第十二話 役者はそろった
前話までを未読の方は注意してください。
今回はずっと伏線回収&ネタバレ多数です。
絶望的な焦燥感が不安を掻き立て、脳裏をかすめるイメージは最悪の結末ばかりだった。監禁のメールが届き、須川と手分けして探し始めてから既に十分以上が経過している。一階を駆け回る鳴海の足は一時も休むことをせず、入れる教室はすべて見て回った。だが、手掛かりは一向につかめない。
「くそっ!」
ひと気のない西廊下に鳴海の声が響いた。後夜祭に向け、生徒はみな体育館に集まり、今や廊下は閑散としている。午後になって弱まった雨足は再び勢いを増し、轟く雷鳴が頭上で爆発した。明滅する雷光が、暗がりの奥にドアのシルエットを浮かび上がらせた。
「……黒葉」
鳴海は静かに歩み寄り、倉庫のドアに手を掛けた……鍵がかかっている。
「辻岡さん……辻岡さん!」
黙然と佇立するドアを叩きまくり、鳴海は懸命にその名を呼び続けた。今まで、倉庫のドアが鳴海を拒んだことなど一度もなかった。
「おかしい……」
鳴海はひやりと冷たいドアに額を押しつけ、冷静に、且つ慎重に考えを巡らせた。
「来てほしいんだろ? なぜ鍵をかける? ここじゃないのか? 大体、なぜ監禁場所を明確にしない? 久木!」
謎が謎を生み、久木への怒りが血液をふつふつと煮えたぎらせた。目を閉じると、底の無い闇の中へ真っ逆さまに落ちていく感覚が身を強張らせた。辻岡を……あの笑顔を失いたくない。倉庫に背を向け、鳴海は再び走り出した。
気付くと、目の前は図書室だった。午前中の賑わいが嘘のように静まり返り、今や列は無く、係員の女さえ姿を消していた。まさか、こんな形で『カバラの館』を訪ねることになるとは予想もしていなかったが、一之瀬もと子なら必ず助けになってくれるはずだと、鳴海は確信を抱いていた。
図書室の中は夜の闇のように暗く、雨が中庭を濡らす音が微かに鼓膜を打ち続けた。漂うローズマリーの香りが不安や焦燥を和らげ、中央から漏れる弱いオレンジの明かりが鳴海を優しく静かに手招いていた。周囲の本棚や窓は黒い幕で覆われ、教室中央には西洋風の大きくみやびやかなテントが張られている。
暖かなオレンジの光を頼りに、鳴海はゆっくりとテントへ歩み寄っていった。入り口をくぐると、妖美な衣装に身を包んだ一之瀬もと子が、ロウソクの炎に照らされる姿を目の当たりにした。
「お待ちしていましたよ、鳴海さん。あなたが最後のお客様です」
鮮やかなピンクのベールを肩に掛け直し、一之瀬はふわりと弾む声で話しかけた。澄み切った瞳は頭の中が透けて見えそうだ。二人は真ん中に置かれた机を挟み、向かい合って座った。紫の上等なクロースをまとった机上には、長い五本のロウソクが据わる燭台が両脇に二つ、中央にはすっかり見覚えのあるタロットカードが束になって置かれている。
「早速で悪いんだけど、人を探してほしいんだ。辻岡さんが……いなくなっちゃったから」
事を大きくしたくなかったので、鳴海はとっさに言葉を濁した。一之瀬は机の下に手を置いたまま、ピクリとも動かない。ロウソクの炎が音を立てて揺らめいた。
「鳴海さん。私はずっとこの時を待っていました」
鳴海の焦りなど露知らず、一之瀬はゆっくりと切り出した。
「宿命を背負い、運命には逆らえないのだと察したあの時からずっと……」
静寂が二人の間を取り巻いた。十本のロウソクだけが盛んに燃え続け、他に動くものはない。一之瀬のカラッポの表情を見つめたまま、鳴海はまばたきさえしなかった。
「あなたの力を借りて、『桃太郎』はいよいよクライマックスを迎えるのです」
これも『ももたろう祭典』にちなんだ何かの演出なのだろうと、鳴海はふと勘付いた。
「一之瀬さん。僕もあなたの力を借りにここへ来たんです。一之瀬さんの占いで辻岡さんを見つけ……」
「その必要はありません」
大きな声が静寂を裂いた。鳴海は驚いて一之瀬を見た。一之瀬も鳴海を見た。
「一之瀬さん、何かの冗談なら後にしてもらえない? あなたが思ってる以上に事態は深刻なんだ」
「そうかもしれませんね」
明け透けに他人事を決め込む一之瀬を前に、鳴海はいよいよ苛立ち始めた。二人の眼下に、タロットカードはただの置物と化してしまっている。そして、一之瀬と辻岡の関係が、須川と馬場以上にかんばしくないことを、鳴海ははっと思い出した。
「辻岡さんと仲が悪いのは知ってる。でも、こんなのってあんまりだよ」
鳴海をじっと見つめたまま、一之瀬は沈黙を貫き通した。彼方で雷鳴がうなるように轟くのを聞きながら、鳴海は遂に意を決した。
「……久木なんだ」
「久木?」
一之瀬が呆け声で繰り返した。
「あいつが辻岡さんを監禁した。須川にメールが来たんだ。もう誰かが怪我をしてる可能性が高い。辻岡さんが無理なら、久木の居場所を占ってくれてもいい……時間がないんだ!」
鳴海は立ち上がって叫んでいた。炎が憤怒するように大きく震え、頭が天井をこすり、まるでさざ波のようにテントが揺れた。炎の明かりが細かくなびいたせいで、照らされた一之瀬の表情は歪み、笑っているように見えた。
「何がおかしい?」
一之瀬は本当に笑っていた。いつも見せる優美な笑みとは程遠い、冷たい、残酷な微笑みだった。
「悪は報いを受け、裁きを下す者の手によって滅びたのです。久木ではない……久木のはずがない。久木は死んだ……私が殺した」
笑みは落ち、感情の消えかかった眼差しが鳴海を捉えた。鳴海は一之瀬を見下ろしたまま愕然としていた。手は汗も一緒くたにクロースを握り、足には体を支えている自覚がない。
一之瀬の言葉が、今まで挑んできたどのパズルゲームよりも複雑で、難解で、そして奇妙であることは確かだ。投げかけられた言葉をどう組み立てても、納得のいく答えは完成しなかった。
「この物語を完結させるには、鳴海さん、あなたの存在は必要不可欠です。故に、あなたは今ここに至るまでの経緯を……その真相を知っておかなければなりません」
鳴海は崩れるように座り込んだ。未知の戦慄が体中を駆け回り、力を奪い去っていった。両の瞳は引き寄せられるように、一之瀬の放つ不可思議なオーラに張り付いたまま離れなかった。
「真相……?」
鳴海はかすれ声で尋ねた。疑心と恐怖心が絡み合い、喉まで込み上げ声を潰した。
「計画をとどこおりなく進めるため、私には真相が……言わば秘密が必要でした。これはお互いが最高に信頼していくためのものであり、物語をより面白くするための伏線です」
鳴海はうなずく代わりに目をしばたかせた。首は硬直し、無理に動かそうとすると奥歯がガタついた。
「まず、私のことからお話しましょうか」
一之瀬はおもむろに切り出した。昔々の、おとぎ話の一節を語り始めるような物々しさだった。
「私、一之瀬もと子は、『キリー魔術教団』のメンバー兼タロット占い師。そして、不良たちの一味です」
「まさか!」
鳴海はかぶりを振った。否定の意味ではなく、目の前の現実を振り払おうという悪あがきだった。
「彼らと関係を持ったのは昨年の『ももたろう祭典』、大久保らが偽装した整理券を配ったことがきっかけでした。計画を進める上で、私は彼らのような猛者を必要としていた。私は生まれ持った特異な力を見込まれ、陰では彼らと行動を共にしていた。覚えていますか? 夏休みが明けてすぐ、あなたは友人の柳川拓真のカバンを隠せと不良たちから指示された。……私が、彼らに命令したんです」
まだギリギリ機能していた脳みそが、奇形のパズルピースを一つ繋ぎ合わせた。だが、やつれた心に喜びは微塵も生まれない。
「そう、鳴海さんは走らなければならなかった。黒葉と出会うために。黒葉が鳴海さんを導いた……あなたが倉庫へ向かうことは必然的でした。夏休み、私が、あの倉庫で黒葉を本から解放した。『クローバー教の9つ』はキリー魔術教団のもとにあった。二つの教団は力も強く、何百年も昔から親密でした。長の黒葉太助が、私の祖母に本を預けていた。間もなく太助は他界し……二十年後、黒葉の魂は私の手によって部分的に解放された」
「私にはどうしても黒葉の力が必要でした。本から完全に魂を取り出すには、本に遺された暗号を解読するしかない……黒葉との計画は慎重でした。失敗は許されない。桃太郎サークルを再結成するにあたり、メンバーは事前の調査と占いでほぼ決定済みでした。幸運……それは、私の最大の味方だったと言っても過言ではないでしょう」
一之瀬は夢見るような面持ちをロウソクの束に向けた。恍惚な眼は炎をまとい、瞳の奥をメラメラと照らし出した。
「まず、パズルに突出して強い人間を、学校中にばらまいたアナグラムで厳選し、一番に解いた者……つまり鳴海さんに『クローバー教の9つ』を拾わせ、黒葉との契約を結ばせた。無論、鳴海さんが一番に解くことは想定内でしたが、危うくある人物に先を越されるところでした。これらは、また後でお話しましょう」
「二人目に須川蓮太を選んだ理由は、彼の幅広い情報網にありました。須川オフィスが役立つことはもちろん、彼がいつも図書室にいることは分かっていました。私は鳴海さんの前で一芝居打ち、デタラメの占いで彼を指摘し、依頼オフィスを構える彼を引き込むことでサークル活動の活性化を狙いました。あなたがナンプレ勝負で負けた時は焦りましたけどね。これもまた幸運です」
「三人目は、中庭にたむろする不良なら誰でも良かった。強いて言えば、“ケンカが弱い人”でしょうか。馬場達平はその外見からも、正に弱者の模範的な男でした。私は大久保を通じてタイマン命令を出し、勝負で負け、絶望の淵にあった彼に鳴海さんを接近させた。幸運にも、あなたはタイマンがあったその日に馬場さんと会っています。私は占いで再び嘘をでっち上げ、その日の放課後がキーとなるような事をほのめかし、再度馬場さんに接触させました。不良の親玉との鬼ごっこゲームを経て、馬場さんはサークルへ加入した」
「不良の親玉は久木なんだよね?」
鳴海はおずおずと聞いた。一之瀬は顔をしかめたが、それは鳴海の質問に対する反応ではなかった。
「久木に関する話は、追々まとめてすることにしましょう。あいつの名を小出しにするのはウンザリですから……さて四人目の辻岡可憐ですが、彼女には一番手こずりました。理由はともかく、彼女の場合、感情のコントロールが繊細すぎて心を読むことが難儀だったのです。チャンスはたくさんあったのに、鳴海さんはそれをものにできなかった」
「もはやあなただけの力だけでは無理だと判断した私は、久木が彼女の本を盗ませたことを利用し、大久保らに“秘密ファンクラブ”の六人を脅させ、所定の位置であなた方二人を襲わせるよう指示しました。戸田らにまだ諦められない感情が残っていたのは幸運でした。思惑通り、西廊下で二人は襲われ、あなたは辻岡さんを助けようと奮闘し、そのまま倉庫へ逃げ込んだ。あなたへの借りと、黒葉の後押しも相まって、辻岡さんはやっとサークル入りを果たしたのです」
「どうして辻岡さんだったの?」
疑問が鳴海の口をこじ開けて飛び出した。辻岡可憐が桃太郎サークルへ加入し、共に過ごした数ヶ月も、今しがた一緒にいた現実も、鳴海にはまだ不思議でたまらなかった。
「良い質問ですね」
一之瀬は朗らかに笑いかけた。
「実は、四人目は鳴海さん次第だったんです。あなたに喜怒哀楽をみなぎらせ、自信と力を与えてくれる存在……鳴海さんの意中の相手こそそのポジションに最もふさわしい。それが私と黒葉の見解でした」
「桃太郎サークルを結成し、活動する上で最も大事なことは、おとぎ話『桃太郎』の登場人物のように、それぞれが明確な“役割”を持つこと。自分に何ができるのか、誰のために尽くせるのか……あなたたちにはそれを考え、実行する猶予が与えられた。己に自信を持たず、仲間を信じられないものに、この物語を任う資格はありません」
テントの外で誰かが聞き耳を立てていたら、きっと大いに感銘したことだろう。一之瀬の話に、鳴海は深く感心し、神妙に聞き入っていた。一之瀬もと子の正体が何であれ、その果敢な言動は明瞭で賢明だ。彼女を怪しむ隙などどこにも窺えなかった。
「さて、その裏で、私の完璧な計画に水を差す人物が一人いたことを忘れてはいけません」
一之瀬の表情が豹変した。眉は吊り上がり、鼻の穴が大きく膨らんだ。声色は辛酸に染まり、言葉には憎しみが刻まれている。鳴海の生唾を飲み込む音が、うねるように轟く雷鳴と重なった。
「……久木将人こそ、私にとっての敵であり、そして弊害でした」
湧き上がる怒りを押し殺すように、一之瀬は一段と柔和に切り出した。
「私が行動すれば、必ず久木が動く。彼は視野も広いし鼻が利く……春からずっと私を監視していた。下衆な背徳者が、自分を棚上げにしてこの私に警戒の目を向けるなど、私にとっては屈辱そのものだった。夏休み、私は須川オフィスに依頼し、久木を詮索するように願い出た」
鳴海は中庭で須川に見せてもらった依頼のメールを思い出していた。同時に、頭の中を綺麗に整理しておくことは必須だと思えた。もうこれ以上、頭蓋の内側のどこにも、一之瀬から告げられる真実を安全に積んでおけるスペースがない。
「そんな状況下、学校中にアナグラムをばらまくのは一か八かの賭けでした」
一之瀬は構わず続けた。
「犯人の特定はできないにせよ、久木の注意を引くことは十分に考えられましたし、それがどれだけ危険なことかも承知の上でした」
「でもあいつは関心を持たなかったよ。アナグラムをすぐに回収したから」
記憶をたぐり寄せ、鳴海は真実を述べた。一之瀬の眉間に深いシワが寄った。
「回収した? どうやって?」
「たしか、折り畳んで……ポケットに……」
鳴海は言葉をつぐんだ。胃の中で桃大福が不吉にざわざわした。
「久木はアナグラムの紙を捨てなかった……」
鳴海は今、はっきりと思い出した。本を拾った直後、倉庫で誰と鉢合わせたのかを。
「あの日、アナグラムを解いたのは鳴海さんだけではなかった……私は、あなたのすぐ後に久木が倉庫へ入るのを確認しています。間一髪、久木が本を手に入れるには至りませんでしたが、彼は間違いなくあのアナグラムを破っている。そしてそれは、計画を実行していく上で、久木将人を敵として認知した瞬間でもありました。久木は絶対に我々の邪魔立てをする……黒葉の完全復活を前に、あいつを消しておく必要があった」
発せられる語気が鋭く変化するのを、鳴海はあらゆる感覚で感じ取った。時折、一之瀬の顔つきには、そのあでやかな衣装にはそぐわない、ゾッとするような恐ろしい剣幕がかいま見えた。
「段取りは綿密でした。私は大久保と組み、須川さんから仕入れた情報で計画を練った。行進ルートから私の休憩時間を逆算し、そのわずかな時間を決行時刻に定めました。ひと気がなくなれば自然と人目は避けられる……タイミングは後夜祭の始まる一時間前」
「久木は戸田たちを使って校内の所定位置を見張らせてた」
鳴海が見解を口にすると、一之瀬は嘲笑うかのようにフンと鼻を鳴らした。
「その六人のことなら、大久保が場所まで全部教えてくれました。もう片方のドアの前に大きな立て看板を設置していたのはこのためで、大久保には看板の陰から出入りさせ、テントの裏で筆談を使ってやり取りしていました」
「大久保は一度彼らを脅しているので顔はそれぞれ認識していた……倉庫前、美術室前、玄関ホール、二階男子トイレ前、職員室前、屋上への階段前。そこで私は、逆に彼らを利用しようと考えました。彼らが久木への伝達係を兼ねて監視しているのは火を見るより明らかでしたから。私は大久保に、桃太郎一行の控え室でもある美術室に忍び込むよう言い、その際、そこを監視している者にわざと見つかるようにと指示を出した」
「久木をおびき出すため?」
一之瀬は深くうなずきかけた。目が愉悦げに笑っている。
「決行時刻は2時50分。私はその時間に休憩へ入ると告知していましたので、抜け出す時間は十分にあった。私は、ここにあらかじめ隠しておいた予備の着ぐるみを着て、窓から外へ抜け出し、大久保が開けておいた窓から美術室へ侵入した。猿の着ぐるみを着たのは行進中の猿をカムフラージュするため、雨で衣装を濡らさないため……そして、儀式用にいつも持ち歩いていた、銀の短剣を着ぐるみの中に隠すためでした」
鳴海の脳裏に、ある日の図書室での光景が浮かび上がった。一之瀬本人に、いつも持ち歩いている黒皮のバッグの中身を尋ねた、あの時だ。確かに、儀式用に使う銀の短剣のことを話していた。
「私は机の影に隠れ、久木が来るのを待った……」
抑揚のない声が、まるで退屈な書物の一文を読み上げるように、ただ淡々と言葉を並べていった。鳴海は続きを聞きたくなかった。知りたくなかった。だが一之瀬は続けた。
「間もなく久木が現れた……大久保と向き合った……私は背後に立った……背負うはずだった宝箱はない……この時のために隠しておいた……短剣が久木の背中を貫いた」
悪夢だった。顔中に冷笑を広げていく一之瀬が、全く別の誰かに見えた気がした。いや、確かに、今目の前にいる女子生徒は一之瀬ではない。少なくとも、鳴海の知っている一之瀬もと子ではない。
「本当に一之瀬さんがやったの?」
クロースの端を握り締め、鳴海は小さな声で恐々と尋ねた。その冷たい微笑みに醜悪さが重なった。
「そんなに珍しいことではありません。呪いの代行で、今まで何百人もの人間を呪ってきましたから。ただ、私を侮辱してきた久木だけは、この手で殺してやりたいとずっと思っていました」
「私と大久保は、美術準備室の棚に隠しておいた宝箱を取り出し、その空いたスペースに久木を隠した。まだ息はありましたが、じき死ぬでしょう。大久保が久木の着ていた着ぐるみをまとい、血のついた背部を隠すために宝箱を背負った。あの二人の体格が似ていたのは幸運でした。美術室から出た大久保は久木を演じ続けた。まず、見張らせていた六人を持ち場から外させた。声は中でくぐもり、個人を特定するのは難しいはずだと踏んだのです。私は美術室前から見張りが消えた後、猿の着ぐるみを着たまま倉庫へ向かった。倉庫で柳川拓真と会う手はずだった」
これまでの話と比較すれば、突拍子のない柳川の登場でも鳴海をそこまで驚かせはしなかったが、一つ、大きな疑点が行く手を阻んだ。
「どうして、柳川と?」
鳴海は口の奥から声を絞り出した。得体の知れない何かが、喉をすっかりふさいでいるようだった。
「物語を終わらせるためです。彼にも役割があった……大きな役割が。しかし、ここまで来て、味方だった幸運が私の元から離れ始めた」
冷笑から笑みが抜け落ち、炎の明かりをまとった表情には憎悪の念だけが残されていた。見開かれた大きな瞳には邪悪な気配が宿り、まばたきもせずに鳴海を見つめている。
「倉庫に向かう途中、私は鳴海さんと辻岡さんに会ってしまった。猿の着ぐるみを着ていたので安心しきっていた……それがあだになった。この教室にずっと隠していたせいで、着ぐるみにはアロマの香りが残っていた。香りは図書室のすぐ外まで届いている……匂いで辻岡さんに勘付かれ、彼女は私の後を追った。私は彼女を振り切り、倉庫に逃げ込んで鍵をかけ、窓から出て図書室へ戻った」
鳴海は腹の底から笑いをひねり出した。生気の薄れた笑い声はオモチャの機械音のようで、そんな鳴海を見つめる一之瀬の眼には非情な冷酷さが滲み出ていた。
「もういいよ」
鳴海は降参とばかり両手を掲げ、一之瀬のしかめ面に向かって更に笑い飛ばした。
「久木なんだろう、全部? 一之瀬さんは脅されてるんだろう? そう言えって、脅迫されたんだろう? もういいよ……もう……」
「みな真実です」
一之瀬は揺るぎなく言った。
「僕も久木が嫌いだ。久木も僕を嫌ってた」
「そうでしょうか?」
「そうさ。久木が僕を目の敵にするのは、僕が一之瀬さんと関りを持ったことを知ったからだろう? 久木が怪しいと睨んでいた一之瀬さんに僕は親密だった。久木の虫の居所の悪さを逆手に取って、あいつの機嫌が良くなった試しがない」
しじまを破るのは、鼓膜にこびりつくような激しい雨の足音だけだった。溶けたロウがロウソクに筋を残して這うように、鳴海の首筋を一粒の汗が流れていった。
「鳴海さん……その全く逆です」
説き伏せるように穏やかな口調だった。
「私と鳴海さんの関係を知った久木は、この数ヶ月、ずっとあなたを守っていた」
「笑えるね」
残りカスのような笑い声は闇の虚空へ消えていった。一之瀬の虚ろな瞳が鳴海を見据えていた。
「あんな性格ですから、あまり気取られたくなかったのでしょう。やり口は不器用でしたが、彼なりにあなたを守ろうとしていた。そんなことも露知らず、あなたは久木に盾突いてばかりいましたけどね」
「違う……久木は僕をいじめてた……二週間もトイレに縛り付けた」
「放課後、図書室へ居残るのを避けさせるためです。私から少しでも遠ざけるためです」
一之瀬が冷静に言った。鳴海は諦めなかった。
「『クローバー教の9つ』を没収した。大事な本だと言い張ったのに」
「教室であの本を久木に見せたことは? あなたは、倉庫で何を拾ったのか容易に想像させるほど、彼の前であの本をバカ丁寧に扱っていた。危険なものだと判断されれば、没収するのもうなずけます」
「辻岡さんの白い本を盗むように戸田たちへ命令した」
「本にまつわる警戒心を持たせたのは鳴海さん自身です。鳴海さんの大事な黒い本、そうくれば、辻岡さんが大事にしている白い本が密接な関係にあるのではと、疑ってみる価値は十分あります」
「不良の親玉と鬼ごっこした時、僕はノース・アレセントアで久木に会ってる……あいつが黒幕なんだ……辻岡さんを監禁した!」
認めたくないという思いが、言葉になってどっと流れ出てきた。興奮は荒い鼻息に熱を与え、鳴海から冷静さを奪っていった。脳みそはオーバーヒート寸前だった。
「その答えは、私が続きを語ればおのずと見出せるでしょう」
鳴海とは両極端に冷徹な言動は、心に氷のような感情を忍ばせた一之瀬のありのままの姿だった。
「倉庫から図書室に戻り、『カバラの館』を再開して間もなく、辻岡さんは客としてここへ来て、私を問い詰めました。彼女も、私に警戒の目を向けていた者の一人でした。早くから黒葉の存在にも勘付いていたようですし、私にとって、突出したシックス・センスの持ち主は脅威になり得る。加えて、私は、私に歯向かったり、盾突いたりする奴らを絶対に許さない。そういった存在を、易々とここから出しはしない……私は辻岡可憐を拘束し、須川さんへ警告のメールを送った」
おぼろむ視界に、鳴海は言葉をなくした。頭の中はオーバーヒートを迎えてフリーズし、行き場を失くした思念が脳みそのシワにつまずいて転んだ。握り締めるクロースの感覚はなかったが、鳴海はそれを指先から離そうとはしなかった。何かにしがみ続けていないと(例えそれが頼りない布切れ一枚だったとしても)、背後の闇に滑り落ちていきそうな錯覚で頭が狂いそうだった。
「監禁場所を明確にしなかったのには二つの理由があります」
表情一つ変えず、一之瀬は淡々と喋り続けた。
「一つは、探すのに時間をかけさせ、あなたを最後の客として迎え入れやすくすること。まだ後に別の方が控えているようなら、また後で来るようにと伝えれば済むことですし、あなたが私を頼ることも計算の内でした。二つ目は、話をスムーズに進めるためです。端から私への疑念を持たれていたのではやりづらいですからね」
一之瀬が真実だけを口にしていることは分かっていた。ただ、認めたくない否定の念が頑なに彼女をかばい続けている。
「言ったはずです。久木は端から私を疑っていた……私が動けば久木も動く、と。鬼ごっこをしたあの日、彼はノース・アレセントアまで私を追って来た。気付いたのは最後の最後……そう、8階であなたと馬場さんが久木と対峙している、まさにその光景を見た時でした。私は本に遺された数字の謎を解けないでいる鳴海さんに、それがノノグラムであることを裏付けるヒントを与え続けていた。もし、久木とあなた方が対面していなかったら、あなたは間違いなく『AM10:05』で私と接触していた」
「ヒントには気付いてた……だから先回りしたんだ」
鳴海は抑揚のない声で言った。
「僕らは、てっきり久木が親玉の正体だと思い込んだ。あれきり連絡はこなかったし、久木をそれと断定するには、有り余る過去の悪事がそれを立証していた……まさか、一之瀬さんが不良のボスだったなんて……」
「いいえ、鳴海さん。私ではないんです」
鳴海は目をパチパチさせた。
「あの鬼ごっこの日、私は別の者と行動を共にしていた。須川さんと連絡を交わしたのは確かに私のケータイでしたが、あなた方とやり取りしたのは私ではありません」
「じゃあ誰が……」
「俺だ」
一之瀬の背後からはっきりと別の声が聞こえた。鳴海は声に向かって顔を上げた。テントが左右にめくれ上がり、その向こう側が明らかになった。ほの暗い闇の中から音もなく現れたのは、紛れもない、柳川拓真だった。
「俺だ。俺が不良のボスだ」
吐息すら漏らさない鳴海を前に、更に語気を強めて柳川は繰り返した。炎の明かりはスポットライトさながら、柳川の登場を華々しく歓迎していた。細身の輪郭を闇に投影し、火傷痕をより凄惨に照らし出している。炎を照り返す二つの瞳は威圧的にこちらをねめつけ、弱り切った鳴海の心身に容赦なく追い討ちをかけた。
「柳川が? ボス? どうして……?」
鳴海は平静を保とうと意識したが、口からポロポロとこぼれ落ちてくる言葉を止めることはできなかった。
「それが俺に与えられた“役割”だったからさ」
鳴海は皿のような目で柳川を見た。
「お前が俺のカバンを倉庫に隠したあの日、カバンの中には本が入っていた。夏休み以前、一之瀬もと子が俺に託した『クローバー教の9つ』だ」
「お前……まさか!」
「そうさ、鳴海。俺は黒葉を知ってる」
痛みの損なわれた拳がこめかみを殴打するような、鈍い衝撃が頭の中をほとばしった。乱雑に積み重なった記憶も、大切に取り分けてあった思い出も、みな一緒くたに脳みその裏側を駆け回った。
「俺は倉庫で黒葉に会い、生まれ変わる力を提供してやると言われた。いもしない、架空の存在……不良のボスを演じることは、俺にとってこの上ないチャンスとなった。俺は校内のパソコンから須川オフィス宛に『不良たちを仕切る真の親玉を見つけてほしい』という内容の依頼メールを送り、お前たち桃太郎サークルに、ある一つの目的を持たせた」
「目的って……?」
「最高のフィナーレを演出するためのシナリオだ。俺も、お前も、この数ヶ月、それだけのために生きてきた……それだけが生き甲斐だった。どちらが正しいのか、今、証明するんだ」
「それがシナリオ? 柳川の望みなのか? シナリオ通りに進めることが……」
「違う」
おどろおどろしい声が言った。
「俺はあの日……放火現場で捕まっているはずだった。怖気づいたんだ。シナリオが崩れた……くすぶる灰のにおいで吐き気が込み上げ、火を見るだけで傷痕がうずく……そんなこと、分かりきっていた」
ロウソクの先端から立ち昇る“熱いアレ”を、柳川は細めた眼で睨み落としていた。
その表情は、辛苦のトラウマを噛み締めるように大きく苦悶していた。
「だから俺は、全てを捨てて戻ってきた。俺自身のやり方を証明するために。……立て、鳴海。俺と戦え!」
それは、荒ぶる渇望をたたえた男の目だった。過去を恨み、現在にしがみつき、未来へ這い上がろうとする男の姿だった。そして、すべてを捨ててきた男の末路だった。
鳴海は立ち上がった。握る拳の中にクロースはない……あるのは柳川への思いだけだ。
ぶつけてやる……サークルを経て、仲間から得た結束の力を、柳川への熱い思念を、すべてぶつけてやる。鳴海は拳に誓った。
「……辻岡さん!」
立ち上がって、鳴海は初めて気付いた。開けた視界の向こう側……今しがた柳川が現れた闇の中に、辻岡が横たわっていた。後ろ手に縛られ、猿ぐつわで口を塞がれている。どうやら気を失っているようだが、状況はそれ以上にかんばしくなさそうだった。
辻岡の脇に投げ出されているのは短剣だった。切っ先に赤々とした血がべっとり付着している。めくられたテントの裾に見え隠れしているのは、一之瀬が着ていたと思しき猿の着ぐるみだ。現状をかえりみず、闇の中から無垢な笑顔を振りまいている。
「辻岡さんを解放しろ」
鳴海は落ち着き払って要求した。その平静な態度とは裏腹に、声の芯は怒りで震えていた。
「辻岡さんの監禁は計算外でしたが、物語はより面白くなりました」
一之瀬は平然と言ってのけた。ミュージカルでも観劇しているかのような物言いだ。
「よって、彼女を解放するわけにはいきません。今は、それが辻岡さんの役割だからです」
その時、一之瀬の携帯電話が着信音を発した。一之瀬は机の下へ手を伸ばし、カバンから携帯電話を取り出した。どうやらメールを受け取ったらしいが、画面を眺める顔の隅々まで、不吉な微笑が広がっていくのを鳴海は見た。
「役者はそろったようね」
悦に入ったような弾む声で一之瀬は言った。
「連絡は大久保からでした。『準備は整った』と……実は、あなたがここに来る前、須川さんにはもう一通メールを送っていました。『馬場さんと二人だけで会議室へ来い』と。大久保が彼らの遊び相手です。久木は死に、後夜祭で他の生徒は体育館……もう邪魔者はいない」
刹那、まばゆい雷光が図書室全体を飲み込んだ。爆発音のような雷鳴が鼓膜を震わせる頃には、もう目の前に柳川の姿があった。雷光を短距離走のスタート合図よろしく飛びかかって来た柳川は、テーブルを踏み越え、闘争心をむき出しにし、殺気立った眼をギラつかせ、固く握った拳を鳴海に向かってまっすぐ突き放った。
顔面が柳川の拳をもろに受け止めた。鳴海は倒れなかった。無意識の内に後ろ足で踏ん張り、満身に力を込めて何とかその場にとどまった。
「……前の時とは違うみたいだな」
柳川の呼吸は荒く、倒れない鳴海を前にして明らかに動揺していた。しかし、誰よりも、鳴海自身が最も驚いていたのは確かだった。
『カレンを守ってやれ、鳴海和昂』
おじさんの笑顔が脳裏をよぎった。その瞬間、全身から溢れ出す未知の力の正体が分かった。
「大丈夫だよ、おじさん」
腹は決めていた。あの時、馬場から教わった。一発……たった一発でいい。
体勢を立て直し、鳴海は真正面から柳川と向き合った。
守るべきもののために……辻岡可憐のために!