第十一話 まだシナリオは終わらない
雲は鉛色を帯び、隙間なく空を覆っていた。雨粒は風の煽りを受けてしたたか窓を打ち、雷鳴が後を追った。予期せぬ嵐の算段は、明日に控えた『ももたろう祭典』を盛り下げてやろうと一足早く到来し、思惑通り、作業に専念する生徒たちの集中力を削ぎ落とした。
生徒らは朝から催し物の制作に身を入れ、廊下を忙しなく行き来した。ある者は釘を打ち、ある者は歌い、ある者は躍り、そしてある者はトイレで暇を持て余した。
「たりいぜ」
馬場はトイレットペーパーを引っ張り出し、もうすっかり枯れ果てた鼻水を更に絞り出そうと三度鼻をかんだ。乾いた音が二階の男子トイレに響いた。
「ここしかなかったのかよ」
赤くなった鼻の頭を左右に振りながら、馬場は呆れ声で言った。
「図書室を含め、どの教室も祭典の準備で使えない。雨で中庭も屋上も使えない。慌ただしくて廊下も歩けねえ。……ここが一番いい」
奥から二番目の個室にこもっていた須川が淡々と説明した。その傍ら、鳴海は一人集中し、壁に向かって黙々と拳を打ち続けた。結局、おじさんから必殺パンチのやり方を教えてもらうことはできなかったが、『大切な人のためだけに使う拳』の正体が何なのか、鳴海は薄々理解していた。
「今何時?」
一番奥の個室から辻岡が聞いた。辻岡は相変わらずこの便所を好み、洋式トイレに悠々と腰掛け、馬場より気だるげな声を上げている。
「12時。ここに来てもう2時間経つ」
ノートパソコンを膝の上に置き、キーを軽快に叩き続けながら須川が答えた。それを聞いて、鳴海は放った拳を宙にとどめた。
「お腹すいた」
振り向きざま、鳴海は呟いた。額に汗を滲ませ、夢中で拳を突き出していても尚、空腹であることを忘れる決定的な理由にはつながらなかった。胃の中はもうとっくにカラッポだ。
「早く桃大福が食いたいな。結構うまいらしいぜ」
馬場が声を弾ませた。鳴海はハッと思い出した。
「そういや須川、一之瀬さんからの依頼はどうなったの?」
「桃太郎一行の行進ルートのことだろ? 徹底的に調べて、彼女には昨日の内に伝えてある」
「俺らにも教えろよ。猿役が久木なら尚更だ」
「確かに」
馬場が意見し、鳴海が同意した。鳴海らにとって、祭典が始まる前に着ぐるみの正体を知れたのはラッキーだった。誰であろうと、久木を出し抜く手段があるならそれにあやかりたいと考えるはずだ。
「そう言い出すかと思ってな……ほら」
須川はカバンから三枚の用紙を取り出し、馬場に手渡した。鳴海と辻岡がそれぞれ一枚ずつ受け取った。
「ルートを示した地図を刷ってきた。分かりやすいだろ?」
「おお、ありがてえ」
馬場は感銘に言いつつ、折り畳んでさっさとポケットに押し込んだ。馬場が地図嫌いなのは、久木との鬼ごっこ対決で証明済みだった。
「一階から三階、また一階へ戻って来るまで一時間。このサイクルを午前二回、午後に三回繰り返し、廊下ですれ違った生徒へ華麗に桃大福をばらまく。この桃大福、きびだんごにちなんだ和菓子らしいが、その製造過程は不明。控え室、待機場所、休憩場所は全て一階の美術室になってる」
「二階へ上がるまでに一階を二周してるけど?」
壁越しに辻岡が目ざとく指摘した。
「ルートを決めたのは久木らしいが、理由まで教えてくれなかった。向こうの連中も甚だ困ってたぜ。行進役は毎年運営委員がやるってのに、今年になっていきなり久木が名乗り出るもんだからさ」
「一階に何かあるのかしら。監視しなきゃいけない何か……」
個室の奥から感じる辻岡の鋭い視線を、鳴海はしっかりと感じていた。一階西廊下には黒葉のいる倉庫、そして図書室がある。黒葉との会話をこっそり聞かれた時のことを想像するだけで、鳴海はゾッとするような恐怖に体が震えた。
「何があろうと大丈夫。僕は絶対にボロを出さない」
ボロを出した時のことをなるべく考えないようにしつつ、鳴海は自分に言い聞かせた。
「余談だけど、宝箱が紛失したらしい」
突拍子もなく須川が言った。
「それは残念だ」
馬場がにべもなく呟いた。
「鬼から奪った宝箱って設定で、背負うタイプの黒い大きな箱だったんだが、最近になってどうやら紛失したらしい。中に桃大福を入れて配る手はずだったのに……これじゃあ桃大福は食えないかもな」
「それを早く言えよ!」
息巻き、馬場は威勢良くトイレを飛び出していった。宝箱探しに出かけたらしい。
「まっ、代用品があるから特に問題ないんだけどね」
ドアが閉まると、須川はようやく全て言い切った。
「さて、と」
ノートパソコンをカバンに押し込み、須川は揚々と立ち上がった。鳴海を見つめるその顔はなぜか笑っている。
「午後は身の毛もよだつような創作ダンスの練習に参加しなきゃならん。というわけで、後は頼んだぜ、鳴海」
うろんな目配せを残し、須川は軽やかな足取りで去っていった。予期せぬ沈黙がトイレを満たし、そのせいでひとしきり強くなった雨足が一際うるさく窓を叩いた。遠くの雲に稲光が疾駆するのを鳴海は見た。
一之瀬と二人きりだ。訪れた偶然を……いや、須川によって作られた絶好の機会を逃すわけにはいかなかった。
「ひどい雨だね」
窓から空を見上げながら、鳴海は取りとめもない話題を切り出した。チラと横を見ると、本に顔をうずめて読み耽る辻岡の姿があった。薄暗いトイレで本を読むのに、明滅する雷光ではあまりにも心細かった。
「明日には止むといいな……」
「そうね」
素直な態度で受け合う辻岡に、鳴海はおもわず驚倒していた。おじさんに会ったあの日以来、トゲだらけだった辻岡の言動は明らかに丸く穏やかだ。後にも先にも、誘うならまさに“今”だ。
「辻岡さん……辻岡さん!」
顔に貼り付いた本を引きはがせるだけたくましく、鳴海はその名を呼んだ。返事代わりに、本の頂きから辻岡の目が覗いた。怯えるようにか弱く、しかし期待するように煌めいていた。
「明日の学校祭……僕と……見て回らない? その……二人で」
火であぶられたように顔が熱を帯びていた。ボーっとした頭は今何を見ているのかまともに認識できず、ひねり出した言葉は継ぎはぎで、何を口にしたのか既に覚えていない。
かつて味わったことのない残酷な沈黙が訪れた。辻岡は鳴海を見やったまま終始だんまりを決め込み、本の上から半分だけ覗かせる不可解な無表情を浮かべ続けた。
「……うん」
辻岡の顔が本の向こう側へサッと引っ込んだ。鳴海はポカンと口を開けた。誰かに見えない糸で下あごを引っ張られたようだった。
「今なん……」
「うん! ……って言ったんじゃない、ばか」
「そっか……そっか! やった!」
窓を打つ雨音が拍手に、雷鳴が祝福の花火に錯覚した瞬間だった。夢のような現実は、鳴海から辛い過去を消し去り、輝くような明るい未来を彷彿とさせた。どんな嵐が待ちうけようとも絶対に打ち勝てる……有頂天な自信と力が際限なくみなぎってくるようだった。
鳴海は舞い踊るような足取りで窓辺に駆け寄り、たっぷり破顔した。
「ひどい雨だね!」
明朝、雷雨はますます激しさを増し、突風の後押しを受けて校舎をずぶ濡れにした。轟く雷鳴は眩い光を放ったが、生徒らの気分を明るく照らすことはなかった。登校した生徒は馴染みの相手とおしゃべりに興じるも、声に弾みはなく、表情の端には曇天をたたえるような湿っぽさがかいま見えた。
濡れて冷めた心を芯から温めたいと願う者に、取り分け久木の存在は邪悪だと思えた。生徒の大半が猿役の正体を知っていたし、その控えめなやり口が返って生徒たちを逆なでする結果となっていた。
しかし、雨だろうが猿だろうが、鳴海和昂にはお構いなしだった。ピカピカのランドセルを背負ったあの日から10年……登校の朝がこんなにも待ち遠しいのは生まれて初めてだった。
あの辻岡可憐と二人きりでお祭りを見て回れる。夢にも見ない夢のような話だ。入学当初から大好きだった辻岡……ずっとそばで見ていた。
最悪の運気?
久木の監視?
そんなもの、歯牙にもかけない! 何でもかかって来い、むしろ見せつけてやる!
辻岡が自分を選んでくれた。須川さえ相手にされなかったのに。辻岡の真意は分からないが、鳴海にはあの返事だけで十分だった。
午前十時、いよいよ『ももたろう祭典』が始まった。
「どこ行こうか?」
体育館での開会式が終わり、廊下へ散り散りとなっていく生徒たちの群れに紛れ、鳴海は弾むような口調で聞いた。すぐ隣には辻岡が立っていて、出店や展示教室などの地図が記されたパンフレットを熱心に覗き込んでいる。その無垢な一人の女の子を見ていると、熱で頭がクラクラしてくる。
「『世界七不思議展』へ行きましょ」
たっぷり考えた後、辻岡は鳴海に負けじと明るい声色で提案した。
「それってどのクラス?」
鳴海は地図で『世界七不思議展』を探した。
「あんたねえ……。一年一組、あたしたちの展示物でしょうが」
「そうだっけ」
思い出しながら、鳴海はヘラヘラ笑っていた。どこへだってついて行く覚悟はできていた。
『世界七不思議展』は、まさに小学生の夏休み自由研究といった出来栄えだった。ピラミッドやモアイ像の写真が貼られたポスターが掲示され、本からそっくり抜き出したような文章が汚い字で添えられている。“月の石”と明示された展示物はどこからどう見ても漬物石で、それらを眺める生徒たちの顔には漏れなく嘲笑が浮かんだ。
「こんな物、作るだけ時間の浪費ね」
バミューダトライアングルのガサツなポスターに目を通すと、トドメに辻岡が囁いた。
「ずっとトイレにこもってた僕らには、文句言う権限ないけどね」
「やっぱ、自分たちのクラスは覗くもんじゃないわね。恥かくだけよ」
二人はさっさと教室を出て、すぐに隣のクラスを覗いてみた。創作ダンスを実演する一年二組に代わって、三年五組による展示会場となっていた。
「『ティッシュペーパー・アート』だ!」
教室に入るや、鳴海はきょとんとしたままの辻岡にそう告げた。教室の中は学校とは無縁の世界だった。壁には淡い青や赤の大きなバラが咲き、足元は波立つ砂浜だった。教室の中央にはウエディングドレスさながらの豪勢な展示品が飾られ、訪れた人は誰もが感嘆の声を漏らしていた。展示品の全てが、精巧に折り重ねたティッシュペーパーで作られているのだ。
「綺麗……」
辻岡は教室中央を彩る淡いピンクのドレスに、目も心も奪われたようだった。ドレスは今にも躍り出しそうなほど生き生きとし、足を運んだ人間を思いのまま虜にしていた。
「僕たちの展示物も、ああ見えてなかなか役には立ってるみたいだ」
ティッシュペーパーにありったけの思いを馳せ、教室を出ると、鳴海はやおら言った。
「あれだけ惨めなら、こっちの展示物はより華々しく見えるだろ?」
鳴海を見つめる辻岡は無表情だった。辻岡があのドレスを気に入っていることは承知の上だったし、今の皮肉が最高の褒め言葉だと自負できるのに、辻岡はまばたきさえしない。
「ごめん。気に障ること言った?」
「ううん。さっ、次行きましょ」
辻岡はスカートをひるがえし、鳴海を置いて快活に歩き出した。
足の気の赴くままに歩き、やがて二人が辿り着いたのは長蛇の列のしんがりだった。廊下に這うこのうねりがどこまで続くのか、言わずとも、聞かずとも、二人には分かっていた。
「やっぱり、一之瀬さんってスゴイ人だったんだ」
列は吸い込まれるように図書室の中へ続いていた。入り口には『カバラの館』と黒ペンキで書かれた木製の看板がぶら下げてあり、添え書きで『占い師・一之瀬もと子によるタロット占い』と記されている。睡魔に取り憑かれそうな甘いアロマの香りが、紫のカーテンで仕切られた薄暗い入り口の奥から強く漂っていた。
ドア付近に立つのはメガネをかけた無愛想な女子生徒で、どうやら客を誘導する係員らしい。掲げた手作りプラカードは数字の箇所がマグネット式になっていて、今は『1時間待ち』になっている。反対側のドアは木製の白い大きな立て看板で隠れ、やはりそこにも『カバラの館』と記されている。
「どうせ行きたいんでしょ?」
辻岡が面倒くさそうに尋ねた。鳴海は余裕の笑みを浮かべ、今か今かと順番待ちしている生徒たちの一人ひとりに目を走らせた。その多くが女子生徒、あるいはカップルだった。
「午後には落ち着くさ」
あまり乗り気でない辻岡をこの列に加えるのは、まだ先の話でいいと思えた。そもそも、こんな状況は最初から想像できていたことだし、鳴海の場合、辻岡と一緒なら一週間でも並び続ける自信があったので、この程度ならまだ許容範囲だった。
「二階の出店へ行こうよ。……小腹が空いちまったぜ!」
「……何それ」
「馬場のマネ」
ここからでも、二階から漂ってくる焼きそばのソースの香りを味わうことができた。二人は食欲の手招きに誘惑されるように西廊下を進み、階段を上る直前に揃って意識を取り戻した。
「森野だ」
薄暗い倉庫前をウロウロしていたのは『辻岡可憐・秘密ファンクラブ』の森野だった。以前、この場所で馬場がとんでもない一発芸を見せつけた様を、鳴海は克明に覚えていた。
「あいつ、あんなとこで何やってんのかしら」
「さあ」
声を出した瞬間、鳴海は堪え切れずに吹き出してしまった。辻岡が怪訝そうにこちらを睨むので、鳴海は当時のことをかいつまんで説明してあげた。
「悪趣味ね」
階段を上りきった直後、辻岡はすげなく感想を述べた。
「だから嫌なのよ、男って」
階段から転げ落ちそうになるのを、鳴海は何とか踏ん張り留まった。
「僕はあいつらとは違う」
鳴海はムキになって言い張った。束の間、辻岡は鳴海を見つめたまま再び硬直したが、ふと思い出したように歩き出した。
「知ってるよ」
辻岡の微かの声を、鳴海は確かに聞き取った。辻岡を追いかけながら、鳴海は小さくガッツポーズした。
「何食べよっか?」
鳴海はパンフレットを広げながら笑顔で聞いた。すると、横から辻岡が覗き込んできた。優美な黒髪が鳴海の手に触れると同時に、女の子特有の優しい香りが鼻翼をくすぐった。その瞬間、香ばしい焼きそばの香りが、鳴海の頭から跡形もなく吹き飛んだ。
「『くまさんのクレープ屋』」
辻岡が地図の一角を指差し、どこかはにかむようにそう言った。
「甘い物好きなんだ!」
「悪い?」
「全然」
言いつつ、鳴海は完全に意表を突かれていた。だが、この状況下ではおそらく、辻岡がどの出店を選んでも驚いていたに違いなかった。鳴海にとって、辻岡はまだまだ未知の生き物だ。
廊下の隅に店を構えた『くまさんのクレープ屋』は、その名の通り、熊のような大柄な男子生徒が一人で切り盛りするクレープ屋だった。店自体はお祭りの露店でよく見る質素な作りで、手元の調理台を仕切る半透明のプレートには商品サンプルの写真がズラリと並んでいる。どれもみなおいしそうだ。
「やあ」
手持ち無沙汰だった店主が朗らかに声をかけてきた。背が高すぎて顔の上半分が看板の裏に隠れている。時間帯と立地の悪さからか、二人の他に客はいなかった。それどころか人の気配さえない。
「オススメは?」
サンプル写真を熱心に覗き込むと、辻岡がつま先立ちで聞いた。
「『ストロベリー・デラックス』と『フルーツミックス・チョコ』。ボリューム満点、味はお墨付きだ」
辻岡は『ストロベリー・デラックス』を、鳴海は『フルーツミックス・チョコ』をオーダーし、店主が手際良くクレープ生地を焼くのを観察していた。ほんのりと甘い香りが廊下を満たし始めた。
「上手ね」
完成へと近づいていくクレープを食い入るように見つめ、目をキラキラさせながら辻岡が言った。
「もう三年目だよ。それに、お菓子作りは得意なんだ」
出来上がった二枚の生地を皿に重ねると、いよいよトッピングだ。店主は太くたくましい指先をしならせ、鮮やかな手さばきでクレープを彩っていった。
「ここに、ずっと一人なんですか?」
生地の上にたっぷりのクリームが絞り出されるのを見届けながら鳴海が聞いた。
「まあね。クラスで生地をうまく焼けるのは僕だけだから。でも、僕は一人じゃないよ」
男子生徒は木枠越しにニッコリ笑いかけた。なるほど……鳴海も笑いかけた。
「さあ、どうぞ」
仕上げに『くまさんのクレープ屋』と印刷された厚紙を巻きつけると、店主は商品をそっと二人に手渡した。クレープはずしりと重かった。
「最初のお客さんだし、半額でいいよ」
二人は礼を言い、我慢できずにその場で一口頬張った……うまい!
「うますぎて鼻血出そう」
続けてガツガツ食らいながら、鳴海は上がったテンションに身を任せて感動を言葉に置き換えた。それを見ていた辻岡が露骨に顔をそらした。
「どうしたの?」
口についたクリームを舐めながら、鳴海がモゴモゴ聞いた。どうやら、また辻岡を怒らせるようなデリカシーの無いことをしでかしてしまったらしい。
「別に。……さよなら、くまさん」
「素敵な祭典を」
去り際、甘い匂いに誘われた数名の女子生徒が、二人と入れ替わるように『くまさんのクレープ屋』を訪ねていった。
クレープ片手に廊下を歩いていると、前方から何か賑やかな一団が歩いて来るのが見えた。女子生徒の黄色い声に取り囲まれるその一行は、絵本に出てくる『桃太郎』そのもので、長身のハンサムな男子生徒がその役に徹し切っていた。
「桃太郎だ! 本物だ!」
クレープを振り回し、鳴海は大歓喜した。
「準備はいい、鳴海? 桃大福よ!」
「がってん!」
二人は足並み揃えて桃太郎一行へ突進していった。桃太郎役の生徒は強烈な形相で突っ込んでくる二人を見て動きを止めたが、手に持ったバスケットから桃大福をばらまくことを忘れはしなかった。まるで、こうすればこの野蛮人どもを手なずけられると学習しているような、優越げな笑みさえ見て取れた。
桃大福が宙を舞った瞬間、一行を取り巻く女子生徒たちから悲鳴のような声が上がり、床に転がった桃大福目がけて我先にと飛びかかった。辻岡はそんな女子たちを蹴散らし、鳴海との息の合ったコンビネーションで五個も収拾した。
「何なの、あの女!」
取り巻きの一人が辻岡を睨みながら癇声を響かせた。
「足りないのよ、情熱が」
辻岡は勝ち誇ったような表情で戦利品を掲げていた。鳴海は苦労して奪取した一つをポケットに忍ばせるだけで精いっぱいだった。
「さあ、行くよ、みんな!」
桃太郎がお供三匹に向かって声をかけた。ここにきて、鳴海はようやく状況を呑み込んだ。先頭の桃太郎より、遥かに図体の大きな猿が一匹混じっている。飛び出た腹は大太鼓さながらの迫力だ。
「ゴリラが紛れてる」
鳴海は遠のく猿の着ぐるみの後ろ姿に向かって呟いた。辻岡はまだ食べ切れないクレープを差し置き、包み紙から桃大福を取り出すのに忙しなかった。
「桃あんこね」
桃大福よろしく、辻岡の膨らんだ頬にはほのかな桃色が差していた。そんな辻岡を見ていると、胸の奥が縄で締め付けられるような苦しさに苛まれた。こんな気持ちは生まれて初めてだった。
「よう、お二人さん」
振り向くと、珍奇な男が立っていた。額に赤い鉢巻きを締め、ヒョウ柄の派手なハッピをまとい、超短パン、足元はなぜか裸足だった。右手には山積みのたこ焼き、左手には焼き鳥の束を抱え込み、恥も外聞もかなぐり捨てたような満悦な笑みを浮かべている。銀縁のメガネがなければ、誰もこの人物を須川蓮太と断定できなかったはずだ。
「罰ゲーム?」
出し抜けに鳴海が聞いた。同時に、関らない方が身のためではと懸念していた。
「ちげえよ。創作ダンスをやるって言ったろう。俺は『受験に失敗した浪人生』の役だ」
須川はその場でクルッと回転し、元の位置に戻るなり焼き鳥に食らいついた。鳴海は言葉を失った。
「それにしても、どこかおかしいと思わないか?」
今度は口いっぱいにたこ焼きを頬張りながら、須川は声を低くしてもぐもぐ言った。
「おかしいわね、確かに」
須川から片時も目を離さずに辻岡が言った。二個目の桃大福に取りかかろうというところだった。
「いや、俺じゃなくって……この『ももたろう祭典』のことさ」
「おかしいと言えば……さっき、一階の倉庫の前で森野を見たよ」
須川のやぼったいあり様に比べれば、倉庫前の森野くらいどこ吹く風だった。だが、鳴海はそのことを精一杯忘れようと努めた。
「俺は二階の男子トイレの前で戸田を見てる。ひたすらチョコバナナ食ってやがった」
「また何か企んでるってわけ?」
辻岡はいよいよ勘付いたが、それは桃大福の二の次だった。
「こうは考えられないか?」
須川は更に声を落とし、脇を行き来する生徒の誰かが聞き耳を立てていないか、すばやく警戒した。
「久木はファンクラブの六人を使って校内の所定ポイントを見張らせ、何か不正を見つけ次第、自分に通告させている」
「あるいは、その見張らせてる場所に何か秘密があるのかも」
眉間にしわを寄せ、辻岡が鋭く勘ぐった。
「どちらにしても、思い過ごしだよ」
幸福な面持ちを振りまきながら鳴海は言った。いぶかるような二つの顔が鳴海を覗き込んだ。
「だって、そう思わないと損だろ?」
「その通りだな!」
須川が納得の声を上げた。もっとも、はたから見れば、三人の中で一番舞い上がって見えるのは、変態チックな須川の不格好に間違いなかった。
「じゃ、後夜祭で会おうぜ」
去り際、須川は鳴海に向かって意味ありげなウインクを投げつけていった。鳴海はハッピの背中に刺繍された『桃』という字が、階下に消えて見えなくなるまで眺めていた。
「どこか座らない?」
辻岡がやぶから棒に提案した。鳴海はあたふたとパンフレットを広げた。
「三階に休憩所があるよ。二年六組の茶屋『紫陽花』」
二人は二年六組の教室までゆったり歩いて行った。その間、二人はクレープを食べ終えることに専念し、それぞれ渇いた喉を潤す手段を模索していた。
茶屋『紫陽花』は日本庭園をモチーフとした造りになっていた。敷かれた小石の上に大きな石畳がまばらに置かれ、そこを歩いて渡った先には本式の縁側が施されている。教室の壁際を半分も占める縁側には生徒が幾人座っていて、激しい雨音を背に恍惚な表情を浮かべていた。和楽器による心落ち着くBGMが流れているが、嵐の轟音に負けじと大音量なので雰囲気形なしだった。
「麦茶、緑茶、ウーロン茶、どれにする?」
黒板前の赤い布で覆われたカウンターには女子生徒が二人立っていて、鳴海が近付くと片方が笑顔で尋ねてきた。二人は緑茶を注文した。
「一緒に三色だんごなんてどう? お煎餅は? おかきもあるわよ」
紙コップに入れられた熱々の緑茶を受け取りつつ、その力強い押し売りを断るのはなかなか難儀だった。二人は女子生徒二人分のギラギラした瞳に背を向け、カウンターから最も遠い所に腰掛けた。縁側の木の香りが気分を落ち着かせた。
「何であたしを誘ったの?」
熱い緑茶が喉を垂直落下していった。鳴海は熱さと油断でむせ返っていた。
「あんたってほんと、分かりやすいのね」
呆れたように、しかし朗らかに辻岡は言った。
「辻岡さんこそ、どうしてOKしてくれたの? 須川の誘いは断ったのに……」
「それは……」
今度は辻岡が口ごもる番だった。立ち昇る湯気の先端を見つめ、親指をこねくり回している。
「まあいっか」
自ら手招いた沈黙を払いのけるように鳴海が言った。
「正直、そんなことどうだっていいんだ。僕は今、君といれてすっごく楽しいし、これからだって……」
「あたしを気遣うのはやめて」
語気を強め、憤りをあらわに辻岡は言った。
「あたしといて楽しいはずない。今までだって、あたしはずっと自分勝手に振る舞って、無愛想で……鳴海を傷つけるようなことだってたくさん言った」
それは、訴えかけるような切ない眼差しだった。言葉を選んでいる暇はないと、鳴海は咄嗟にそう悟った。
「僕が辻岡さんを誘ったのは、君に同情するためじゃない。ただ一緒にいたいって、そう思ったからだ」
焦りが体中を這いずり回るのを感じた。流し込んだ緑茶が喉を潤すことはなかった。
「だから……だから、僕の前では、君は君のままでいい。背伸びしなくてもいい」
鳴海は一気にお茶を飲み干し、火照った顔で笑いかけた。気恥かしさによる赤面を、熱い緑茶でごまかせたのは幸運だった。辻岡の瞳はまだ鳴海に貼り付いたままだ。
「ねえ、次、行こ」
辻岡と過ごした時間はすべてが思い出となり、過ぎ去った時は放たれた矢のごとく一瞬だった。15時を過ぎ、見て回る時間もいよいよ残りわずかという時、二階の廊下で辻岡が再びパンフレットを覗き込んだ。
「あとは一之瀬さんの『カバラの館』だけだね」
鳴海は射的場で撃ち落とした安物の“知恵の輪”をデタラメに持て余しながら、辻岡にせっせと話しかけた。
「ええ……そうね」
辻岡は名残惜しそうな、曖昧な返事をした。手の中で知恵の輪が解けた瞬間、鳴海はいきなり閃いた。
「でもその前に、もう一度『ティッシュペーパー・アート』を見に行こう! あのドレス、一度見ただけじゃ物足りないだろう?」
「……うん!」
辻岡が顔を上げた途端、鳴海は息を呑んだ。今確かに、辻岡が笑った……笑顔で「うん」とうなずいた。それはまるで、生まれて初めて笑った赤子のように、微かで、不慣れで、不器用な表情だったが、それでもそこには、確かに辻岡可憐の笑顔があった。刹那の笑みに、鳴海は大きな希望を見出せた気がした。
二人は早足で階段を下り、一階の西廊下に出た。倉庫前に森野の姿はなかった。角を曲がって図書室前の廊下へ出ようというところで、二人は同時に足を止めた。立ち止まったのは二人だけではなかった。
「猿」
辻岡が呟いた。二人の目の前に立ちはだかったのは猿の着ぐるみだった。鳴海の脳裏に久木の姿がよぎったが、今眼前にいる猿は彼の体格とはほど遠い小柄な風貌だった。背丈は鳴海とさほど変わらないし、少なくとも大太鼓のような腹は控えめに引っ込んでいる。
「何かヘンね」
逃げるように去っていった猿を目で追いながら、辻岡は考え深げな低い声で言った。
「休憩時間の間に中身が代わったんだよ……あれ、どこ行くの?」
辻岡は踵を返し、来た道を戻り始めていた。どうやら猿を追跡しようという魂胆らしいが、鳴海は足が動かなかった。背後に人の気配を感じた。じっとこちらを見つめている。
鳴海はとにかく振り返った……誰もいない。
「……鳴海」
それは、渓谷の遥か底からこだまするような、漠然とした男の声だった。鳴海は廊下の端から端へ目を走らせた。薄暗い廊下の曲がり角に人の影がうごめき、図書室の方へ歩いて行くのが見えた。
「誰?」
呼び掛けたが、男は止まる素振りも見せずに死角へ消えた。鳴海はすぐに男を追いかけた。図書室前にはまだまばらだが、順番待ちの列が残っていた。並ぶ生徒の頭越しに、男子生徒の後ろ姿がおぼろにちらついた。
鳴海は『ただ今休憩時間中』と札の下りたドアの脇を通り、尚も男の後を追った。しかし、人通りの多い賑やかな玄関ホールに出ると姿を見失ってしまった。
「鳴海」
自分の名を呼ぶ声が、今度ははっきりと聞こえた。鳴海はちぎれんばかりに首を振ったが、人で溢れ返ったホールで声の出所を断定することは至難だった。
「失う物は全部捨ててきた」
雑踏をかいくぐり、声は喋り続けた。
「慈悲……正義……そして仲間さえも、過去に捨ててきた。代わりに手に入れた、お前らとは決定的に違う力……俺だけの力!」
声が段々と遠ざかっていった。鳴海は行き来する大勢の人の流れの中で、息を弾ませ、闇雲に声の主を探した。
「失う物はない……俺には、俺の全てを投げ打つ覚悟がある! 故に! 俺はもう誰にも負けない!」
鳴海は、購買前に立つ男子生徒の後ろ姿を捉えた。
「俺にとって、お前らは敵だった」
一際混雑する購買前で、またも男を見失ってしまった。声だけが意志を持って歩いているようだった。
「お前らが正義を気取る主人公なら、俺は万事を悲観し、破棄する悪役だ。……こうなるよう、初めから仕組まれていた」
「なんだって?」
鳴海は足を止め、がむしゃらに声を放った。
「友に恵まれ、信頼され、たくましく生まれ変わった自分……そんなことで強くなったつもりか? 鳴海……全てシナリオ通りだ」
目の前に柳川拓真が立っていた。刻み込まれた火傷痕を不気味な微笑みで歪ませ、呆気にとられていた鳴海に向かって、不意に指差した。
「決められた筋書き通り、俺たちは与えられた役割をまっとうし、今ここに存在する。そして、まだシナリオは終わらない」
「どういうことだ?」
鳴海が迫った。ほぼ同時に、須川の慌ただしい声が聞こえてきた。
「いるか? 鳴海、いたら返事しろ!」
ちょっと目を逸らした隙に、柳川の姿は跡形もなく消えていた。代わりに慌ただしく現れたのは須川だった。頭のハチマキがうさぎ耳のカチューシャに変わっていて、もう完全に手に負えなくなっていた。
「辻岡さんはどうした?」
須川は肩で息をしながら、出し抜けに声を張り上げた。
「そういえば……いなくなっちゃった」
「やっぱり」
須川はがっくりと肩を落とした。今の一言が須川をここまで落胆させるなんて、鳴海にとっては心外だった。
「はぐれちゃっただけだよ。そのうちきっと……」
「はぐれちゃっただけなら、まだマシなんだよ。ケータイにメールが来たんだ……辻岡さんが監禁された」
鳴海の口がポカンと開いた。
「なあ須川、ジョークならその格好だけで十分じゃないか。まだ物足りないっての?」
「俺だって100%信じてるわけじゃない。ただ、受信したアドレスに見覚えがあって、調べてみたんだ。するとどうだ、鬼ごっこの時にやり取りした不良の親玉と全く一緒のアドレスじゃないか」
「まさか……」
「久木のヤロウに間違いない。俺は着ぐるみの久木が行進を抜けるのを見たし、その直前には戸田と接触していた。つい十五分くらい前の話だ」
鳴海の中で、疑心が確信に変わっていった。理由がいかに不明確であれ、久木ならそれくらいのことをやりかねない。確信による胸騒ぎは怒りへと変わっていった。
「メールの内容は?」
足踏みしながら、鳴海は性急に問うた。須川は尻ポケットからケータイを引っ張り出し、文面を読み上げた。
「辻岡可憐を監禁した。ここへ来い。二人目の血が流れるその前に」