、馬場は須川の背中を黙って見送った。みぞおちで息を潜めていた緊張が、ここにきて鼓動を高鳴らせた。


「よおし、ゲーム開始だ!」


 馬場が輝くような笑顔で叫ぶのを、鳴海は落ち着かない気持ちで聞き流すのが精一杯だった。こいつの背中に向かって何を歌ってやろうか、鳴海はそのことばかり考えていた。




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