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第三話 君のために君を殴る




 翌朝、鳴海が教室の自分の席に腰を下ろすと、息つく間もなく誰かの視線を感じた。それは、久木が鳴海を脅す時の殺気を帯びた視線に似た、心の内側をえぐられるような鋭いものだった。

 ふと左へ視線を流すと、そこに辻岡の異様な姿があった。白い大きな本で顔の鼻から下半分を覆い隠し、その頂きから目だけ覗かせてこちらを睨んでいる。体は椅子に預けたまま後方へのけ反り、出来る限り鳴海から遠ざかろうと努力しているように見えた。

 鳴海は困った。とにかく困った。


「あの……」


 鳴海がそっと声をかけると、辻岡は盾のごとく本をかざし、上半身を更にねじらせた。すでに体の半分も椅子の上に残っていない。


「くさい!」


 辻岡が出し抜けに声を張った。鳴海はとっさに口を覆った。


「違う! 肩! 左肩!」


 今度は拳で左肩を叩きつけた。痛いだけだ。


「何なの?」


 遊ばれているだけのような気がして、鳴海は段々と腹が立ってきた。そしてふと、一之瀬から言われた言葉を思い出した。


『意中の相手とのバランスが崩れる』


 左肩をくさいと指摘されることがそれに当たるなら、一之瀬もさぞかしご満悦だろうと、鳴海は心の中で嘲笑した。


「入学した時から感じてた、邪悪な気配。夏休みが明けてからより強くなった。この学校に悪魔が潜んでいることは分かってた……まさかあんた、悪魔と取引したんじゃない?」


 辻岡可憐という人間がその美貌と引き換えに、ごく平凡と呼ばれる日常を手放していたことを、鳴海はちゃんと知っていた。現実とファンタジーな本の世界とを混沌とさせ、それをそれと分かるように発言してくる。私は病んでいるのだと、自ら迫って来るようなものだ。

 しかし、いざその姿を目の前に突きつけられると、鳴海は何も整理できないまま苦笑するしかなかった。


「辻岡さん、本の読み過ぎなんじゃない?」


 真面目に取り合おうとしない鳴海によほど腹を立てたのか、下ろされた本の向こうに現れたのは辻岡の醜悪なしかめ面だった。


「確かよ。鼻に腐敗した蛙の死骸を詰め込まれて、目の奥が毒気で焼かれるような感覚」


「……それって新手のいじめ方?」


 鳴海は完全に降参だった。軽蔑を込めたその一言が、辻岡の独り言で掻き消されたのはラッキーだったかもしれない。


「動き始めた……何を企んでる……目的は……正体は……今どこに?」


 いくら意中の相手とは言え、監視カメラさながらの無愛想な眼差しで見つめられながらブツブツ言われるなんて、あまり気分の良いものではなかった。


 困り果て、辻岡の狂気の独り言がピークに達しようとしていたその時、HR開始のベルと共に教室へ現れたのは久木だった。肩を前後に揺らしながら大股でドアをくぐり、スーツの上からでもはっきり分かるほど飛び出た腹を、きつく絞めたベルトの上でゆったり弾ませていた。


「はいはい、おはよう」


 恒例の朝の挨拶が終わると、眠気を呼び戻すような締まりの悪い声で久木が続いた。

 おもむろに出欠を取り始めるが、鳴海が素直に返事をすることはできなかった。自分の名前を呼ばれるのと同時に、久木のカラッポな表情に覆い隠された怒りが牙を向いたのだ。


「昨日は何やってた?」


 それは、カバンから『クローバー教の9つ』を取り出そうとしていた矢先のことだった。


「昨日の放課後のことだ」


 カバンの中に手を突っ込んだまま沈黙していると、久木は静かに震える声で問い詰めてきた。


「図書室にいました。どうしても借りたい本があったので……」


 サークルのことを隠すため、鳴海はとっさに嘘をついた。


「その本か?」


 今まさにカバンから引き抜こうとしていた『クローバー教の9つ』をアゴで指しながら、久木は目ざとく指摘した。束の間、鳴海は猛烈に後悔した。本を返していたことにすれば良かったのだ。


「トイレの床掃除を……ましてや俺の命令を無視してまで借りたい本? 興味あるな。よって没収」


「すいませんでした! ごめんなさい! 申し訳ありません! 今日からちゃんと行きます、だからこの本だけは勘弁して下さい!」


「俺の言うことが聞けないのか? 没収だと言ったんだ」


 かつて、お得意の平謝りで幾つもの災難を乗り越えてきた鳴海だったが、今回は相手が悪すぎた。おそらく、100人の鳴海が束になって土下座しても逃れられそうにない。

 しかし、最悪ではなかった。緊張で静まり返った教室の真ん中で、信じられないようなことが起きた。


「鳴海を誘ったのは私です」


 白い本は机上に掲げられたまま、不敵な表情をまとう辻岡が静かに声を放った。久木を睨み上げるその様子から、今の言葉が独り言でないのは確かなようだ。鳴海はただ呆然としていた。


「お前が……こいつを?」


 久木は言葉をこぼしながら、出てくるはずもない鳴海と辻岡の接点を探しているようだった。二人の関係など出なくて当然だ。接点どころか、この土壇場で情けをかけられる借りさえ鳴海には思い当たらない。


「用があってすぐに帰らなければならなかったし、常に貸し出し中だった好評な本だったので、どうしてもすぐ手元に欲しかったんです。鳴海にはかなり無理を言ってお願いしました。だから鳴海はまったく悪くないし、“鳴海が借りた”本を没収する理由も不当だと思います」


 辻岡が淡々と弁解するかたわら、鳴海はずっと久木を見上げていた。免罪を求めるその瞳は驚くほど澄み切り、調子を合わせる演技はヘタなペテン師そのものだった。

 久木の大きな舌打ちが閑静な教室に響き渡った。


「鳴海、辻岡。お前ら揃って二階トイレの床掃除だ。放課後。今日から二週間。異論は認めん」


 難を逃れたその本を、鳴海は机の奥へと押し込んだ。




「ありがとう。助かっちゃった」


 HRが終わり、久木が教室から出て行く姿を見届けると、鳴海は疲れ切った笑顔で辻岡に声をかけた。辻岡の両の眼はやっぱり本の中だった。


「万事退屈だった」


 本の中身を読み上げるように辻岡は言った。


「本当に楽しいことは、みんな本だけが知ってる。学校は、私に浅い読書の時間を提供してくれる場でしかなかった。でもやっと見つけた。ここへ来て、この席に座る理由」


 辻岡の人間らしいまともな表情に見つめられた瞬間、鳴海の心臓がろっ骨の内側で狂ったように跳ね回った。口元は溢れ出た期待で極端に緩み、顔全体がみるみる熱を帯びてくる。

 だが、それはほんのひと時の夢見心地だった。


「あんたが何をコソコソやってるのか、絶対に探り出してやる。昨日の暗号文がその悪臭や本と関ってることくらい、お見通しなんだから。きっとあの暗号も解いちゃったんでしょ?」


 鳴海の顔から笑顔が消え、小躍りを始めた心臓はつまずいて転んだ。


「まさか辻岡さん、この本を読むためにあんな嘘ついたの?」


「本どころか、あんたに借りを作らせて思いのままにしようと考えたの。楽しみを一人占めしようたってそうはいかないんだから。昼休み、図書室にさっきの本を持ってきて。邪悪な香りがプンプンするわ」




 持参した弁当に味はなかった。

 辻岡は「先に行ってるから」と一言だけ言い残し、さっさと図書室へ行ってしまった。借りを作らされた分、逃げるわけにはいかない。だが、あとほんの数分後、あの辻岡と二人で読書する自分自身がいるなんて、想像するだけで五感が鈍った。


「おい」


 空にした弁当を片づけていると、背後から無愛想な声がかかった。経験上、こんな時、後ろを振り向いて状況が良くなった試しがない。嫌な予感しかしなかったが、鳴海は努めて普通に振り向いた。面長の男子が立っていた。名前は確か……。


「松山くん……だっけ?」


「戸田だ」


 なんと、当てずっぽうはかすりもしなかった。冷静に否定されたが、相手はまだ幾分落ち着いていた。


「ごめん。何?」


「お前、辻岡さんとどういう関係?」


 鳴海の予感は大当たりだった。


「えっと……特に何も」


 鳴海は本当のことを言った。無論、こんなことで相手が引き下がらないことも大方予想がついた。


「特に何もなくて、どうして辻岡さんがお前のことをかばうんだよ」


 穏やかな語調に見え隠れする戸田のもどかしい怒りが、鳴海には何となく分かっていた。しかし、この状況を打開する手立てが見つからない。


「つまり……その……だから……ごめん!」


 机の中で本をわしづかむと、鳴海は一目散にその場から逃げ出した。




「犬にでも追いかけられてたの?」


 大きく息を弾ませる鳴海を見て、辻岡がじゃっかん軽蔑気味に声をかけた。図書室まで全力疾走した鳴海が、一番奥の席に座っている辻岡を見つけ、呼吸も落ち着かせないままヨロヨロと近寄った結果だ。


「もっとタチが悪いよ」


 答えながら本を机に置くと、辻岡は椅子ごと1メートルも後方へ退いた。


「ただの本だよ」


 鳴海が驚いて指摘した。


「ただの本ですって? これが?」


 驚愕しつつ、辻岡はわななくように首を振った。きっちり揃っていた前髪が突風で煽られたのれんのように乱れた。


「間近で見てやっと分かった。あんたの肩とこの本から、同じ気配を感じる。邪悪だけどおとなしい、年季のある、悪魔のにおいだわ」


「読まないなら僕一人で読むよ」


 鳴海はもううんざりだった。悪魔の存在なんて幽霊以上に信じていなかったし、正直、黒葉から聞かされた呪いの件に関しても、半信半疑なのは確かなのだ。


「信じてないんでしょ。あんたもう取り憑かれてるわよ」


「辻岡さんがオカルト好きなのはもう知ってるよ。それで、読むの? 読まないの?」


「……読むわよ」


 辻岡は持っていた白い本を脇に放ると、席を寄せて鳴海と一緒に本を覗き込んだ。

 ここにきて、平常だった鳴海の心拍が再び息を吹き返した。心臓の高鳴りが辻岡に聞こえてしまうのではないかと心配したほどだ。


「実は僕も読んだことないんだ。だから……」


 辻岡の横顔を覗いた矢先、鳴海は思わず言葉を失った。知らぬ間に、辻岡がメガネをかけていた。縁なしのシャレたメガネだ。


「メガネ」


 メガネを指差しながら鳴海は言った。


「集中したい時にはかけるの。ただそれだけ」


 言いながら、辻岡はいきなり本へと手を伸ばし、強引にページをめくっていった。辻岡が更に近づいてきたので、セミロングの黒髪からシャンプーのほのかな香りが漂ってきた。頂点に達した鼓動が暴走しそうだった。


「クローバー教の9つ……目次……」


 目次のページを開くと、そこには無機質な文字が縦に整然と並べられていた。



一 治癒

二 逆転

三 超越

四 支配

五 予知

六 召喚

七 憑依

八 蘇生

九 破壊



「魔術ね。思ったより近代的だけど……この本どうやって手に入れたの?」


「……拾った」


「どこで?」


「……一階の倉庫」


 黒葉との契約に関してどこまで話してよいやら、鳴海は慎重に思慮しながら答えていった。


「ふーん。で、何を隠してるの?」


 単純なごまかしが通用するような相手ではないと、鳴海は今になって気付いた。ただでさえ異質な威厳をかもし出す辻岡が、メガネをかけたことによって更に貫禄を増したようだ。

 返答に困っていると、またも背後から声をかけられた。だが、今回は戸田のような声質とはまるで違う。敵意を感じないのだ。


「よう、鳴海。図書室デートか?」


 振り向くと、須川蓮太が小脇にパソコンを抱えて突っ立っていた。冷やかし甲斐のある光景を見つけたとばかり、嬉しそうにニヤニヤしている。


「ねえ、須川。これがデートに見える?」


「90%デートに見える。ここいい?」


 聞きながら、すでに彼の尻は二人の前の席に据えられていた。


「誰?」


 須川へいぶかしげに視線をぶつけながら、辻岡が鳴海に小声で尋ねた。


「僕の新しい友達。名前は……」


「一年二組の須川蓮太。あの『須川オフィス』の須川さ」


 パソコンを起動させながら須川が自己紹介した。足を組み、メガネを拭く自分の姿がカッコ良くてたまらないといった調子だ。


「君も僕と同じだね」


 自分のメガネを指差しながら須川は言った。どうやら、辻岡に好意を示しているらしい。


「ダサいメガネ」


 辻岡は鼻で笑ってあしらった。須川の面食らった様を見て、鳴海は笑いをこらえるのに腹へ力を入れなければならなかった。


「面白い子だね。君も桃太郎サークルの一員か?」


「何それ。私は辻岡っていうごく普通の女子よ」


「そりゃ失礼」


 須川は紳士な姿勢を崩そうとはしなかった。


「同じクラスの辻岡さんだよ。ちょっと色々あって……サークル活動に必要不可欠なこの本を一緒に読んでるってわけ」


「その本、前に言ってた契約ってやつと関与してんだろ?」


 鳴海は唇に指を当てがって須川を黙らせた。辻岡を前にして話を深入りさせたくなかった。


「さっきから桃太郎だの、契約だの、何喋ってるのか全然分かんない」


 苛立ちに退屈さを上乗りさせたような声で辻岡は言った。鳴海は何食わぬ顔でページをめくり、須川は話してあげたい衝動を抑えるような表情でパソコンを覗き込んでいた。


「秘密ってわけ。いい度胸してるわね、鳴海のくせに」


 本の中に辻岡の仏頂面が見えた気がして、鳴海は思わず手を止めた。須川がせせら笑った。


「お二人さん。男は勇ましくクールに、女はつつましくビューティに振る舞うべきだぜ」


「それって偏見よ。ただの差別じゃない」


「ねえ、ちょっといい?」


 今にも火花を散らして勃発しそうな論争を、鳴海は寸でのところで食い止めた。


「ほら、ここ見て」


 鳴海は各ページの左上隅を指差した。縦に一組、横に一組の数字が直筆で書き記されていた。


「落書きでしょ」


 辻岡がすげなく突き放した。


「そうかな? 次のページにも、その次にも、ずっと続いてるよ」


 パラパラとページをめくりながら鳴海は指摘した。反対側から須川が覗き込んだ。


「縦が10・28・24、横が4・6・4・4・4……何だこれ」


「分からないから聞いたんだよ」


 鳴海は最後のページを開いてみた。左上隅にあったはずの二組の数字は、縦組みは右端、横組みは下にまで移動していた。


「ページが進むにつれ、数字がそれぞれ右と下に移動してるみたいだ。縦組みは10・12、横組みは9・14・14・9だ」


 数字について考えつつ、鳴海は黒葉の言葉を整理していた。おじいさんが記した暗号とは、この数字のことを指しているに違いなかった。黒葉にかけられた呪いを解くヒントがこの数字に隠されているのだろうか?


「本の中身と関係あるんじゃないか?」


 須川が意見した。


「ざっと目を通してみたけど、この本はヨッド・クローバー教っていう魔術教団が残した本らしいんだ。中身は9つの魔術に関する内容だけど、いってることはさっぱりだ」


「落書きじゃないとしたら、悪魔を封じ込めておく呪文の類ね。解読したら取り憑かれるわよ。もしかしたら、もうとっくに取り憑かれてるのかもしれないけど」


「悪魔だって?」


 須川があけすけに嘲笑を浮かべた。


「文化の発展もめざましいこの現代に、古風な悪魔召喚や魔術で人を呪っちゃおうだなんて、ずいぶんナンセンスな発想だね」


 小意気にキーを叩きながら、須川は最先端を先取りする風格をありありと見せつけた。


「こいつがあれば何でもできる……というより、こいつがなけりゃ何もできない。今やインターネットは、テレビの普及に類似した可能性を備えてる。情報の共有にショッピング、コミュニケーション。ゲームに音楽、映画、読書……それこそ、犯罪に手を染めることだって許容範囲だ」


「この数字の謎を解くことも?」


 鳴海は半ば試すように聞いてみたが、須川はその笑みを絶やさなかった。


「答えは見つからないかもしれない。だがヒントになるものなら必ずあるさ。こんな図書室じゃ補えきれないだけの莫大な情報量が、ネット上には転がってるんだぜ」


「物の本当の価値は便利さの向こう側にあるものよ」


「人の価値は見てくれじゃないってこと?」


 鳴海が何気なく質問すると、その横で辻岡がため息した。


「それは偽善じみた理想論ね。人の外見も中身も、実は大差ないんだから。そもそも鳴海、人に価値を見出そうなんてあんたじゃ百年早いよ」


 鳴海が華麗に言い返す雄々しい姿も見せつけられない内に、辻岡はメガネを外し、席を立ち、白い本を手に取り、加えてこう言った。


「どうせ、解読した暗号を手掛かりにその本を拾ったんでしょう? 教室の暗号は、その本に記された数字の謎を解くことのできる有力な人間を探し出すために、誰かが仕向けたものね」


 辻岡のキレの良さに、鳴海は思わず舌を巻いた。頭の回転がすこぶる速いようだ。


「夢想は終わった……物語の続きを待った甲斐があったわ」


 不吉なくぐもり声だけを残し、辻岡は図書室からさっそうと姿を消してしまった。


「変わった子だな」


 辻岡の座っていた席をまじまじと見つめながら須川が言った。


「だろう? 今朝からあんな調子さ。僕に悪魔が取り憑いてるって、そう言うんだ」


「俺もそう思うね」


 驚いて言葉を失う鳴海を見て、須川は押し殺したような声で笑った。


「冗談だよ。ほんと、驚かし甲斐のある奴だよな。おもしろい」


「僕の気も知らないで……」


「でも、出し抜けにあんな声のかけ方したら、誰だって君を不審がるだろうな。昨日の鳴海は100%頭のおかしな奴だった」


 遠慮のない本音を次々とぶつけてくる須川の顔は、それでもどこか朗らかだ。鳴海はそんな彼の笑顔から、50%の親しみと、50%の優しさを感じた。


「ありがとう」


 机の上に置かれた自分の指先を見つめながら、鳴海は小さな声で言った。キーを打ち込む音が止まった。


「礼を言われるのは心外だな。言いにくいが、今のって実は悪口なんだぜ?」


「その悪口に本物の悪意があるかどうか、僕には分かる。本心からの悪口ってやつを、僕はずっと言われ続けてきたから」


「そうなのか。……まあ、鳴海が今までどう生きてきたかなんてこの際どうでもいいさ。君だって語る相手と場所くらい選びたいだろ? むしろ、俺が今はっきりさせたいのは今後のことだ」


 パソコンと鳴海の間を行ったり来たりしていた須川の瞳がようやく落ち着いた。鳴海は、自分にまっすぐ据えられる、探究心に富んだ須川の漆黒の瞳を覗き込んでいた。


「昨日もちらと話したけど、須川は一人目だ。あと二人、仲間が必要になってくる」


「猿とキジってわけか。最終目的は?」


「不良たちの仲間になった友人を、こっち側に連れ戻す」


「友人って? 鳴海の?」


 須川の真剣な顔つきは鳴海の不安を徐々に掻き消してくれた。須川にやる気がなかったらどうしようと、そればかり気がかりだったのだ。


「小学校からの付き合いだった……名前は柳川拓真。顔の火傷跡が原因で今もいじめられてる。その……本当のことを言うと、全部僕のせいなんだ」


 鳴海は全て正直に話そうと、腹を決めた。


「僕もいじめられてたんだ。バカで、運動オンチで、顔もこんなでヘタレだから、受ける側の格好の的だった。小学生の頃、僕たちは純粋だった。同じいじめられっ子の柳川に、僕は自分にとてもよく似た境遇を感じた。その感覚が、僕たちを近づけるきっかけになったんだ」


「いい話じゃないか」


 感嘆に声を潤わせながら須川は言った。鳴海は首を振った。


「中学へ進学して環境が大きく変わってから、僕の考え方も変わった。いつの日からか、僕がいじめられるのは柳川と一緒にいるからだと、そう思い込むようになったんだ。それからは、一緒にいるのが苦痛でしかなかった」


「あんまりいい話じゃないな」


 落胆気味の須川が改めて感想を述べた。


「でしょ? ついこの前、柳川に言われたんだ……『お前、俺のこと嫌いだろ』って。全部分かっていたあいつが、それでも僕と普通に接してくれていたことに、僕は自分を恥じ、恐怖さえ感じた。だから僕は助けたいんだ。あいつが自分を見失う前に。それが僕にできる唯一の罪滅ぼしだと、そう思うから」


 終わりの合図は、昼休み終了のチャイムだった。二人は図書室から各自の教室へ向かって廊下を歩いた。


「話が聞けて良かった。どうなるかと懸念したが、やっぱりサークルに入ったのは間違いじゃなかった」


 驚くことに、須川の反応は鳴海が予想したものと大きく違っていた。今の話を聞いて、サークルを脱退されたらどうしようかと心配していたのだ。


「須川オフィスについては今日の放課後にでも話すよ。図書室、来れるだろ?」


「うん。でもちょっと遅れる。トイレの床掃除があるから」


 二人は放課後に会う約束をし、各々の教室のそばで別れた。

 何の弊害もなく、ごく普通の気持ちで会話できる仲間ができたことに、鳴海は、大きくも些細な幸せを得ることができた。




 最後の授業のノートを取り終わる頃、午後から鉛色に変わった空がいよいよ雨を滴らせ始めた。鳴海には、校舎全体をしっとりと包み込む弱い雨が、これから起こり得る不吉な災難を暗示しているような気がしてならなかった。


「いい? トイレよ」


 授業が終わると、辻岡にいきなり釘を刺された。まるで、鳴海がとんずらするとでも決め込んでいるかのような言い草だ。


「分かってるよ。待ちに待った床掃除だ……」


 頭上の曇天よりも深く暗い声で鳴海は呟いた。


 放課後、鳴海と辻岡が揃って二階のトイレへ行くと、一足先に久木が待っていた。


「何を企んでるのか知らねえが、お前たちの勝手は許さんからな」


 むさぼるような視線をぶつけながら、久木が出し抜けに言い放った。


「終わったらまっすぐ帰れよ。なあ、鳴海」


 久木が鳴海の肩に腕を回し、軽く首を締め上げた。大蛇を思わせるそれは、鳴海を心底震え上がらせた。


「もしまた図書室に寄り道するようなことがあったら、その時は床のモップがけじゃ済まねえぞ。いいな?」


 マントのように着こんだ背広をひるがえし、久木はノソノソとその場を離れていった。二人は何も言わず、目も合わせず、それぞれの持ち場へ向かった。


 男子トイレは見るも無残だった。鮮やかなミントグリーン色は控えめに、暗緑色のコケのような汚れが天井を覆い、壁を伝い、床を這っていた。ヘドロまがいの黒ずんだ物質がひずんだ排水溝にこびりつき、網目に引っ掛かってぶら下がっている。黄ばんだ便器は悪臭を放ち、目の前の凄惨な現実に輪をかけているようだ。

 鳴海は立ち尽くすしかなかった。


「三日もあれば終わるわね」


 辻岡が揚々と言った。二人はトイレの脇にある手洗い台でバケツに水を貯めている最中だった。


「こっちは一年あっても無理だ」


 鳴海は真実を口にした。


「僕と交換しない?」


「イヤ。さっきチラと見たけど、まるで下水道じゃない。あれじゃどこで用を済ませても一緒よね」


 持ち場に戻っても、辻岡の最後の一言が頭から離れなかった。途方に暮れたまま見渡す床に、吐き気さえ覚えてきた。悪寒が全身を疾駆する。


「クソ久木、クソまみれ。クソ久木、クソまみれ。クソ久木、クソまみれ……」


 深呼吸しないよう細心の注意を払いつつ、ひたすらモップで床をこすりながら、鳴海はそればかり繰り返していた。


 久木が自分のことを忌み嫌っているのは、入学した当初から分かっていた。だが今回ばかりは度を超えている。何十年も掃除とは無縁らしいこの醜悪なトイレに二週間も縛りつけるなんて、死刑を宣告するようなものだ。

 どうすることもできない歯がゆい怒りが、更に鳴海の気分を悪くさせた。


「ずいぶんお似合いだな、鳴海和昂」


 背後から声をかけられるのは、この日だけで三度目だった。しかもこの不吉色に染まる声は、一度目と瓜二つ。不承不承ふり返ると、戸田がトイレに入って来るところだった。更に厄介なことに、他に五人の男子を従えていた。どれも何となく見覚えのある顔ぶれだった。


「やあ」


 鳴海は作り笑いで対処した。こちらが向こうの挑発に乗らなければ、無事に難を逃れられることを鳴海は知っていた。


「さっきの続きだ。ケリをつけに来た」


 戸田がにおう立ちで声を張り上げた。後ろの男子たちは誰一人トイレの中に入ってこようとしない。


「いいけど、こんな大勢でどうしたの?」


 鳴海は冷静に事を進め、あたかも後ろの五人が気になるような素振りで戸田を見た。


「俺たちは『辻岡可憐・隠れファンクラブ』の、会員NO.001~006までの会員だ」


 鳴海は耳が故障したに違いないと確信した。悪臭で鼻より先に耳がイカれたらしい。


「へえ。面白そうだね」


 鳴海は心にもないことを言った。どうやら、物凄く関りたくない人たちに絡まれてしまったらしい。


「会員でないお前が、会員である俺たち以上に辻岡さんと仲良くしてることが、本当に面白いと思うのか?」


「言われてみれば、確かにつまんないよね」


「面白いとかつまんないとか、そういうことじゃねえんだよ!」


 汚れの巣食う床を足でガンガン踏みつけながら、戸田はいきなりがなった。


「かわいそうな辻岡さん。一人でトイレの掃除なんかさせられて……これも全部お前のせいなんだぞ、クソ鳴海!」


「僕にどうしろっていうのさ?」


 クソまみれのモップを武器に、鳴海は一歩だけ前へ踏み出した。五人の軟弱そうな男子に囲まれた戸田よりも、最悪の惨劇をかもす男子トイレを味方につけた鳴海の方が、今やよっぽど力強く見えたに違いない。後ろの五人は更にトイレから離れたが、戸田は突き上げたアゴを引っ込めようとはしなかった。


「どうもしないさ。ただ、俺たちはお前が憎いだけだ」


「ばかばかしい」


 少しずつ上乗せされていたイライラが、うっかり口を突いて飛び出してしまった。前例のない失敗である。案の定、戸田に思い切り突き飛ばされ、後方の窓に背中をぶつけた。

 鳴海はモップを構えたが、反撃できなかった。


「柳川……!」


 窓から見える光景は、学校内にある中庭だった。枯れたヒマワリの植わった花壇に囲まれ、木造のシャレたベンチがまばらに置かれている。その真ん中で、坊主頭の男子生徒と対峙する柳川の姿がはっきりと見えた。二人の男は雨に打たれながら、一触即発の雰囲気をみなぎらせている。よく見ると、二人の周囲には生徒たちが集まっており、窓から覗き見ている者も少なくない。

 降りしきる雨の中、次には、坊主頭が柳川に飛びかかっていた。


「どいて!」


 鳴海はモップをその場に放ると、戸田をあえて床に突き飛ばし、五人の護衛をなぎ払って廊下へ飛び出した。


「ちょっと、どこ行くのよ!」


 ピンクのゴム手袋を装備した辻岡が手洗い場からひょっこり顔を出し、驚いた様子で鳴海を凝視した。


「行かなきゃ! どうしても!」


「ダメ!」


 しぼりかけの雑巾を投げつけながら辻岡が吠えた。的を外れた雑巾は壁にぶち当たり、しぶきを撒いて床に落ちた。


「あんたって底無しのバカだね。また罰則が重くなったらどうするの? いくら興味深い悪魔が潜んでるって言ってもね、これ以上は割に合わないわよ」


「君は関係ないだろ? 僕の勝手な判断だ! 行かなきゃダメなんだ!」


「久木の性格知ってるくせに! 私まで巻き添え食うに決まってるじゃない!」


「だったら君も来いよ!」


 言いながら、鳴海はもうとっくに駆け出していた。辻岡が何か叫んでいるが、すでに床に刻む足音しか聞こえない。階段を転がり落ちるように駆け下り、中庭へ面した廊下まで疾走した。廊下は事態を聞きつけた野次馬で溢れ返っていた。


「鳴海!」


 立ち往生していた鳴海の背後から、この日、まさに四度目の声がかかった。その声は、先の三つなど足下にも及ばぬほどおぞましく、野次馬の喧騒の中でもはっきり区別できるほど明瞭に響いた。

 振り返るとそこには、ゴム手袋の下で握られた拳を震わせ、両目を血走らせた辻岡の姿があった。髪は乱れ、呼吸は荒く、血走った目が殺気を放って鳴海を睨みつけている。


「戻るのよ……早く……さあ……」


 辻岡が完全にキレているのは分かっていた。しかし、鳴海は首を縦には振れなかった。


「僕は行くんだ……そう決めた。柳川に会うんだ」


 人垣を押しのけ、鳴海は中庭へ通じるドアを押し開いた。

 雨が柔らかく顔を打つのと同時に、澄んだ中庭の空気が胸を満たしていった。そんな清々しい心地とは裏腹に、目の前に広がるそれは、鳴海から『喜』の感情を奪い取るのに最もふさわしい光景だった。

 石畳の地面にうつ伏せで横たわるのは、坊主頭の男子生徒だった。


「……鳴海」


 坊主頭にトドメを刺したであろう、その大きな拳を固く握りしめたままの柳川が、死んだ魚のような瞳で鳴海を見つめ、そしてその名を呼んだ。短髪から滴った水滴は頬の火傷跡をなぞり、雨と混じって地へ流れた。


「……何やってんだよ」


 突き刺すような観衆の視線をシャワーのように浴びながら、鳴海は静かに尋ねた。


「これが俺のやり方だった」


 満ち足りた晴れやかな表情で天を仰ぐと、柳川は落ち着き払った様子で言った。


「たしか、“強い”ってこういうことだったよな……なあ、鳴海?」


「……自分で考えろ」


 鳴海は感情のままに言い放った。柳川が大きく舌を打つのが分かった。


「ずいぶん冷てえじゃねえか、え?」


 猫背で傾いた柳川の頭が、鳴海をゆっくりと振り返った。無の表情に一際ぎらつく、二つの残酷な瞳が鳴海を捉えた。


「自分の存在意義を主張するには、強さの証明しかねえんだ。それは、俺と、お前が、一番よく承知してることだろう?」


「そうさ。僕たちは常に強くありたかった。いじめに屈しないために。でも、僕は君とは違う」


「同じだ」


「違う!」


 鳴海は拳を握った。目の前の分からず屋を引っぱたいて改心させることができるなら、力いっぱいぶん殴る覚悟はできていた。


「殴るのか? 俺がこいつをやったように? ほら、同じだろ」


「柳川は自分のために彼を殴った。僕は君のために君を殴る」


「お前じゃ無理だ」


 雨に足を取られながらも、鳴海は拳を振り上げた。渾身の一撃は雨粒の一つ一つを叩き、柳川目がけてまっすぐ飛んでいった。


 気付くと、放った拳は虚空を貫いていた。


 刹那、腹部に強烈な痛みが走り、鳴海の視界は閉ざされた。




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