最終話 かっこいい人生じゃねえか
いよいよ最終話です!
振り抜いた右手は痛みで感覚がなかった。
鳴海和昂の信念を握り締めた小さな拳は、闇を引き裂き、一人の男の心をまっすぐに捉えていた。柳川は背中から本棚に叩きつけられ、そのままくず折れるようにして床に尻をついた。据わった瞳は生気を欠いてはいたものの、今や図書室の大部分を包み込む炎の渦に照らされ、諦めきれない微弱の闘志をたたえているように見えた。
しかし、柳川は立ち上がろうとしなかった。
「たった一つ……」
柳川はふと抑揚のない声を放った。
「お前だけは……鳴海だけは捨てられなかった。初めて話したあの日からずっと……鳴海は俺にとって、唯一の絆だったから」
「……柳川」
鳴海はまだ痛む右手を差し出した。柳川は驚いたような目つきでその手を見つめ、次いで静かに鳴海を見上げた。
「もう一度、友達になるチャンスをくれないか?」
鳴海はほのかに笑いかけた。
「今度は柳川だけじゃない、周りのみんなも一緒だ。もう孤独なんかと戦わなくていい。誰も一人にさせない。僕には……僕らには、桃太郎サークルがあるから。だから、最後にもう一度だけ」
柳川の目は鳴海の右手に戻っていた。ただじっと見据え、頭の中では鳴海の言葉を模索しているようだった。やがて、柳川は鳴海の手を払いのけた。
「情けは嫌いだって言ったろ。それに……」
柳川はおもむろに立ち上がり、鳴海と向き合った。
「チャンスなんかいらない。俺とお前はまだ……」
「鳴海!」
須川の声が聞こえたと思うと、教室に二つの人影が飛び込んできた。図書室の濃い煙を掻き分け、熱をかいくぐり、須川と馬場が血相を変えて現れた。
「何やってる!」
出し抜けに須川が怒鳴った。途端に、深く煙を吸い込んだせいで激しくむせ返ってしまった。
「隣の教室まで燃え移ってる。早くこっから出るぞ」
むせ込む須川に代わって馬場が説明した。
「二人とも……どうしてここが?」
辻岡の横たわる教室の隅の方へ向かいながら鳴海は聞いた。
「大久保に吐かせたんだ。柳川のことも、一之瀬のことも全部な。大久保は倒したぜ。二人がかりだ」
馬場の表情には勇壮なたくましさが広がっていた。炎が照らすのは、痛ましく腫れ上がった左まぶただった。
「須川が大久保の耳にかじりつくだろ。その隙に俺は奴の股間をだな……」
「馬場、武勇伝は後だ。体育館に避難するぞ」
「……ダメだ」
辻岡を助け起こしながら鳴海は言った。
「倉庫へ行かなきゃ。僕にはまだやらなきゃいけないことが……」
「正気かよ?」
須川が天井を仰いだ。
「このままじゃ倉庫だって危ないんだぞ。一之瀬に何言われたか知らないが、鳴海をみすみす危険な目に遭わせるわけにはいかない」
「そうじゃない」
鳴海は首を振った。
「黒葉を助けるんだ。倉庫でずっと僕を待ってくれてた……たった一人で。僕にしか彼を救えない……だから行くんだ」
「でもな……」
「行って」
耳元で辻岡が囁いた。その微かな生気に、全員が目を見張った。
「辻岡さん! 大丈夫? 怪我はない?」
鳴海は辻岡の弱り切った顔を覗き込んだ。辻岡は自分の足で立ち上がり、鳴海を睨んだ。
「あたしのことはいいから。鳴海は、鳴海にしかできないことをやるのよ。分かるでしょ? 時間がないの」
鳴海は力強くうなずき、須川と馬場の方へ向き直った。
「辻岡さんと柳川をつれて、体育館へ避難して。僕は倉庫へ行く」
馬場は納得したようにうなずいたが、須川はどうも腑に落ちないようだった。険しい表情が煙でかすんでいた。
「俺もついて行っちゃダメか?」
こんな状況下でも、須川は仲間意識への誇りを忘れはしないようだった。そのことを鳴海はとても嬉しく思ったが、自分の意思を変えるつもりはなかった。
「僕から始まった。だから僕が終わらせる」
鳴海の断固とした意思を前に、須川はいよいよ折れた。やれやれ、といった調子で肩をすくめていた。
「30分で戻って来い。絶対だ」
「ありがとう」
炎の熱気をまとい、鳴海は図書室を飛び出した。
足取りは軽い。廊下を弾むようだった。腹の底からふつふつと力が湧いてくる。窓を叩く雨も、吹きすさぶ風も、薄暗い廊下も、みなはっきりと鮮明だ。足を踏み出すたび、脳みそが明瞭に冴えてくる。仲間から得た思いが、鳴海に勇気を奮い立たせていた。
走れ! 鳴海は自分へ叱咤した。
向かった先は倉庫ではなく、一年五組の教室だった。一年生徒たちのカバン類はここに置くよう指示されていた。鳴海は教室に飛び込むと、即座に自分のカバンをわしづかんだ。
「動くな」
背後から声をかけられ、鳴海は彫像のように固まった。空気が瞬時に張り詰め、窓を打つ雨がひたすら騒々しく感じた。
「こっちを向いて……妙な動きを見せたら足首を切ります」
カバンを抱きしめたまま、鳴海はゆっくり、慎重に後ろを振り返った。眼前に一之瀬もと子が立っていた。あでやかな衣装はそのまま、その存在感は高圧的に鳴海を飲み込み、威厳の巨大さが皮膚をジリジリと焼くようだった。唇をキュッと結び、飛び出した眼球は戦慄を帯び、乱れた長い黒髪の奥でかいま見えた。
その手に冷たく輝くのは、血に濡れた短剣の切っ先だった。
「どうするつもり?」
銀の短剣と一之瀬を交互に見交わしながら鳴海は問うた。
「鳴海さんは人質です。あなたの血が、黒葉を解放するための好材料となるのは明白ですから」
「だって、まだノノグラムは解読できてない。黒葉の封印は解けやしない」
「いえ、もう解読できました」
一之瀬の顔がニタリとほくそ笑むのを鳴海は見た。
「あなたが図書室でノノグラムの途中経過を見せてくれた時、分かったんです。私だからこそ、あれだけの情報量で解読できた。しかし、今のままでは黒葉を解放することができても、その後、彼を思うままにコントロールできないだろうと私は考えました。私の目的は黒葉の解放だけではなかった……さあ、話は終わりです。参りましょうか」
一之瀬は短剣をドアの方へ振るい、鳴海の歩むべき道を指し示した。鳴海は一之瀬を見つめたまま、ゆっくりとドアの方へ歩いていった。
「さっき図書室で言ってた、『キリー魔術教団』って?」
閑散とした廊下を倉庫へ向かって渡りながら、鳴海は落ち着き払った調子で尋ねた。本当は、いつ串刺しにされるかも分からない短剣への恐怖で身も心もすくんでいた。
「私の祖母、桐井多代子を統率者とした魔術教団です。黒葉太助が率いた『ヨッド・クローバー教』とは仲も親密で、私たちの世代までその関係は続いていた。そして団員だった私は祖母からタロットを学び、同時に、人間を呪う儀式を学んだ」
廊下は段々と黒煙に満たされ始めた。煙は天井を覆い、視界を遮り、鼻から入って頭の中を包み込んだ。
「桐井多代子……僕、どこかでその名前を聞いた」
鳴海はどこでその名を聞いたのか思い出そうと、脳みそにこびり付く煙を掻き分けていた。だが、その必要はすぐになくなった。
「不良たちが放火した廃屋の家主……私が命令した……そこに人が住んでることを知っていた……桐井多代子が住んでることを」
鳴海の足が止まった。後方へ振り向こうとすると、冷たい切っ先が頬に触れた。
「歩きなさい……さあ!」
「どうして……どうして一之瀬さんがそんな命令を……?」
再び歩みを進めながら、鳴海はおずおずと尋ねた。
「邪魔だったのよ」
冷たい声が言った。
「私には力があった。生まれ持った才能。強いオーラ。過去を暴き、未来を見通すシックス・センス。いずれはあらゆる魔術教団の頂点に君臨する者……それが私。祖母を殺し、その座を奪うのに、私は手段を選ばなかった。至高の魔力、艶美な存在……それらを成し得るには、黒葉の力が必要でした。彼だけが知ってる、時間を超越する禁断の魔術……永遠の命こそ、私の真の目的だった」
煙はますます濃く、同時に熱を帯びてきた。かすんだ視界に息苦しさが相まって、ただ歩くだけでも難儀だった。そんな中、短剣を突きつけられ、廊下を歩く自分の姿がどんなものか、鳴海は鮮明に思い浮かべていた。
「ありえない」
客観的に見て、気付くと、鳴海はそんなことを口走っていた。
「ありえない、こんな状況」
「そうでしょうか? すべてはシナリオ通りですよ」
「馬鹿げてる。狂ってる」
歩を早めながら鳴海は続けた。
「黙りなさい。刺しますよ?」
「殺せやしない。僕の血が必要なんだろう? 僕を人質にして、黒葉を脅迫しようってわけだ」
鳴海は更に足を早めた。一之瀬の舌打ちがはっきり聞こえた。
「永遠の命? ずいぶん滑稽な野望だ。ちゃんちゃら笑えるね!」
「知った風な口をきくな!」
短剣が空を切りつける鋭利な感触が耳元をかすめるのと、鳴海が全速力で黒煙の中へ飛び込むのはまったく同時だった。カバンをよりしっかり抱え込み、鳴海は無我夢中で走り続けた。
くれてやるものか。黒葉も、永遠の命も、あんな奴なんかに!
やがて煙の向こう側に、開いたままの倉庫の入口がうっすら浮かび上がって見えた。鳴海は頭から突っ込んだ。
「黒葉!」
つまずいて床に倒れ、それでも這い進みながら鳴海はその名を呼んだ。教壇の上に黒葉がいた。首はぐったりと傾き、熱風がボサボサのくせ毛をなでていた。火はまだ届いていないものの、煙はより厚みを増し、室温はゆるいサウナのようだった。
「熱いよ、鳴海……熱い」
黒葉の弱り切ったかすれ声が聞こえてきた。手足は教壇の上から無気力にぶら下がり、目は前方を見つめたまま据わっていた。鳴海はドアに鍵をかけようと思い立ち、急いで振り向いた。
ドア枠に一之瀬が立っていた。短剣を構え、仁王立ちするその勇壮な様は、額縁におさまった一つの絵画のようだった。鳴海は一之瀬から片時も目を離さずに立ち上がり、三度向きあった。
「お前は人質だと、そう言った……そう言ったろう! 鳴海!」
その時、鳴海は見た。おぞましい一之瀬の形相の背後から音もなく現れる人影を。その何者かが腕を突き出し、一之瀬の首根っこに絡ませ、首を締め上げるのを、見た。黒煙の中から現れたのは紛れもなく、久木将人だった。
「ドアを閉めろ……鳴海。早く……!」
久木の青ざめた顔からしわがれ声が落ちた。血が抜けて衰弱しきった体で一之瀬にしがみつき、倉庫から少しずつ引きずり出していく。
「この……死に損ないめ!」
一之瀬はがむしゃらに短剣を振り回し、久木の巨体めがけて幾度も刃先を振り落とした。
「早く鍵をかけろ! 俺が時間を稼ぐ! その間に暗号を……」
短剣が久木の左肩を切りつけた。鳴海はいよいよ慌てて走り出し、ドアを閉めて施錠した。ドアの向こうから久木の呻き声が聞こえてくる。
「ごめん、先生」
ドアに額を押しつけ、鳴海は下唇を噛んだ。非力な自分が悔しくてたまらなかった。強くありたいと願う意思とは裏腹に、現実はより冷酷で、待ち受けるものは凄惨な光景ばかりだった。
「お前ならできる」
鳴海は黒葉を振り返った。笑っている。
「俺がお前を選んだんだ。だから自信を持て。フィナーレまであともう少しだ」
「分かった……やってやる!」
鳴海はカバンの中身を床にぶち撒け、『クローバー教の9つ』に挟んであったやりかけのノノグラムを引っ張り出し、鉛筆を握った。
莫大な集中力があらゆる神経に発破をかけるようだった。雨の音が聞こえない、汗を滲ませる暑さも、煙による息苦しさもない。研ぎ澄まされた意識が握られた鉛筆をよどみなく動かしていく。白マスは黒く塗りつぶされ、巨大ノノグラムは次第にその正体をあらわにしていった。
それは、数えきれないほどのパズルゲームを相手取って来た鳴海が対面する、かつてない程のプレッシャーだった。並べられた数字は闘志を放ち、鳴海に襲いかかって来る。鳴海にとって、もはやこれはゲームでも何でもない。二十年越しに実現した、黒葉太助との知恵と知恵のぶつかり合いだ。
絶対に負けられない。ノノグラムだけではない……黒葉太助にも、一之瀬もと子にも。
やがて浮かび上がったそれは、人物を逆さまに描いた絵のようだった。鳴海は用紙を上下逆さにし、どこか見覚えのあるその女性と睨めっこした。女性の像は、右手に剣、左手に天秤のような物を掲げ、凛々しい顔立ちでまっすぐこちらを見つめている。
「ダメだ……思い出せない」
その絵が何を意味しているのか、どこで見たのか、鳴海にはどうしても分からなかった。強烈な焦燥感が胸の奥から込み上げ、頭の中をかき乱した。
「思い出すんだ。今までのこと……自分が信じてきたもの……必ず手掛かりがあるはずだ」
黒葉の言葉には、取り乱した鳴海の心を落ち着かせる魔力が宿っているようだった。冷静さから遠ざかっていた鳴海の意識は再び集中力を補い、今の自分に必要な情報だけを過去の記憶から選別できるようになっていった。
「私だからこそ、あれだけの情報量で解読できた……」
鳴海は一之瀬の言葉を繰り返した。
「あの人特有の……魔術? 占い? タロット……?」
火に包まれたテントの中で、一之瀬が一枚のタロットカードを拾うのを鳴海は見ている。何のために? 鳴海に知られないため? 黒葉の封印を解くため?
鳴海は更に記憶をさかのぼった。一之瀬に初めて出会い、初めて占ってもらったあの時、鳴海を導いたカードは何だった?
「失われたバランス……人間関係のもつれ……確かにそう言われた! 自分が今まで信じてきたもの……!」
鳴海は顔を上げた。黒板に張られた『ももたろう祭典』のポスターが目に止まった。遥か彼方を望む桃太郎一行の勇敢な眼差しが、鳴海に壮大な信念を語りかけてくる。今まで信じてきたそれを……正義を。
「黒葉、君の名前はもしかして……」
短剣が窓を突き破り、微塵のガラス片が雨風と共に降り注いだ。鳴海は仰天してその場に飛び上がり、粉々に砕かれた窓を這いくぐってくる一之瀬もと子の姿に肝を冷やした。飛び出た目玉は執念をたぎらせ、雨で濡れた前髪の奥でギラギラと燃え盛っている。
「これ以上、悪あがきはやめましょう」
乱雑に積み上げられた机や椅子を踏み越え、一之瀬は甘い猫撫で声で言った。
「先生はどうした?」
鳴海はわななく声で聞いた。切っ先から滴る雨粒には、まだ少し血の赤みが残っていた。衣装をなびかせ、一之瀬は鳴海の前に降り立った。
「息の根を止めました……今度こそ」
「ノノグラムの答えは分かった。それ以上近づくと黒葉に答えを言うぞ」
一之瀬の高笑いが倉庫に響き渡った。哄笑を続ける濡れた女の顔は、まさに邪悪な魔女そのものだ。
「何も分かってないのね」
黒板の前に躍り出ると、一之瀬は威嚇するように短剣をかざした。さげすむ残酷な表情も、あざける声色も、鳴海の知らない一之瀬のもう一つの顔だった。
「答えが鍵じゃない。真実はここにある」
一之瀬は『ももたろう祭典』のポスターに手をかけ、一気に引きはがした。ポスターの下から現れたのは、黒板に描かれた魔法陣だった。複雑な模様で施され、その中央には縦長の四角いマスが、何かを心待つかのように描かれている。
「キリー魔術教団に二十年前から伝わる謎の魔法陣。それは、黒葉を本から解放するための鍵穴だった。本物の鍵は言葉じゃない……このタロットカードだ」
間違いない。一之瀬の手に握られているのは『正義のカード』だ。本に遺されていたノノグラム、そして図書室で鳴海が見たものと全く同じ絵柄だ。
「分かってるわよね、黒葉。あなたに課せられた呪いという天罰に終止符を打ったのが誰かを? あなたをここまで導いたのが誰かを?」
黒葉はうつむいたまま、何も答えなかった。一之瀬の鋭利な睨みが黒葉を捉えた。
「どっちの味方につこうと結果は同じなのよ。あなたは解放される……自由になれる!」
「分かってる……高望みはしない」
黒葉は沈んだ声で答えた。
「だが一之瀬、お前がどれだけ邪悪な思想の持ち主であるか、俺には分かる。お前は端から、解放する代価として『永久』の魔術を聞き出そうって魂胆だったらしいが、俺はそこまでバカじゃない」
一之瀬の顔にかすかな歪みが生じた。顔の内側で怒気を抑え込み、飽くまで冷静に事を運ぼうとしているようだった。
「恩は仇で返すのがあなたのやり方ってわけね」
「そうじゃない。もっと別の考え方があるはずだと言ってるんだ」
「もっと別の……あるわよ」
赤く染まった短剣の鋭い先端が、雷光を受けて残酷に輝いた。その切っ先が、まっすぐ自分に向けられるのを鳴海は直視した。
「こっちへ来い」
それは、寒気のほとばしる奸悪な声と表情だった。鳴海は助けを乞うように黒葉を見た。黒葉は確信めいた対策をにおわせるような、力強い眼差しで鳴海にうなずきかけた。鳴海は大人しく、慎重に一之瀬の元へ歩み寄った。すると、後ろ髪を強引に引っ張られ、むき出しにされた首筋に短剣の冷たい胴体が触れた。
天井を仰ぐ鳴海の頭の中はパニックだった。自分は死ぬかもしれない。久木がそうされたように、切りつけられ、血まみれになり、苦痛に悶えながら……。
「黒葉……」
切っ先が首筋をなぞった時、鳴海は祈るようにその名を呼んだ。黒葉が教壇から飛び降り、堂々たる風貌で一之瀬をねめつける様が視界の隅に映った。
「さあ、どうした黒葉。もう迷いなんていらない、そうだろ? お前が祖父を殺した。次は鳴海を巻き込むのか? 私に『永久』を継承するか、鳴海を見捨て本の中へ逃げ込むのか……選べ! 黒葉!」
束の間、両者の間に息苦しい沈黙が流れた。鳴海は更に勇ましく変化した黒葉の顔を見た。自分の命さえも任せられるような、たたくましい姿だった。
「……『永久』の魔術を教える。だから鳴海を放すんだ」
「鳴海を放すのはお前を本の呪縛から解放し、『永久』の魔術が本物かどうかこの目で見てからだ」
「分かった。“一之瀬”が俺を解放したら、俺はお前に必ず『永久』の魔術を伝授する。結果に不満があるようなら俺を殺せ」
「上出来」
一之瀬は魔法陣の描かれた黒板の前まで鳴海を引きずっていった。髪の毛を掴んでいた左手に短剣を握らせ、正義のカードを右手に掲げた。鳴海は自由になった頭をもたげ、黒葉が依然と雄々しい顔立ちのままでいるのを窺った。自信に満ちた表情で鳴海を見つめ、何かを語りかけるように目を瞬いている。
「では、終わらせましょうか、物語を」
感慨を帯びた一之瀬の声が倉庫に響いた。今まさに、この数ヶ月の間に起きた、嘘のような本当の物語が幕を閉じようとしているのは確かだった。そして……
「そして、始まるのです。新たな物語が……世界中の人間が私にひれ伏す、新たな時代が! 黒葉……あなたの名は正義……黒葉正義!」
一之瀬は『正義のカード』を魔法陣の真ん中に叩き付けた。辺りにただならぬ緊張が走ったが、黒板全体がビリビリと震動するだけで、鳴海が期待したようなことは起こらなかった。カードから眩い光が発せられるわけでも、黒葉が音もなくスーッとフェードアウトするわけでもない……現状は何も変わっていなかった。
「違う……? 間違えた……?」
耳元で一之瀬の言葉が震えていた。眼は黒葉を見据え、鳴海を抑え込んでいた腕から力が抜けていくのが伝わってきた。『正義のカード』が床に落ちていた。
「まさか……まさか……まさか!」
鳴海を突き飛ばし、一之瀬は黒葉に向かって突進し、剣を振るった。刃先は黒葉の体をすり抜けた。
「お前……黒葉! 細工しやがったな! 私に、間違いなど、ありえなかった!」
言葉と共に剣を振り下ろすたび、一之瀬の顔に憎悪の念がより強く刻まれていくようだった。それは見るも無残な一之瀬の執念だったが、鳴海は心の底で懸念していた。完全復活の儀式は失敗に終わった……だが、まだ終わっていない。これがフィナーレのはずがない。
鳴海は床に落ちた『正義のカード』を眺めていた。そして、上下逆さまになったそれを見て、突然ひらめいた。まるで、最後のパズルピースをはめ込む瞬間に立ち会うような、幸福感に似たものを感じた。
完成したノノグラムが逆さだった理由……一之瀬の見解が外れていた理由……占ってもらったあの時、鳴海に示された正義のカードが“逆位置”だった理由……そのすべてがつながった。
鳴海はカードを拾い上げ、立ち上がり、構えた。黒葉がうなずきかけた。一之瀬が鬼のような形相で振り返る。途端に、すべてを悟ったような表情へ変貌した。
「黒葉……君の本当の名は……」
「やめろっ! 言うなあああぁっ!」
一之瀬が短剣を振りかざすのを無視し、鳴海は腹の底から彼の名を叫んだ。
「黒葉義正!」
正義のカードを上下逆さで魔法陣に叩き付けた瞬間、一之瀬の放った銀の短剣が指元をかすめ、カードを射抜いて黒板に突き刺さった。鳴海は驚いて体勢を崩したものの、尻もちをつく程度で指に怪我はなかった。
鳴海は急いで一之瀬の方を向いた……黒葉の姿が跡形もなく消えていた。安堵と歓喜の笑みが顔中に広がった。それは、生涯で最も難解なパズルを破った瞬間でもあり、また、絶望という名の惨劇が始まった瞬間でもあった。
気付くと、目の前に一之瀬が立っていた。何もたたえないカラッポの表情で、床に転がった鳴海を見下ろしている。
「ありがとう、私の代わりに封印を解いてくれて」
「それが黒葉との契約だったからね」
言いながら、鳴海は黒板に突き刺さったままの短剣に手を伸ばした。一之瀬がそれより素早く短剣を引き抜いた。
「何か言い残すことは?」
抑揚のない、淡々とした声色で一之瀬は問うた。鳴海は恐怖を捨てた。
「僕は正しいことをやった。みんなに自慢できるカッコイイことをやってのけたんだ」
「だから悔いはない、と?」
「違う。だからこそ、僕は最後まで諦めない!」
「最期までおめでたい奴だったな、鳴海和昂……死ね」
鳴海は固く目を閉じ、腹に力を入れ、全部の歯で食いしばった。広がる闇の中に痛みはなかった。雨が地を打ち、窓を叩き、遠くで雷鳴の轟く音を聞くだけだった。次に何か起きるのを、鳴海は待っていられなかった。
目を開けると、一之瀬の背後に見知らぬ男が立っていて、短剣をかざした彼女の腕をしっかりと掴み上げていた。四十歳前後と思われる男は背広を着込んだ身なりだが、恐らく鳴海の知る学校の教師ではない。痩せ細った輪郭を覆う無精ひげ、クシで強引にとかしつけたようなボサボサの髪の毛、常に眠たげな眼。ちらつくあの男の面影。間違いない……失われた二十年をその身にまとった、『黒葉義正』その人だ。
「これが物語の最終話だ、一之瀬もと子」
一之瀬の手から短剣がこぼれ落ち、音を立てて床に転がった。鳴海は安堵の嘆息を漏らし、胸の奥で緊張の糸がプツンと切れるのを感じた。
一之瀬の真っ赤な瞳から滴り落ちる涙の粒が、すべての終わりを物語っていた。
彼方で消防車のサイレンが鳴っていた。
それからたった三十分後、学校祭には不謹慎なほど無縁なゲストが学校前に集まった。一台の救急車、二台の消防車、三台のパトカーという豪華な顔ぶれだ。ただそのどれにも、この雨と涙に濡れたお祭りを盛り上げ、祝おうなんてムードは皆無だった。それは確かだ。
久木は生きていた。四ヶ所もの刺し傷は脂肪に妨げられ、一之瀬の力では致命傷を与えるに至らなかった。久木は物も言えぬほど衰弱し、弱り切っていたが、意識はかろうじて繋ぎ止めていた。
消防隊員が決死の努力で火を消すかたわら、久木は玄関から担架で運び出され、救急車で搬送された。その際、鳴海は久木と目が合った。「よくやった」。久木の熱い視線が語りかけていた。
大半の生徒が体育館で待機している間、鳴海の相手はもっぱら警察だった。鳴海は一之瀬とは別に任意の取調べに応じ、事件の一端を怪しまれない程度に濁して語り明かした。
というのも、黒葉のことまで赤裸々に暴露するのはマズイと思った。ちょっと目を離した隙に黒葉は姿を消していたし、ましてや呪縛から復活したての男を、「参考人です」とバカ正直にホイホイ提示するのは、逆に鳴海にとってリスクが大きすぎた。
一之瀬もと子に脅されていたこと、鳴海が口にするのはそのことだけで十分だった。
図書室の隅から隅まで、焚き木代わりに貴重な書物のありったけを燃やしつくした炎も、一之瀬が警察に連行される頃には完全に消火されていた。
「少し、いいですか?」
プライバシーを尊重し、教職員用の玄関からコッソリ外へ出ようとしていた一之瀬が、取調べを終えたばかりの鳴海の所に、二人の警官にそれぞれ両腕を掴まれた状態でやって来た。その青白い悲哀な表情の一端には、先ほどまで荒々しく燃えていた怒気がまだくすぶっているようにも見えた。
「これをお返しします」
一之瀬が差し出したのはサイフだった。それも、以前鳴海が失くした、自分のサイフだった。鳴海は呆然とそれを受け取った。
「……どうして?」
「以前、鳴海さんの教室を訪ねた時、移動授業の時間割を確認し、あなたのカバンからくすねました。本当は上靴にしたかったのですが、鳴海さんが登校する前からなぜか靴はなかった」
「須川が隠してたからね。でも、何でサイフなんか……?」
「その日の放課後、私は再びあなたを占いました。これは、占いの結果を更に完璧に仕上げるための工作です。的中すれば、鳴海さんはより緊張感を持って行動できる。理由はそれだけではありません。いじめられ、孤立していたあなたは、何でも一人でやろうとする傾向が強かった。予期せぬ災難に見舞われた時、頼りになる仲間がそばにいるんだということに、気付いてほしかったんです。でも……」
一之瀬の顔に一筋の笑みがよぎった。
「でも、それ以上に鳴海さんは、とても正義感の強い人間でした。あなたは知っていた。たった一人でも立ち向かえるんだと……立ち向かってもいいんだと。そして、その勇気が誰かを守る力に繋がることを。あなたは強かった。私たちが思っていた以上に。……さようなら、鳴海和昂。本を拾ってくれたのがあなたで良かった」
「待って!」
連行される一之瀬の後ろ姿に向かって、気付くと、鳴海は声を張り上げていた。
「一之瀬さんと黒葉がいたから、僕はここまで変われた。嫌いだった自分を好きになれたんだ。楽しかったよ、とっても……この数ヶ月、僕はずっと笑顔でいることができたんだ。だから、きっと戻ってきてよ。一之瀬さんの力を必要としてる、誰かのために」
「…………もちろん、私は必ず戻ってきます」
長い黒髪をなびかせ、一之瀬は振り向いた。その顔に生き生きとした微笑みをたたえて。
「だって私、一之瀬もと子ですから」
足下に戻って来た平穏な日常を、鳴海は少し退屈だと感じていた。ただ過ぎ去っていくばかりの時間に刺激を求めるには、鳴海にとっての毎日はとてつもなく平和すぎると断言できた。しかもあの事件以来、黒葉の姿は影さえちらつかず、倉庫を訪ねても、秋の冷たい隙間風が埃を静かに舞い上がらせているだけだった。
やはり、あの時鳴海を助けた黒葉は幻影だったのだろうか? 生涯で一番の退屈を感じた時、黒葉のその後を模索するのは時間潰しにもってこいだった。
目的を果たしても尚、『桃太郎サークル』はここに健在だった。集会所となっていた図書室は炭と瓦礫に埋もれ、本の一切は灰と化していた。立ち入りは禁止され、復興の目途は立っていない。
この秋、須川オフィスという名の桃太郎サークルは、『PCルーム』と呼ばれるパソコンがズラリと並んだ教室の一角にその集会所を移していた。ここなら昼休み、放課後共に活用できるし、図書室ほど黙々とかしこまる必要はなかったので、みんなで精いっぱいダラダラした。
「久木がもうすぐで退院だってよ」
須川がにべもなく言った。学校祭で踊った『創作ダンス』の動画編集をクラスのみんなから頼まれたらしく、しばらく黙々と作業していた須川の不意の一言だった。
「しぶとい奴。四ヶ所も刺されたら普通死ぬぞ」
机の下から馬場が言った。場所が変わってもちくわパンを食らうその習慣が、久木のしぶとさより遥かに執念深いのは確かだった。
「でも、久木がいなきゃ僕は黒葉を救えなかった。それに、ずっと僕のことを守っていてくれたみたいだし」
晴天の秋空に当時を振り返りながら、鳴海はしみじみ言った。一之瀬との一戦を思い返すたび、興奮で頭皮に汗が滲んだ。かたわら、須川が呻いた。
「この際だからはっきり言うが、俺は鳴海の話を1%も信じてない。黒葉の呪いだの、永遠の命だの、久木の思惑だの。ありえないな……ありえない」
「誰でも信じられる話じゃない。僕だって、半分くらいは夢だと思ってる」
夢見るような恍惚な笑みで鳴海は言った。
「君の見解を聞かせてくれよ、辻岡さん」
頬杖をついて真っ暗なディスプレイをボーっと眺めていた辻岡に、須川が声をかけた。
「え? 何?」
辻岡はぼんやりと聞き返した。最近はずっとこんな調子だった。須川が気遣って声を掛けたのが鳴海には分かった。
「オカルトに詳しい君の見解が聞きたいんだ、是非」
須川がもう一度伝えると、辻岡はようやく顔を上げた。頬に手の跡が残っていた。
「現実逃避なんてダサイわね」
出し抜けの辻岡節は、鳴海たちを心底安堵させた。やはり、いつもの辻岡だ。
「黒葉はきっとどこかにいるわ。このまま姿をくらますような礼儀知らずな奴じゃない。あたしは彼に一度会ってるから分かる。それに、鳴海の言ってること、一之瀬もと子がやろうとしていたことはみな真実よ。じゃなきゃ、あたしが監禁された理由は不当でしょ……何笑ってんの?」
鳴海の笑顔を睨みつけながら辻岡は指摘した。
「だって、最近元気なかったから。やっぱり辻岡さんはこうでなくっちゃ」
「…………」
辻岡が何か言いたそうに口を開けるのを鳴海は見た。言葉は出てこなかったが、目は幾度もしばたき、鳴海だけをじっと見据えていた。そこに隠された辻岡からのサインを、鳴海は受け止めることができなかった。
桃太郎サークルに柳川拓真が加わることは、ほとんど必然的だったのかもしれない。
あの事件から数週間後のある日、独りぼっちで下校しようとする柳川を、学校を出てすぐの所でサークルメンバーが取り囲んだ。
「何も言うな」
柳川が明け透けなしかめっ面で文句を吐き出そうとするのを、鳴海が強引に制止させた。
「飯でも行かねえ?」
馬場がいつもの気だるそうな調子で提案した。柳川が一人歩き出したので、一行は何食わぬ顔つきで後を追った。
「ざるそばおごれよ」
須川が挑戦的に申し出た。
「何その渋いチョイス」
鼻で笑ってあしらう馬場に、今度は辻岡が詰め寄った。
「アイス食べたい。ミルク村のアイス。おごれ」
「何で俺がお前らのサイフ代わりなんだ? アイスなんてコンビニのでいいだろう」
次いで鳴海が挙手した。
「僕はやたらすっぱい物が食べたい。そしておごられたい」
「投げやりで言ってるだろ?」
校門を出ると、四人は更に柳川との間合いを詰めた。柳川は終始だんまりして歩き続けたが、いよいよ鳴海が声をかけた。
「柳川は何がいい? 馬場のおごり前提で」
馬場が睨み落とすのを無視しながら、鳴海は柳川からの返事を待っていた。鳴海だけではない……みんな同じ気持ちだったはずだ。
ふと、柳川が立ち止まった。鳴海、辻岡、須川は顔を見合わせ、馬場は緊張した面持ちで構えた。柳川の仏頂面がこちらを振り返った。
「寿司……食べたい。おごりで」
「却下」
紅葉が盛りを迎え、木枯らしが冬の気配を運んでいた。
毎日は相変わらず退屈だった。柳川のサークル参加や、現場復帰した久木の生命力の図太さを目の当たりにした以外、新鮮味のない日々は鳴海からあらゆる気力を奪っていくようだった。
糧となる大きな目標を見つけようと奮闘する試みを、鳴海は無駄な努力だと知っていた。夢も目的も、見つけようとして見つかるものではない。
だが、こんな退屈な日常が……何も変わらない毎日が愛おしいものだと感じてしまう瞬間が、いよいよ鳴海の元へやって来た。
「今日はサークルの集会なしだって。みんな用事があるみたいだ」
その日最後の授業が終わると、鳴海はあくびを添えて辻岡に伝えた。
「そう……ちょうど良かった」
カバンの中に教科書を詰め込みながら辻岡が言った。声はどこか上ずり、鳴海と目も合わせようとしない。
「大切な話があるの。放課後、一人で倉庫に来て」
一階の西廊下は放課後でも閑散としていた。ひと気のない廊下を緊張した足取りで渡りながら、鳴海は考えを巡らせていた。ここにきて、鳴海一人を倉庫なんかに呼び出して、辻岡は一体何をしようというのだろうか?
「……まさかね!」
鳴海は顔をほころばせ、体をクネクネさせながら妄想を膨らませていた。
「でもそれ以外に理由なんか……まさかね!」
クネクネにモジモジが重なると、目の前はもう倉庫だった。緊張が再び手足を強張らせていた。眼前に漂うドアの取っ手が、何キロも遠い彼方に浮かんでいるようだった。だが、鳴海はすぐに迷いを振り切った。
黒葉お気に入りの教壇のそばに、真剣な顔つきの辻岡が立っていて、倉庫に入って来た鳴海をまっすぐに見据えた。
「遅い」
辻岡の第一声が倉庫を満たした。鳴海は笑顔で謝った。
「どうせ、いかがわしい妄想でもしてたんでしょ?」
「バレた?」
鳴海は笑ったが、辻岡は眉ひとつ動かさなかった。その物悲しい眼差しに真正面から見つめられた時、鳴海はようやく事の重大さに気付いた。鳴海を見据える二つの瞳は、溢れんばかりの潤いで浸っていた。長いしじまが、鳴海から笑顔も言葉も奪い去ってしまった。
「お別れよ、鳴海」
辻岡が重苦しい沈黙を破った。声は沈み、震えていた。
「どういうこと……?」
頭の中はほとんど真っ白だった。
「前に言ったでしょ。両親は海外にいて、今は祖父母の家に住んでるって」
鳴海は小さくうなずいた。あまり頭を傾けると、我慢していた感情が溢れ出しそうだった。
「両親の所へ行こうかどうか、ずっと考えてた。高校を卒業したら独り立ちしてやろうと思ってたけど……。こっちで鳴海たちと過ごしてる内、親しい人をもっとそばに感じたくなった……考えや思いを伝え合う素晴らしさを知った。だから、あたし、両親の所へ行くって決断できたの」
手に持つカバンも、体を支える両足の感覚もなかった。ただ悔しかった。辻岡を引き止める言葉しか浮かんでこない自分が。素直な気持ちで辻岡を送り出してあげられない自分が。大好きな辻岡と、このまま離れ離れになるわけにはいかなかった。
一番悔しいのは、彼女への思いを声に出す勇気が、今の鳴海自身に足りないことだった。
「いつ向こうに?」
「来月……冬休みの前に」
倉庫を漂う埃が夕陽に照らされ、二人の間を静かに満たしていた。辻岡が再度沈黙を砕いた。
「いつも無愛想で、口も悪くて……自分でも分かってる。わざとそうやって、近づいて来る相手を遠ざけてた。でも本当は、ずっとワクワクしてた。サークルに入る前からずっと……あんたが……鳴海がいてくれたから」
鳴海はうつむいたまま、首を横に振った。
「そんなんじゃない。僕が辻岡さんに声をかけたのは……そんなんじゃない」
感情を抑え、声を絞り出すのは難儀だった。辻岡がカバンの中からあの白い本を取り出した。
「この学校で、私は最高の友達を見つけた。だから鳴海に、これを……」
辻岡と、その両手から差し出された白い本を、鳴海は交互に見つめた。
「この本を預かっていてほしいの。あたしが戻って来るその日まで」
鳴海は本を受け取らなかった……いや、受け取れなかった。
「ずるいよ、こんなやり方」
鳴海はしゃがれ声で言った。
「自分の気持ちばっかり押しつけて……僕だって……」
「聞いて、鳴海……」
「行かないで……行くな! 辻岡!」
我慢していたものが、胸の奥からドッと溢れ出してきた。辻岡の頬に涙の粒が光った。夕陽を受け、オレンジ色に輝いた。
「けじめをつけに行くの」
涙をこらえ、辻岡は言った。
「両親とは仲が悪かった。でもこれじゃいけないって思ってた。あなたたちが、そう教えてくれたんだよ。…………続きを書きに、きっと戻って来るから」
涙を拭い、辻岡は再び本を差し出した。
「あたしの思いを全部、この本に乗せて鳴海に託すから……だから受け取って、その時までずっと笑っていて」
鳴海は本を受け取った。
辻岡可憐という女の子に出会い、生まれて初めての恋をした。共に話し、本を読み、トイレを磨き、怒鳴られ、避けられ、感謝され……彼女の無垢な笑顔を見たあの日。
彼女の選んだ答えは、今、鳴海の手の中にある。巡る思い出も、その強い意志もすべて……鳴海はしっかり受け止めた。
鳴海は一足早く帰路に着いた。
雲間から覗く夕暮れが、目に染みて視界をかすませた。手にはまだ、受け取ったままの白い本が握られている。今までも、そしてこれからも、辻岡を身近に感じていられるはずだった。それがごく当たり前で、何ら変わり映えのない退屈な日常の一部であるはずだった。
漠然と歩きながら、鳴海は声を上げて泣いていた。かっこ悪い。こんな姿、辻岡に見られたら「ダサイ」とののしられるだろう……だが、それでもいい。
伝えきれなかった想いも、悔しさも、悲しみも、すべて涙に乗せて流せるのなら、それでもいい。さんざん泣いて、目を真っ赤に腫らしてでも、明日また笑って会えるなら、それでもいい。
泣かなきゃ……笑うために泣かなきゃダメなんだ。言い聞かせ、鳴海は歩き続けた。
気付くと、普段はめったに立ち寄らない、街を東西に横切る大きな川に辿りついていた。ひと気のない河川敷を、鳴海は家路に向かって歩き続けた。
「泣いてやんの」
鳴海は涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を上げた。Tシャツ姿の男が、一本道の長い河川敷をこちらに向かって歩いて来る。
「……黒葉?」
しゃくり上げながら鳴海は呼び掛けた。男が目の前で立ち止まった。無精ひげは消えていたが、寝起きのような顔立ちは間違いなく黒葉義正だ。
「今まで……どこに……行ってたの?」
嗚咽を含みながら、鳴海は切れ切れ聞いた。
「古い友人の所にな。……そんなことより、どうした? 顔がすげえことになってるぞ」
鳴海はかいつまんで事情を説明した。話している内、自然と涙は引いていった。
「少し歩かないか?」
話し終えると、黒葉は涼しい笑顔で来た道を振り返り、一人歩き出した。鳴海はとぼとぼと後を追った。
「悪かったな。あれっきり顔も見せないで。早急に準備したいことがあってさ。それに、ここらじゃ俺はもうほとんど死んでるようなもんだ。無闇に人前をうろつくのはリスクが大きい」
「準備って、何の?」
鳴海は黒葉の背中に向かって声を投げかけた。大方の予想はついていた。
「世話になってる友人がいよいよ旅に出るらしいんだ。とてもいい風が吹いてさ。それで、途中まで同行することになった。俺も旅に出る……死体は歩かないしな」
「……やっぱり」
鳴海は肩を落とした。もう呼吸すらもおっくうだった。
「悲観するな」
立ち止まって振り向く黒葉を、鳴海は直視できなかった。靴のつま先を見つめたまま、川のせせらぎに耳を澄ませていた。
「顔を上げろ、鳴海。らしくねえぞ」
「何で……何でみんないなくなっちゃうの? 僕はこうなることを望んだわけじゃない……こうなることを望んで桃太郎になったわけじゃない!」
涙で再び視界が滲んだ。やるせない思いがありのまま噴き出してきた。声は枯れ、本を握る手に力が加わった。不意に、左肩に黒葉の手が触れた。大きな、暖かい手だった。
「何も終わりはしない。また、物語が続いていくだけだ」
黒葉は言い、川の水面にきらめく夕陽のオレンジに目を向けた。
「得た仲間という力を、鳴海は大切な人のために使った。それが、ある人間の生き様を変える程のきっかけを持っていたとしても、鳴海は確かに正しいことをやったんだ。バカで、運動オンチで、パズルオタクでいじめられっ子の悲劇的な運命が、辻岡可憐にその本とは違う、新しい物語を歩ませた。自信持てよ、鳴海……かっこいい人生じゃねえか」
「かっこいい……?」
涙が止まった。
ふつふつと沸き上がる鼓動が、血に熱を与え、体中から自信という力をみなぎらせるようだった。
「ずっと知っていた……かっこいいって意味。あの頃から……柳川の火傷痕をかっこいいって言ったあの日からずっと!」
「何だよ……急に? ……おい!」
たじろぐ黒葉を置いて、鳴海は走り出した。本をカバンに押し込み、夕陽を背に突っ走った。
伝えるなら今しかない!
「ありがとう! 黒葉!」
言い残し、鳴海は来た道を戻っていった。がむしゃらに走り去っていく鳴海の背中に向かって、黒葉は朗らかに笑いかけた。
「頑張れよ、桃太郎」
五分も経たない内に、目の前はもう学校だった。校門から校舎を覗いたが、誰かが出てくる気配はない。鳴海は踵を返し、大きな通りまで更にひた走った。疲れは汗となり、涙の代わりに頬を伝った。辻岡への必死な想いが体を突き動かした。
バスが停留所に停まるのが見えた。乗り込もうとする人の列の中に、あの子がいた。
「辻岡さん!」
息を落ち着かせようともせず、鳴海はその後ろ姿に向かって叫んでいた。振り向く彼女を差し置き、他の人たちは次々と乗り込んでいく。バスはしばらく動かなかったが、やがてドアが閉まり、乗客を乗せてその場を離れていった。
辻岡可憐は驚いた表情で、しかしどこか待ち侘びていたような、期待感を込めた眼差しを鳴海に向けていた。肩で息をし、少しの距離を置いて、鳴海は立ち止まった。
「君が好きだ」
想いが言葉に変わった。
「大好きだ」
押し留めていた辻岡への熱意を、鳴海はその瞳へ向かってまっすぐにぶつけた。辻岡は幾度もうなずいた。
「だから待ってる……辻岡さんが戻って来るまで、笑顔で待ってる」
火照った顔に最高の微笑みを広げ、鳴海はニッコリ笑いかけた。
「あたし、もっと強くなって帰って来るから……」
涙を拭い、辻岡はたそがれの空を遠くに眺めた。
「そしたら……またあたしとデートしてくれる?」
鳴海も西の空を仰いだ。
「いいよ! ……でも、それなら今からでも準備に取り掛からなきゃ」
辻岡のキョトンとした顔が鳴海を見た。鳴海は意地悪く笑い返した。
「だって、クレープにアイスに桃大福……甘い物がたくさん必要になるだろう?」
一筋の雲が、地平の彼方まで伸びていた。遠くに離れた二人を結ぶ、海をも渡る大きな橋のように。
鳴海から教わった。
弱くても、希望がなくても、ありのままでいいじゃないか。自分なりの希望を持って生きていけばいいじゃないか。
案ずるな。
私たちの人生は、まだこんなにもカッコイイ。
今回の更新で「桃太郎サークル」はおしまいです。
ここまで読んで下さった方々、本当に、本当に、本当にありがとうございました!
自分としては、もう一度たくさんの小説を読み、勉強しないといけないなと、今作を通じて実感しました。
次回、いつになるか分かりませんが、また書ける機会があれば投稿しようと目論んでいます。
その時はまた足を運んでください。
では、さようなら!楽しい小説ライフを!