第二話 だって私、一之瀬もと子ですから
「まあ座れ」
黒葉に促されるまま、鳴海はおずおずと教壇の上に尻を据えた。彼のお気に入りの席は、なぜか埃まみれだった。
「まずは……うん、おめでとう。君は選ばれた」
「ありがとうございます」
鳴海は笑顔で応えたが、何のことかイマイチよく分かっていない。
「桃太郎サークルの復活において、やらなければならないことは山ほどある」
鳴海の前を右往左往しながら、黒葉は息も声も弾ませた。
「一応言っとくが、このサークルは学校非公認で、部活とはまるで無縁。活動は内密で、しかし濃密だ」
「黒葉さん、一体何をするんですか?」
鳴海が尋ねると、黒葉は足を止めてこちらを振り返った。
「おいおい。俺たちは契約の下で結ばれた同志じゃねえか。もっと砕けた喋り方で頼むぜ」
「あっ、じゃあ……黒葉、一体何すんの?」
「何かムカツク」
鳴海は耳を疑った。困惑顔を覗かせると、黒葉に鼻で笑われた。
「そんなツラすんなって。ジョークだよ」
「はあ……」
「活動目的は桃太郎のお話どおりだ。桃太郎……つまり鳴海は、これから三人のお供を連れ、鬼を退治するために鬼ヶ島へ旅立つ。そして鬼を倒す」
その誇らしげな表情は、「簡単だろ?」とでも言いたそうだ。
「君の言う、仲間と鬼って誰なの?」
「鬼のことは言うまでもないだろう。君がなぜ俺を頼ったのか、その理由が答えだ」
「柳川……」
鳴海の脳裏をかすめたのは、自分の元を離れて行く柳川の後ろ姿だった。
「俺は仲間のことまで首を突っ込むつもりはない。ヒントはやるが、後はお前次第だ」
「ええ……だって、君も桃太郎サークルの一人なんだろ?」
「ちっげえよ。俺はアドバイスするだけ。まあ、顧問の先生みたいなもんだ」
目の前で無邪気に笑う男を否定するように、鳴海はブルブルと首を振った。
「僕一人でなんて無理だよ。そもそも、そんなこと出来るくらいなら今ここにいないよ」
「ああ。俺もそう思った」
なんなんだコノヤロー。本を握る鳴海の手に思わず力が加わった。
「まあ落ち着け。いいか、確かに強くなるチャンスを提供するとは言った。だが、俺だけの力じゃ無理なんだ。鳴海自身が変わりたいと思い、アクションを起こすからこそ、この契約は本当に成立すんだよ。そいつを肝に銘じとけ。それと……」
黒葉の視線の先がおもむろに本へと移った。
「同時に、俺にかけられた呪いを解くことも忘れちゃならん」
「ずっと気になってたんだけど、その呪いって何なの? 呪いで人を苦しめる文化なんてとうの昔に滅びたと思ってた」
「無知な奴が口にしたがる、典型的なセリフだぜ、それ」
鳴海の手から本をもぎ取ると、黒葉は小バカにしたように言い放った。指先でページをはじく乾いた音が鳴海の耳を打った。
「にわかには信じられない話だ。鳴海のような“平穏な人間”には特にな。つまり、呪いのことはまだ明かすべきではないと、俺はそう察する。唐突に話したところで理解できる代物じゃなし、信頼関係の欠落も否めない」
「じゃあ、僕はどうやって君の要求を満たせっていうの? 平等に契約を重んじるのが君のやり方だろう?」
「ヒントならある。じいさんが随所に残したヒントがな」
持ち上げた本を耳元でユラユラさせながら黒葉は言った。
「さっきも言ったが、じいさんは呪い解除のヒントを暗号という形でこの本に記してくれた。俺に解いてみろとばかりにね」
「でも君じゃ無理だった。そして僕を頼った。あのアナグラムを解読したこの僕を」
その内、黒葉の顔がしかめっ面に変わっていく様を見届けながら、鳴海は得意になって言い切った。
「言ってることは正しい。正しいがムカツク」
黒葉は本を放ってよこすと、鳴海を刺すように睨みつけた。睨まれるのは慣れていたので、むしろアゴを突き出して鼻で笑ってやった。
「言い訳がましいが、俺はパズルの類が苦手なんだ。そもそも、じいさんとは昔っから馬が合わなかった。くたばるその前に二十年分の呪いが成功できて、さぞかしご満悦だろうよ」
「二十年分って?」
「おっと、なんでもねえ。独り言だ。とにかく、俺のことも気になるだろうが、それは追々明かすことにしよう。では約束通り、仲間探しのヒントをやろう。三年二組の『一之瀬もと子』を訪ねろ。制限時間はこの昼休みいっぱい」
鳴海は腕時計を覗き込んだ。五時限目開始まであと五分もなかった。
「せっかちだなあ!」
「まっ、一段落したらまたここへ来な。ただし一人でだぞ。分かったら早く行け」
鳴海は埃で足を滑らせながら、倉庫をがむしゃらに飛び出していった。本をポケットに押し込みながら階段を駆け上り、廊下にたむろする生徒の群れを縫いながら廊下を疾駆した。逃げ足だけは速い鳴海も、こういうことに両足を使うのは苦手だった。
しかし、やっとの思いで三年二組の前に辿り着いた矢先、鳴海は恐ろしいことに気付いた。教えてもらった人物の名をどこかに落っことしてきたらしい……肝心なものを完全に忘れていた。
「何?」
入り口の前に突っ立っていた鳴海に、背後から声が掛かった。鳴海が飛びのいて振り向くと、三人の男子がこちらを見下ろしていた。みんな鳴海の頭二つ分ほど背が高い。
「あの……誰かを訪ねに……その……」
「誰?」
三人が一斉に尋ねた。疲れも相まって、両ひざが恐怖で震えだした。トイレでカツアゲされた記憶がふつふつと蘇る。あれは中学生の時だった。
「だから誰なん……ちょっ、なんでこいつ泣きそうなの?」
涙目の鳴海を置いて、男子たちは「やべえやべえ」言いながら教室の中へ逃げ込んでいった。うつむいて鼻をゴシゴシしていると、鳴海の視界は紺色のスカートで覆われた。
彼らとバトンタッチするように現れたのは、太ももまで伸ばした黒髪に艶美をかもした怪しさをちらつかせる、一人の小柄な女子生徒だった。身の丈は鳴海よりも遥かに小さいが、その圧倒的な目力たるや、獲物を狙う獅子さえ敵わぬ力強さだ。
鳴海はとっさに、自分の探している人物はこの人に違いないと、そう感じた。
「お名前は?」
透き通るような静かな声は昼休みの喧騒を物ともせず、同時に、鳴海を心から安堵させた。
「すいません。来る途中に忘れちゃって……」
鳴海はヘラヘラしながら答えた。
「そうじゃなくて、あなたのお名前」
女は冷静に訂正した。
「あっ……はい。鳴海和昂です。一年一組の鳴海和昂」
「私は一之瀬もと子。あなた、黒葉に言われて私を訪ねてきたんでしょう?」
まるまる全部言い当てられて、鳴海はしばし呆然としてしまった。だが、この女の子が本当に『一之瀬もと子』本人だったことには素直に納得できた。
「なんで? どうして分かったの?」
鳴海が迫ると、一之瀬は口元に微細な笑みを含み、柔らかく微笑んだ。
「なぜって、一之瀬もと子ですから」
折しも、昼休み終了のチャイムが鳴り響いた。
「今日の放課後、図書室で待ってます。必ず来てください」
「えっ? ちょっと……」
鳴海が止める間もなく、一之瀬は足早に教室へ戻ってしまった。その長い黒髪を、そよ風に吹かれるカーテンのごとくひるがえしながら。
放課後の図書室には以前ほどではないが、暗号解読に励む生徒たちがまだ数名残っていた。取り越し苦労だと言ってやりたいが、彼らの楽しみの一つに水を差すつもりは毛頭ない。得体の知れない物に好奇をたぎらせる熱意を、鳴海は誰よりもよく理解しているのだ。
「鳴海さん」
辺りをキョロキョロ見回していた鳴海の背後から、あの汚れのない純白の声が聞こえてきた。閑静な図書室にはピッタリの声質だ。
「待たせてごめんなさい」
千鳥足になっていることも気付かず、なるみはフラフラと一之瀬の座っている席へ歩み寄った。
「いいのよ。そこに座って」
席は四人掛け用の割と大きなもので、鳴海は一之瀬の正面に座るよう指示された。
「これから何するんですか?」
「……鳴海さん、黒葉から何も聞いてないんですね」
少し驚いた様子の一之瀬に向かって、鳴海は何度もうなずいた。
「では、改めて自己紹介を。私、女子高生兼タロット占い師の、一之瀬もと子です。以後、お見知り置きを」
「う、あ……こ、こちらこそ」
一之瀬が軽くお辞儀したので、鳴海も慌てた素振りでそれに続いた。こんなかしこまったお辞儀は生まれて初めてだ。
「黒葉とはどこまで話しました?」
一之瀬にそっと声を掛けられ、鳴海は下げっぱなしだった頭を急いで振り上げた。
「たしか、桃太郎サークルのこと、彼にかけられた呪いのこと、おじいさんのこと、あなたのこと。かいつまんだ説明だったんで、イマイチ理解してませんけど」
「せっかちですよね、彼」
「ええ、ほんとに」
鳴海がためらいもなく同意すると、一之瀬は声もなく笑った。
「でも良かった。桃太郎サークルの復活は黒葉の望みでしたし、彼にピッタリの契約相手もこうして見つかって」
一之瀬の大きな瞳にじっと覗き込まれて、鳴海は耳が熱くなるのを感じた。
「黒葉からもう聞いてます。あの暗号をたった半日で解いたのがあなただってこと」
「いやいや、大したことじゃないですよ。僕パズルが好きで、あれくらいなら朝飯前なんです」
謙遜に自慢をブレンドしながら、鳴海は伸ばし切った鼻の下で言い切った。
「でも、一番に解いてくれたのがあなたで安心しました。そうでなければ、私の苦労は水の泡となっていたかもしれません」
「どういう意味?」
「あの暗号を学校中にばらまいたのがこの私って意味です」
大声で叫びそうになる衝動を、鳴海はかろうじて押し殺した。行き場を失くした興奮は荒い鼻息となって体外へ流れ落ちていった。
「驚きました? 驚きましたよね。ていうか驚いてますね」
目をパチクリさせながら、鳴海はだんまりして一之瀬を眺めていた。
「おそらく、詳しいことはいつか知ることになるでしょう。今は時間もありませんし、話すと長くなるので、雑談はここまでです。本題へ移りましょう」
鳴海の中ではまだ何も解決していなかったが、一之瀬は有無を言わさず次の行動へ移っていた。革製の厚手の黒いカバンから取り出されたのは、紫の布に全体を包まれる、角張った“何か”だった。
「私の魂の一部、と言っても過言ではありません。このタロットカードで、まずあなたを占ってみます」
布が取り去られると、中から黒い木箱が現れた。そこから一之瀬が取り出したのは、手の平ほどもある束になった大きなカードだった。
「使用カードは大アルカナ22枚。スプレッドはワンオラクル。つまり一枚のカードを用い、鳴海さんの今と、近い未来を占います」
机上で手際良くカードをシャッフルしながら、一之瀬は声をいちだんと低くして説明した。鳴海はただ黙ってその様子を窺っていた。
「では……」
束ねたカードを手元に置くと、一之瀬は目を閉じ、鼻から深く空気を吸い込んだ。そのまま石像のように動かなくなったかと思うと、突如目が見開かれ、組まれていた右手はタロットの一番上に移動していた。鳴海が三度の瞬きを終わらせる頃には、二人の間に一枚のカードが置かれていた。
「正義のカード、逆位置。ですね」
「それって……よくないんですか?」
カードの中の剣と天秤を持った女性と目を合わせないようにしながら、鳴海は恐々と訪ねた。
「結果は、ええ、かんばしくないです」
一之瀬の表情が極端に曇った。
「正義のカードはバランスを意味します。意味はそれだけではないですが、今は、均衡が失われたイメージが強く具現化しています。鳴海さんは最近、何か大切な物を失い、かつてから築いてきた日常の安泰を一部欠落させているはず。人間関係のもつれ……でしょうか。早急な解決は望めません。また今後、更なる問題の浮上も想定できます」
鳥肌が腕を覆い、寒気が背筋を駆け抜けた。その的中率に、鳴海は開いた口から言葉を出し忘れた。
「何か質問はありますか?」
口をパクパクしていた鳴海に、一之瀬がそっと声をかけた。
「……良い事は起こらないんですか?」
出し抜けの一言がこれだった。
「そうですね……」
しばしカードに視線を落としながら、一之瀬はしばらく考えに耽っていた。鳴海には、一之瀬がありもしない希望を無理に探し出そうとしているようにしか見えなかった。
「これはカードから得た直感ですけど、鳴海さん、意中の相手がいるでしょう? しかも割と近い存在のはず」
鳴海は一之瀬を見つめたままゆっくりとうなずいた。
「今まで、彼女との間に距離を感じていませんでしたか? それはつまり、片思いだったから。……これは私の勝手な考察ですけど、今までのバランスが崩れるとすれば、あるいは明るい活路が見出せるかもしれません」
「それってものすごくポジティブな発想ですよね」
「ええ。正義の逆位置は本来、恋愛関係の悪化を示唆するものですから。それに私、空気を読むことには長けてるんです」
一之瀬は満面に笑みを浮かべてから、手元の正義のカードを束に加え、再びシャッフルした。
「さて、主旨は桃太郎サークルの仲間探しでしたよね。次のスプレッドはトライアングル。私が最も得意とするスプレッドで、あなたに最もふさわしい仲間を占ってみます」
言うと、一之瀬は上から三枚のカードを順に並べていった。その形はちょうど、鳴海から見ると逆三角形となった。
「では」
仰々しい空咳をポンと出すと、一之瀬は時計回りにカードをめくっていった。手際の良い様子は独特の緊張感をまとっている。なぜ一之瀬が静かな図書室を選んだのか、鳴海は今ようやく理解した。
「見えます」
三枚のカードを覗き込みながら、一之瀬は低い声で言った。鳴海は固唾を呑んで見守った。
「男でしょうか。なかなかの切れ者です……成績優秀……容姿端麗。非の打ち所がない。鳴海さんと同じ一年生でしょう」
「そんなことまで分かるの?」
鳴海はつい、うっかり、一之瀬を疑いの目で見てしまった。
「今日は調子がいいんです。こんなこともありますよ。ちなみに方角は……北西」
一之瀬は北西の方角へぐるりと視線を向けた。鳴海がその後を追うと、ずっと右斜め後ろの席に、眼鏡のレンズを拭く一人の男子生徒が座っていた。
その銀縁のごてごてした悪趣味な眼鏡を除けば、彼は好青年そのものだった。きっちり整った前髪に乱れのない制服。手元の小型ノートパソコンは“できる男”を際限なく象徴させている。
「あの人が? 仲間?」
鳴海はますます疑いにかかった。彼の周囲には、仲間どころか、お友達にだってなれそうにない高貴な気配が漂っている。
「ええ、間違いありません。絶対に」
一之瀬は自信満々の声色で豪語し、トドメにこう言い放った。
「だって私、一之瀬もと子ですから」
口癖なのだろうか……その一言は立ち向かって来る者の英気をくじき、彼女自身を更に偉大なものへと仕立て上げた。彼女に勝る術は皆無なのだと鳴海は悟った。
「でも忘れないでくださいね。彼は素質があるだけで、最終的な決定は鳴海さんにかかっているということを。さあさあ、彼に話しかけてみましょう」
一向に気の向かない鳴海は、一之瀬に急かされるまま席を立ち、重たい足をひきずるようにして彼の元へ歩いて行った。
「あの……」
気配を消したまま男子生徒の脇に立つと、鳴海は消え入りそうな声で話しかけた。男はタイピングに励むばかりで、鳴海を完全に無視した。近くで見ると、眼鏡のセンスの悪さに改めて絶望できた。せっかくの男前がほとんど台無しだった。
「あの、ちょっといい? ねっ! ねえっ!」
鳴海はムキになって語勢を強めた。無視されるのは得意だが、そんな事態に慣れてしまった自分に腹が立った。
「……何?」
男は、足の生えたメンドくさいものが自分の元へ歩み寄ってきたことに、相当なわずらわしさを感じているらしい。その声も表情も、露骨におっくうげだ。
「ぜひ、あなたに、桃太郎サークルに入ってほしいんです」
鳴海は遠慮なく単刀直入だった。
「わけ分かんね」
その声には、遠慮どころか愛想さえなかった。
「だから、あの桃太郎サークルが復活したんだ、ついさっき。別に、あなたが暇そうだからとかそういう理由じゃないよ。占いがあなたを導いた。僕の仲間にふさわしいのはあなただって、タロットが教えてくれたんだ」
「いい加減にしてくれないか?」
男は磨き上げられたレンズの奥から鳴海を睨みつけた。
「俺は君の言葉を5%も理解できていない。ただ100%分かったことは、君が俺を侮辱してるってことだけだ」
「そんな……違うよ。僕はただ、あなたに……」
「鳴海さん」
後ろから一之瀬の小さな声が聞こえてきて、鳴海はとっさに困り顔で振り返った。一之瀬が何やら指をさしていた。その先端は、パソコンのディスプレイの中だった。鳴海は納得した。
「暗号、まだ解けないんだね」
鳴海は溢れんばかりの同情を込めてそう言った。画面の向こうには、メモの走り書きと一緒に例の暗号文が表示されていた。
男の視線は一旦パソコンの方へ戻ったが、またすぐに鳴海を見つめ返した。その顔には、いぶかるような表情がびっしりまとわれていた。
「“まだ”だって?」
男が噛みついた。
「君は“もう”解けたって言うのか?」
「うん、まあね。昨日、放課後までの時間で」
打ちのめしてやろうとばかりに、鳴海は笑みを浮かべて言ってやった。その望みどおり、男の顔面は驚嘆で青ざめていった。
「はっ! 冗談! じゃあ答えを言ってみろ」
「いいよ。まず、下のヒントをヒントとして読解できるかどうかにかかってる。これはヒントその2が答えそのものだから。ヒント2を『アナグラム』と解読できれば、ヒントその1『“、”でくぎること』はその流れで掴めるはず。あとは根気と努力、センスが問われる」
「文字を並べ替えたアナグラム形式だってことはすぐに分かった。でもこいつを見てみろ。これほどの情報量で一つの文章を完成させるなんて人間業じゃない。ましてやこいつを半日でやり遂げたって? 君が?」
男は鳴海を下から上へ、上から下へ舐めるように観察し、乾いた声でせせら笑った。
「挑戦者へ」
鳴海は気にせず大声で読み上げた。今ここで、解読に努力している生徒全員に聞かせてやるつもりだった。
「私は秘密を残した。この暗号文を解き、その秘密を受け取ってほしい。期間は一週間。秘密の場所は一階、西廊下の奥にある倉庫。秘密を得れば誰かの望みが叶う」
男は言葉を失っていたが、やがて鳴海の言い放った解答をタイプし、暗号文と照らし合わせ始めた。
「冗談じゃないみたいだな。まさか、君がこの暗号を作ったんじゃないだろうな?」
「違う。作ったのはまったく別の生徒で、ある目的のために、暗号文を使って有望者を探してたんだ。僕が一番に暗号を解いて、秘密を……彼との契約を結んだ。契約相手は、この難解なアナグラムを解読できるだけの人じゃなきゃダメだった。彼は代価として桃太郎サークルの復活を宣言し、僕に桃太郎役を任せた。僕の望みは、友達を不良たちの魔の手から救い出すこと。そのために、僕はサークルの仲間を探してた。その一人目があなただった」
「……60%理解した」
画面を睨みつけたまま男は言った。
「つまり、俺に家来になれってことか。君の犬になれと」
「そんな言い方しなくても……」
「いいぜ」
突然の一言に、鳴海は拍子抜けした。
「ただし、無条件ってわけにはいかないな。どうだ、天才パズラー、俺と勝負しないか? 君が勝ったら、俺は君の言うことに従おう。サークルにも入るし、犬にでも猿にでもなってやる」
「僕が負けたら?」
「俺の助手になってもらう。俺はこう見えて忙しい身でね。あの暗号は息を抜くのにはピッタリの代物だった。名前は須川。『須川オフィス』っていやあ、ここらでは名の知れた詮索屋だぜ」
須川は誇らしげに胸を張ると、前髪をかき上げて鳴海を見つめた。須川オフィスなんて聞いたことがなかった。
「僕は鳴海。詮索屋って、誰かをスパイでもするの?」
「詳しいことは後で話すさ。君が負けた後にたっぷり」
「それで、何で勝負するの? パズル?」
「これだ」
須川がポケットに忍ばせていたのは、『ナンプレ200問』というメモ帳サイズの本だった。愛好者がよく持ち運ぶ、ポケットサイズのナンバープレース集である。
3×3のマスで区切られたボックスが縦横に3つずつ配置され、1つのボックスと1つのライン上には1~9の数が1つずつ入る仕組みだ。ナンバープレースは、空白となっている全てのマスを数字で満たせばクリアとなる。空白が多ければ多いほど難しくなるのも特徴の1つだ。
「パズルの定番にして俺の得意分野、ナンプレ。一番難しいレベルで勝負だ。問題は選ばせてやる」
「僕はパズル全部が得意分野だけどね。でも、一冊の本でどうやって勝負するの?」
本を受け取りながら鳴海は聞いた。
「このパソコンには自作のナンプレ作成ツールがインストールされてて、標準サイズのナンプレならどんなものでも問題化できるようになってる。俺はこいつでやるけど、君は特別、本に書き込むことを許してやる。そっちの方が断然早いからな。でもあんまり力むなよ。下のページに跡が残っちまう」
須川の早口をテキトーな相槌で流しながら、鳴海は数ある問題の中から特に難しそうなものをチョイスした。ナンプレをやるのは久しぶりだが、その大きな自信はブランクによる不安を消し飛ばしてくれた。
「これ、この問題で勝負だ」
「オッケー。じゃ、初めはウォーミングアップといこうか。ここへ座れよ」
鳴海のために隣の席を引くと、須川は鉛筆と消しゴムを取り出し、鳴海に手渡した。興奮からか、その声はボールのように弾み、子供じみた無邪気な笑みを満面にたたえている。
「そこの君、ジャッジを頼む」
「一之瀬もと子です」
きびきびと名乗りつつ、一之瀬は二人の背後に立ち、雰囲気をかたどった咳払いで緊張感を高ぶらせた。
「お二方、準備はよろしいですか?」
「いいよ」
「こい」
鳴海は鉛筆を握る手に渾身の力を加えた。その瞬間、心の中でこっそり息を潜めていた手加減も遠慮も、全てかなぐり捨てた。練習といえども、須川が全力で挑んでくるのは間違いない。
力むな、下のページに跡が残る……そんなつまらない陽動で力を抜くようなマネはしない。鳴海は本気だった。
「では……スタートです!」
掛け声と共に、鉛筆が紙の上でこすれる音と、キーの叩きつけられる音が絶妙に重なった。清閑だった図書室の一角は奇抜なコンサートと化し、二人が奏でる楽器の音色は、周囲の生徒たちの興味を引くのには十分すぎるほど不気味に聞こえていた。
「できた!」
一番に声を上げたのは鳴海だった。須川の愕然とした表情越しに画面を覗き込むと、まだ七割ほどのマスしか埋まっていなかった。
須川は何も言わずに本を取り上げ、巻末の答えと鳴海の解答を照らし合わせるのに夢中になった。挙句、怒涛の興奮による赤ら顔は徐々に青ざめていった。
「あってる……全部」
須川は自ら発した言葉で更に自分を追い込んでしまっていた。
「ありえない……一分を切ってるんだぞ。ありえない……」
「今のは練習だよ。次が本番」
2D格闘ゲームで、相手キャラを壁際に追い込んだ時の優越感が鳴海を満たしていった。
「そうだったな。……なあ、今度は俺に問題を選ばせてくれないか? 君は予想以上に強すぎた。それくらいのハンデなら構わないだろ?」
「互角の勝負ができるなら、望むところさ」
須川はあるページで手を止めると、問題を作成ツールに次々と打ち込んでいった。選ばれた問題にどんな意図があるのか、鳴海には大方の予想がついていた。
「準備はよろしいですか?」
驚くことに、尋ねる一之瀬のそばに見物人が十数名ほど立っていて、こちらの様子を愉快げな表情でうかがっていた。暗号解読に飽きた生徒たちが、暇を潰しに群れを成しているのだろう。
これは鳴海にとって厄介だった。ここにきて、思考回路の歯車が緊張でガタガタと悲鳴を上げ始めた。大勢の人間にじっと見つめられるのは大嫌いだった。
『集中しろ……問題に集中するんだ』
鳴海は自分にムチを入れた。
「準備……いいよ」
「こっちもオッケー」
「では……スタートです!」
一之瀬の明るい掛け声と共に、須川の指先がキーボードの上を滑走した。そのスピードは先ほどの比ではない。
鳴海の予想は的中した……須川はこの問題の答えを知っている!
だったら尚更、この勝負、須川に勝ちを譲るわけにはいかなくなった。向こうが卑劣な手に出るなら、こちらはそのスピードを更に上回るまでのこと。いじめられっ子の鳴海が経験してきた理不尽な暴挙に比べれば、こんな状況は屁でもないはずだ。
かつて逃げ続けてきた逆境から立ち上がる時……まさに今がその時だった。
鉛筆を強く握り直し、鳴海は問題と真っ向から睨み合った。純白のマスが次々と数字で埋められていく。血走らせたその目には、もうほとんど問題しか映っていない。
まばたきができない……息が吸えない……鉛筆がへし折れそうだ……1~9の数字が順ぐりに脳裏をよぎっていく……キーを叩く音がやんだ。
「……できた」
鳴海が鉛筆を置いた。強い緊張感が体に戻ってくるのを感じた。ふと横を見ると、須川がこちらを見下ろしていた。その口元には微笑が含まれている。
「遅かったな」
須川は言った。あとほんの数秒だった……鳴海より早く、須川は問題を解き終えていた。
「鳴海、君は本当によくやった。ナンプレで俺をすこぶる脅かす奴が同じ学校にいるなんて、まさか夢にも思わなかった」
「僕の負けです。煮るなり焼くなり助手にするなり、好きにしてください」
負けは負け……鳴海はいさぎよく降参した。
「カッコつけないでください」
つまらなそうに散り散りとなっていく観衆たちを背に、一之瀬が突然割って入った。
「そんなこと言って、桃太郎サークルはどうするんですか? だいたい、気付いているんでしょう、須川さんが不正をしたこと。だったらそう言ってやればいいんです」
「その通りさ」
須川はあっさり認めた。あんまり素直すぎて、鳴海も一之瀬も拍子抜けだった。
「つい昨日解いた問題だ。まばらだが、答えは覚えていた。けど今回はそいつがあだになっちまった。解答は俺の方が早かった……だがゲームは君の勝ちだったんだ」
須川は突き立てた親指でパソコンを指し示した。四ヶ所のマスが赤く点滅している。
「これって……誤答?」
画面に釘付けになりながら鳴海は呟いた。須川は鳴海の解答をチェックしているところだった。
「100%俺の負けだ」
須川の虚ろな瞳は閉じられた本を見つめ、やがて鳴海を辿った。
「約束どおり、桃太郎サークルに入ってやる」
「あ……ありがとう」
全身から力が抜け落ちていくのがはっきり分かった。乾いた喉からかすれた声がこぼれ落ちてきた。
「ただし、『須川オフィス』ごとそっくりそのまま。今年一番でかい依頼がまだ残ってるんでね」
「その依頼って何なの?」
「俺の助手になるなら教えてやる」
「じゃあいいや」
「冗談だっての。状況が落ち着いたらちゃんと話すさ。……そいじゃ、改めまして、須川蓮太だ。よろしく」
握手をかわしながら、鳴海は安息の吐息を漏らした。一之瀬から助けを借り、自分の力でやり遂げた達成感が充実した喜びへとつながったのだ。
須川蓮太が桃太郎サークルに加わった。
その日の内に、鳴海は倉庫へと向かった。黒葉はやっぱりそこにいて、教壇の上であぐらをかいたまま居眠りしていた。
「黒葉、起きろよ!」
声を掛けると、眠たそうな二つの目が交互にこちらを見つめた。
「なんだよ、嬉しそうなツラしやがって」
「やったんだ! 仲間が一人できたんだよ、すごいだろ?」
夕陽の中で、眠気を帯びた細い眼が綺麗な楕円に変わっていくのを鳴海は見た。
それから鳴海は、今しがた図書室で起こったことを余す所なく、冗舌に語っていった。まるで、ドラゴンと戦った英雄のおとぎ話を話して聞かせるかのようだ。鳴海は、大きな困難に立ち向かっていく自分を、壮大な物語の主人公へ置き換えることに何のためらいもなかった。
「今のお前、すっげえいいよ」
鳴海が呼吸を忘れて散々まくし立てた後、黒葉はただ笑顔でそう言った。
「ありがとう。みんな黒葉のおかげだよ」
「待て待て、礼を言うのはまだ早すぎるんじゃないか? たかが仲間の一人だろ、桃太郎の旅はまだ始まったばっかりだ」
「それもそうだね。……ずっと気になってたんだけど、桃太郎サークルが“復活”したってことは、前にもあったって意味だよね?」
「もちろん。遥か二十年も前だ」
二十年という数に、鳴海は素直に感銘した。
「とっくの昔話さ。当時は『ももたろう祭典』を企画・進行するための特殊な活動形態だった。5人定員のはずが、有志で募った数は軽く100を超える騒ぎだ」
「そんな桃太郎サークルがなくなっちゃう理由って何なの?」
尋ねる鳴海を前に、黒葉はしんみりとした顔つきで視線を落とした。ひょうきんな黒葉にはとても不似合いな表情だった。
「二十年前、ある一人の生徒が失踪した。桃太郎サークルを総指揮する生徒で、祭典の当日、突拍子もなく姿をくらませたんだ。その事件が『ももたろう祭典』の存続危機となったが、廃止されたのはサークルだけだった。今後、大々的に祭りを催すのは不謹慎だと考えられたんだ……事件はそのまま迷宮入りした」
「全然知らなかった……」
「だろうな。学校側はこの一件を無かったことにしてる。二十年……もう二十年も前の話なんだ」
「でも何で? 何で昔のことにそこまで詳しいの?」
鳴海は黒葉の目が不自然に倉庫内を泳ぐのを見た。まるで、聞かれてマズイことからこそこそ逃げ出すような仕草だった。
「あせるな。な?」
たっぷり瞳を泳がせた後、黒葉はそれだけ答えた。これ以上の追求は時間を浪費しそうだと、鳴海はとっさに判断した。
「分かった、もう聞かない。そうしてほしいんでしょ?」
「物分かりがいいな。さすが、天才パズラー。その調子で呪い解除も頼むぜ。あの本はもう読んだか?」
今度は鳴海が目を泳がせる番だった。
「実はまだ、まったく……」
「んだよ、大丈夫か? じいさんは直筆でヒントを残してるんだ。意味はさっぱり分かんねえけどな。これでも、お前には結構期待してるんだぜ?」
「明日までには目を通しておくよ。……じゃあ、僕はもう帰るね。黒葉は?」
「俺はまだ帰れない。どうしてもまだ帰れないんだ」
今、黒葉のその言葉に深い意味を追求することは可能だった。帰れない理由が、彼がいつもこの倉庫にいる理由と結びつくことは、どことなく明白だったのだ。だが鳴海はその訳を聞けなかった。聞いたところで、彼の瞳が再びあたふたと泳ぎだすのは容易に想像できた。黒葉のたった二つの瞳が泳ぐには、この倉庫はあまりに広すぎるのだ。
「じゃあね、また明日……あっ!」
鳴海の体が恐怖で凍りついた。途端に、熱風のごとく荒々しい鼻息が脳裏を駆け抜け、その氷のように固まった体をいい具合にほぐしてくれた。鼻息の主は怒り狂う久木先生だった。
「おっ、何か忘れモン?」
「トイレの床掃除忘れた」