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第十三話 しっかり受け止めろ



「俺は強い」


 握り締めた二つの拳を宙にぶら下げながら、柳川は穏やかに言い切った。


「苦しみ……憎しみ……過去の哀れな自分をかんがみて、弱みを知る者は強く、それを認めた俺は更に強い!」


 右の拳が不意を突いて飛んでくるのを、鳴海はかろうじてかわした。柳川の目は本気だった。炎が照らすのは、殺気と悲哀を宿した執念の瞳と、憎悪を塗り固めてできた鬼のような形相だった。


「俺は強い」


 よりはっきりと柳川は繰り返した。


「失うものはない。すべて捨ててきた。正義なんていらねえ……俺のための、俺だけの力!」


 左の拳が鳴海を追撃した。耳をかすめ、風の切れる音が鼓膜を打った。柳川はわざと外したらしいが、鳴海は動じなかった。


「強いってのがそういうことなら、僕は弱いままでいい」


 自分の身に起きたこの数ヶ月の珍事を振り返るのに、鳴海は少し頭を傾ければそれでよかった。フィルムに焼き付いた風景のように、記憶はより鮮明に頭の中に残っていた。


「色んなことがあった……まともなことなんか一つもなかったけど、君と決別してからの数ヶ月が、それまで生きてきた16年間より遥かに充実してたのは確かだ。それでも僕は、自分が強く変わったとは思わない」


「気取ってんなよ……」


「やめなさい、柳川」


 柳川が鳴海の胸倉を掴み上げた時、しばらく二人の様子を窺っていた一之瀬が後方から言葉を投げかけた。たしなめる語調は威厳たっぷりにおごそかだ。


「あなたを呼んだのは鳴海さんと話をさせるためだけです。ケンカなら大久保に加勢しなさい。相手が違います」


「ケンカじゃねえよ……」


「鳴海さんには他にやるべき事があるんです。あなたが割り入る暇は……」


「ケンカじゃなかったんだ!」


 振り返りざま、柳川の強烈な蹴りが机をふっ飛ばした。燭台から外れたロウソクが床をのたうちまわり、テントの裾に火をつけた。火は意思を持ったようにテントの中を這いずり回り、熱と光を放ちながらどんどんと広がっていく。その只中、タロットカードが枯れた木の葉のごとく頭上に舞うのを、鳴海は呆然と眺めていた。


「あんたや黒葉にとっちゃ噛ませ犬でもな、俺はずっと必死だった! 俺たちのやり方を証明するんだ……あんたらがそのチャンスをくれた。だから、今、決着をつけるんだ!」


 音もなくテリトリーを拡大していく炎を、柳川は完全に無視していた。むしろ、勇む闘志がこの非常事態を楽しんでいるようにも見える。まさにこれは、柳川がずっと待ち望んだ、鳴海との決着をつけるための至高の舞台と呼ぶにふさわしい環境だった。


「分かりました」


 一之瀬は言うと、床に散らばったタロットカードの一枚と銀の短剣を拾い上げた。鳴海にはそのカードが何か見えなかったが、柳川の暴走を一之瀬が快く思っていないのはその表情からも明らかだった。


「ただし、時間がありません。鳴海さんは終わったらすぐに倉庫へ来て下さい」


「お前はここから出られない」


 一之瀬が炎に包まれたテントの中から足早に立ち去った後、柳川が言った。


「お前は俺の手で否定されるからだ。鳴海、これはケンカじゃねえ……戦いだ」


 柳川の燃え盛る闘志と、取り囲む炎の熱が肌をじりじりと焼き始めるのはほぼ同時だった。早まる火の手は、気絶している辻岡に指先が触れんばかりだった。


「僕は負けない……君に思いをぶつけて、辻岡さんも助ける」


「かっこいいセリフだぜ、鳴海。相変わらず見せかけの正義で飾りつけて、ヒーローごっこが抜けねえみたいだな」


「もう自己満足じゃない」


 鳴海は柳川の肩越しに横たわる辻岡を見た。


「僕には仲間がいる。守るべき友がいる。僕の力は、みんなの力だ」


「だったら……見せてみろ!」


 柳川の拳が腹部を貫いた。襲いかかる痛みと苦しみは意識を遠のかせ、鳴海はその場に膝をついた。視界はおぼろに狭まり、体は酸素を受けつけない。


「見出した力ぜんぶ、俺へぶつけに来い! 俺を奮い立たせるだけの力をぜんぶだ!」


 叫び、鳴海は我を忘れて柳川につかみかかった。隙だらけの腹部に膝を入れられ、顔面を殴られた末、鳴海は無様に床へ叩きつけられた。タロットカードをクッションにするには心細く、鳴海は全身から痛みを拡散させようと床を転げ回った。降り注ぐ熱気で制服の下は汗まみれだった。


「守るんだ……守るんだ……」


 辻岡の元へ這い進みながら、鳴海は幾度も自分に言い聞かせた。伸ばした指先は熱い空気を払い、辻岡の肩に触れた。叩いても、揺さぶっても、辻岡は一向に目を覚まさない。


「辻岡可憐……俺に平手打ちしたあの女か」


 辻岡を引っ張り起こそうと奮闘する鳴海のかたわら、柳川は落ち着いた声を投げかけた。


「痛かったなあ、あの時は」


 段々と接近してくる柳川の冷酷な眼差しから逃れるように、鳴海は辻岡の体を図書室の奥へと引きずっていった。ちょうど、桃太郎サークルがたむろしていた埃っぽい隅っこのあたりだ。


「それで安堵のつもりか? どのみち俺からは逃げられないぞ」


 炎にすっぽり覆われたテントを背に、柳川の黒い影が浮かんでいた。火はすでに窓を隠す黒い幕にまで移り、本棚の一部を焼いていた。


「逃げるもんか」


 辻岡の猿ぐつわを解きながら、鳴海は苦し紛れに声を放った。まだ腹の奥は鈍く痛んだし、こうでもしないと意識をつないでいられないと察していた。炎をまとう闇の中で、柳川の存在はかつてないほど恐ろしいものに感じた。


「俺が怖いだろ、鳴海」


「そんなわけないだろう」


「声が震えてるぜ」


 鳴海はガタつく奥歯を噛みしめた。辻岡を安静に寝かせ、自分へ注意を引かせるよう、大きく足音を立ててそこから離れた。


「僕には仲間がいる。僕は一人じゃない」


「一人さ」


 二人は再び向かい合った。赤みの差した炎の明かりが、柳川の火傷痕を痛々しく照らし出していた。口元には微かな笑みを含んでいる。


「今だけじゃない、今までだって、大事な時には誰も助けちゃくれなかった。俺も、お前も、そのことを誰よりもよく理解してるはずだ。友達と偽って付き合ってた頃、俺たちは一度だって、互いに助け合ったことがあったか? いじめる奴らに立ち向かったことがあったか? 鳴海、答えはノーだ」


 幕と幕の隙間から強烈な稲光が射し込み、鳴海の視界に一筋の白い傷を残していった。傷は次第に消えたが、柳川の冷笑はその視界に刻まれたままだった。


「俺たちに必要だったのは見せかけの友情でも、はったりの強がりでもない……一人で生きていく力だ。その証だ」


「何も変わらないな……柳川」


 痛みをぬぐい、鳴海は語気を強めた。柳川の顔が歪んだ。


「なんだって?」


「君は今も、自分がこの世で最も不幸な人間だと信じ、境遇を否定しながら生きてきた。指図されるのが嫌い、誰かに頼るのが嫌い。見栄っ張りで、傷を舐め合うような馴れ合いが嫌い。顔の傷さえ……」


「黙れ」


「あの日、柳川がここで言った通りさ。……僕は、そんなお前が大っ嫌いだった!」


 顔面に重たい衝撃がのしかかり、脳みそを揺さぶった。一瞬何が起こったのか分からなかったが、背後の壁際にある本棚まで吹っ飛ばされた時、ようやく殴られたのだと分かった。血の味が口内を満たし、痛みで叫び声すら上がらない。


「今度はてめえを否定してやるよ」


 漂う煙は視界をかすませたが、殺意のたぎる柳川の表情ははっきりと残酷だった。背後でテントの火柱が上がると、窓際では稲光が盛んにチカチカと明滅し、佇立する柳川のシルエットを鳴海の眼球に焼きつかせた。


「分かるか、鳴海……これが現実だ。お前は一人で戦い、他に手を貸してくれる者はない。仲間にすがってきたお前は、いざ一人になると何もできやしない」


「君の価値観とは違う……」


 鳴海は喉の奥から声を絞り出した。


「信じ合う仲間の存在は、心の支えだ。ケンカの道具じゃない」


「ずいぶん自信ありげだな。お前、本当に自分が信頼されてるとでも思ってんのか? いじめられっ子で、バカで、運動オンチで、パズルオタクのお前が? 勘違い甚だしいな」


 言い返す言葉を探る余裕はなかった。耳の奥で誰かの声が聞こえていた。闇と煙でおぼろむ視界は、横たわる辻岡の姿を不明瞭に捉えていた。


『あんたが信じてるものは残酷なのよ』


 記憶の断片が脳裏をよぎった。荒い呼吸はそのまま、鳴海の瞳はまっすぐ前へ据わっていた。


『誰かを救うって? その中途半端な正義感が勘違いだって、気付かないの?』


 今度はよりはっきりと聞こえた。鳴海はかぶりを振ったが、辻岡から目が逸れることは片時もなかった。


『くだらないのよ、結局は。どっかから拾い集めたような人間関係なんて。安っぽい仲間意識で強くなったつもり? 独りの方がよっぽどマシね』


「……嘘だ」


 底無しの闇へ滑り落ちていくような絶望感だった。しがみつくものも、助けてくれる人もいない……落ちていく……どこまでも……どこまでも……


『あんたがやってること、一つ残らず迷惑なのよ!』


「嘘だああぁっ!」


 叫び、鳴海は無我夢中に拳を突き放った。柳川はひょいと身をかわし、そのまま鳴海の両肩をつかんで本棚に叩きつけ、みぞおちに膝をぶち込んだ。痛みよりも苦しさが勝り、刹那、鳴海は息を吐くことも吸うこともできなくなった。次いですぐに吐き気が込み上げ、遠退く意識は強烈な睡魔のように体から力を奪っていった。柳川に胸倉を掴まれ、鳴海は背中から床に叩きつけられた。


 大の字に転がった鳴海の肢体をまたぎ、柳川は何を言うでもなく、ただ優越そうに微笑み、苦痛で喘ぐ鳴海を見下ろした。鳴海は弱い部分を見せまいと必死に取り繕おうとしたが、手遅れだった。かろうじて繋ぎ止めていた意識は倒れた拍子に鳴海の元から離れ、無意識に呼吸している以外は、まばたきするのがやっとだった。


 負けた。煙にかすむ天井を漠然と仰ぎながら、鳴海は確信した。勝てない。

 まぶたを閉じると、体が床に吸い込まれていくような脱力感で身が強張った。痛みや苦しみから逃れ、もがくこともせず、ただこのまま気を失えたらどんなに楽だろう。




 鳴海が重たいまぶたを開けると、そこは教室だった。ランドセルを背負い、教室の後ろでボーっと突っ立っている。誰かが耳元でうめくような耳鳴りがやかましかったが、それはほんの束の間だった。


「ねえ、もっとよく見せて!」


 低音のなびくような耳鳴りがやむと、代わりに声が聞こえた。窓際に目をやると、一番後ろの席に色とりどりのランドセルがたかっている。その席に座る誰かを、額を寄せ合い、興味深げに観察しているようだった。


「うわあ……気持ち悪っ!」


 悲鳴を上げた女の子が、鳴海を突き飛ばして教室から走り去っていった。


「兄ちゃんの持ってるゾンビを打つゲームにさ、お前みたいのがいっぱいいたぞ」


 残った男の子たちが興奮気味に騒ぎ立てると、手で拳銃をかたどり、席に座る少年に遠慮なく発砲しながら教室を出て行った。


「ひどいこと言うよな、あいつら」


 一人残された少年の前に、メガネをかけた凛々しい顔立ちの男子生徒が現れ、出し抜けにそう言った。少年は何も答えなかったが、窓の外にあった視線はしっかり男子生徒を捉えていた。


「火傷の痕だろ、それ? かわいそうに。クラス替えがあると、ああいうのが二、三人はまじってるもんさ。あんま気にすんなよ。……俺、和田っていうんだ。よろしく」


 和田は手を差し出したが、少年は応じなかった。無表情のままだんまりを決め込み、睨むように和田を見上げている。そんな少年に、和田は終始余裕の笑みだった。


「まっ、少しずつ慣れていけばいいさ。じゃあな、また明日」


 去り際、和田と鳴海の目が合った。鳴海は和田の後を追うようにして教室を立ち去った。

 次の日、鳴海は自分の席から、少年に話しかける和田の姿を見ていた。休み時間、少年の前の席が空くと、和田は見計らったようにその席へ滑り込んだ。


「昼休みにサッカーしないか? 俺のチームに入れてやるよ」


 和田は朗らかに話しかけた。メガネを拭く仕草が須川そっくりだ。


「やらないの? サッカー嫌いか?」


 少年が無愛想に首だけ振ると、和田は詰め寄った。


「そっか、汗に弱いんだな。薬とか塗ってるか? 痛むようなら病院行けよ……おい」


 椅子が後方へひっくり返るほどの勢いで立ち上がった少年は、逃げるような足取りで教室を飛び出していった。和田はしばらくあっけらかんとしていたが、やがて立ち上がり、黒板の前でたむろしていた友人たちの元へ歩み寄った。


「ダメだありゃ」


 和田がせせら笑った。


「だからやめろって言ったじゃん。近寄るなって」


 黒板に落書きしていた男子が大声で言った。


「かわいそうにと思って、同情して声かけてやってんのに。あいつは何様だよ」


「ほっとけ。近づくと感染しちゃうぞ」


「もうしてるかもな」


 男子たちのバカ笑いが教室中に響いていた。自分には関係ないという冷たい振る舞いが、教室を満たしている。鳴海は自分もその内の一人だということに気付いていた。関る必要なんかない……あの少年をかばう義理もない。しかし、一抹の怒りが、腹の奥底をギュッと締め付けるのを感じ取っていた。


 次の日から、和田は少年に声をかけなくなった。隣の女子生徒は露骨に席を離したがり、前の男子生徒は間違っても後ろを振り向かないよう注意を払っているようだった。ただその席に留まり、ただ授業に耳を傾けるだけの少年は、クラスメートと呼ぶにはそぐわない、人の形をした病原菌か何かのようだった。


 昼休み、和田たちがサッカーをやりに大はしゃぎでグラウンドへ飛び出していくと、鳴海はここぞとばかり立ち上がった。常日頃、移動授業と登下校以外で席を立つ理由などなかった鳴海にとって、これはいささか勇気のある行動だった。

 鳴海は少年の前の席にゆっくり腰掛け、窓を背にして少年の顔を覗き込んだ。少年は見知らぬ人間の来客に若干とまどい気味だったが、目をちょっぴり大きく開いただけで何も言わなかった。


「やあ」


 目も合わせずに鳴海は言った。まるで、隣のカラッポの席に向かって挨拶したようだった。少年の席と隣接する生徒は、そこから離れられる口実さえあれば、例えどんなにむごい手段だろうともそれを実行することに何の迷いもないようだった。


「ねえ、僕のこと知ってる?」


 鳴海は笑顔で尋ねた。今度はしっかり少年の目を見た。悲哀を帯びた少年の瞳が縦に大きく上下した。


「……鳴海」


 蚊の飛ぶような微かな声が、今確かに鳴海の名を言った。鳴海は胸躍らせ、正面から少年と向き合った。


「カッコイイね」


 鳴海は自分の左頬をツンツン指しながら笑顔で言った。少年は信じられないという表情で火傷痕に手を這わせた。


「これ? カッコイイ?」


「うん、カッコイイ。傷痕は“くんしょう”だって、アニメで言ってたよ」


「“くんしょう”って?」


「たぶん、カッコイイってことだよ」


 少年が笑うのを、鳴海は初めて見た。口に含むような、恥ずかしさで覆われた笑みだったが、それは紛れもなく少年が鳴海に見せた笑顔だった。


「ねえ、僕のこと知ってる?」


 少年はうつむきながらも尋ねた。鳴海はしっかり頷いた。


「柳川拓真」




 その日を境に、柳川拓真は友人となった。二人はいつも一緒だった。登下校、休み時間、学校行事、放課後……共に時間を共有できる機会があれば、二人はそのタイミングを逃すことを絶対にしないよう心がけた。


 二人にとって、互いの存在はかけがえのない大きな生き甲斐だった。どちらもクラスでは目立つ存在ではなかったし、友達の数など二人束にしても五本の指さえあれば事足りていた。誕生日プレゼントのゲームやおもちゃには代えられない、友情という絆を二人は得たのだ。


 この出来事をきっかけに柳川へのいじめが減ったのも事実だが、裏ではまだ陰湿なそれが続いていた。上履きがなくなることは茶飯事で、ノートが破かれていたこともあった。

 鳴海はそんな時、あえて柳川に声を掛けなかった。柳川がもっとも嫌うものを、鳴海はちゃんと知っていた。それはいじめる奴でもなく、ひ弱な自分自身でもない。“同情”という慈悲、それだけだった。以前、柳川に慰めの言葉をかけた時、彼は一度も見せたことがないような冷酷な表情で鳴海にたしなめた。


「憐れむような目で僕を見るな。情けは一番嫌いだ」


 そんな中、いじめの標的が鳴海に向けられることもあった。私物が紛失したり、無視されたりするのはもちろん、机の中に大量のゴミが入れられたりしたこともあった。鳴海は誰かを責めることをしなかったが、「どうして?」と考えることがしばしあった。そのたびに柳川の姿が浮かび上がった。


 中学校へ進学しても、状況にこれといった転機は見られなかった。むしろ事態は悪くなりばかりで、いじめはより悪質となり、鳴海はクラスの端っこで孤立していった。悔しい思いが、柳川拓真へ対する憎悪を手招きすることもあった。


『あいつとさえ一緒にいなければ……』


 柳川は何も悪くない……悪いのは、弱い者をいたぶり、抱く劣等感を指差して嘲笑う血も涙もない連中のはずだ。そんなこと、鳴海は百も承知だった。しかし、そんな意思とは裏腹に、柳川との距離は遠退くばかりだった。




 二人は“たまたま”同じ高校へ進学した。学校と制服が変わった以外は、相変わらずの毎日だった。いじめで憂さを晴らそうなんて輩は減ったが、不良たちからのいびりはタチが悪くなっていた。

どうも鳴海の顔は、不良たちに“ぶん殴りたい”という衝動を与えるらしく、その才能は学校にいる間、常にフル発揮されていた。そんなある日、一人で下校しようとした鳴海の前に二人の男子生徒が立ちふさがった。ひと気のない廊下が舞台だった。


「お前、知ってるぜ」


 制服の下から真っ赤なTシャツを覗かせ、内の一人がガムを勢いよく噛みながらそう言った。狡猾な二人分の笑みは、鳴海にスプーン一杯の希望さえ与えなかった。


「鳴海くんだろ? 鳴海くん」


 穏和な口ぶりで話しかけてくるのは、こいつらのいつものやり口だ。中学校で得たどうでもいい知識の一つだった。


「頼みたいことがあんだよさ」


 独特のイントネーションをちらつかせながら、高身長のもう一人が迫った。顔が近付くたび、鳴海は心底震え上がった。不良たちの頼み事を聞いて、ろくなことが起こった試しがない。


「一年六組の柳川拓真って奴のカバンをさ、隠してほしいのさ。これやってもらえっと、俺たち、すっげえハッピーなわけ」


「ええ……いや……でも……」


「俺たちハッピーってことは、鳴海くんもハッピーってわけ。そうだろさ?」


「……そうですね」


「じゃあ、やれよ」


 赤シャツがぐいぐい迫って来た。鳴海はすくんだ足で棒立ちし、歯を喰いしばって恐怖に耐えていた。


「時間がねえんだ。柳川のカバンを持って走れ。どこかひと気のねえとこに隠したら、帰っていいぜ」


「でも……でも、あいつは友達だし、そんなことできな……」


「やれ」


 ガムを吐き捨てると、赤シャツが凄んだ。


「ボコボコにされたくなかったらやるんだ……やれよ!」


 気付くと、鳴海は一年六組の教室まで走っていた。中を覗くと、まだ生徒が数名残っていたが、柳川の姿はなかった。一番後ろの席に、柳川のカバンがあった。中学の頃から変わっていないのですぐに分かった。

 抵抗はなかった。もう先ほどの不良たちはいない。逃げようと思えばそうできたはずなのに、鳴海はそうしなかった。微かな恨みが、鳴海を突き動かしていた。鳴海は教室からカバンを持ち去った。




 鳴海和昂は走っていた。

 放課後の静まり返った廊下は閑散としている。頬をかすめる湿った空気も、内耳に滑り込む風を切る音も、瞳を照らすその紅い西日さえ、今の彼にとってはひどく滑稽だった。

 長い前髪が目に触れ、こめかみをかすめる。疲れが足の感覚を奪い、床が吸い付いてくるような錯覚に焦りを感じた。


 このままではダメだ、どこかに隠れるしかない。焦燥感が脳みそへ直に語りかけた。

 どこかに置いてきたしまった意識が、ふと鳴海の元へ戻って来た。その意識が、普段は滅多に立ち寄らない一階廊下の端まで来てしまったことを教えてくれた。

 前方の暗闇にひっそりたたずむのは、おぼろに浮かび上がるドアの輪郭だった。

 あそこへ飛び込むしかない……鳴海はとっさにそう思った。

 勢い余ってドアに激突しながらも、鳴海は汗ばむ手でドアをスライドさせ、自ら飲み込まれるようにして教室の中へと倒れ込んだ。舞い上がった埃を胸いっぱいに吸い、激しくむせながら、鳴海は後ろ足でなんとかドアを閉めた。

 沈黙が鳴海を包み込み、同時に心身は安堵していった。暖かなオレンジ色の陽射しが部屋を満たし、開け放たれた窓がいざなう涼風は夏の終わりを告げるようだった。鳴海は汗でねっとりと額にくっついた前髪をかき上げ、安息の吐息を漏らした。


「何でこの日に戻ってきた?」


 まぶたを閉じると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。それでも尚、鳴海は目も開けなかったし、体を起こそうとも思わなかった。


「疲れたんだ」


 鳴海は抑揚のないかすれ声を闇に放った。汗と熱で水分が奪われ、体はまるでカラカラの干物のようだった。


「だから逃げてきた。自分の信念はやっぱりただの勘違いなんじゃないかって……怖くて、不安で、すごくいたたまれなくなった。仲間のために頑張ろうなんて、それで強くなった気でいようなんて……虫がよすぎた」


「泣き言なんて聞きたくねえよ」


 男の声が言った。


「俺は確かに言ったはずだ。お前に変わるチャンスを提供してやると。桃太郎サークルを作り上げたのは俺じゃない。お前なんだよ、鳴海」


「運が良かったんだ。一之瀬さんが仕向けていたから……」


「お前には素質があるとも言った」


 男は強引に続けた。


「いじめられ続けてきたお前だからこそ感じられる。人を信じる難しさ、愛情、友情……それらがかけがえのない存在だということを、お前は誰よりもよく知ってるはずだ」


「僕は柳川を裏切った……唯一だったつながりを……」


「だったら立ち向かえ!」


 闇をつんざく怒鳴り声が内耳に反響した。


「失敗がそんなに怖いか? そんなに情けないか? この数ヶ月、お前は何を見てきたんだ? 鳴海…………みんなお前に励まされたんじゃないか……純粋で、不器用で、がむしゃらで……それでもみんな、お前に“ありがとう”って言ったんじゃないか!」


「ありがとう……?」


「そうだ。須川も、馬場も、辻岡も……思い出せ、鳴海。本当に強いってことが何なのか。お前が求めていた力が何だったのかを」


 刹那、視界が一気に開けた。

 横たわっていたはずの鳴海の体は図書室の中に立っていた。いつもの席、見慣れたノートパソコンを前に、須川が吹っ切れたような新鮮な笑顔をこちらへ向けている。


「でも、鳴海たちと出会い、このサークルを経て、俺は自分の役割を見つけたんだ」


 須川は誇らしく胸を張った。


「今まで好き勝手振る舞ってきた俺に、それでもお前は仲間だと言ってくれた。自分の生き様にまだ答えは見出せないが、俺は今、その役割に誇りを持ってる。だから……その……つまり……ありがとう、ってわけだ」


「愛してやるよ」


 声に反応し、鳴海はとっさに後ろを振り向いた。目の前は晴天を見上げる屋上に変わっていた。馬場が真剣な面持ちでこちらを見つめていた。


「不器用な愛情だけどな。でも、お前がいなけりゃ、俺は今独りぼっちだった。そうだろ? この姉ちゃんに何言われたか知らないけど、俺は鳴海がやってること、考えてること、間違ってないと思うぞ。こう見えて、俺は鳴海にすっげえ感謝してんだ」


 鼻血が音もなく唇を伝い、顎先まで滴った。そこは再び倉庫だった。手には辻岡が大切にしていた白い本を持っている。辻岡に返さなければ……鳴海は思い立った。


 辻岡がいない。


「そうだ。あの日とは違う」


 鳴海は顔を上げた。倉庫中央の教壇に黒葉が座っている。でんとあぐらをかき、威厳たっぷりの風貌だが、夢想の中でもその眠気を帯びた眼だけは健在だった。


「お前には命懸けで守らなきゃならない人ができた。だから、ぶつけてこい鳴海。お前の信じてきたものをぜんぶ」


「僕……やってみる」


「俺は待ってるぞ……ずっと……ここで……」


 黒葉に背中を叩かれた瞬間、鳴海はふと目を覚ました。目の前は炎に包まれた図書室で、濃い黒煙が天井を雨雲のように覆い隠していた。鳴海の傷だらけだった心身はまるで丸一日眠り続けたように快活で、みなぎる力は大きな自信に変わっていった。

 鳴海はスッと立ち上がった。眼前に柳川が立っていた。


「何泣いてる?」


 すがめた目で鳴海を睨みながら、柳川が物静かに尋ねた。鳴海は確かに泣いていた。悲しくもなく、嗚咽するでもなく、何かを悲観するでもない……頬を伝う涙は炎に照らされ、輝いた。


「君のために君を殴る」


 鳴海は拳を握った。どんなことがあっても解けない、鳴海の信念によって創られた頑強な拳だ。


「いつか聞いたようなセリフだな。あの時からちっとも……」


「僕は君より強い」


 鳴海は揺るぎない語調で言い切った。柳川の瞳が炎を受けてギラついた。


「こんな僕でも、楽しいことを素直に楽しいと思えるようになった。笑ってる時は幸せを感じていた……仲間がいたから……僕を信じてくれる仲間がいたから」


「だったらどうした! お前に何ができる? 何も捨てられないお前に、何ができるってんだ!」


 柳川の拳が三度鳴海の顔面を捉えた。だが、鳴海はもう倒れなかった。


「鳴海……何で倒れない……何で……?」


 拳を突き出したまま、柳川は繰り返し呟いた。黒煙でくすんだ面持ちは、何かを悟ったかのように絶望的だった。鳴海は突き放たれたままの柳川の腕をつかみ、拳を更に固く握った。血管を通り、全身の力が右の拳に集まってくるのが分かった。


「最後に……お前を捨てるはずだった」


 柳川が生気の薄れた声でそう言った途端、拳に集まっていた力が抜け落ちていくのが分かった。柳川と出会ったあの日……柳川と初めて話したあの日……同じ境遇を感じたあの日……柳川が友達になったあの日……走馬灯のように鳴海の頭を駆け抜けた。


 鳴海にとって柳川が生きる糧となったように、柳川もまた同じだった。すべてがつながっていた。断ち切れるはずがない……柳川にとって鳴海は、“今”も尚、生きる希望そのものだったに違いない。

 鳴海は更に強く柳川の腕をつかんだ。緩んだ拳に再び力が戻りつつあった。力任せではない……かつての悔しさも、怒りも、楽しさも、柳川の思いさえもねじ込んだ。


「しっかり受け止めろよ、柳川!」


 ありったけの信念が体を動かしていた。柳川の顔目がけて……彼を苦しめてきたその火傷痕目がけて、鳴海は最初で最後の拳を突き放った。


「僕に……任せらあああああああぁぁぁっ!」


 振り切った拳が柳川のトラウマを貫いた。




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